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大官大寺址    「大官大寺址」の碑 と 天の香具山

碑の手前は「九重塔」の基壇。左に見える一段高い畑が、金堂址。

香久山西方の「高市大寺址」から、ここへ移すべく、

701年に造営工事が始まったが、711年火災で焼け落ち、

716年に平城京(現・大安寺)へ移った。


 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。このころ道昭、唐から帰国し、唯識(法相宗)を伝える。
  • 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破る。「飛鳥浄御原宮」造営開始。
  • 673年 大海人皇子、天武天皇として即位。
  • 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
  • 681年 「浄御原令」編纂開始。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。放棄されていた「藤原京」造営再開。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受け、比丘(正式の僧)となる。
  • 692年 持統天皇、「高宮山寺」に行幸。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
  • 699年 役小角(えん・の・おづぬ)、「妖惑」の罪で伊豆嶋に流刑となる。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に仏閣を設け「家原寺」を開基。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧)。藤原房前を参議に任ず。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始?
  • 721年 元明太上天皇没。
  • 723年 「三世一身の法」。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。
  • 725年 行基、淀川に「山崎橋」を架橋。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。
  • 728年 『金光明最勝王経』を書写させ、諸国に頒下。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原光明子を皇后に立てる。
  • 730年 行基、平城京の東の丘で1万人を集め、妖言で人々を惑わしていると糾弾される。朝廷は禁圧を強化。

 

 

本 薬 師 寺  金 堂 址   奈良県橿原市城殿町

薬師寺は、「平城京」遷都後の 718年に現在の「西ノ京」に移った。

 


 

【31】 中国の仏教統制――間接統制から直接支配へ

 

 

 中国に西域から仏教が伝えられたのは後漢末・2世紀のことですが、国家が仏教に対する統制機関をおいたのは、南朝の東晋〔317-420年〕、北朝では北魏〔386-534年〕が最初でした。

 

 

『中国において寺院・僧尼の統制機関がはじめておかれたのは南北朝時代〔439-589年――ギトン註〕のことであって、北魏ではこれを監福曹といい、〔…〕497年、名を昭玄寺と改めた。昭玄寺は、九寺〔不明。「~寺」は寺院ではなく役所の名称。「司」に同じ――ギトン註〕なる国家統制体のほかにおかれた独立の仏教統制機関であって、その役人は大統(沙門大統,魏国大統)、統(沙門統,道人統,昭玄統)、都維那(沙門都統)などとよばれたが、これらは俗人の任ずる俗官ではなく、仏教界に重きをなす僧が任命される僧官であったから、仏教界の自治機関としての性質をも帯びていたといってよく、かつ、僧尼に対する一種の裁判権をももっていた。昭玄寺は北斉にうけつがれたが、北斉ではこのほかに典寺曹をおいた。典寺曹は、〔…〕僧祇部丞などの俗官からなるもので、寺院財産などを管理する役所であったようである。

 

 いっぽう南朝に眼を転ずると、ここでは東晋のときから仏教界を統制する僧官〔僧が任命される官〕がおかれ、その長を宋・斉では僧主、梁・陳では僧正といい、副を僧都、しばしば都維那とも称した。ただ、南朝の僧官の制度は〔…〕北朝におけるほど強力なものではなかった〔…〕、南朝では仏教界が貴族勢力を背景として強力であり、容易には皇帝の権力に服さなかったからであろう。』

井上光貞『日本古代の国家と仏教』,2001,岩波書店,pp.34-35.  

 


 このように、南北朝時代における中国の仏教統制(寺院・僧尼統制)は、僧の自治を認めて、国家支配機構からはいちおう独立した僧官・僧官衙を通じて自主規制をさせる《間接統制》でした。

 

 

五 台 山  台 懐 鎮   中国山西省忻州市五台県

標高3058メートルの「北台」を最高峰とする高地に

3000以上の寺院が建つ中国三大霊場の一つ。

北魏代に創建された「大浮図寺」を初めとする。

 

 

 《間接統制》とした理由は、南朝に関しては、仏教界が強力な貴族勢力を背景としており、皇帝権力が仏教界を直接に統制するのは困難であったためと説明されています。しかし、強力な皇帝権力をもった北朝も南朝にならって《間接統制》としたのは、なぜなのか?

 

 私は、北朝の場合の《間接統制》は、北朝が遊牧民(北魏なら鮮卑族)と漢族の複合民族国家であり、遊牧民社会と農耕民社会の「二重統治」体制であったことが関わっていると想像します。仏教は西域から伝来したとはいっても、アルタイ系遊牧民には無縁な宗教です。仏教界は漢訳経典を読める漢族が構成していたでしょう。遊牧民と漢族の力のバランスをとり、とくに遊牧民の抵抗を抑えて「漢人化政策」を進める必要があった北朝諸王朝は、遊牧民勢力を牽制するために仏教界の力を利用したのではないかと思います。仏教界の自治を尊重することによって、漢族住民を懐柔し、その一方で、仏教の教化力によって、反抗しがちな遊牧民を手なづけようとしたのではないか?

 

 すこし先走った話になりますが、朝鮮半島諸国や日本の朝廷が仏教界の自治を尊重する《間接統制》を採用したのも、中国・北朝に倣ったのではないかと思います。これらの諸国では、貴族勢力はまだ成熟する段階には達していませんでした。したがって、南朝とは事情が違っていた。むしろ、「世界宗教」としての仏教がもつ・諸氏族・諸部族を統合する性質が着目されたと思うのです。日本の朝廷についていえば、仏教界を尊重することによって渡来人勢力を懐柔し、仏教の教化によって純倭人勢力を文明化し柔和にさせることに、《間接統制》の意味があったと考えます。

 

 ところで、中国における仏教の《間接統制》は、による統一、王朝への交代と集権強化の過程で、しだいに《直接統制》の体制に転換していきます。の仏教統制機関「崇玄署」は、北斉の「典寺曹」と同じく国家機関に直属しており、その長は俗官でした。しかし長の下には「大統」「統」などの僧官がおかれていました。

 

 

『このように仏教界の出身者たる僧官が俗官の管理下におかれたことは、俗権による教界の支配の強化を示すものであり、しかも煬帝のころからは、大統・統の名も絶えてしまうという

 

 制を踏襲したが、〔…〕僧官のおかれた形跡はない。即ち仏教は国家の俗権の強力な統制下におかれたのである。』

井上光貞『日本古代の国家と仏教』,2001,岩波書店,p.35.  

 

 

 唐では、建国当初の 619年に教界の有力者を「十大徳」という僧官に任命して《間接統制》を試みるのですが、貞観年間(621年以降)に途絶えています。《間接統制》は一時的な試みにすぎず、まもなく《直接統制》一本になってしまうわけです。

 

 他方、中国の地方(州・郡・県)支配における仏教統制はどうだったかというと、北朝でも南朝でも、各地方に僧官の自治的な《間接統制》機関がおかれ、これが中央の《間接統制》機関に統属していました。

 

 隋・唐になると、地方でも《直接統制》化が進み、《間接統制》機関は全廃され、州・県そのものが地方の寺院・僧侶を監督しています。ただ、高僧伝の類を見ると、北朝系・南朝系の地方僧官の職名がしばしば見出されるので、地方によっては南北朝時代の遺制が初までは残っていたと見ることができます。

 

 

『以上、〔…〕南北朝時代にはかなりゆるやかであった仏教統制が、隋・になるときびしくなり、中央でも地方でも、僧官が衰退する代わりに、俗権による統制がいきわたっていくありさまをみることができる。』

井上光貞『日本古代の国家と仏教』,2001,岩波書店,p.36.  

 

 

華 厳 寺 (ファオムサ)  覚 皇 殿  韓国全羅南道求礼郡馬山面

大韓民国の最高峰智異山の麓にある。新羅・真興王代 544年の創建。

のち「華厳十刹」の一として興隆、『華厳経』を刻んだ青石の壁を

擁する「丈六殿」があったが、「壬辰倭乱」(秀吉の侵略)で焼失。

1702年故地に覚皇殿として再建された。〔韓国語版wiki による。

日本語版wiki, コトバンク等は誤記載多し。注意〕

 


 

【32】 朝鮮、日本の仏教統制――「律令体制」どこまで倣うか?

 

 

 さて、朝鮮半島に移りますと、高句麗百済に関しては、残念ながら史料がなくてわかりません。両国とも、国家の事業としてしばしば倭国に僧や寺院建築の博士・工匠を派遣して支援していますから、国家の仏教統制がなかったとは思えないのですが、憶測以上のことは言えないのです。ただ、『三国史記』のような国家の史書はあるのに、寺院統制にふれる記事がないということは、きびしい統制は無かっただろう、統制があっても《間接統制》だっただろう、とだけ言っておきましょう。

 

 新羅については、さいわいに『三国史記』と『三国遺事』に関係記事があります。それらによると、新羅の仏教統制は、北朝の北斉に倣った《間接統制》であったようです。

 

 551年に真興王〔在位 540-576〕が「国統」「大都維那」を置いたとあります。これらは名称からいって、北魏・北斉の寺院監督機関「昭玄寺」に属する僧官に対応しています。7~10世紀の金石文には、「昭玄精曹」「大統」「昭玄僧」といった職名がしばしば現れ、これらも「昭玄寺」の僧官や下部機関と思われます。したがって、新羅の寺院統制は、僧官を通じた《間接統制》だったといえます。

 

 また、北斉では、僧官による《間接統制》機関である「昭玄寺」と並んで、俗官の「典寺曹」が寺院財産の管理を担当していましたが、新羅でも、真平王〔579-632〕には同様の機関「寺典」がありました。地方に関しても、新羅は北朝と同様に「州統」「郡統」などの僧官を置いています。

 

 しかし、新羅は、隋・唐の時代になっても、中国に倣って《直接統制》に切り換えた形跡がありません。もともと朝鮮諸国は、複合民族王朝である北朝と同様に、さまざまな出自の氏族・部族〔北から南へ、「靺鞨」「濊」「沃沮」「三韓」「倭」「州胡」〕をかかえていました。それらを統合する原理として仏教を重用し、したがって仏教界の自治を尊重したものと思われます。そして7世紀後半には、新羅が三国を統一したことによって、この “統合の必要性” は、ますます高まったと思われます。その後、時代が下るほど貴族社会は成熟し、その勢力は王権を凌ぐようになりますから、けっきょく、新羅では終始一貫して仏教統制は《間接統制》によることとなったのです。

 

 倭国ではどうでしょうか? 6世紀の「仏教公伝」から 70-90年ほどは、寺院や僧尼を統制するということが、史料にまったく上がってきません。当時は、朝廷が仏教を許容してみたり禁止してみたり、物部氏など反仏教派は、尼を捕えて市場で素っ裸にして見せ物にする。蘇我馬子は僧尼を匿って保護するのに大わらわ、という時代ですから、僧尼を統制するどころではなかったでしょう。

 

 反面、当時は僧尼にとっては、公の監督もなく、のびのびと修業することのできた稀な時代だったといえます。

 

 倭国の朝廷がはじめて統制機関を置いたのは、推古天皇 32年(624年)のことでした。ひとりの僧が斧で自分の祖父を殴り殺す事件があったことから、推古女帝は、当時 46寺、1385名に達していた僧尼全員を取り調べて罪に問えと詔(みことのり)したのです。まだ法律さえ無い、裁判といえばクガタチだけ、という当時の司法を考えれば、多くの僧尼が、無い罪を着せられて刑死するのは必至でした。もしもこの詔が実施されていたら、倭国の仏教界は壊滅状態、蘇我・物部戦争〔587年〕以前の状態に戻っていたことでしょう。

 

 「仏教興隆の詔」〔594年〕で仏教導入の時代をもたらした推古女帝が、たった一度の殺人事件に恐れをなして、すべてをひっくり返す・この変貌ぶり(聖徳太子はすでに亡くなっていました)。体制のできていない独裁国家というものの恐ろしさを見せつけます。

 

 しかし、倭国にとって幸いだったのは、百済で国家の仏教統制に関わっていたと思われる僧・観勒〔605年来倭〕が、当時たまたま、天文地理・遁甲方術を教授するために宮中に在留していたことでした。観勒の助言により、女帝は一転して、くだんの祖父殺の犯人以外は罪に問わないこととします。そのかわりに、倭国はじめての僧尼統制機関を設けるのです。

 

 

『壬戌〔624年4月17日〕に、観勒僧を以て僧正(そうじょう)とす。鞍部徳積(くらつくり・の・とくしゃく)を以て僧都(そうづ)とす。即日に、阿曇連(あづみ・の・むらじ)(闕名)を以て法頭とす。

 

 秋九月の丙子〔9月3日〕に、寺及び僧尼を校(かむが)へて、具(つぶさ)に其の寺の造れる縁(ことのよし)、亦僧尼の入道ふ縁、及び度〔得度,出家〕せる年月日を録す。

家永三郎・他校注『日本書紀(四)』,1995,岩波文庫,p.144;推古天皇32年4月条.( )は原文の小字。 

 

 

 「統制」とは何をするのか? 古代における統制とは、何よりもまず名簿(戸籍)を作ることから始めなくてはなりません。所有権も法律も無い。道路も地図も無い。人びとの住処(すみか)は流動的で、どこに誰がいるのかもわからない。そんな状況では、人民を統制しようにも、名簿で人びとを把握したうえでなければ不可能です。寺院や僧尼の統制についても、けっきょくは同じことです。だから、まずは寺院の一覧表と僧尼の名簿を作り、諸事項を記録したのです。

 

 「鞍部徳積」の「鞍部(鞍作)(くらつくり)」氏は、渡来人集団「漢人(あやひと)〔中国系を自称する朝鮮半島出身者〕」の一部で、技術系の氏族と思われます。(7)【21】で、蘇我・物部戦争の年〔587年〕に、蘇我馬子の下で民間仏教者を集めようと動いていた「鞍部村主司馬達等(くらつくりの・すぐり・しめだちと)」は、6世紀に移住してきた技術者で、倭国で最初に得度した僧(尼)「善信女」はその娘、飛鳥寺の釈迦如来像、法隆寺の釈迦三尊像などを製作した「鞍作鳥(くらつくりの・とり)」は孫です。「司馬」は朝鮮半島では珍しい二字姓で、家系のもとは中国であったかもしれません〔『史記』を書いた司馬遷など〕。「徳積」の「とくしゃく」という音読みも、渡来系を強く印象づけます。仏教を尊崇する在家信徒とみてよいでしょう。

 

 『日本霊異記』は、「徳積」のほかに「大伴屋栖古(むらじ)」が僧都に任命されたとしています。大伴氏は倭人(天神 あま・つ・かみ 系)氏族。

 

 「阿曇(あづみ)」氏は、上記岩波文庫 p.189 の註によると、海部(あまべ)を監督する伴造(とものみゃっこ)の家柄。海人(あま)は、倭国と朝鮮半島のあいだの舟運・交易を担っていましたから、朝廷とも渡来人とも関わりが深かったと言えます。

 

 

沖ノ島 出土 金製指輪銅釧(どう・くしろ)  福岡県宗像市「海の道むなかた館

宗像市とその沖合にある「沖ノ島」は、弥生時代から古代にかけて

日韓海上交通・交易を担った「海人族」の根拠地だった。指輪は新羅製品、

銅釧は伽耶製品で、いずれも舶載品。「くしろ」は腕輪。

 

 

 このように、624年におかれた倭国最初の僧尼監督機関は:――長(僧正)は僧官ですが、副以下は俗人、ただし、在家信徒など、仏教に理解のある人が当てられています。

 

 その後、遣隋使船・遣唐使船で中国に留学した多数の留学生・留学僧が帰還して、隋・唐の統制制度を伝えたはずですが、倭国の仏教統制は、最終的に《間接統制》制度として、大宝律令〔701年〕において確立しています。隋・唐は《直接統制》に推転していたにもかかわらず、日本はそれには倣わず、朝鮮諸国の《間接統制》制度を継受したのです。

 

 ほかの諸制度は、中国から直接取り入れているのに、《仏教統制》だけは、朝鮮諸国なかんずく新羅の制度を継受しているのは、なぜなのでしょう? かんたんに結論を出せない問題だと思いますが、私はやはり、国際関係よりも(国際関係では新羅とは相剋をはらんでいた)、倭国朝廷自身の内政上の必要性からそうなったと考えます。

 

 つまり、諸氏族・部族の統合による支配の安定化、仏教による教化・文明化による反抗の抑制、とりわけ渡来系氏族に対する懐柔と、その支持・協力の獲得が目的であったと思うのです。結果として、仏教界の自治を尊重して、自律的な集団として育成してゆく《間接統制》の方針が、固まっていったのだと思います。

 

 「大化」クーデター後の詔〔645年〕を見ると、推古朝に設置された「僧正」「僧都」はなぜか見えず、新たに「十師」というものが置かれています。これは、唐朝に一時的にあった《間接統制》機関「十大徳」にならった役職で、「教界の最有力者を起用して僧尼の監督に当らせた。」遣隋使で留学した僧旻(そうみん)――当時、倭国・僧界の最長老格――らが任命されています(井上,p.38)。同時に、来目臣(くるめのおみ)ら3名を「法頭」に任命して、「巡行して諸寺の僧尼・奴婢・田畝を調査・報告」させています。こちらは、俗官による寺院財産管理で、北斉の「典寺曹」、新羅の「寺典」にあたるものです。

 

 しかし、これらは一時的な制度だったようで、「壬申の乱」後には見られなくなり、天武天皇2年〔673年〕と同12年〔683年〕の記事は「僧正・僧都」制の拡充を述べています。「僧都」を「大僧都」「少僧都」に分けて佐官を 2名付け、新たに「律師」を設け、‥ここに、「僧正・僧都・律師」という「大宝律令〔701年〕」の「僧綱」制が成立しています。

 

 井上氏は、「大化」期には廃止されていた「僧正・僧都」制が天武期に復活したとしていますが、廃止されたと見る必要はなく、「十師」は、一時的に「僧正・僧都」と重ねて置かれたのではないかと思います。いまだ制度が固まっていない試行錯誤の時期にはありうることです。

 

 天武期に新たに設けられた「律師」は、僧尼だけを対象とする僧籍の裁判官で(俗人をも裁く西洋の宗教裁判とは違います)、仏教界の強固な自治の確立を示すものです。これは、北朝・北斉の「断寺沙門」に倣ったもので、新羅の制度を通じて継受した可能性があります。

 

 (「大化クーデター」以後の政権、とりわけ天智朝は親・百済・高句麗系、天武・持統政権は親・新羅系、と言う人がいますが、…たしかにいろいろなところで、そういう特徴が眼につきますね。)

 

 こうして、日本の律令制では、寺院・僧尼を統制する方式として《間接統制》が確立し、古代を通じて存続しました。律令制の弛緩・崩壊も、この面においては、寺院勢力の強大化によってかえって《間接統制》を強める方向に働いています。こちらで見た・中世における寺院衆徒の権利主張と抵抗の強さも、その延長線上の現象として理解できるでしょう。

 

 このような流れ――東アジアの中では特異な、非律令的・分権的な日本社会の性格形成――において、いわば分水嶺となったのが「長屋王の変」であったと、私は考えています。長屋王政権は、より強力で集権的な「律令制」を確立するために、《間接統制》機構の生ぬるさを越えて、俗人官吏による直接の厳しい僧尼取締りを行なおうとして敗北しました。もし長屋王政権に対する「変」=クーデターが失敗し、長屋王政権がクーデター勢力を鎮圧して存続したとすれば、中央集権化の進展とともに、仏教界に対する《間接統制》も唐朝に倣った《直接統制》に変えられていったでしょう。

 

 こちらで書いたように、クーデター「長屋王の変」の仕掛け手については、①聖武天皇、②藤原氏、③寺院勢力、という3つの見解がありえます。①の見解が重要であることを述べましたが、しかし、↑以上のような大きな流れを見るならば、クーデターを引き起こした①天皇の背後で、それを強力に支持したのは、③寺院勢力ではなかったかと思うのです。


 

藤 原 宮 址   朝堂院南門址から大極殿址を望む。背景は耳成山

かつてはミニチュアの都のように思われていた「藤原京」だが、

調査と史料研究の結果、この宮城を囲んで、「平城京」よりも

一回り大きい「藤原京」都邑が営まれていたことが判明している。

そこに、本薬師寺も、新・旧の大官大寺も含まれていた。

 

 

 

【33】 奈良朝・律令国家の仏教統制制度

 

 

 さて、このようにして確立した「大宝律令」(改正版である「養老律令」もほぼ同じ)の仏教統制――《間接統制》制度をかんたんに説明しておくと、つぎのようになります。

 

 天皇の下での国政の最高機関である「太政官」(いわば首相と総理補佐官)の下に「中務省・式部省・民部省・治部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省」の八省があり、「治部省」に所属する「玄蕃寮」に、「僧綱」と呼ばれる「僧正」「僧都」「律師」が、この序列で下属していました。

 

 「玄蕃寮」は、①「仏寺・僧尼の名籍」を管理し「供斎(いわいごと)」を司るとともに、②外国や蛮族の使節の接見・饗応・送迎などを行なう役所です。この2つがいっしょになっているのは、中国北朝・唐の役所「鴻臚寺(こうろじ)」に倣ったもの。

 

 

『換言すれば、唐では国家権力が直接教界を統制する形態にまで進んでいたが、日本は国家権力が、教界の代表者を通じて統制する形態を学んだといえるであろう。ここには、仏教界の自立性が相対的により高かったことが示されている。』

井上光貞『日本古代の国家と仏教』,2001,岩波書店,p.39.  



 この点で、日本の場合の、仏教界の自立性をより強く示すのは、「僧綱」すなわち「僧正」「僧都」「律師」が、僧界の選挙で選ばれていたことです。「僧尼令」は、「僧綱」に選ばれるべき僧の資質を述べたあと、任命に先立って、「挙せむところの徒衆、みな連署して官に牒す」べしと規定しています。つまり、僧界で選挙を行なって、その結果を玄蕃寮に上申し、太政官はこれにもとづいて「僧綱」3職を任命していたと考えられます。

 

 さらに、平安初期の「延喜式」では、「選挙」の制度はより拡充されていて、「三綱(さんごう)」(各寺院の僧職である上座・寺主・都維那)も、寺の大衆の選挙によって選んだ結果を上申し、「僧綱」と同様の手続で任命することとされました。

 

 ちなみに、の律令でも、各寺院に「三綱」を置くことを義務づけていましたが、選挙の制度はなく、すべて勅補(皇帝が下命)でした。もちろん、官庁の仏教統制機関はすべて、勅補による俗人官吏です。


 ただ、日本の場合の僧官を選ぶ選挙は、たしかに民主的な面はあるものの、近代的な自由な選挙とは異なるもので、日本中世の「一味神水」投票による多数決決定(⇒こちらの【20】参照)のような平等原理にも達していなかったと、私は考えています。というのは、「僧尼令」には、上申された選挙結果が、「無徳の者」を「僧綱」に推していた場合の処罰規定があるのです(井上, p.48)。つまり、玄蕃寮なり太政官は、選出された者が不適当だと見なした場合には、任命を拒否するだけでなく、投票者を処罰したのです。

 

 

 

 

 さて、日本の律令制下では、僧尼が、①得度を行なう場合、②寺院外で托鉢や病人の治療を行なう場合、③寺院外に山居する場合などには、官に上申して許可を受けなければならないとされていました。これらの行為は原則禁止であり、許可なく行えば、還俗のうえ、流刑に至る重罰(私得度僧なら死罪)を科せられます。律令制下では、加持祈祷、山林修行はもちろん、托鉢さえ自由に行なえなかったのです。

 

 そして、許可申請の手続きは極めて煩瑣なものでした。僧尼は、まず自分の寺に申請して「三綱」の連署をもらわなければなりません。「三綱」から「僧綱」に申請し、「僧綱」が認めれば「太政官」に申請します。「太政官」は、関係の「省」に下ろして検討させ、結果を見て許可か不許可か決定し、許可ならば、また→「僧綱」→「三綱」と伝えられます。これでは、瀕死の病人の治療・祈祷などは、とても間に合いません。

 

 しかし、これ↑は、在京の寺院の場合です。地方については、「大宝律令」は、僧尼→寺の「三綱」→郡司→国司という手続を規定していました。これだけだと、俗官である国・郡による《直接統制》のように見えます。しかし、施行の翌年〔702年〕、朝廷は「国師」と呼ぶ僧官を各國に置くことを定めています。

 

 そこで、「国師」と国・郡とは、どういう関係にあったのかが問題となります。以前に(6)【17】で見たように、8世紀後半に最澄が得度したさいには、申請は、近江「国司」→「太政官」へ、許可の伝達は「太政官」→近江「国司」→近江「国師所」へとなされています(吉田靖雄『行基と律令国家』,p.27)。申請がいきなり国司から始まっているのは、最澄の得度を行なった師僧・行表が近江國の「大国師」だったためでしょう。通常の場合には、上申の手続は、僧→寺の「三綱」→「国師」→「国司」となったはずです。

 

 したがって、遅くとも最澄得度の 780年までには、地方でも在京の寺と同じく、《間接統制》の体制になっていたと見ることができます。つまり、井上光貞氏によれば、新羅の場合の地方寺院統制と同様になったと言えます。

 

 以上述べた日本の「律令国家」による仏教統制機構を図示すると、上のようになります。

 

 

 

 

 

 

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