小説・詩ランキング

 

法興寺址(飛鳥寺)全景   南大門址から現・飛鳥寺金堂を望む。

現・金堂の位置(写真中央奥)に、創建時「法興寺」の

中金堂があった。この広大な範囲が、平城京に移転

する以前の法興寺伽藍であった。
 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。このころ道昭、唐から帰国し、唯識(法相宗)を伝える。
  • 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破る。「飛鳥浄御原宮」造営開始。
  • 673年 大海人皇子、天武天皇として即位。
  • 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
  • 681年 「浄御原令」編纂開始。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。放棄されていた「藤原京」造営再開。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受け、比丘(正式の僧)となる。
  • 692年 持統天皇、「高宮山寺」に行幸。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
  • 699年 役小角(えん・の・おづぬ)、「妖惑」の罪で伊豆嶋に流刑となる。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に仏閣を設け「家原寺」を開基。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧)。藤原房前を参議に任ず。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始?
  • 721年 元明太上天皇没。
  • 723年 「三世一身の法」。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。
  • 725年 行基、淀川に「山崎橋」を架橋。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。
  • 728年 『金光明最勝王経』を書写させ、諸国に頒下。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原光明子を皇后に立てる。
  • 730年 行基、平城京の東の丘で1万人を集め、妖言で人々を惑わしていると糾弾される。朝廷は禁圧を強化。

 

 

 

 

本薬師寺   奈良県橿原市城殿町

「薬師寺」は「藤原京」内のこの地に創建され(682-698)、

平城京」遷都後の 718年に現在の「西ノ京」に移ったが、

旧地の伽藍も「本薬師寺」と呼ばれて11世紀まで存続した。

左の草むらが西塔址、右の木立ちが東塔址

中央奥の木立ちが金堂址。

 


 

【27】 持統女帝のポピュリズム

――不遇の見習い僧に降ってわいた幸運

 

 

 持統天皇はその在位中〔690-697〕吉野へ 31回行幸(みゆき)しています。即位 3年目の 692年には、正月に「高宮山寺」へ、3月に伊勢神宮へ、5月,7月,10月に吉野へ、6月には建設中の「藤原京」へ行幸しています。なかでも伊勢行幸は 14日間の大旅行となるので、官僚、豪族も、徴発される人民も負担が大きく、自らの職を賭して反対した官僚もいたくらいです。にもかかわらず、天皇は反対を押し切って出かけるのですが:

 

 

『辛未〔692年3月6日〕に、天皇、諫に従ひたまはず、遂に伊勢に幸(いでま)す。壬午〔3月17日〕に、過ぎます神郡、及び伊賀・伊勢・志摩の国造等に冠位を賜ひ、幷(あはせ)て今年の調役〔調と雑徭〕を免(ゆる)し、復(また)、供奉れる騎士・諸司の荷丁・行宮造れる丁の今年の調役を免して、天下に大赦す。但し盗賊は赦例に在らず。甲申〔3月19日〕に、過ぎます志摩の百姓、男女の年八十より以上に、稲、人ごとに五十束賜ふ。乙酉〔3月20日〕に、車駕〔天皇の乗り物。天皇を遠回しに指す語〕、宮〔飛鳥浄御原宮〕に還りたまふ。』

家永三郎・他校注『日本書紀(五)』,1995,岩波文庫,p.280.  

 

 

 というような道々の大盤振る舞い。沿道の豪族や民衆の歓心を買おうとするさまは、単なる観光旅行や神宮詣でではない。現代でいえば、アメリカ大統領選挙の遊説旅行のようなものではないでしょうか? この伊勢行幸は、「藤原京」造営事業に対して、「東国」(当時は伊勢・美濃が、東方のフロンティア)の人びとの支持をつかむことが目的だったとする見解もあります。

 

 とすれば、正月に行なった「高宮山寺」への行幸もまた、新都建設地に近い葛城地方の人心を掌握する狙いがあったでしょう。しかも、皇室の聖地・高天原ではなく(!)、渡来人と関りの深い「高宮山寺」を目的地としたのは、新都建設のために、この葛城地方に勢力のあった渡来人集団の力を借りようとする意図がうかがえます。

 

 ところで、行基が「高宮山寺」で徳光禅師から具足戒を受けたのは 691年、つまり持統行幸の前の年です。行幸は正月ですから、その1か月前でも前年です。偶然であったとは思われません。

 

 天皇の行幸は、負担をいとう官僚から反対が出るほどの大行事ですから、何か月か前には目的地と、通り道の郡・郷に知らせて準備をさせたはずです。まして、しばしば行幸が行なわれた吉野や伊勢とは違って、「高宮山寺」御幸は前例のないこと。寺も、現地の役人も、よほど神経を使ったのはまちがえがない。

 

 「高宮山寺」址に現在も礎石が残る「塔」「金堂」の立派な伽藍も、この時に造り始めたのかもしれません。というのは、出土した古瓦は、現地説明版(御所市教委。写真⇒ヤマレコ(1))は奈良時代のものだとしていますが、藤原宮式であり、奈良文化財研は白鳳時代に分類しています。持統天皇代に建築が始まり、ちょうど藤原宮造営のために大量生産されていた瓦が流用された――そういうことも、考えられるのではないでしょうか。(吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.14-15.)

 

 行基が晴れて授戒を受けられたのは、天皇の行幸という、この千載一遇のチャンスをものにしたことによる、と私は考えます。

 

 具足戒の授戒という儀礼は、「高宮山寺」のような僻地の寺では、そうかんたんに行なえる行事ではなかったはずです。師の徳光禅師がひとりでできる行為ではなく、正式には 10人、略式でも 5人、不適式の授戒がふつうだった倭国でも、2~3人の証僧の立ち合いは必要でした。朝廷にも高僧にも何らのコネクションを持たない行基にとって、持統天皇の行幸は、授戒を受けるための・まさに千載一遇のチャンスであったのです。

 

 天皇の行幸という・重々しいきっかけをつかんでの受戒は、行基のその後の修学にも恩恵をもたらしたはずです。次節で述べるように、受戒後の行基は、「高宮山寺」で「山林修行」を続けるかたわら、「法興寺(飛鳥寺)」「薬師寺」という当代最高の官大寺に滞在して、経典研究と禅定ぜんじょう 精神の集中統一,またそれを得るための瞑想〕の手ほどきを受けています。

 

 そのさい、かつて得度を受けた「大官大寺」は、なぜかその後の修業歴には出てこないのです。この寺では、得度後の指導も便宜も得られなかったのでしょうか? 行基という僧の形成に、「大官大寺」は何の役割もしていないのかもしれません。とすれば、行基の沙弥〔見習い僧〕としての修業〔15-24歳〕には相当の紆余曲折があり、適切な戒師から「具足戒」を受けて大成してゆくには、本人の努力以上に、修学環境の面で大きな飛躍がなくてはならなかったことになります。その飛躍が、持統天皇の行幸によってもたらされたと考えるわけです。

 

 なお、「薬師寺」は、持統天皇が、夫・天武天皇の発願した寺の造営を完成させ、勅願寺としたもので、持統朝廷とはかかわりの深い寺院なのです。

 

 

 


 

【28】 具足戒――山林瞑想と「唯識」研究の日々

 

 

 「具足戒」受戒後の行基の修業については、①山林修行、②大寺での研学と禅定〔瞑想〕という異なる内容を記す2系統の史料があります。

 

 しかし、「山林修行」と寺院での経典中心の修業を並行して研鑽した人は、当時ほかにもいましたから、行基も、受戒の 24歳から 37歳までは、両方を並行して、ないし交互に修める二重生活をしていたと考えられます。

 

 

『さて行基は 24歳で大和國高宮山寺の徳光を師として受戒し比丘としての歩みを始めたが、山林修行者であった徳光に倣いその後も「山林に宿り荊藪を蓐(しとね)となし、或いは原野に留まり沙石を床」とする苦修錬業の生活をつづけ、「慶雲元年〔704年〕まで山林に棲息」(『行基菩薩伝』)したという。『行基年譜』も「菩薩、少年より三十七歳に至るまで山林に棲息す」という。

 

 〔…〕24歳の 691年から 37歳の 704年まで14年間〔…〕むろん山林修行ばかりに明け暮れていたわけではない。〔…〕飛鳥寺に入り、摂論系唯識学の修学にも励んだのである。高宮寺と飛鳥寺との二重生活は困難ではあるが不可能ではない。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.17. 



 たとえば、奈良時代後期の法相宗の僧・護命は、師・勝虞の指導のもと、月の前半は吉野山の奥で「虚空蔵法」の苦行をして神通力(超越的な理解力・記憶力)を養い、月の後半は元興寺〔現・奈良市内。飛鳥寺の後身〕で宗義を研学するスケジュールをこなしています。高宮山寺と、まだ飛鳥にあった飛鳥寺とのあいだならば、距離はずっと近くて徒歩1日内の行程ですから、往復修学はそれほど難しくなかったと思われます。

 

 

行基は高宮寺徳光のもとで、比丘の二百五十戒と三千威儀を学んだ〔…〕が、律学研鑽の後に戒定慧の三学〔①戒律の習得と遵守、②禅定すなわち瞑想による精神統一、③智慧(般若)の獲得、の3学――ギトン註〕と宗義〔宗派の根本教義。行基が学んだ「宗義」は「瑜伽・唯識論」――ギトン註〕の研学に励んだはずである。〔…〕こうした学は〔…〕複数の師の説を受講することによって成り立つ』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.34-35.  

 

『徳光は、〔…〕戒定慧の三学と宗義については専門家の教えにまつべきで、弟子の行基のためにしかるべき大寺に入るよう勧めたはずである。その大寺は飛鳥寺であり、入寺は受戒と同時期であろう。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.22. 

 

 

 『行基菩薩伝』は、行基の師匠として、日本の「定昭」と新羅の「惠基」の名を記しています。「定昭(照)」は、『行基菩薩縁起図絵詞』に、「禅師」であり「法相乗の師範」であったと記されています。法相宗の宗義である「瑜伽・唯識論(ゆが・ゆいしきろん)」の師範と思われます。

 

 「惠基」については『行基年譜』に記事があります↓。ただ、こちらでは師匠ではなく、法友のように書かれています。兄(あに)弟子のような間柄の人だったのかもしれません。

 

 

『文武天皇八年(甲辰、慶雲元年〔704年〕也)。〔…〕

 

 修業時、新羅国大臣(惠基)、行基と共に阿弥陀仏を申し、諸國遊行す。和泉國・日根郡の住人と号す(云云)。件(くだん)の大臣、和泉國・日根郡・日根渚に新羅国より流され来(云云)。今、日根・禅興寺の本願なり(云云)。又、彼の国村(ニ)祝奉法大臣(ト)云ふ神是れ也。』

大阪狭山市教育委員会・編『行基資料集』,2016,大阪狭山市,p.89.〔原漢文。( ) は原文の小字〕  

 

 

 「阿弥陀仏」を称名しながらというのは、後世の付会かもしれませんが、行基といっしょに諸国を遊行したと云います。「禅興寺」は、日根郡長滝村字寺前(現・泉佐野市長滝地区)に室町初期まで存在した寺院で、現在も寺址があるそうです。惠基は、その「禅興寺」を創建した「本願」つまり施主です。この文章は、「禅興寺」の縁起記のようなものからの抜粋でしょう。『行基年譜』の編者は慶雲元年〔704年〕条に入れていますが、引用元の文書では、「修業の時」というだけで年代を記していないのでしょうから、「諸國遊行」の正確な時期は不明です。

 

 新羅では大臣だったとしていますが、日本に流される流刑というのは変ですね。漂流するように流れてきたという意味でしょうか? 新羅の故郷の村では「祝奉法大臣」と呼ばれる神だった?? いよいよ変です。もしかすると、この「神」とは、ミロクの化身とされた「花郎」のことかもしれません。

 

 おかしな尾ひれがついていますが、ちょっと変った渡来人の法友がいて、ともに修行したということなのでしょう。

 

 さて、『行基菩薩伝』によれば、行基は「初め法興寺〔飛鳥寺〕に住み、ついで薬師寺に移り、法相大乗を学び、兼ねて利他の行を修む」とあります。

 

 

『飛鳥寺は大寺であったから、経・律・論の三蔵経典を網羅した一切経(大蔵経)を備えており、また多くの学匠が在籍していたから、三学と宗義を学ぼうとするものにとって適したところであった。

 

 行基は飛鳥寺で「法相大乗を学んだ」とあるが、『続日本紀』行基の卒伝に「初め出家して、瑜伽唯識論を読み、即ち其の意を了す〔『瑜伽師地論』と『成唯識論』を読んで、即座に理解した――ギトン註〕」とある。〔…〕法相宗の別名は唯識宗であり、『瑜伽師地論』『成唯識論』は法相宗の重んじる論書であるから、これを学ぶことは法相宗に属すことを意味している。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.23〔引用を一部訂正〕. 

 

 

飛 鳥 寺  (法興寺)      奈良県高市郡明日香村大字飛鳥

 

 

 

【29】 大寺での修学と、大きな疑問

 

 

 「唯識論」とは、各個人にとっての世界は、その個人の表象(視聴嗅味触覚と意識・無意識によって与えられたもの)にすぎない。だから客観的な認識というものはありえず、個人の心を超えた客観的世界というようなものは、けっきょくは「空(くう)」にすぎない、とする大乗仏教哲学です。

 

 「瑜伽行・唯識論」は、「唯識論」と同じことですが、「瑜伽行」つまりヨガの瞑想によって、この「空」の真理を会得することを強調した呼び方です。個人の意識も、個人の外部にあると意識されている「世界」も、すべては、その個人の最奥の無意識である「阿頼耶識(あらやしき)」が生み出しているものである。――として、まずは「心」以外のすべてを滅却(エポケー)します。ここまでは、フッサールの現象学に似ていますね。しかし、「瑜伽行」は、最終的には、その「心」さえも「空」であると看破するに至る。(それを看破するのは、何者か!?‥)このように、認識論から出発して、あやふやなもの、刹那的で無常なものを、つぎつぎに取り除いていき、最後には、主観・客観のすべてを否定する壮大で確乎簡明な哲学体系です。

 

 「瑜伽行・唯識学派」の祖は弥勒菩薩とされ、根本理論書『瑜伽師地論』は弥勒自身の著作とされますが、これは伝説の域に属します。「瑜伽行・唯識学派」の実在の大成者は、4世紀ころ西北インドの無着・世親兄弟です。チベットでは『瑜伽師地論』を無着の著作としています。

 

 中国には、7世紀半ばにインドから帰国した玄奘(三蔵法師)によって伝えられ、「法相宗」を形成したとされます。この「法相宗」は、遣唐使船で入唐し、玄奘に師事した留学僧・道昭によって日本に伝えられました。道昭は帰国後、飛鳥寺の一隅に「東南禅院」を建てて玄奘から学んだ「唯識・瑜伽行」を教え、日本における「法相宗」第一の祖となった。

 

 そこで、一般には、行基と法相宗の関係は、つぎのように理解されています。

 

 

『年代的にみて、行基道昭に飛鳥寺で会うことができたのは確かであろう。

 

 〔…〕『続日本紀』〔…〕の伝には、道昭は天下をあまねく巡り、路のかたわらに井戸を掘り、各地の津や渡し場には船を備えつけたり、橋をかけたりしたこと、さらに山背國の宇治橋も、道昭によって初めてつくられた〔…〕

 

 行基が出家してまもなく飛鳥寺にとどまり、そこに唐より帰った道昭がいて、〔…〕行基が道昭の影響を受けなかったとみることは、現実性を欠きはしないだろうか。やはり行基の後年の社会事業、つまり利他行(ぎょう)は、道昭のもとで学んだことによる』

千田稔,『天平の僧 行基』,1994,中公新書,pp.74-75.  

 

 

 つまり、行基は法相宗の開祖・道昭から、玄奘がインドから持ち込んだ「瑜伽禅定」を直接習うとともに、灌漑・交通施設の築造などの社会事業を僧のなすべき利他行として教えられ、実践した。――きわめてきれいな図式が描けることになります。おおざっぱな見方をすれば、そのような理解ができなくもありません。

 

 

華林寺(蜂田寺,蜂寺)  本堂    堺市中区八田寺町

行基の母方蜂田氏の氏寺で、行基得度の2年前 680年に創建されている。

 

 

 しかし、細かい点まで追究してみると、そんなにかんたんではない。この図式には重大な落とし穴があることがわかるのです。というのは、玄奘の開いた「法相宗」には、その教義の根本的な部分で、行基の思想とも実践とも相いれない部分があるからです。

 

 玄奘はインドから将来した『瑜伽師地論』『成唯識論』などを漢訳して、中国の唯識学を刷新したのですが、唯識学じたいは、すでに6世紀に海路で中国・南朝に達した西インド僧・真諦によって伝えられていました。真諦が漢訳したのは、無着の『摂大乗論』と、その注釈である世親の『摂大乗論釈』で、この学派は「摂論宗」と呼ばれました。唯識には、古い「摂論唯識学」と、玄奘の新しい「法相唯識学」があったのです。

 

 そして、倭国・日本にも、まず「摂論唯識学」が伝えられて宗派を形成していたところへ、道昭が新式の「法相唯識学」を持ち込むという関係になりました。帰国後の道昭が本拠とした「飛鳥寺」にも、もともとあった「摂論派」唯識学徒がいましたから、道昭は伽藍の南東隅に禅院を建てて弟子を集め、新たに「法相」唯識学派を形成したのです。

 

 「摂論派」と「法相派」の・いちばん大きな違いは、「悉皆成仏」を認めるか否か――努力すれば誰でもが成仏できる、仏になれると考えるかどうかの点だと云われます。真諦の「摂論」は、「一切の衆生は悉(ことごと)く仏性ぶっしょう 仏になる可能性,悟りの本性〕あり」として「悉皆成仏」を説きました。「悉皆成仏」は、玄奘以前の中国仏教界では、宗派を問わず常識であったのです。これに対して、玄奘の新訳・唯識論は「悉有仏性・悉皆成仏」を否定しました。

 

 

『玄奘新訳による法相宗は五姓格別説により、永遠に悟りを得る資質のない無性の衆生の存在を認め成仏の機なしとする〔…〕

 

 仏性の有無は宗教的資質の問題で、現実生活の身分に関するものではないが、人間には先天的な差別があるという説は、現実の人間存在を律するようになる。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.26-27. 

 

 

 そこで、法相宗が広がると、日本では、奴隷や障害者には「具足戒」〔正式僧尼となるための授戒――ギトン註〕を許すべきでない、それが本来あるべき「旧例」だと言われるようになります。「20歳以下の者と 70歳以上の者、国家が放さない者、債務者、黄門〔性器が不具の者,または同性愛者〕、奴婢の類」には、「具足戒」を授与するなというのです〔865年3月 少僧頭慧運牒〕。その根拠は『四分律』にあるといいます。

 

 「律令」ではどうなっているかというと、「僧尼令」によると、家人・奴婢の出家には本主の許可が必要で、賎民身分から解放されたのち、はじめて出家できるとしています。しかし、じっさいには、奴婢の身分を隠して出家する例、受戒して僧尼になる例が、たいへん多かったので、↑上のような指摘が行なわれているわけです。

 

 これに対して、菩薩戒〔僧にも在家信徒にも通用する戒律――ギトン註〕を記した『梵網経』は、一切の衆生には仏性ありと述べ、「庶民・黄門・淫男・淫女」から畜生まで、「ただ法師の語を解せば、ことごとく戒を受け得る」としています。

 

 それでは、行基は、どちらの考え方だったのか? というと、行基が奴婢を奴婢身分のままで得度させていることがわかる史料があるのです。722年に大安寺で、100人を集団的に得度させています。おそらく、行基のもとに集まった信仰者集団と思われますが、その得度者のなかに、「和泉國‥‥蜂寺の奴」と記されている人がいます。

 

 「蜂寺(蜂田寺)」は、行基の母方・蜂田氏の氏寺で、現在は「華林寺」という名前になって、「家原寺」の近くにあります。つまり行基は、玄奘・道昭の「法相派・唯識」ではなく、「悉有仏性」を認める「摂論派・唯識」であったことがわかります。

 

 もっとも、それでは道昭とは接点がなかったのかというと、同じ「飛鳥寺」にいたことはまちがえありませんし、行基の後年の、土木工事をしたり橋をかけたりといった社会事業は、道昭を見習った形跡もあります。たとえば、淀川に架けた「山崎橋」に関するエピソード(『行基菩薩伝』)によれば、弟子たちと淀川の渡河に難渋して逗留していた時、川の中に柱が立っているのを見て里人に訊くと、かつて道昭が渡した橋の残骸だという。そこで一念発起して「山崎橋」の建設を始めたと云うのです〔725年〕行基道昭を「利他行」の先覚者として尊敬していたことは否定できないと思います。

 

 

 

石清水八幡~水無瀬付近の 淀 川  「山崎橋」架橋地点か。

行基集団が大山崎に「山崎橋」を架橋したのは、この枚方市

楠葉中之芝付近と推定されている。対岸は、大阪府島本町水無瀬。

 

 

 

【30】 民衆布教の過激な異端派経典――『三階経』

 

 

 しかし、行基の社会活動の実践は、土木工事や寺院建設といった穏健な活動を越えて、「律令」と朝廷の禁令に逆らってでも、救うべき人びとを救い、広範な大衆を集合させて野放図なエネルギーを解き放ってゆく過激な面も持っています。とくに、704年に「山林修行」の期間を終えたあと、布教活動の最初の時期においては、それが顕著です。そのために、行基の集団は、度重なる朝廷と大寺「僧綱」による弾圧を受けてもいるのです。

 

 このような面は、道昭の利他行や唯識論の修学では説明できません。それでは、行基はいったいどこから、このような活動を支える思想を学びとり、民衆と一体化するエネルギーを身につけたのでしょうか? 吉田靖雄氏は、それを、道昭が中国から持ち帰って「法興寺(飛鳥寺)」に蔵されていた『三階経』という異端派経典との出会いに求めています。「三階宗」は、の朝廷に弾圧されて消滅した仏教宗派で、『三階経』はその経典の総称です。


 しかし、もうだいぶ長くなってしまったので、「三階宗」については次々回に扱いたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!