韓国ドラマ『花郎(ファラン)』より。
以下、年代は西暦、月は旧暦表示。
《第Ⅱ期》 603-611
- 605年10月 斑鳩(いかるが)宮が竣工し、厩戸皇子、移り住む。
- 606年5月 鞍作止利(くらつくり・の・とり)に命じて「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)を造らす。7月、厩戸皇子、橘寺?で「勝鬘経(しょうまんぎょう)」を講義。斑鳩・岡本宮(現・法起寺)?で「法華経」を講義。
- 607年 厩戸皇子、法隆寺(斑鳩寺)の建設を開始。屯倉(みやけ)を各地に設置し、藤原池などの溜池を造成し、山城国に「大溝」を掘る。
- 607年7月 小野妹子らを遣隋使として派遣し、隋・煬帝に国書を呈す。
- 608年8月 隋の答礼使裴世清を迎えて歓待する。9月、高向玄理らを遣隋使として派遣。多数の留学生・留学僧を隋に送る。この年、新羅からの渡来移住者多し。
- 609年 厩戸皇子、『勝鬘経義疏』の著述開始。4月、「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)が完成し、法興寺(飛鳥寺)に安置。
- 610年3月 高句麗僧・曇徴(絵具・紙・墨・碾磑の製法を伝える)を迎える。610年頃、法隆寺(斑鳩寺)の建設が完了。
- 611年 新羅、「任那の使い」とともに倭国に朝貢。『勝鬘経義疏』を完成。
《第Ⅲ期》 612-622
- 612年 百済の楽人・味摩之を迎え、少年らに伎楽を教授させる。厩戸皇子、『維摩経義疏』の著述開始。
- 613年 畝傍池ほかの溜池を造成し、難波から「小墾田宮」まで、最初の官道「横大道」を開鑿。『維摩経義疏』を完成。
- 614年6月 犬上御田鍬らを遣隋使として派遣。厩戸皇子、『法華経義疏』の著述開始。
- 615年 『法華経義疏』を完成。
- 620年 厩戸皇子、蘇我馬子とともに『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂(開始?)。
- 622年2月 没。
【28】“千年王国” の仏教――「下生」と「上生」
まず、“ミロク信仰とはどんなものか”――入門的な知識をまとめておきたいと思います。弥勒信仰は、現世を捨てて「極楽往生」を願う阿弥陀浄土信仰(浄土宗,浄土真宗)とも、“心の持ちよう” を変えて現世に仏国土を実現しようとする法華経信仰(天台宗,日蓮宗)とも、かなり違うもので、日本ではあまりなじみのない教義かもしれません。
M・ウェーバーは、『旧約聖書』のモーセ、イザヤ、イスラム教のマホメットのような「使命予言(倫理的予言)」に対して、ブッダや孔子を「模範的予言者」と呼んでいますが、仏教徒にとって、「模範」として崇めるブッダが入滅した後の世界は、どうしても “暗黒時代” とならざるをえません。そのため、輪廻からの「解脱」という哲学的超克をめざす仏教の本来の目標が、現世を捨てて、「極楽」世界への「往生」を願うという、ある意味解りやすい場所的移動(テレポーテーション)の願望――「浄土信仰」へと摺り替わってしまう根拠が、そこにあります。
しかしその一方で、シャカ亡き “暗黒時代” を、別のしかたで乗り越えようとする考え方も起こってきます。釈迦(ブッダ)は宇宙史上唯一の救済者ではなく、遠い過去には6人の「過去仏」が現れており、釈迦は7人目の「過去仏」であり、はるかな未来には8人目の「仏(ブッダ)」すなわち「未来仏」として、弥勒が現れ、衆生を救済することが定まっている――という信仰が発達します。
弥勒菩薩と過去七仏。左端が弥勒菩薩(束髪)。その右が釈迦仏。右端の1体が欠損している。
弥勒信仰には、弥勒「上生」信仰と弥勒「下生」信仰があります。弥勒に関する経典として重要な「弥勒六部経」のなかで、『観弥勒菩薩上生兜率天経(上生経)』が上生信仰を述べ、ほかの7経は下生信仰を述べています。下生信仰は、釈迦の入滅(死)から 56億年、一説には 56億7000万年たった後に「弥勒」が地上に現れ、ブッダとなって衆生を救うと説きます。
「下生(げしょう)」した弥勒は、はじめバラモンの家に生まれ、シャカと同じように出家しますが、即日に開悟し、「龍華樹」の下で3回の説法を行ないます。1回目は 96億人、2回目は 94億人、3回目は 92億人に説法し、聞いた聴衆はことごとく済度(さいど。生・老・病・死の四苦から救って彼岸に渡すこと)されると云います。これを「龍華三会」と云い、この説法に「値遇」するために善根(功徳)を積まなければならないと説かれるわけです。
こういう弥勒「下生」説は、キリスト教の「最後の審判」やそれを待望する「千年王国思想」に似ています。仏経典には、救済者の「下生」によって地上世界が「浄土」になる――ユートピア化すると、はっきり書かれているわけではないようです。が、中国では、メシアの降臨と同じように、弥勒の「下生」によって地上世界は「浄土」と化する――そう理解されるようになります。〔木村宣彰「弥勒信仰について――『観弥勒菩薩上生兜率天経』の考察」,大谷学報,62(4),p.57.⇒PDF〕しかも、「最後の審判」とはちがって「裁判」は行われません。説法を聞いた282億(人間のみならず動物・植物ふくむ?)は、善人も悪人も区別なく救済されるのです。
もっとも、弥勒経典はそれでもなお、「龍華三会」に「値遇」するためには個人の努力が必要だと言うのです。よほど運が悪くなければ、「282億人」からはぐれることはないような気もするのですが‥これは、弥勒「下生」説の起源が、大乗仏教成立以前に遡るせいかもわかりません。
歴史上のシャカは、説法の聴衆全員を即座に済度したわけでも、この世をユートピアにしたわけでもありませんから、「弥勒」にはシャカ以上の役割が期待されていることになります。
弥勒菩薩三尊像 ガンダーラ
バラモン形で髪を伸ばしている。
しかし、遠い未来にそんなすばらしいことがあると言われても、それまでの、地球の歴史より長い 56億年のあいだ、(輪廻転生を繰り返しながら)ただ待っているほかはないのか? ‥それについて、「下生」説の諸経は何も述べていません。諸経は、「弥勒」がこの世に生まれてくるところから話を始めるのです。ただ、その時には、地上世界の人間の寿命は 8万歳、あるいは 8万4000歳になっているとされます。また、「弥勒」は、転輪聖王〔てんりんじょうおう。武力を用いずに世界を統一する理想的帝王〕が法治〔仏法で治める〕する都で出生すると云われます。〔打本和音「『観弥勒菩薩上生兜率天経』の成立をめぐって」,龍谷大学佛教学研究室年報,16,2016年1月,p.4.⇒PDF〕そこで、弥勒が「下生」する時には、すでに世界は「浄土」に近い状態になっているとも考えられます。あるいは逆に、人間たちの努力によって世界を「浄土」に近づけていけば、それだけ弥勒の「下生」も早くなる‥‥そういう期待も生じることになります。
まぁ…この点が、弥勒信仰の焦点というか、悪く言えば巨大な闇でして、この闇を埋めるために、「下生」説はさまざまな派生的混合信仰を生んできたのです。弥勒の「下生」を早める手段を外に求めれば、社会改革運動と結びつくでしょうし、内に求めれば、熱烈な精神主義を生み出します。中国では、歴代の大反乱の精神的バックボーンとして、弥勒教がしばしば噴出しました。弥勒信仰は、社会的影響としてはヨーロッパの「千年王国」思想とよく似た役割をしたと言えます。
今でも韓国のキリスト教には、「黙示録」的終末論を絶対視する諸派がしばしば現れて、「何月何日に世界が終末を迎えてキリストが降臨する」などと言って世間を騒がせます。これも弥勒教が盛行した過去の精神風土と切り離せない現象なのでしょう。
これに対して、「上生」説は、「56億7000万年」の闇を埋める手段を現在の「弥勒」に求めます。弥勒は、「下生」してブッダ(仏、如来)になる前は菩薩です。人間としての弥勒は、シャカの生きていた時代に、シャカの弟子として「自分は未来仏になる」という願(がん)を立て、シャカに授記〔将来の実現を保証すること〕されます。そして、人間の寿命が尽きると、天上の「兜率(とそつ)天」に転生し、そこで菩薩(修行者)として天人たちに説法しながら〔※〕、未来に地上世界へ「下生」するための修業に励んでいるのです。そこで、シャカ入滅後の世界に生きるわれわれは、弥勒菩薩がいる「兜率天」に往生(転生)し、弥勒が主宰する「内院」でいっしょに修行を重ね、将来は弥勒とともに「下生」して「龍華三会」に値遇しようじゃないかと――これが「上生」信仰です。
〔※註〕「兜率天」は、「欲界」の第4天(下から 4つ目)。原始仏教の世界観を集約した『倶舎論』によると、地上世界(閻浮提)の中心に「須弥山」があり、その上に、28箇の天(天界)が層状に重なって存在する。28天のうち、下から 6つは「欲界」、その上の 18箇は「色界」、最上層の 4つは「無色界」。これら天界に住む天人は、輪廻によって転生した者で、そこでの寿命が尽きれば、また何に生まれるか――人間になるか畜生になるか、地獄や餓鬼道に落ちるか――分からない。解脱(成仏)を達成した仏(如来)は、このような輪廻世界の外の存在である。
地上で待っていたら、へたすると「三会」に、はぐれるかもわからないから、今から弥勒のところへ行って附いていれば、まちがいなく説法の場に値遇するだろう、というわけでしょうか。
「上生」説は、日本でも信奉者を見出すことができます。著名な人としては、中世の日蓮、近代の宮沢賢治を挙げることができます。賢治の亡き妹への挽歌「永訣の朝」の末尾は、つぎのようになっています。
『あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
〔…〕
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜卒の天の食(じき)に変って
やがてはおまへとみんなとに
聖(きよ)い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ』
どうやら賢治は、妹は兜率天に転生して弥勒菩薩といっしょにいると考えていたようです。
弥勒菩薩交脚坐像 ガンダーラ,2-3世紀,平山郁夫シルクロード美術館
ガンダーラのマイトレーヤ像は、このように
筋肉質で力強い表現が珍しくない。
【29】弥勒信仰と新羅の「花郎徒」
金永晃「弥勒仏信仰と仏像――韓国古代弥勒信仰を中心に」,佛教文化学会紀要,16,2008年1月. によりますと、新羅王権が仏教の公的信奉を開始したのは、倭国より 80年ほど早い 518年であり、新羅最初の寺院「興輪寺」の堂主(本尊)は弥勒だったことが『三国遺事』に記されています。弥勒教は、高句麗と百済から伝えられました。
新羅における弥勒信仰と花郎の密接な習合関係は、1930年前後に日本の学者たちの注目を浴びて以来、日韓の研究者による探究が進められてきました。「花郎(ファラン)」とは何か? 金永晃氏の説明によると:
『花郎徒は、三韓時代(馬韓・辰韓・弁韓)村落共同体を基盤として成長発展してきたのであるが、15才から18才の性と年齢を単位として組織された青少年組織である。〔…〕
法興王7年(520)律令が宣布された以後、政治制度が法制化、組織化されて行き、真興王代に入って活発な征服事業として軍事が多く必要となるに至って中央軍組織が編成され始めたのである。この時、青少年組織』である『花郎徒は、中央軍の補助役割をする軍隊として吸収された。その時期は、真興王23年』(562年)以前であった。
金永晃「弥勒仏信仰と仏像」,p.8.
つまり、「花郎徒(ファランド)」という集団のもとになったのは、おそらく原始時代から村落共同体に所属していた性別・年齢別の集団組織で、こういうものは日本の村落でも、「若者組」などの少年集団、少女集団として昔からあったものです。しかし、新羅ではそれを基盤として、6世紀半ばころに、国家の軍隊を補助する青少年組織として、「花郎徒」が形成されたということです。
「花郎」は、この「花郎徒」集団の首領として、グループの青少年を統率する青年男子でした。『三国遺事』には、「花郎」と「花郎徒」の発生について伝説的な話が載っています。それによると、新羅第24代真興王〔在位 540-576〕は、「一心に仏を奉じ広く仏寺をおこした」が、その一方で「衆徒を集めて人物を選抜し、孝悌忠信の徳目にのっとって教育しようと」考え、「人の家の少女のうち、美しい者を選んで原花に任じた」とあります。「これはまた国を治める大要でもあった。」〔「弥勒仙花」条。金思燁・訳『完訳・三国遺事』,pp.270f〕
つまり、軍事だけが目的ではなく、「国を治める大要」として、同年齢集団の中からリーダーを選んで青少年の自己教育を行わせ、自治自律の精神を養わせた。その指導原理は、「孝悌忠信」などの儒教や仏教の徳目だった、というのです。真興王は、はじめリーダーとして美少女を選びました。美少女をリーダーにすれば、彼女を慕っておおぜいの少年が集まると思ったからです。「原花」とは、そういう美少女スケバンのことです。あんのじょう、各スケバンの下に 300人も 400人もの少年が集まってきました。ところが、美少女をアタマにいただくグループ同士は、たがいに相手グループの美少女に嫉妬して争うようになり、「原花」を殺し合うようになってしまったのです。
そこで真興王は「原花」を廃止して、こんどは、美少年をリーダーにします。「良家の男子で徳行のある者を選んで、呼び方も花娘に改めた。」「花娘」は「花郎」とも書き、また「仙花」「国仙」ともいいました。そうしたところ、こんどはうまくいった。そこで、最初に「花郎」に任命した「薛原郎〔「リーダーの薛(せつ)」の意〕」の記念碑を立てた。
『それからというものは、人びとがみな悪を改めて善に向い、上の人を敬う一方、下の者には温順に当り、五常・六芸と三師・六正が広く王の時代に行われるようになった。』
『完訳・三国遺事』, p.271.
「五常」は、儒教の徳目「仁義礼智信」。「六芸」は、6種の技芸「礼・楽〔音楽〕・射〔弓術〕・御〔馬術〕・書・数」。「三師」は、天子の教育係で、臣下として最も名誉ある地位。「六正」は、人臣の守るべき正しい道「聖・良・忠・智・貞・直」。
この経緯が、『三国史記』では次のように書かれています。こちらのほうが、「花郎」の姿をいっそうありありと描いているのは、撰者・金富軾が儒学者で、こういうオカマっぽいのを嫌ったせいかもしれません。
『〔…〕美貌の男子を選び出し、これに化粧をさせ、美しく装わせて花郎と名づけ、これを〔多くの若者が〕奉じた。その仲間たちが雲のように多く集まり、ある者は互いに道義を磨き、ある者は互いに歌楽を悦しみ、山地や水辺をめぐり歩いて、どんな遠いところにでも出かけていった。このような交際の中で、互いにそれぞれ人の良し悪しがわかり、そのなかで良い者を選んで、これを朝廷に推薦した。
〔…〕『新羅国記』には次のようにいっている。
貴人の子弟で美貌な者を選んで、白粉(おしろい)をつけて化粧し、美しく装わせる。これを花郎といい、国人はみなこれを尊(たっと)び仕えている。』
井上秀雄・訳註『三国史記 1』,新羅本紀真興王37年条,平凡社東洋文庫, p.110.
韓国ドラマ『花郎(ファラン)』より。
貴婦人に対する異性愛(ミンネ)を戦士の結合原理にするのは、西欧中世にもありますが、同性愛を結合原理とした戦士団は注目に価すると思います。(このような、集団の結合原理としての性愛は、ミンネにしろ花郎にしろ、精神性を中心とするものです)。しかも、同性愛のほうが、より強固な倫理性を保持して、国家統治とも調和すると考えられている点に、この説話の主意があります。
ここで、字の説明をしておきます。「原花」「原郎」「花娘」「花郎」――これらは訳者の金思燁(キム・サヨプ)氏によると、「郷札(ヒャンチャル)」という独特の表記法で、日本の万葉仮名に当たります。いまは朝鮮漢字音で「ファラン」と読んでいますが、新羅時代には新羅語の訓読みをしていたのです。「花」は〔kot〕という読みから、同音の「龍」に通じ、「龍華樹下の説法」→「弥勒」をも意味します。「原」は「長、リーダー、アタマ」という意味です。「花郎」とは、「龍の化身である男子、男子の姿をしたミロク」という意味なのです。
ところで、↑テレビドラマのふんいきからも分かるように、「花郎」というリーダーのカリスマ性は、強い、勇気がある、というだけではありません。やはりどこまでも「美少年」なのです。そのおちゃめな純粋さが、道徳性の優位と結びついている点に注目したいと思います。「花郎」を、日本の武士道の概念やイメージで理解することはできません。
たしかに、これまでの研究の中で指摘されてきたように、「花郎徒」集団は、村落共同体の「若者組」にその起源があるのでしょう。しかし、成立した新羅の「花郎徒」は、「若者組」そのままではありません。村落共同体の枠を大きく踏み越えています。成員は、生まれ落ちた地縁にしたがって必当然に特定のグループに所属するのではなく、いずれかの「花郎」のカリスマをしたって、自由意思で集まるのです。それは、『三国遺事』の説話から如実にわかることです。ゲマンシャフトではなく、ゲゼルシャフトなのです。集団の形成が自由意思に基づいているからこそ、真興王がめざしたような自治自律の精神ということが可能になるのです。
韓国ドラマ『花郎(ファラン)』より。
さて、上の説話では、仏教や弥勒信仰は現れていませんでした。「花郎」の倫理性も、文章の表面を追うかぎり、儒教に基いているように思われます。しかし、じっさいの「花郎徒」の形成には、仏教僧侶と、かれらが少年たちに教授する・かなり習合的な弥勒信仰が、大きな役割を果たしていました。
『本来、花郎徒には、儒・仏・道三教が含まれていたのであるが、仏教においては弥勒下生信仰が主類を成している。〔…〕
花郎徒と弥勒信仰の関係を見ると、真興王代の法制化された時から真興王の転輪聖王思想具現の一環として意味が付与されて、次第に貴族(真骨)出身である花郎は、僧侶たちによって弥勒出身として〔弥勒の化身として――ギトン註〕仰がれたのである。〔…〕花郎徒の組織は、花郎集団ごとに貴族出身花郎一人と、教師として花郎徒を教訓、指導する僧侶若干名、貴族以下平民に至る数百人の郎徒たちとして構成された。彼らは自分の意思によって自発的誓約形式を通して組織された〔M. Weber の言う「誓約共同体 Eidgenossenschaft」!――ギトン註〕が、修練期間を三年義務として名山大川を巡礼しながら心身を鍛練した。彼らの修練には巫俗的、呪術的伝統が強かった。
花郎徒は、王系の貴族から平民に至るまですべての社会的階層を網羅した半民半官組織であった。 花郎徒がその理念としていたのは、ほかでもない仏教の理想国家国土観である弥勒浄土〔未来仏「下生」後の地上における浄土――ギトン註〕を具顕することであった。〔…〕花郎の理念は、〔…〕弥勒下生経に説かれた秩序正然たる安楽安穏で怨賊がない理想国家を、現実の新羅国土に建設しようとする政治的・宗教的理念、それである。』
金永晃「弥勒仏信仰と仏像」,p.8.
「真骨」は、新羅の「骨品制」の第2位で、王族の血筋と説明されます。「骨品制」は、ヤマトの「氏姓制度」に似た王族・貴族の血縁序列制。しかし、新羅に吸収された「金官加羅国」王族の子孫・金庾信が「真骨」になっている例もあります。「骨品制」という身分制度は、じっさいには平民からの身分上昇も可能な、かなり流動性のある制度だったようです。
「花郎徒」集団への弥勒信仰の浸透は、リーダー「花郎」を補佐して衆徒の教育に当たった僧侶たちによって行われたわけです。「花郎」は、「真骨」など貴族の子弟でした。僧たちが教える弥勒信仰は、新羅国王を「転輪聖王」〔地上に弥勒浄土をもたらす理想的帝王〕として崇め、「花郎」を、地上に降臨した「弥勒」の化身として敬慕する「花郎徒」の精神的結集の核心を担っていたと言えます。
『三国遺事』 朝鮮朝・木活字印刷本
こうした弥勒僧の「花郎」に対する敬慕のじっさいを、『三国遺事』の説話で見ておきたいと思います。
真興王の次の代・真智王〔在位 576-579〕の時代、興輪寺に真慈という僧がいて、本尊の弥勒菩薩を、いつも熱心に拝んでいた。真慈は、弥勒の前で:
『つぎのように願(がん)をかけた。「わが大聖よ。花郎に化身してこの世に現れ、私がつねにおん前に親しく近づき、お仕えできますようにしてくださいませ。」〔…〕ある夜の夢に一人の僧が現れ、「そなたが熊川の水源寺に行けば、弥勒仙花〔弥勒が化身した花郎〕に会えるであろう」といった。』
『完訳・三国遺事』, p.271.
「熊川(熊津)」は、現在の忠清南道公州市で、百済の旧都。百済は 577年に新羅に侵入して戦争になっています。しかし、真慈は勇気を奮って「熊川」に出かけていきます。熊川まで「十日の道のりを行くのに、一歩ごとに一礼しながら」歩くという恭しさでした。「水源寺」に着くと:
『門のそとに、目鼻立ちの整った一人の少年が立っていて、笑顔で迎え、小門から客室に案内してくれたので、真慈はあがっていって、会釈しながら尋ねた。「郎君は今まで私とは面識がないのに、どうしてこんなにもていねいに私をもてなしてくれるのか」。すると郎は、「私もまた京師(みやこ)の者でございます。大師が遠方からおいでになったので、その労をおなぐさめ申し上げたまでです」』
『完訳・三国遺事』, pp.271-272.
そう言って少年は門の外へ出て行ったが、どこへ行ったか分からなくなってしまった。……少年が真慈に答えたコトバも謎にみちています。真慈が「遠方から来た」ということが、どうしてわかったのか? 「みやこの者」とは、百済の都のことか、それとも、「また」というからには真慈と同じ新羅の都から来たのか? ‥しかし、真慈は「弥勒の化身」に会いたい一心なので、たまたま遭遇した美少年の言葉を吟味しているよゆうはありません。寺の僧を探し出して、自分の寺で見た夢のことを話し、「弥勒仙花」が現れるのを、ここでしばらく待たしてもらえないでしょうか、と言うと、水源寺の僧は、「当寺にはそのような者はおりませぬ。ここから南方へ行くと千山があり、昔から賢人・哲人が多いといいますから、そこへ行って聞いてみたらどうでしょう?」と、ていよくタライ回し。。。
それでも真慈は言われたとおりに「千山」の麓へ行くと、「山の神霊」が老人に化けて出て来て、「こんなところで何をしようというのか?」と問う。真慈が「弥勒仙花にお会いしたいのです。」と言うと、「それなら、さっきお前は水源寺の前で会ったではないか。」
それを聞いて真慈はびっくりして、不可解の思いを抱えながら、新羅の興輪寺に戻って来た。
「新羅の微笑」:慶州・興輪寺址(霊廟寺址とも
いわれる)から出土した軒丸瓦。
それから1か月ほどのあいだに、新羅の都では、真慈の遭遇した怪異のうわさで持ちきりになった。真智王は、真慈を呼び寄せて一部始終を聴いたあと、「その美少年は、自分で《みやこの者だ》と言ったのだな? 聖人は嘘を言わないものだ。なぜ、この都城の中を探してみないのか?」。
そこで真慈は、王のご意向を告げておおぜいの人を集め、金陵(現・慶州)の都城の中を捜索した。城壁で囲まれた村里をくまなく物色した結果、「華やかに装い、眉目麗しい一人の少年」を見出した。その少年は、「霊妙寺の東北にある街路樹の下で、あちこち歩き回りながら遊んでいた。」真慈は彼を見たとたん、「弥勒仙花だ」と叫んで近づき、「郎の家はどこで、名は何というのか?」と尋ねた。少年は、
『「私の名は未尸(ミリ)ですが、幼い時に両親を亡くしたので姓はわかりません」と答えた。』
『完訳・三国遺事』, p.272.
「霊妙寺」は、霊廟寺(善徳女王〔在位 632-647〕時創建)のことでしょうか? 「未尸(ミリ)」とは「弥勒」のこと。『三国遺事』の撰者(高麗の僧・一然)は、「尸」←「力」←「勒」と字釈する。他方、金思燁氏によれば、「未尸」は「弥勒」の音写。ともかく、真慈はこの少年を、水源寺で会った弥勒の化身だと確信したので、輿(こし)に乗せて宮中へ連れて行き、王にまみえさせた。
『王は〔未尸を〕敬愛し、奉じて国仙〔花郎〕にした。すると、彼は子弟ら〔花郎徒〕とむつみ合い、礼儀や風教も尋常のものとは異なっていた。
こうして、彼の風流が世にかがやくこと7年、突然、行くえがわからなくなってしまった。』
『完訳・三国遺事』, p.272.
真慈はたいへん悲しんだが、しかし、未尸から受けた感化によって、よく自ら悔い改め、一心に道を修めた。その真慈も、晩年には行くえがわからなくなった。(神仙になったことを暗示する言い方)
以上で、仏教が日本に受容された時代、新羅で習合的に展開されていた弥勒信仰について見てきました。現在、日本で「弥勒菩薩」と言えば、↓下の広隆寺「半跏思惟像」のような・なよやかで優美な仏像のイメージが強いのではないでしょうか? たしかにそれは、新羅の「弥勒仙花」「花郎」信仰の一面ではあります。しかし、一面にすぎない。新羅仏教の受容は、一面的なものに終わってしまった――ということも否定できないのです。何よりも、「花郎徒」の自治自律の精神というものが、ヤマトには伝わりませんでした。そのことは、日本の基層における思想形成の方向を、大きく規定してしまったと私は考えます。
聖徳太子自身は、新羅あるいは大陸諸国の弥勒信仰を十分に理解するには至らなかったとしても、太子が開いた大陸諸国に対する “全方位外交” という方針が受け継がれていれば、新羅との文化交流ももっと活発に行われえたと思われるのです。「白村江戦争」以後、日本と唐との通交はまもなく回復したものの(「倭」から「日本」へ国名変更したのも、敵として戦った唐と国交回復するためでした)、朝鮮半島は新羅によって統一され、日本との公的な関係は切れてしまいました。
その後の長い歴史の中で、新羅、あるいは高麗とのあいだに文化交流が回復するきっかけが無かったわけではありません。たとえば、天台宗・第3代座主・円仁は、最澄が十分に果たせなかった唐からの「金剛界曼荼羅」ほか多数の仏典の将来をやりとげて、日本仏教の発展の基礎を築いたのですが、この円仁の仕事は、在唐新羅人商人の援助によってはじめて可能となったのです(⇒:wiki「円仁」)。しかし、このきっかけも、それ以上に、たとえば日羅仏教界の交流のような方向に発展することはありませんでした。日本仏教は、弥勒信仰のような現世改革的な方向へ向かうことはなく、もっぱら阿弥陀浄土信仰による現世否定か、そうでなければ真言宗、日蓮宗のように現世利益を求める方向へ展開したのです。
広隆寺にある2体の菩薩半跏思惟木像。いずれも弥勒菩薩とされているのだが
『資材帳』には「壱躯」とある謎。。。
【30】法起寺と『法華経』講解
だいぶ脱線してしまいましたが、ここで聖徳太子に戻ります。太子の仏教にも弥勒信仰は影響を及ぼしていたと思われるのですが、文献上確たる証拠はありません。ただ、『日本書紀』には 603年のこととして、太子が「諸(もろもろ)の大夫」たちに語って、「『我、尊き仏像有(も)てり。誰か是の像を得て恭拝(みやびまつ)らむ』」と仰った。そこで秦河勝が進み出て「『臣、拝みまつらむ』」と言って仏像をもらい受け、蜂岡寺を建てた、とあります。その広隆寺の平安初期の『資材交替実録帳』には「金色の弥勒菩薩壱躯〔…〕所謂太子本願の御形」とあるので、現在広隆寺にある古い半跏思惟像2体(↑)のどちらかは、聖徳太子からもらい受けた弥勒菩薩だと考えたいところです。しかし、断定するにはいまひとつ決め手を欠いています。
太子自身の仏教に関する著述として残っているのは、『三経の義疏』のみであり、これは『勝鬘経』『維摩経』『法華経』の注釈書です。太子の著作に、『弥勒経』に関するものは、残念ながら見出せません。
すでに《第Ⅰ期》で触れましたが、太子は 605年「斑鳩宮」が完成して転居した翌年に、飛鳥・橘寺で『勝鬘経』講義を行なっています。続いて同じ年に、斑鳩岡本宮で『法華経』講義をしています。斑鳩岡本宮は、太子の妃(きさき)・刀自古郎女(とじこのいらつめ)の住まいです。太子としては、自分の本拠地である斑鳩、しかもプライベートな後宮で行なった『法華経』講義のほうに、より大きな抱負をかけていたと思われます。『勝鬘経』は、先祖崇拝という倭国に合った習合形態の経典――インドにはなく、中国で成立した偽経典――ですが、『法華経』のほうは本格的なインド大乗仏教の中心経典です。中国でも当時、『法華経』の解釈を中心に、智顗(ちぎ)らによって大乗仏教の革新が進められ、天台思想が確立しようとしていました。
法起寺。「斑鳩岡本宮」の跡地に建てられた。
ここも、創建時には弥勒像を本尊としていた。
現存建物のうち三重塔が最も古く、706年建立。
しかし、太子が、これら経典の研究をさらに進めて注釈書の著述を始めたのは、摂政としての活動が一段落した 609年以後でした。もっとも重要な『法華経』の注釈にとりかかるのは《第Ⅲ期》――政治の第一線から身を引いたあとの 614年だったのです。
そこで、『法華義疏』の内容を少し見ておきたいのですが、早くもアメブロの字数の限界が迫ってきました。このあとは次回ということで、ご了解願います。
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