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大 安 寺(大官大寺)     奈良市大安寺2丁目

平城京遷都後の 716年、藤原京の「大官大寺」は、「大安寺」として

この地に移転した。東西3町、南北5町の大伽藍に900名近くの僧が居住した。

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。このころ道昭、唐から帰国し、唯識(法相宗)を伝える。
  • 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破る。「飛鳥浄御原宮」造営開始。
  • 673年 大海人皇子、天武天皇として即位。
  • 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
  • 681年 「浄御原令」編纂開始。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。放棄されていた「藤原京」造営再開。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受け、比丘(正式の僧)となる。
  • 692年 持統天皇、「高宮山寺」に行幸。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
  • 699年 役小角(えん・の・おづぬ)、「妖惑」の罪で伊豆嶋に流刑となる。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
  • 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
  • 720年 行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 元明太上天皇没。
  • 722年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(第3禁令)。
  • 723年 「三世一身の法」。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。
  • 725年 行基、淀川に「山崎橋」を架橋。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。
  • 728年 『金光明最勝王経』を書写させ、諸国に頒下。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。
  • 730年 行基、平城京の東の丘で1万人を集め、妖言で人々を惑わしていると糾弾される。朝廷は禁圧を強化(第5禁令)。

 

 

興 福 寺 と 猿 沢 池

五重塔と、最近再建された中金堂が見える。

「猿沢池」は、もと興福寺の放生池だった。

 

 

 

【46】 717年――最初の禁令

 

 

 717年の「行基集団」禁圧の「詔」。最初の部分をもう一度見ておきます:


〔ギトン註――717年〕4月23日、次のように詔した。

 

 官職を設け、有能な人物を任命するのは、愚かな人民を教え導くためであり、法律を設け禁制をつくるのは、悪事を禁断するためである。

 

 この頃人民が法律に違反し、ほしいままに自分の気持ち次第で、髪を切ったり鬢(びん)を剃って、たやすく道服を着たりする。みかけは僧侶のようであるが、心に奸(よこしま)な盗人の気持を秘めている。こうしたことから偽りが生まれ、みだらで悪いことはここから起こる。これが問題の一(いち)である。

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.182.〔一部改〕

 

 

 「悪事を禁断するためである。」までは、「そもそも論」の序文。そのあとが宣命の第1項です。ここでは、「私度」の禁止を述べています。「律令制」下では、出家の手続き「得度」は国家が管理しており、国家の許可を受けずに出家する「私度」は厳格に禁じられていましたが、このごろ「私度」が増えてきたと述べています。そして、「私度僧」は外貌は僧尼だが内面は盗賊に等しいと決めつけ、彼らこそが社会の諸悪の根源だとするのです。

 

 もっとも、はじめに民間ルートで仏教が伝えられ、そのあとから朝廷が公式に仏教を受け入れたという、倭国・日本の仏教受容史からいえば、もともとはすべてが「私度」なのであり、国家管理による「得度」「具足戒」は、あとから朝廷が導入して、「私度」の禁圧によって出家手続きを独占しようとした国家的仏教統制制度の産物です。どんなに禁じても、「私度」をなくすことはできません。

 

 しかし、そうした沿革は、朝廷貴族の頭からは抜け落ちてしまっているのです。

 

 

『本条は、正当な審査手続きを経ない自由出家の風潮があることを述べ、その禁止を命じる。僧尼とは、十戒を受けて〔=得度〕出家した沙弥・沙弥尼と、それから進んで二百五十戒〔=具足戒〕を受けた比丘・比丘尼をさすが、いずれも一般人と異なり納税義務が免除されていたから、出家(得度)希望者は多く、厳しい審査手続きが必要であった。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.58-59. 

 


『本条は正当な審査手続きを経ない私度・自度の禁止項である。僧尼は〔…〕課役を免ぜられていたから、宗教者としては半人前の沙弥・沙弥尼になるについても、厳重な審査手続きが必要であった。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.105.  

 


 しかし当時、「私度」の方法には大きく分けて3つあり、やりかたによっては、正式の得度僧と見分けのつかない僧になることも可能でした。

 

 正式の得度僧の場合、朝廷が交付した証明書「度縁(公験)」を与えられました。「得度」の許可を受ける手続き(⇒:(10)【33】の制度図参照)を経て、僧尼となる国家の許可証として授与されるものです。

 

 この許可制度をかいくぐって僧尼になる第一の方法は、正式の僧尼から「度縁」を買い取ったり貰い受けたりして、その法名を名乗って僧尼になることです(『僧尼令』16条)。発覚すれば「徒一年」〔懲役1年に処せられ、「度縁」を他人に譲った僧尼も、処罰として還俗〔僧尼の資格を奪うされます。

 

 第2の方法は「冒名相代」――他人の姓名を詐称して正式の許可を受け、「得度」を受けること、また、死亡した僧尼の法名を名乗って、その人になりすますことです(『僧尼令』22条)。

 

 そして第3に、単なる「私度」、つまり官許を受けずに行なわれる出家(『僧尼令』22条)――これがもっとも多かったと思われますが、この場合には許可証がないので、役人が本気で摘発すれば容易にばれてしまいます。そこで、とりあえず「私度」して修業や教団活動を始めたうえで、正式の「得度」を得る機会をうかがったり、「冒名相代」や「度縁売買」の機会を狙う者が多かったでしょう。

 

 第2、第3の違反は「杖一百」〔百叩き〕。官司を詐して戸籍の書き換えまでさせた場合には「徒一年」です。16条と比べて軽いと思うかもしれませんが、22条は処罰される者の範囲が広い。違反者の所属した寺の「三綱」(⇒:(10)【33】)「師主」「同房人」は、情を知っていた場合には「還俗」。同房でなくとも、情を知って1泊以上させた者は、「百日苦役」とされています。

 

 「行基集団」にも「私度僧」は多かったでしょう。行基自身が、正式の許可を受けて僧となるために非常な困難をかいくぐってきたことは、すでに述べたとおりです(⇒:(6)【17】【18】(9)【27】)。布教を開始してからの行基は、自集団内の人びとに正式の得度を得させようとして、さまざま努力していることは、のちほど見てゆくことになります。

 

 

鹿 谷 寺 址     ここ二上山は、

平城京建設に使われた凝灰岩の産出地だった。

鹿谷寺は、切出し跡に十三重塔と摩崖仏を

彫り残して造営された。石材は、竹内街道

(丹比通)と横大路を通って運ばれた。

 


 第2項に移ります:

 


『凡そ僧尼は寺家に寂居し、教を受け道を伝ふ。令に准(よ)るに云はく、「其れ乞食(こつじき)〔托鉢――ギトン註〕する者有らば、三綱連署せよ。午前に鉢を捧げて告げ乞へ。此れに因り更に餘物を乞ふこと得じ」と。』

青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,1990,岩波書店,p.27. 

 


 僧尼は寺院の外に出て布教、托鉢や庶民救済の活動をしてはならない。これが、律令による仏教統制の基本線でした。もちろん、仏教の経典が教えるところとは真っ向から異なります。しかし、これが律令だったのです。僧尼は朝廷のために「鎮護国家」を祈ること、その祈りの能力を磨くこと、これにだけ精進すればよい。それ以外のことをするのは有害だ。

 

 それでも、寺院外に出て托鉢をしたい場合には、寺の「三綱」が連署した申請書を出して許可を得てせよ。ただし、托鉢をしてよいのは午前中だけである。また、手に持った鉢に入る食物だけである。それ以外の大量の食料や布・衣服・金銭などを受け取ってはならない、というのです。「行基集団」の活動がこれに違反していることは明らかでした。続く部分では、行基を名指しして断罪しています:

 


 「方(まさ)に今、小僧(しょうそう)である行基とその弟子たちは、街衢(ちまた)に群れ散ばって、みだりに罪業と福徳を説き、徒党を組んで悪事をたくらみ、指に火をつけて焼いたり、臂(うで)の皮を剥いで経文を写したり、家々をめぐって災祥を偽り説き、食物以外の物を要求し、詐(いつわ)って聖道と称し、人民を惑わしている。僧侶も俗人も乱れ騒いで、各層人民は生業をおろそかにし、一方では釈迦の教えに反し、他方では法を犯している。これがその二である。』

 宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』,現代語訳,1992,講談社学術文庫,pp.182-183〔一部改〕.

 

 

 「みだりに罪業と福徳を説き」の原文「妄説罪福」は、この時期の『続日本紀』に散見する表現です。行基集団」にかぎらず、「こういうことをすると罪業を受ける。こういうことをすれば福徳がある」といった民間布教は、この時代には西日本各地で起きていたようです。行基の場合、『日本霊異記』によると、彼の「罪福の説」は、仏教の「因果応報」と東アジアの民間習俗である「祖先崇拝」が混淆したものであったようです。

 

 しかし、ここには、「仏教の東アジア化」という大きな問題があって、1節では語り尽くせません。『日本霊異記』の検討は、いつか機会を設けてすることにしたいと思います。

 

 

『前記の行為は「僧尼令」第5条、僧尼が「寺院にあらずして別に道場を立て、衆を聚(あつ)めて教化し、あわせて妄りに罪福を説く、および長宿〔高徳の老人〕を殴り撃てば、みな還俗」の条に触れる。行基と弟子らは街路に群がり、人々を集めて、こうすれば罪を得、かくすれば福を得ると説法し、人生の幸不幸には因果の理があると説いたのである。〔…〕

 

 「妄りに罪福を説く」ことはこの一事のみで還俗とされる重罪であった。この場合の罪福とは、天皇の徳性と流行病・天災などを結びつけて論じることで、〔…〕疾病・天災などの原因を為政者の徳性の低さに求めることが、「妄りに罪福を説く」こととされたのである。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.62,65. 

 

 

 「行基集団」が、そういう意味での反政府的な「妄説罪福」を行なっていたという証言・記録はありませんが、「詔」を作成した高級官人と天皇は、それを何よりも恐れたし、「行基集団」はそういう逆賊だと先見的に思いこんでいたようです。「詔」全体の強烈な糾弾調がそう思わせます。


 しかし、その部分を除いた因果応報の教説、またそれを唱えて街頭に出る活動は、この時期の「行基集団」にとって必須のものでした。

 

『行基の多種類の社会的事業〔この初期には、民衆の場としての「院」と「布施屋」の設置、窮迫した役民・行路遭難者の救済――ギトン註〕の背景には、無数の財物や労力の布施が存在したから、その布施の動機として、まず過去神霊の救済〔先祖の霊が地獄に落ちて苦しんでいるから現在の災いが起きる。祖霊の追福を祈ることによって祖霊も現世人も救済される――ギトン註〕という論理は、当時の人々にとって最も理解しやすいものであった。〔…〕七生の父母の罪業は、現在の自分と眷属に及んでいるのだから、その罪業を払拭するために布施行は必要であった。

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.66. 

 

 

 この時期の「行基集団」にとっては、なによりも役民・行路人救済の原資を得るために、布施を募る活動は必須だったのであり、人びとを財物・労力の布施に動機づけるためには、「因果応報」の理と「過去神霊の救済」を説くことが必要であったのです。

 

 

鹿谷寺址付近から河内方面を望む。

 

 

 第2項のつづき:

 

 

『指臂を焚(や)き剥ぎ、門を歴(へ)て仮説し、強ひて餘の物を乞ひ、詐(いつは)りて聖道と称して百姓を妖惑す。』

青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,1990,岩波書店,p.27. 

 

 

『「僧尼令」第27条に焚身捨身の禁止があり、『古記』〔738年頃成立、『大宝令』の注釈書――ギトン註〕は、「焚身は、指を灯(ともしび)とし身を焼き尽くすをいうなり。捨身は、身の皮を剥ぎ、ならびに畜生布施と称して山野に自尽するをいうなり」とする。〔…〕

 

 仏典では、いずれも捨身として扱われ、とくに『梵網経』〔僧俗を問わず授与される「菩薩戒」のテキスト――ギトン註〕では大乗菩薩の行なうべき行(ぎょう)として推奨されている。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.67. 

 

 

 つまり、「指臂を焚き剥ぎ」は、律令では禁止されていたが、仏典では推奨されている荒行(あらぎょう)のひとつなのです。じっさいに当時は、指を燃やしたり、自分の皮膚を剥ぐような行為が、高僧によっても行われていました:

 

 

『奈良時代の例では、大僧都になった賢憬〔~793〕が「皮を剥ぎ指を燃やす人なり」と伝え、藤原家依〔~785〕の病気を呪願した看病禅師は、「手の上に爝(おきび)を置き香を焼き行道し、陀羅尼を読み」走ったという。

 

 行基の徒の「指臂を焚き剥」ぐ行為は、こうした捨身行・実践の最も早い事例として認められる。〔…〕行基の徒の中にはこうした激情的な行為に走る者があり、彼らは僧尼令という王法よりも経典の啓示を重んじる人々であった。』

a.a.O.   

 


 僧が自分の腕の皮を剥いで、そこに経文を書いて人に与えることも行われていたと思われます。おそらく、こうした超人的な自己犠牲と引き換えに、多額の財物の布施を得る手段であったと思われるのです。

 

 つぎに、「門を歴て仮説し、強ひて餘の物を乞ひ」――家々を個別訪問して「因果応報」のような「妄説」を人々に説き、それを手段として、托鉢として許された食物以外の多量の財物の布施を要求するということです。

 

『いったい托鉢修業は、釈迦以来の仏教教団が僧尼に課した必須の行(ぎょう)であり、僧尼は「糞掃衣ふんぞうえ ボロ布を継ぎ合わせた僧服――ギトン註〕を着け、常に乞食(こつじき)を行じ次第に乞食し、少慾知足にして遠離を楽しむ」と『中阿含経』が述べるように、僧尼の食物は毎日の托鉢行によって賄うべきものであった。

 

 〔ギトン註――ところが〕「僧尼令」は、托鉢行を官司が許可するところの特例的な修業としている。7・8世紀の日本仏教は、国家が全面的に保護したから、僧尼は官人に準じて衣食住などの心配のない公的立場にあり、托鉢修業は食を求めるためだけには不要な修業であった。

 

 しかし戒律を知る僧尼にとって、戒律に規定するものを否定したり抑制する王法(俗世間の法)〔律令〕に黙従することは、菩薩の戒に違背することだと自覚する人々が現れてくる。718年10月,722年7月にも、経を背負い鉢を捧げて托鉢する者を指弾する記事があるから、養老年間は持鉢の托鉢行者が続出する状況にあったことがわかる。

 

 〔…〕托鉢行を制限しようとする「僧尼令」は「仏法の戒律を破壊し」「出家行道することを許さない」王法であり、そうした王法に黙従することは反仏法・反戒律の立場に立つことにつながると自覚する人々がいた。托鉢行者の続出する背景には、そうした宗教的立場を貫徹しようとした人々の存在があったのである。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.61-62. 

 


 「詐りて聖道と称して百姓を妖惑す」――「聖道」とは、仏道修行によって悟りを得て仏(如来)に近づいてゆく段階のことで、つまり「聖人」の段階。かんたんに言えば「菩薩」とほぼイコールです。上座部(小乗)仏教では、「聖人(シダゴン)」に、「預流果,一来果,不還果,羅漢果」の4階梯があり、「果」とは悟りのこと。大乗では、この「聖道」4果を、「菩薩十地〔菩薩の修業階梯10段階」の第4地~第7地として組み込んでいます。つまり、「詔」が言うのは、当時、なかんずく行基集団」には、みずから「聖人」「菩薩」などと称して庶民を惑わす者がいた、ということです。それが「詐り」ならば処罰の対象になりますが、「悟り」という中身の問題を他人が認定するのは容易ではないでしょう。取締りは、宗教的権威のある「僧官」に任せるほかなかったことになります。

 

 じっさいに、この「詔」を実施するために、官大寺では、小乗の「聖道四果」や大乗の「菩薩十地」に関する研究が進められています。「飛鳥寺・東南禅院」の跡から、その講義録の一部と思われる木簡が出土しているのです。しかし、ハッキリ言って仏教哲学とは、無数のカテゴリー・概念のジャングルです。覚えきれないほどの概念規定の序列が複雑に絡み合い、しかも個々の概念の意味内容は、必ずしも明確ではありません。「詔」のおかげで、この方面の研究が進展したのは結構なことでしたが、その成果を役人が頭の中に入れて、本物の「聖人」なのか偽りなのか判断するなど、とうてい可能なことではなかったでしょう。実際の取締りができたとは思えないのです。

 

 

『聖道を得たと自認する者は、菩薩の階梯を進んだ者であるから、たとえば神足や天眼などの神通力を得た者でもあった。〔…〕『四分律』〔…〕に、「我はこれ阿羅漢なり、禅を得て神通を得て他心を知る」と自称しながら、それが虚妄であるなら教団追放になると規定する。〔…〕行基集団の中には、このように聖人・菩薩の位に進んだと自称する者がいたのであり、そこに熱狂的雰囲気が存在したことが窺われる。前項「指臂を焚き剥」ぐような自傷行為も、そうした雰囲気から生じたものであろう。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.69. 

 

 

 

 

 しかし、「菩薩を自称した人びと」は、じっさいにどんな人びとだったのか? 個々の例を調べてみると、高僧や、広く大衆に尽くした人のなかにはなく、むしろ狭い地域社会で半僧半俗の生活を送った人びとであったことがわかります。写経を行なった、あるいは写経を経済的に援助したというだけの功徳で、菩薩を自称した例が目立つのです。

 

 たとえば、741年に『大般若経』を書写した報信という僧が菩薩を自称していますし、745年に『瑜伽師地論』を書写した法師と願主が、ともに菩薩を自称しています。膨大な『大般若経』の書写はたしかにすばらしい仕事ですが、『瑜伽師地論』書写の願主、‥自分は筆を執らずに、費用を出したというだけで「菩薩」の悟りを得たことになってしまうのは、どうなのでしょうか。ともかく、この時代の自称「菩薩」とは、そういう人びとであったのです。


 

『761-762年にかけて、光覚なる僧侶が出家と在家の人々からなる集団(知識)を率い、大量の写経を行なった。その人名の中に、〔…〕7人の菩薩の名が見える。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.71. 

 

 

 この7人は、「知識」集団の一員として写経に参加した単なる庶民であったと見られるのです。


 この時代に、自称ではなく周囲から「菩薩」と褒め称された人は、行基永興の2名がいます。いずれも数か國にわたる広い行動範囲をもち、多数の人々の教化、治療・看病、救済などの事業によって「菩薩」と仰がれ、高名を得ています。

 

 

『これに対し、前述の自称の菩薩らについては、行基・永興のように人々を救済する利他行の実践を確認することができない。〔…〕自称の菩薩の活動範囲は狭く、土着の村落周辺に限られ、その生活は私度僧や優婆塞と同様な在家的なものであったろう。

 

 〔…〕彼らに菩薩を称させたのは、出家・在家の区別なく菩薩の道を説く『瑜伽師地論』や『梵網経』でなかったろうか。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.72. 

 

 

鹿谷寺址付近から竹内峠方面を望む。
 

 

 

【47】 呪術と治療術

 

 

 さて、717年の「禁令の詔」の第3項は、僧尼が寺院外の家を訪ねて治療・祈祷を行なうことについて述べています。これについても「詔」は、原則的に禁止する態度です。

 


『僧尼が看病救済を名目に病人宅へ赴き、仏教呪(真言・陀羅尼)や湯薬による治療によらず、巫術によって治療を行ない、また病人の未来の吉凶を占うことへの叱責である。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.108.  

 

 

 大宝「僧尼令」によれば、仏教の「真言」「陀羅尼」を唱える呪(まじな)いや、「湯薬」による治療、道教の「まじない札」の呪術は許されるが、亀卜や地相による吉凶の占い、厭符〔悪魔祓いの札を使う「小道」、および「巫術」〔神降ろし、神がかり、シャーマンは禁止。行なった僧尼は「還俗」の処罰を受けます。「詔」も、これとほぼ同じです。

 


『僧尼は、仏道に依って経呪〔真言・陀羅尼〕を唱えて病人を救い、湯薬を施して治療することは、僧尼令によって許されている。

 

 ところが方(まさ)に今、僧尼はたやすく病人の家に行き、詐(いつわ)って幻怪の情を祈祷し、法に違反して巫術を行ない、おきてを無視して吉凶を占い、老人や幼い者を脅(おど)かして、こうして終いにはお礼を要求して財物をせしめている。こうなるともう、僧俗の区別もなくなり、邪悪な混乱を生ずることとなる。これが弊害の三である。

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.183.〔一部改〕

 

 

 しかし、「僧尼令」にせよ、この「詔」にせよ、許していることと禁止していることの区別があいまいです。道教のお札による呪術と、「小道」の厭符による呪(まじな)いがどう違うのか、よくわかりません。「巫術〔シャーマン」と「吉凶の占い」が悪いと言っていることは、なんとなくわかるのですが、‥ところが (7)【23】の末尾でも見たように、朝廷は 703年、豊前で「巫術」による治療を行なっていた法蓮に対し、巫術的医療の功績をたたえて「野10町」を下賜しているのです。

 

 そればかりでなく、朝廷の神祇官には巫女5人がいて、神祭を行なっていました。701年には、3名の僧が、陰陽術、吉凶占いなど呪術の才を買われて勅命により還俗し、官位を与えられて陰陽博士等に就任しています。朝廷は、ほんとうに「巫術」や占い、まじないを悪いものだと思っていたのかどうか、わからない。朝廷が行なうのは善で、「行基集団」のような民間で行なうのは悪。国家的な大寺院では、事実上黙認、――ということだったのでしょうか?

 

 そういうわけで、何がよいか悪いかハッキリさせられないので、けっきょく、治療・看病に行きたかったら、れいによって「三綱連署」で申請して、官の許可を受けてからにせよ(手続⇒:(10)【33】制度図)、ということになります。重病危篤で緊急の場合でも、「三綱連署」で事前の届出だけはせよ↓、というのです。

 


『もし重病で、どうしても助けねばならぬ者があれば、浄行の僧を招いて僧綱を経由して告知し、寺の三綱が連署して決めた日に赴かせよ。ただし、そのまま逗留して翌日以後まで居てはいけない。』

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.183.〔一部改〕

 

 

 第3項には「行基」の名指しはありませんが、内容から見て、「行基集団」の活動から警戒心を触発された禁令であり、ほかの僧尼も、このようなことをしてはならない。疑われたくなければ許可を受けよ、ということでしょう。


 したがって、「行基集団」でも、湯薬や呪術的方法による治療は行なわれていたと見てよいと思います。

 

 

 

 

 

 

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