平城京左京3条2坊 長屋王邸跡
聖武天皇治世の初期に朝廷のトップの座にあった「長屋王」邸の遺構が、
量販店「M!NARA」の建設予定敷地で発見され、発掘・調査されたが、
同店建築のため、すべて破壊された。出土した 11万点におよぶ
大量の木簡は、「奈良文化財研究所」が保管・研究している。
手前は、「左京3条2坊宮跡」復元庭園:
「長屋王邸」の南隣にあった高位官人ないし皇族の邸。
以下、年代は西暦、月は旧暦表示。
《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。
- 714年 首皇子を皇太子に立てる。
- 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
- 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧)。藤原房前を参議に任ず。
- 718年 「養老律令」の編纂開始?
- 721年 元明太上天皇没。
- 723年 「三世一身の法」。
- 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位。長屋王を左大臣に任ず。
- 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。
- 728年 『金光明最勝王経』を書写させ、諸国に頒下。
- 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原光明子を皇后に立てる。
- 730年 行基、平城京の東の丘で1万人を集め、妖言で人々を惑わしていると糾弾される。朝廷は禁圧を強化。
【13】 即位、幼太子の死去、そしてクーデター
724年、聖武天皇が即位。祖母元明の甥にあたる皇族長屋王を左大臣に起用し、長屋王を首班とする太政官体制を発足させたものの、聖武と長屋王のあいだには、聖武の生母藤原宮子の呼称といった、なんとも些末な諸問題をめぐって応酬が絶えません。
727年には、聖武夫人藤原光明子が男児を出産し、喜んだ聖武はただちに皇太子に立てるのですが、皇太子は翌年、享年わずか 12か月で没。乳児の立太子も異例でしたが、その太子が1年で死没したのも古今に例のないことでした。
失意の聖武は、「護国三部経」の一『金(こん)光明最勝王経』640巻を書写させて諸国に頒下〔同経は全10巻。コピー64部を作製頒布か。令制國は728年時点で67, 717年時点で64――ギトン註〕。それが 728年12月のことでした。
『頒布の目的は、「国家をして平安ならしめむが為なり」とある。
この場合の国家とは聖武自身のことと考えていいだろう。〔…〕聖武の身を見舞った不幸、皇太子に襲いかかった死という悲劇をもたらした邪気を金光明経のもつ呪力によって除去・調伏(ちょうぶく)しようとしたのである。』
遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,p.86.
ところが、それから3か月たった 729年2月、幼い皇太子の死は、あの長屋王が呪いをかけていたせいだ、と密告する者が現れたのです。
『『続日本紀』にはつぎのように見える。
「左京の人で従7位下の漆部(ぬりべ)造(みゃっこ)君足、無位の中臣(なかとみ)宮処連(みゃっこのむらじ)東人らが密告して言うには、〔左大臣〔…〕長屋王が、ひそかに左道を習得し国家を傾けようとしています〕とのことであった。その夜、使いを遣わして三関〔愛発(あらち 敦賀付近)、不破(関ヶ原)、鈴鹿の関――ギトン註〕を固守させた。〔…〕藤原朝臣宇合(うまかい)、〔…〕佐味朝臣虫麻呂〔…〕らを遣わし、六衛の兵を率いて長屋王の邸宅を包囲させた。」
「左道」とは、邪(よこしま)な方法〔…〕、国家が公認しない思想や宗教にもとづく何らかの修儀を指す。〔…〕
漆部君足と、無位の中臣宮処東人とは、長屋王が前年の 5月15日、〔…〕両親の追善供養や聖武天皇の延命などのために発願し〔…〕た大般若経 600巻の写経事業を指して、それが天皇あるいはその近親者の呪詛を目的としたものであったと告げたのである。写経の跋文に〔…〕当時異端視されていた道教思想の影響が色濃く見られ、君足や東人が「左道」と称したのはこの点であったと考えられる。長屋王の写経事業が、皇太子の死去からちょうど 10日後に終了したというのも、皮肉なめぐり合わせであった。』
遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,pp.86-87.
緑釉の軒瓦(平城京東院出土)。 東院〔皇太子の住居〕や内裏〔天皇の住居〕
の宮殿は、色とりどりの奈良三彩〔顔料で彩色し、うわぐすりを
かけて焼いた陶器〕や緑釉(りょくゆう)の瓦で葺かれていた。
『大般若経』:「般若経」とは、紀元0年~150年ころインドで成立した最初期の大乗仏教経典群の総称。これを、玄奘が西域方面で収集し、中国に持ち帰って集大成・漢訳したものが『大般若(波羅蜜多)経』で、現存する漢訳「般若経」群の 3/4 を占めている。日本には遣唐使によってもたらされた。
737年、大安寺・三論宗の律師・道慈が、『大般若経』の「転読」を諸国の年中行事に加えることを朝廷に進言し、允許されたことから、『大般若経』は日本各地に普及し、のちには神道祭祀にも取り入れられました。
(なお、『般若心経』という短いお経があって、現在の日本では、ありがたがって読経する人が多いのですが〔まさに末世〕、これは『大般若経』には含まれていません。中国で誰かが捏造した偽経〔ウソのお経〕である、との説が有力です。)
「転読」とは、じっさいに経を読むかわりに、各見出しだけ読んで、経文をバラバラッとめくって読経したことにする行事。『大般若経』は 600巻という膨大なものなので、日本ではこういう便法が行なわれたのでしょう。しかし、読まずに経巻をバラバラめくり降ろすだけで効果があると信じること自体、経典に書かれた教えとは無関係な呪術的信仰と言わざるをえません。
日本では、『大般若経』には、こうした呪術(まじない)的観念が付きまとっているのですが、後世には国家公認のもとで「転読」が盛行したことを見ても、『大般若経』の写経が「左道」――よこしまな呪術だなどとは、この当時にも言えることではなかったでしょう。たんに、朝廷が正式に公認する 10年ほど前だった、というにすぎません。
けっきょく、漆部らの密告は、長屋王の写経事業がたまたま幼皇太子死去の直後に完了したことにかこつけた誣告〔ぶこく。ウソの告発〕と言わざるをえません。にもかかわらず、聖武の朝廷が、ただちにこの密告に反応して警備を厳重にし、長屋王邸を武装包囲して長屋王一族を監禁したことは、この事件が、「従7位下」および無位の下級官人に「やらせ」で密告させた・謀反のでっちあげ、長屋王を失脚させるための陰謀劇であったことを、強く疑わせるものです。
なお、『続日本紀』は、事件の9年後 738年の記事では、密告者のひとり「中臣宮処東人」を、「東人は長屋王の事を誣告せし人なり」と記しています(天平十年七月10日条)。密告はウソだった、でっち上げだった、と『続日本紀』の編者も認めているのです。
朝廷は、舎人親王、新田部親王、藤原武智麻呂、ほか3名の高官を長屋王邸に派遣して、「その罪を窮問せしむ。」――『続日本紀』の記述は、さいしょから長屋王を有罪と決めつけて、詰問したとなっています。
『2月12日〔尋問の翌日――ギトン註〕、長屋王を自刹させた。その妻〔…〕吉備内親王、息子〔…〕膳夫王・〔…〕桑田王・葛木王・鈎取王らも長屋王と同じく自ら首をくくって死んだ。そこで、邸内に残る人々を皆捕えて、左右の衛士府や兵衛府などに監禁した。』
宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.297.
「長屋王を自刹させた」の部分を原文で見ると、「令王自尽(王をして自ら尽(し)なしむ)」となっています。つまり、自刹を命じた、…本来なら打ち首にするところだが、自分で死なしてやる、ということです。
不可解なのは、そのあとの記述です。長屋王といっしょに妻子全員が一斉に首をくくって死んだ。‥‥一家心中としても、こんなやり方が可能だとは思われません。あまりにも、話が出来すぎています。
長屋王は太政官のトップですから、今で言えば内閣総理大臣です。天皇が首相に「死ね」と命令したら、首相は首をくくって死んだ。そのついでに、一家おのおの自分で首をくくって全員死んだ。めでたし、めでたし!‥‥こんなばかな話があるでしょうか ?!
たとえば、7世紀に聖徳太子の息子・山背大兄(やましろ・の・おおえ)王の場合も、『日本書紀』は、斑鳩寺(法隆寺の前身)で、蘇我配下の軍勢に囲まれながら、王族・キサキらが、もろともに縊首自害したとするが、他方、『聖徳太子伝補闕記』によれば、蘇我氏による計画のもと、山背大兄王以下 23人が殺害されたのだという(吉川真司『飛鳥の都』,2011,岩波新書,p.55)。長屋王一族の場合も、民間の説話集『日本霊異記』が伝えるところでは、長屋王は、子・孫に毒薬を飲ませたうえで絞殺し、自らも服毒自刹した、となっており、こちらのほうが、まだ有りうる気がします。縊死は、血を流さない高貴な死に方と考えられていたことから、『日本書紀』や『続日本紀』は、高貴な身分の人の最期を当り障りなく描くために、事実を変えて縊死にしたとも考えられるのです。
長屋王一家の最期について、『日本霊異記』は、民間に流布した「うわさ」の採録でしょうし、『続日本紀』のほうは、直接長屋王邸で確認した者の報告がもとになっているでしょう。したがって、『続日本紀』のほうが事実に近いはずなのに、じっさいの内容は、『日本霊異記』のリアルさに比べ、『続日本紀』の記述には現実性が欠けている。これは、いったいなぜなのでしょうか?
そうやって考えてみると、‥‥結局のところ、「一斉縊首」は事実ではない、事実は、朝廷が派遣した兵士か刺客による殺害にちがいない‥そういう疑いがわくのです。
鴟 尾 平城宮第一次大極殿
さて、この事件が特異なのは、その経過だけではありません。長屋王の死後に朝廷が行なった “あと始末” も、たいへんに異例です。
まず、事件から 3日後の 2月15日、つぎの「詔」が発せられます:
『〔…〕長屋王は、心がねじれた邪悪な人であったが、道を誤って悪性を露わし、悪事を極め尽くした果てに、いきなり法の網にかかってしまった。悪事の仲間を刈り取り、凶悪な賊を除去しよう。国司は、人が集まって企みごとをするのを見逃してはならぬ。』
宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.298〔一部改〕.
長屋王に対するこれまでの厚遇とは一転して、最初から邪悪な人間だったと決めつけています。「国司は‥」以下の原文は、「宜国司莫令有衆(宜しく国司は衆あらしむることなかるべし)」。「衆」は、3人以上が集まること。人が集まって相談することを警戒せよ、禁止せよ、というのは、昔も今も、人民を抑圧する専制支配の要諦です。この機会に、一般人民に対する締め付けを強化する意図がうかがわれます。
ところが、その一方で、事件自体の処罰は、きわめて緩いものでした。自害したとされる一族6名以外は、全員放免。左右衛士(えじ)府などに拘禁されていた長屋王家の家人らも釈放されます。また、通常なら犯人の親族に適用される「縁坐法」も、兄弟姉妹子孫等に適用しないと「勅(みことのり)」します。
17日には、「上毛野(かみつけぬ)宿奈麻呂(すくなまろ)ら7名」が、「長屋王と交(まじは)り通ふに坐(つみ)せられて」流刑に処せられていますが、死罪は出ていません。その他 90人は、ことごとく放免。
それにしても、肝心の「犯罪行為」であったはずの「大般若経・写経」に加わった者の罪が問われた形跡はない。それとは関係なく、交友関係のあった仲間7名だけが追放されているのです。長屋王とその一党を都から遠ざけること。そこにだけ意図を集中させた、政治的な策略のように思われます。
18日には、百官に「大祓(おおはらい)」を行なわせ、21日には、平城京内に “大赦” を行なって、死罪以下の罪人を全員赦免。「あわせて、長屋王の事件のため動員された人民の雑徭〔ぞうよう。 力役、年間60日以内〕を免除した。」――左右衛士府・近衛府の兵士だけでなく、一般の「百姓」まで動員したとすると、長屋王邸の包囲と攻防は、よほどの規模のものだったと思われます。数日以上の日数を要し、戦闘もあったかもしれません。『続日本紀』の記述は、相当に粉飾されていると考えなければならないでしょう。
以上のように、「変」後の措置が、異例なほど寛容なことは、長屋王の「犯罪」が不存在であったと疑わせますし、このような冤罪による陰謀を粉飾するために、宣言と口上は大げさに、しかし人びとの反発・怨恨を招くような処罰は、可能なかぎり控えようとする意図がうかがわれるのです。
4月3日には、一連の騒動の「しめくくり」のように、つぎの「詔」が発せられています:
『内外の文官・武官と全国の人民のうち、異端のことを学び、幻術を身につけ、種々のまじない・呪いによって、物の命を損ない傷つける者があれば、主犯は斬刑に、従犯は流刑に処する。
もし山林に隠れ住み、偽って仏法を修行すると言い、自ら教習して業を教え伝え、呪符を書いて封印し、薬を調合して毒をつくり、さまざまの怪しげなことをして、勅命の禁止に違反する者も、同罪である。
その妖術・妖言の書物については、この勅が出てから 50日以内に自首せよ。もし期限内に自首せず、後になって告発された場合は、主犯・従犯を問わずすべて流罪にするであろう。その告発した人には絹 30疋を賞として与えるであろう。その絹は罪人とされた家から徴発する。』
宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, pp.300-301.〔一部改〕
あたかも、長屋王の罪責が「左道」による呪詛であったことを思い出させて、朝廷の事件処理を改めて正当化するかのようです。
しかし、この「詔」には、民間の「まじない」信仰や、「山林」の修行僧・修行者に対する取締りの問題が含まれています。これは奈良朝を通じての大きな問題の一端でありますから、後日あらためて、この「詔」は検討の対象とすることになります。
平城宮宮内省(復元)
【14】 政変の仕掛け人――藤原氏の陰謀か?
前節に述べたように、「長屋王の変」は、ありもしない謀反をでっちあげて政敵を亡きものにしようとするクーデターであり、長屋王はその犠牲となった疑いが濃いのです。
それでは、いったい誰が、このような冤罪、そしてクーデターを仕掛けたのでしょうか? 大きく、3つの説を考えてみることができると思います。
《A説》 聖武天皇が仕掛けた。
最高執権者であり、法に反した行ないであっても臣下に容易に命じえた天皇自身のイニシアチヴを、まず疑ってみるべきだと私は考えます。
ただ、現在この説をとる論者は見当たらないようです。その理由は、ひとつには、聖武天皇は、それほど果断な性格ではなかったと見られているからでしょう。聖武は、「優柔不断で意志薄弱、その行動に一貫性が乏しく、皇后〔…〕藤原氏の傀儡であった」と言われることが多い(遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,p.14)。しかし、遠山氏によれば、そうした聖武像には大きな修正が必要であって、聖武は、過激な思想と独自の皇統構想を心中に秘めた帝王だった。
遠山氏は、「長屋王・冤罪説」を否定しているので、《A説》とは言えないのですが、氏の議論は、聖武には「仕掛け人」となるに十分な動機も意志もあった――ことを考えさせる点で重要です。
《B説》 藤原氏が仕掛け人だった。
ここで「仕掛け人」と考えられるのは、故・藤原不比等の4人の息子たち(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)です。wiki によると、この説が現在、多数説のようです。前節で見た「変」の経緯でも、六衛の兵を率いて長屋王邸を包囲した部隊のトップは式部卿の宇合であり、邸内に訊問に赴いた高官のなかに武智麻呂がいます。また、「変」後の 3月4日、麻呂は、ほかの功労者らとともに位階の昇進を授与されています(「変」にあたって何らかの働きをしたためと考えられる)。武智麻呂は中納言から大納言に昇進。しかし、より重要なのは、「変」後の 8月に藤原光明子が皇后に立てられていることで、これこそ、藤原氏が「変」を起こした重要動機だったとされます。
《B説》に対する批判としては、
『聖武の決断と許可がなければ、六衛(衛門府・左右衛士府・左右近衛府・中衛府)の兵が動くはずはない。』
遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,p.90.
したがって、「変」が起きるためには、少なくとも聖武天皇の共謀が必要だ、ということになります。この批判は決定的です。聖武天皇が藤原氏の「傀儡」でない限り、《B説》は結局《A説》に帰することになります。
《C説》 寺院勢力が仕掛けた。
ここで「寺院勢力」と仮に呼ぶのは、薬師寺、大安寺など平城京に所在する官寺の高僧集団で、彼らのなかには、律令政府のもとで僧尼の取締りにあたる僧綱(そうごう)(僧正,僧都,律師)がいました。律令政府は、「僧綱」を通じて、一般僧尼を統制し、管理していたのです。
しかし、官寺の外には、律令政府の統制にも、「僧綱」の監督にも必ずしも服さない膨大な数の「私度僧」〔国家の許可を受けずに僧尼となった者〕や民間の半僧半俗の仏教徒集団がいて、当時、その数は急速に増えつつあったと思われます。行基と行基の率いる集団もまた、これら民間仏徒の一部であり、しかもきわめて有力な勢力であったのです。
①律令国家、②律令国家の下で僧尼の統制を委ねられた「寺院勢力」、③民間の仏徒集団。――この3者のあいだには、複雑な三つ巴の力関係があったと考えられます。
ところで、聖武即位とともに発足した「長屋王政権」は、①律令国家の僧尼に対する統制政策に、大きな変化をもたらしました。元明・元正時代まで、律令政府は、②「僧綱」を通じて間接的に僧尼を統制していました。「僧綱」の主体性を重んじ、彼らの教団内での宗教指導者としての「清議」「禁喩」によって、おだやかに僧たちを教化して国法を守らせようとしたのです。
ところが、元正末年の 722年に提起された太政官の上奏と、これを裁可する天皇の「詔」は、従来の慣例を破って、「専当の官人」が直接、②と③のあいだに介入して、国法に従わない③民間僧尼を厳しく処罰し、取締りを怠っていた京司・国司・郡司・里長等の関係官司、上級の僧尼、主人をも処罰する体制を敷いたのです。この時点の太政官は、すでに大納言・長屋王を首班とする実質的な「長屋王政権」となっていました。(吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.154f)。
聖武治世初年には、「長屋王政権」の下で、この体制による世俗官人の直接統制が③の民間仏徒に対して厳しく及ぼされ、行基の率いる集団などは、そのために壊滅的打撃をこうむったのです(吉田靖雄,op.cit.,pp.160-161)。集落での托鉢を禁圧され、僧服を着て歩けば「公験」〔国が発行する僧尼の身分証〕の提示を求められ、所持していなければ逮捕され、鞭打ち刑のうえ本籍地に強制送還される。このような取締りが、行基集団のような民間教団を壊滅させることは明らかでしょう。
また、「長屋王政権」の厳しい統制は、上級の ②寺院勢力 に対しても向けられました。③のような違反者がはびこるのは、②寺院勢力が監督を怠っていたからだとして、指導すべき立場の僧尼を遠慮会釈なく処罰したので、長屋王に対する ②官寺僧伽集団の怒りも、相当のものだったと思われます。
信徒の集団を失った行基は、都市の手工業者や下級官人層に新たな布教対象を定めて、再起を図りますが、長屋王の厳しい統制の下では、教団の再興は容易ではなかったのです。
「長屋王の変」で、クーデター開始の狼煙ともいうべき密告をしたのが下級官人(しかも一人は無位!)だったことを思い出しましょう。「変」後には、長屋王邸包囲に参加した「百姓」たちが、褒賞として雑徭免除を受けていました。彼らは、たんなるフレームアップの道具ではなかったかもしれない。下級官人や都市下層民のあいだには、「長屋王政権」に対する不満が鬱積していて、彼らは自らの意志で積極的にクーデターに参加したのかもしれません。
行基の年譜を見ると、「長屋王の変」後に、配下の寺院の建立が急激に増加しているのがわかります。「長屋王政権」の倒壊を歓迎したのは、藤原氏だけではなかった。統制が解除されて自由に活動できるようになった宗教者、信者、都市民などの “中間層” 的な人びとが、新しい「藤原4兄弟」の政権を歓迎したのです。
しかし、《C説》については、ここでは十分に論ずることができません。そのためには、古代の倭国~日本における民衆仏教と国家仏教(護国仏教)、そして律令国家との関係を、行基の人物像を軸にして見ておく必要があるからです。その考察は、次回から開始します。
本日の最後の節は、《A説》にもどって、そこで問題になる聖武天皇と長屋王との性格の衝突・角逐について、やや突っ込んで見ておきたいと思います。
平城宮宮内省事務棟内部(復元) 平城宮におかれた役所の内部は土間で、
中国式に机と椅子を置いて仕事をした。
【15】 聖武と長屋王――相性の悪い仲
即位の当日、聖武天皇は、生母藤原宮子の処遇について、しきりと気にして語ったようなのです。宮子は、彼を出産して以来、精神に錯乱をきたして内裏の奥に蟄居させられていました。その母に、聖武は一度も会ったことがなかったのです。
即位日に母について聖武が語ったことの核心は、母を呼ぶ称号についてでした。律令には、天皇の母は、先帝のキサキであった時の位階にしたがって、皇后ならば「皇太后」、夫人ならば「皇太夫人」と呼ぶよう定められていました。宮子は文武天皇の夫人でしたから、「皇太夫人」と呼ばれるきまりだったのです。
ところが、聖武天皇は、天皇というのは絶対的な存在で、律令のきまりを自由に変えることができると考えていたのです。そして、即位した当日に、さっそく律令変更の専権をふるうことを思い立ったことになります。
わが母を「大夫人」と呼ぶように、と聖武は語り、2日後には正式の「勅(みことのり)」にして発布しました。
これは、のちのちの聖武の言動から見て、たんなる浅慮や安思いこみなどではなく、彼の信念ともいえる過激思想の一部だったと思われます。というのは、娘の孝謙天皇に対して(幼少時にでしょう)、「天皇というものは、何でもすることができる。人を奴隷にするも主人とするも自由自在なのだ。」と教えたというのです。
聖武はなぜ、「皇太夫人」でなく「大夫人」と呼ばせようとしたのか、彼の心中は分かりません。他人から見れば、「皇」の字をあえて抜いているように見えます。そして、宮子の血筋は皇族ではなく、臣下の藤原氏であることが思い出されます。聖武は、母を、皇族の血ではないからと、さげすみたいのだろうか? その母から生まれた自分は、天「皇」でよいのか ?!
呼称の背後に、聖武の心中の複雑な血統コンプレックスが見え隠れしています。
やがて、長屋王を筆頭とする太政官から、疑義の上奏が上がってきます:
『「謹んで今年 2月4日の勅を拝見いたしますと、藤原夫人を天下の人びとはみな大夫人と呼ぶようにとあります。しかし、それがしどもが謹んで公式令を調べてみますと、皇太夫人と称する規定になっております。先の勅号に依ろうとすれば、皇の字を失うことになります。公式令を用いれば、勅に反することを恐れます。どう定めればよいかわかりませんので、伏して御指図を仰ぐ次第であります。」』
遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,p.78.〔一部改〕
「大夫人」と呼んだら、「皇」を抜かしたと言ってお怒りに触れそうだ。かといって、律令のとおりに呼んだら、朕の勅に従えないのかと言われそうで恐い。みんな困っています。どうしたらいいか教えてくれ。。。
長屋王としては、部下を困惑させるわけにはいかない立場上、こう尋ねてみるほかなかったのかもしれません。あるいは、杓子定規の律令主義が出てしまったかもしれません。しかし、受け取った聖武には、どう映ったでしょうか? 「皇の字が抜けちゃいますけど、いいんですかい? 母上の卑しい血すじを、わざわざ天下に知らしめようとでもお考えで?」と、皮肉たっぷりにオチョクッているように思われたかもしれません。
『長屋王は天武天皇のむすこ高市(たけち)皇子を父に、天智天皇のむすめである御名部皇女を母にもち、天智・天武両方の血を引くことが天皇として望ましいという考えにしたがえば、聖武など遠くおよばないすぐれた血統の持ち主であった。しかも、前々天皇である元明天皇のむすめであり、前天皇元正の妹である吉備内親王を妻にしており、彼女とのあいだに多くのむすこたちをもうけていた。
要するに、聖武から見て長屋王とは、血統的な条件という点において、とうてい太刀打ちができない人物だったのである。聖武は自分がかつて皇太子の地位にあり、そして現に天皇として即位したとしても、長屋王とその一族を見るたびに、自分の血統的条件の悪さを痛感させられたに相違ない。』
遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,pp.80-81.
Franz von Stuck (1863-1928)
そこで、聖武天皇はどうしたかというと:
『「文書では皇太夫人、口頭では大御祖(おおみおや)とするように。先に下した勅は回収せよ。」』
遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,p.78.〔一部改〕
けっきょく聖武は、「勅(みことのり)」の撤回に追い込まれたことになります。天皇が太政官に突っこまれて「勅」を撤回した――あまり例のないことかもしれませんが、こうでもするほかはない。それでもなお、口頭では「おおみおや」と言え、とヤマトコトバ風の呼称を作って「大夫人」のおもかげを残した。負け惜しみかもしれません。とにかく、「天皇の意志は絶対的で、律令に拘束されない」という “過激信念” を押し通したことになります。
『聖武のなかには自分の血統的コンプレックスをいたずらに刺激した長屋王への不快感だけが確実に残った。
蛇に睨まれた蛙〔…〕、長屋王とその一族の運命は、この事件以後、聖武という妄執をもった蛇に捕えられた哀れな蛙のそれにほかならなかった。』
遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,p.89.
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