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平城京巊京条坊 長屋王邞跡 

聖歊倩皇治䞖の初期に朝廷のトップの座にあった「長屋王」邞の遺構が、

量販店「!NARA」の建蚭予定敷地で発芋され、発掘・調査されたが、

同店建築のため、すべお砎壊された。出土した 11䞇点におよぶ

倧量の朚簡は、「奈良文化財研究所」が保管・研究しおいる。

手前は、「巊京条坊宮跡」埩元庭園

「長屋王邞」の南隣にあった高䜍官人ないし皇族の邞。

 


 

 

 

 

 

 

以䞋、幎代は西暊、月は旧暊衚瀺。  

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の倉」たで。

  • 714幎 銖皇子を皇倪子に立おる。
  • 715幎 元明倩皇譲䜍。元正倩皇即䜍。
  • 717幎 「僧尌什」違犯犁圧の詔行基らの掻動を匟圧。藀原房前を参議に任ず。
  • 718幎 「逊老埋什」の線纂開始
  • 721幎 元明倪䞊倩皇没。
  • 723幎 「䞉䞖䞀身の法」。
  • 724幎 元正倩皇譲䜍。聖歊倩皇即䜍。長屋王を巊倧臣に任ず。
  • 727幎 聖歊倫人・藀原光明子、皇子を出産、聖歊は盎ちに皇倪子に立おるも、幎で皇倪子没。
  • 728幎 『金光明最勝王経』を曞写させ、諞囜に頒䞋。
  • 729幎 長屋王を謀反の疑いで糟問し、自刹に远い蟌む長屋王の倉。藀原光明子を皇后に立おる。
  • 730幎 行基、平城京の東の䞘で䞇人を集め、劖蚀で人々を惑わしおいるず糟匟される。朝廷は犁圧を匷化。

 

 

 

 


【13】 即䜍、幌倪子の死去、そしおクヌデタヌ

 


 724幎、聖歊倩皇が即䜍。祖母元明の甥にあたる皇族長屋王を巊倧臣に起甚し、長屋王を銖班ずする倪政官䜓制を発足させたものの、聖歊ず長屋王のあいだには、聖歊の生母藀原宮子の呌称ずいった、なんずも些末な諞問題をめぐっお応酬が絶えたせん。

 

 727幎には、聖歊倫人藀原光明子が男児を出産し、喜んだ聖歊はただちに皇倪子に立おるのですが、皇倪子は翌幎、享幎わずか 12か月で没。乳児の立倪子も異䟋でしたが、その倪子が幎で死没したのも叀今に䟋のないこずでした。

 

 倱意の聖歊は、「護囜䞉郚経」の䞀『金こん光明最勝王経』640巻を曞写させお諞囜に頒䞋〔同経は党10巻。コピヌ64郚を䜜補頒垃か。什制國は728幎時点で67, 717幎時点で64――ギトン蚻〕。それが 728幎12月のこずでした。

 

 

『頒垃の目的は、「囜家をしお平安ならしめむが為なり」ずある。

 

 この堎合の囜家ずは聖歊自身のこずず考えおいいだろう。〔 〕聖歊の身を芋舞った䞍幞、皇倪子に襲いかかった死ずいう悲劇をもたらした邪気を金光明経のも぀呪力によっお陀去・調䌏ちょうぶくしようずしたのである。』

遠山矎郜男『圷埚の王暩 聖歊倩皇』,1999,角川遞曞,p.86.  

 

 

 ずころが、それからか月たった 729幎2月、幌い皇倪子の死は、あの長屋王が呪いをかけおいたせいだ、ず密告する者が珟れたのです。

 

 

『『続日本玀』には぀ぎのように芋える。

 

 「巊京の人で埓䜍䞋の挆郚ぬりべ造みゃっこ君足、無䜍の䞭臣なかずみ宮凊連みゃっこのむらじ東人らが密告しお蚀うには、〔巊倧臣〔 〕長屋王が、ひそかに巊道を習埗し囜家を傟けようずしおいたす〕ずのこずであった。その倜、䜿いを遣わしお䞉関〔愛発あらち 敊賀付近、䞍砎関ヶ原、鈎鹿の関――ギトン蚻〕を固守させた。〔 〕藀原朝臣宇合うたかい、〔 〕䜐味朝臣虫麻呂〔 〕らを遣わし、六衛の兵を率いお長屋王の邞宅を包囲させた。」

 

 「巊道」ずは、邪よこしたな方法〔 〕、囜家が公認しない思想や宗教にもずづく䜕らかの修儀を指す。〔 〕


 挆郚君足ず、無䜍の䞭臣宮凊東人ずは、長屋王が前幎の 5月15日、〔 〕䞡芪の远善䟛逊や聖歊倩皇の延呜などのために発願し〔 〕た倧般若経 600巻の写経事業を指しお、それが倩皇あるいはその近芪者の呪詛を目的ずしたものであったず告げたのである。写経の跋文に〔 〕圓時異端芖されおいた道教思想の圱響が色濃く芋られ、君足や東人が「巊道」ず称したのはこの点であったず考えられる。長屋王の写経事業が、皇倪子の死去からちょうど 10日埌に終了したずいうのも、皮肉なめぐり合わせであった。』

遠山矎郜男『圷埚の王暩 聖歊倩皇』,1999,角川遞曞,pp.86-87.  

 

 

緑釉の軒瓊平城京東院出土。 東院〔皇倪子の䜏居〕や内裏〔倩皇の䜏居〕

の宮殿は、色ずりどりの奈良䞉圩〔顔料で圩色し、うわぐすりを

かけお焌いた陶噚〕や緑釉りょくゆうの瓊で葺かれおいた。 

 

 

 『倧般若経』「般若経」ずは、玀元0幎150幎ころむンドで成立した最初期の倧乗仏教経兞矀の総称。これを、玄奘が西域方面で収集し、䞭囜に持ち垰っお集倧成・挢蚳したものが『倧般若(波矅蜜倚)経』で、珟存する挢蚳「般若経」矀の 3/4 を占めおいる。日本には遣唐䜿によっおもたらされた。

 

 737幎、倧安寺・䞉論宗の埋垫・道慈が、『倧般若経』の「転読」を諞囜の幎䞭行事に加えるこずを朝廷に進蚀し、允蚱されたこずから、『倧般若経』は日本各地に普及し、のちには神道祭祀にも取り入れられたした。

 

 なお、『般若心経』ずいう短いお経があっお、珟圚の日本では、ありがたがっお読経する人が倚いのですが〔たさに末䞖〕、これは『倧般若経』には含たれおいたせん。䞭囜で誰かが捏造した停経〔り゜のお経〕である、ずの説が有力です。

 

 「転読」ずは、じっさいに経を読むかわりに、各芋出しだけ読んで、経文をバラバラッずめくっお読経したこずにする行事。『倧般若経』は 600巻ずいう膚倧なものなので、日本ではこういう䟿法が行なわれたのでしょう。しかし、読たずに経巻をバラバラめくり降ろすだけで効果があるず信じるこず自䜓、経兞に曞かれた教えずは無関係な呪術的信仰ず蚀わざるをえたせん。

 

 日本では、『倧般若経』には、こうした呪術たじない的芳念が付きたずっおいるのですが、埌䞖には囜家公認のもずで「転読」が盛行したこずを芋おも、『倧般若経』の写経が「巊道」――よこしたな呪術だなどずは、この圓時にも蚀えるこずではなかったでしょう。たんに、朝廷が正匏に公認する 10幎ほど前だった、ずいうにすぎたせん。

 

 けっきょく、挆郚らの密告は、長屋王の写経事業がたたたた幌皇倪子死去の盎埌に完了したこずにかこ぀けた誣告〔ぶこく。り゜の告発〕ず蚀わざるをえたせん。にもかかわらず、聖歊の朝廷が、ただちにこの密告に反応しお譊備を厳重にし、長屋王邞を歊装包囲しお長屋王䞀族を監犁したこずは、この事件が、「埓䜍䞋」および無䜍の䞋玚官人に「やらせ」で密告させた・謀反のでっちあげ、長屋王を倱脚させるための陰謀劇であったこずを、匷く疑わせるものです。

 

 なお、『続日本玀』は、事件の9幎埌 738幎の蚘事では、密告者のひずり「䞭臣宮凊東人」を、「東人は長屋王の事を誣告せし人なり」ず蚘しおいたす倩平十幎䞃月10日条。密告はり゜だった、でっち䞊げだった、ず『続日本玀』の線者も認めおいるのです。

 

 朝廷は、舎人芪王、新田郚芪王、藀原歊智麻呂、ほか名の高官を長屋王邞に掟遣しお、「その眪を窮問せしむ。」――『続日本玀』の蚘述は、さいしょから長屋王を有眪ず決め぀けお、詰問したずなっおいたす。

 

 

『2月12日〔尋問の翌日――ギトン蚻〕、長屋王を自刹させた。その劻〔 〕吉備内芪王、息子〔 〕膳倫王・〔 〕桑田王・葛朚王・鈎取王らも長屋王ず同じく自ら銖をくくっお死んだ。そこで、邞内に残る人々を皆捕えお、巊右の衛士府や兵衛府などに監犁した。』

宇治谷孟・蚳蚻『続日本玀䞊』党珟代語蚳,1992,講談瀟孊術文庫, p.297. 

 

 

 「長屋王を自刹させた」の郚分を原文で芋るず、「什王自尜王をしお自ら尜しなしむ」ずなっおいたす。぀たり、自刹を呜じた、 本来なら打ち銖にするずころだが、自分で死なしおやる、ずいうこずです。

 

 䞍可解なのは、そのあずの蚘述です。長屋王ずいっしょに劻子党員が䞀斉に銖をくくっお死んだ。‥‥䞀家心䞭ずしおも、こんなやり方が可胜だずは思われたせん。あたりにも、話が出来すぎおいたす。

 

 長屋王は倪政官のトップですから、今で蚀えば内閣総理倧臣です。倩皇が銖盞に「死ね」ず呜什したら、銖盞は銖をくくっお死んだ。その぀いでに、䞀家おのおの自分で銖をくくっお党員死んだ。めでたし、めでたし‥‥こんなばかな話があるでしょうか ?!

 

 たずえば、䞖玀に聖埳倪子の息子・山背倧兄やたしろ・の・おおえ王の堎合も、『日本曞玀』は、斑鳩寺法隆寺の前身で、蘇我配䞋の軍勢に囲たれながら、王族・キサキらが、もろずもに瞊銖自害したずするが、他方、『聖埳倪子䌝補闕蚘』によれば、蘇我氏による蚈画のもず、山背倧兄王以䞋  23人が殺害されたのだずいう吉川真叞『飛鳥の郜』,2011,岩波新曞,p.55。長屋王䞀族の堎合も、民間の説話集『日本霊異蚘』が䌝えるずころでは、長屋王は、子・孫に毒薬を飲たせたうえで絞殺し、自らも服毒自刹した、ずなっおおり、こちらのほうが、ただ有りうる気がしたす。瞊死は、血を流さない高貎な死に方ず考えられおいたこずから、『日本曞玀』や『続日本玀』は、高貎な身分の人の最期を圓り障りなく描くために、事実を倉えお瞊死にしたずも考えられるのです。

 

 長屋王䞀家の最期に぀いお、『日本霊異蚘』は、民間に流垃した「うわさ」の採録でしょうし、『続日本玀』のほうは、盎接長屋王邞で確認した者の報告がもずになっおいるでしょう。したがっお、『続日本玀』のほうが事実に近いはずなのに、じっさいの内容は、『日本霊異蚘』のリアルさに比べ、『続日本玀』の蚘述には珟実性が欠けおいる。これは、いったいなぜなのでしょうか

 

 そうやっお考えおみるず、‥‥結局のずころ、「䞀斉瞊銖」は事実ではない、事実は、朝廷が掟遣した兵士か刺客による殺害にちがいない‥そういう疑いがわくのです。

 

 

鮟 尟  平城宮第䞀次倧極殿

 


 さお、この事件が特異なのは、その経過だけではありたせん。長屋王の死埌に朝廷が行なった “あず始末” も、たいぞんに異䟋です。

 

 たず、事件から 3日埌の 2月15日、぀ぎの「詔」が発せられたす

 

 

『〔 〕長屋王は、心がねじれた邪悪な人であったが、道を誀っお悪性を露わし、悪事を極め尜くした果おに、いきなり法の網にかかっおしたった。悪事の仲間を刈り取り、凶悪な賊を陀去しよう。囜叞は、人が集たっお䌁みごずをするのを芋逃しおはならぬ。』

宇治谷孟・蚳蚻『続日本玀䞊』党珟代語蚳,1992,講談瀟孊術文庫, p.298〔䞀郚改〕. 

 

 

 長屋王に察するこれたでの厚遇ずは䞀転しお、最初から邪悪な人間だったず決め぀けおいたす。「囜叞は‥」以䞋の原文は、「宜囜叞莫什有衆宜しく囜叞は衆あらしむるこずなかるべし」。「衆」は、3人以䞊が集たるこず。人が集たっお盞談するこずを譊戒せよ、犁止せよ、ずいうのは、昔も今も、人民を抑圧する専制支配の芁諊です。この機䌚に、䞀般人民に察する締め付けを匷化する意図がうかがわれたす。

 

 ずころが、その䞀方で、事件自䜓の凊眰は、きわめお緩いものでした。自害したずされる䞀族名以倖は、党員攟免。巊右衛士えじ府などに拘犁されおいた長屋王家の家人らも釈攟されたす。たた、通垞なら犯人の芪族に適甚される「瞁坐法」も、兄匟姉効子孫等に適甚しないず「勅みこずのり」したす。

 

 17日には、「䞊毛野かみ぀けぬ宿奈麻呂すくなたろら名」が、「長屋王ず亀たじはり通ふに坐぀みせられお」流刑に凊せられおいたすが、死眪は出おいたせん。その他 90人は、こずごずく攟免。

 

 それにしおも、肝心の「犯眪行為」であったはずの「倧般若経・写経」に加わった者の眪が問われた圢跡はない。それずは関係なく、亀友関係のあった仲間名だけが远攟されおいるのです。長屋王ずその䞀党を郜から遠ざけるこず。そこにだけ意図を集䞭させた、政治的な策略のように思われたす。

 

 18日には、癟官に「倧祓おおはらい」を行なわせ、21日には、平城京内に “倧赊” を行なっお、死眪以䞋の眪人を党員赊免。「あわせお、長屋王の事件のため動員された人民の雑埭〔ぞうよう。 åŠ›åœ¹ã€å¹Žé–“60日以内〕を免陀した。」――巊右衛士府・近衛府の兵士だけでなく、䞀般の「癟姓」たで動員したずするず、長屋王邞の包囲ず攻防は、よほどの芏暡のものだったず思われたす。数日以䞊の日数を芁し、戊闘もあったかもしれたせん。『続日本玀』の蚘述は、盞圓に粉食されおいるず考えなければならないでしょう。

 

 以䞊のように、「倉」埌の措眮が、異䟋なほど寛容なこずは、長屋王の「犯眪」が䞍存圚であったず疑わせたすし、このような冀眪による陰謀を粉食するために、宣蚀ず口䞊は倧げさに、しかし人びずの反発・怚恚を招くような凊眰は、可胜なかぎり控えようずする意図がうかがわれるのです。

 

 4月3日には、䞀連の隒動の「しめくくり」のように、぀ぎの「詔」が発せられおいたす



『内倖の文官・歊官ず党囜の人民のうち、異端のこずを孊び、幻術を身に぀け、皮々のたじない・呪いによっお、物の呜を損ない傷぀ける者があれば、䞻犯は斬刑に、埓犯は流刑に凊する。

 

 もし山林に隠れ䜏み、停っお仏法を修行するず蚀い、自ら教習しお業を教え䌝え、呪笊を曞いお封印し、薬を調合しお毒を぀くり、さたざたの怪しげなこずをしお、勅呜の犁止に違反する者も、同眪である。


 その劖術・劖蚀の曞物に぀いおは、この勅が出おから 50日以内に自銖せよ。もし期限内に自銖せず、埌になっお告発された堎合は、䞻犯・埓犯を問わずすべお流眪にするであろう。その告発した人には絹 30疋を賞ずしお䞎えるであろう。その絹は眪人ずされた家から城発する。』

宇治谷孟・蚳蚻『続日本玀䞊』党珟代語蚳,1992,講談瀟孊術文庫, pp.300-301.〔䞀郚改〕

 

 

 あたかも、長屋王の眪責が「巊道」による呪詛であったこずを思い出させお、朝廷の事件凊理を改めお正圓化するかのようです。

 

 しかし、この「詔」には、民間の「たじない」信仰や、「山林」の修行僧・修行者に察する取締りの問題が含たれおいたす。これは奈良朝を通じおの倧きな問題の䞀端でありたすから、埌日あらためお、この「詔」は怜蚎の察象ずするこずになりたす。

 

 

平城宮宮内省埩元

 

 

 

【14】 政倉の仕掛け人――藀原氏の陰謀か

 

 

 前節に述べたように、「長屋王の倉」は、ありもしない謀反をでっちあげお政敵を亡きものにしようずするクヌデタヌであり、長屋王はその犠牲ずなった疑いが濃いのです。

 

 それでは、いったい誰が、このような冀眪、そしおクヌデタヌを仕掛けたのでしょうか 倧きく、぀の説を考えおみるこずができるず思いたす。

 

 

《説》 聖歊倩皇が仕掛けた。

 最高執暩者であり、法に反した行ないであっおも臣䞋に容易に呜じえた倩皇自身のむニシアチノを、たず疑っおみるべきだず私は考えたす。

 

 ただ、珟圚この説をずる論者は芋圓たらないようです。その理由は、ひず぀には、聖歊倩皇は、それほど果断な性栌ではなかったず芋られおいるからでしょう。聖歊は、「優柔䞍断で意志薄匱、その行動に䞀貫性が乏しく、皇后〔 〕藀原氏の傀儡であった」ず蚀われるこずが倚い遠山矎郜男『圷埚の王暩 聖歊倩皇』,1999,角川遞曞,p.14。しかし、遠山氏によれば、そうした聖歊像には倧きな修正が必芁であっお、聖歊は、過激な思想ず独自の皇統構想を心䞭に秘めた垝王だった。

 

 遠山氏は、「長屋王・冀眪説」を吊定しおいるので、《説》ずは蚀えないのですが、氏の議論は、聖歊には「仕掛け人」ずなるに十分な動機も意志もあった――こずを考えさせる点で重芁です。

 

 

《説》 藀原氏が仕掛け人だった。

 ここで「仕掛け人」ず考えられるのは、故・藀原䞍比等の人の息子たち歊智麻呂、房前、宇合、麻呂です。wiki によるず、この説が珟圚、倚数説のようです。前節で芋た「倉」の経緯でも、六衛の兵を率いお長屋王邞を包囲した郚隊のトップは匏郚卿の宇合であり、邞内に蚊問に赎いた高官のなかに歊智麻呂がいたす。たた、「倉」埌の 3月4日、麻呂は、ほかの功劎者らずずもに䜍階の昇進を授䞎されおいたす「倉」にあたっお䜕らかの働きをしたためず考えられる。歊智麻呂は䞭玍蚀から倧玍蚀に昇進。しかし、より重芁なのは、「倉」埌の 8月に藀原光明子が皇后に立おられおいるこずで、これこそ、藀原氏が「倉」を起こした重芁動機だったずされたす。

 

 《説》に察する批刀ずしおは、

 

 

『聖歊の決断ず蚱可がなければ、六衛衛門府・巊右衛士府・巊右近衛府・䞭衛府の兵が動くはずはない。』

遠山矎郜男『圷埚の王暩 聖歊倩皇』,1999,角川遞曞,p.90.  

 

 

 したがっお、「倉」が起きるためには、少なくずも聖歊倩皇の共謀が必芁だ、ずいうこずになりたす。この批刀は決定的です。聖歊倩皇が藀原氏の「傀儡」でない限り、《説》は結局《説》に垰するこずになりたす。

 

 

《説》 寺院勢力が仕掛けた。

 ここで「寺院勢力」ず仮に呌ぶのは、薬垫寺、倧安寺など平城京に所圚する官寺の高僧集団で、圌らのなかには、埋什政府のもずで僧尌の取締りにあたる僧綱そうごう僧正僧郜埋垫がいたした。埋什政府は、「僧綱」を通じお、䞀般僧尌を統制し、管理しおいたのです。

 

 しかし、官寺の倖には、埋什政府の統制にも、「僧綱」の監督にも必ずしも服さない膚倧な数の「私床僧」〔囜家の蚱可を受けずに僧尌ずなった者〕や民間の半僧半俗の仏教埒集団がいお、圓時、その数は急速に増え぀぀あったず思われたす。行基ず行基の率いる集団もたた、これら民間仏埒の䞀郚であり、しかもきわめお有力な勢力であったのです。

 

 ①埋什囜家、②埋什囜家の䞋で僧尌の統制を委ねられた「寺院勢力」、③民間の仏埒集団。――この者のあいだには、耇雑な䞉぀巎の力関係があったず考えられたす。

 

 ずころで、聖歊即䜍ずずもに発足した「長屋王政暩」は、①埋什囜家の僧尌に察する統制政策に、倧きな倉化をもたらしたした。元明・元正時代たで、埋什政府は、②「僧綱」を通じお間接的に僧尌を統制しおいたした。「僧綱」の䞻䜓性を重んじ、圌らの教団内での宗教指導者ずしおの「枅議」「犁喩」によっお、おだやかに僧たちを教化しお囜法を守らせようずしたのです。

 

 ずころが、元正末幎の 722幎に提起された倪政官の䞊奏ず、これを裁可する倩皇の「詔」は、埓来の慣䟋を砎っお、「専圓の官人」が盎接、②ず③のあいだに介入しお、囜法に埓わない③民間僧尌を厳しく凊眰し、取締りを怠っおいた京叞・囜叞・郡叞・里長等の関係官叞、䞊玚の僧尌、䞻人をも凊眰する䜓制を敷いたのです。この時点の倪政官は、すでに倧玍蚀・長屋王を銖班ずする実質的な「長屋王政暩」ずなっおいたした。吉田靖雄『行基ず埋什囜家』,1986,吉川匘文通,pp.154f。

 

 聖歊治䞖初幎には、「長屋王政暩」の䞋で、この䜓制による䞖俗官人の盎接統制が③の民間仏埒に察しお厳しく及がされ、行基の率いる集団などは、そのために壊滅的打撃をこうむったのです吉田靖雄,op.cit.,pp.160-161。集萜での托鉢を犁圧され、僧服を着お歩けば「公隓」〔囜が発行する僧尌の身分蚌〕の提瀺を求められ、所持しおいなければ逮捕され、鞭打ち刑のうえ本籍地に匷制送還される。このような取締りが、行基集団のような民間教団を壊滅させるこずは明らかでしょう。

 

 たた、「長屋王政暩」の厳しい統制は、䞊玚の ②寺院勢力 に察しおも向けられたした。③のような違反者がはびこるのは、②寺院勢力が監督を怠っおいたからだずしお、指導すべき立堎の僧尌を遠慮䌚釈なく凊眰したので、長屋王に察する ②官寺僧䌜集団の怒りも、盞圓のものだったず思われたす。

 

 信埒の集団を倱った行基は、郜垂の手工業者や䞋玚官人局に新たな垃教察象を定めお、再起を図りたすが、長屋王の厳しい統制の䞋では、教団の再興は容易ではなかったのです。

 

 「長屋王の倉」で、クヌデタヌ開始の狌煙ずもいうべき密告をしたのが䞋玚官人しかも䞀人は無䜍だったこずを思い出したしょう。「倉」埌には、長屋王邞包囲に参加した「癟姓」たちが、耒賞ずしお雑埭免陀を受けおいたした。圌らは、たんなるフレヌムアップの道具ではなかったかもしれない。䞋玚官人や郜垂䞋局民のあいだには、「長屋王政暩」に察する䞍満が鬱積しおいお、圌らは自らの意志で積極的にクヌデタヌに参加したのかもしれたせん。

 

 行基の幎譜を芋るず、「長屋王の倉」埌に、配䞋の寺院の建立が急激に増加しおいるのがわかりたす。「長屋王政暩」の倒壊を歓迎したのは、藀原氏だけではなかった。統制が解陀されお自由に掻動できるようになった宗教者、信者、郜垂民などの “䞭間局” 的な人びずが、新しい「藀原兄匟」の政暩を歓迎したのです。

 

 しかし、《説》に぀いおは、ここでは十分に論ずるこずができたせん。そのためには、叀代の倭囜日本における民衆仏教ず囜家仏教護囜仏教、そしお埋什囜家ずの関係を、行基の人物像を軞にしお芋おおく必芁があるからです。その考察は、次回から開始したす。

 

 本日の最埌の節は、《説》にもどっお、そこで問題になる聖歊倩皇ず長屋王ずの性栌の衝突・角逐に぀いお、やや突っ蟌んで芋おおきたいず思いたす。

 

 

平城宮宮内省事務棟内郚埩元 平城宮におかれた圹所の内郚は土間で、

䞭囜匏に机ず怅子を眮いお仕事をした。

 

 


【15】 聖歊ず長屋王――盞性の悪い仲

 

 

 即䜍の圓日、聖歊倩皇は、生母藀原宮子の凊遇に぀いお、しきりず気にしお語ったようなのです。宮子は、圌を出産しお以来、粟神に錯乱をきたしお内裏の奥に蟄居させられおいたした。その母に、聖歊は䞀床も䌚ったこずがなかったのです。

 

 即䜍日に母に぀いお聖歊が語ったこずの栞心は、母を呌ぶ称号に぀いおでした。埋什には、倩皇の母は、先垝のキサキであった時の䜍階にしたがっお、皇后ならば「皇倪后」、倫人ならば「皇倪倫人」ず呌ぶよう定められおいたした。宮子は文歊倩皇の倫人でしたから、「皇倪倫人」ず呌ばれるきたりだったのです。

 

 ずころが、聖歊倩皇は、倩皇ずいうのは絶察的な存圚で、埋什のきたりを自由に倉えるこずができるず考えおいたのです。そしお、即䜍した圓日に、さっそく埋什倉曎の専暩をふるうこずを思い立ったこずになりたす。

 

 わが母を「倧倫人」ず呌ぶように、ず聖歊は語り、日埌には正匏の「勅みこずのり」にしお発垃したした。

 

 これは、のちのちの聖歊の蚀動から芋お、たんなる浅慮や安思いこみなどではなく、圌の信念ずもいえる過激思想の䞀郚だったず思われたす。ずいうのは、嚘の孝謙倩皇に察しお幌少時にでしょう、「倩皇ずいうものは、䜕でもするこずができる。人を奎隷にするも䞻人ずするも自由自圚なのだ。」ず教えたずいうのです。

 

 聖歊はなぜ、「皇倪倫人」でなく「倧倫人」ず呌ばせようずしたのか、圌の心䞭は分かりたせん。他人から芋れば、「皇」の字をあえお抜いおいるように芋えたす。そしお、宮子の血筋は皇族ではなく、臣䞋の藀原氏であるこずが思い出されたす。聖歊は、母を、皇族の血ではないからず、さげすみたいのだろうか その母から生たれた自分は、倩「皇」でよいのか ?! 

 

 呌称の背埌に、聖歊の心䞭の耇雑な血統コンプレックスが芋え隠れしおいたす。

 

 やがお、長屋王を筆頭ずする倪政官から、疑矩の䞊奏が䞊がっおきたす



『「謹んで今幎 2月4日の勅を拝芋いたしたすず、藀原倫人を倩䞋の人びずはみな倧倫人ず呌ぶようにずありたす。しかし、それがしどもが謹んで公匏什を調べおみたすず、皇倪倫人ず称する芏定になっおおりたす。先の勅号に䟝ろうずすれば、皇の字を倱うこずになりたす。公匏什を甚いれば、勅に反するこずを恐れたす。どう定めればよいかわかりたせんので、䌏しお埡指図を仰ぐ次第でありたす。」』

遠山矎郜男『圷埚の王暩 聖歊倩皇』,1999,角川遞曞,p.78.〔䞀郚改〕  

 

 

 「倧倫人」ず呌んだら、「皇」を抜かしたず蚀っおお怒りに觊れそうだ。かずいっお、埋什のずおりに呌んだら、朕の勅に埓えないのかず蚀われそうで恐い。みんな困っおいたす。どうしたらいいか教えおくれ

 

 長屋王ずしおは、郚䞋を困惑させるわけにはいかない立堎䞊、こう尋ねおみるほかなかったのかもしれたせん。あるいは、杓子定芏の埋什䞻矩が出おしたったかもしれたせん。しかし、受け取った聖歊には、どう映ったでしょうか 「皇の字が抜けちゃいたすけど、いいんですかい 母䞊の卑しい血すじを、わざわざ倩䞋に知らしめようずでもお考えで」ず、皮肉たっぷりにオチョクッおいるように思われたかもしれたせん。

 


『長屋王は倩歊倩皇のむすこ高垂たけち皇子を父に、倩智倩皇のむすめである埡名郚皇女を母にもち、倩智・倩歊䞡方の血を匕くこずが倩皇ずしお望たしいずいう考えにしたがえば、聖歊など遠くおよばないすぐれた血統の持ち䞻であった。しかも、前々倩皇である元明倩皇のむすめであり、前倩皇元正の効である吉備内芪王を劻にしおおり、圌女ずのあいだに倚くのむすこたちをもうけおいた。

 

 芁するに、聖歊から芋お長屋王ずは、血統的な条件ずいう点においお、ずうおい倪刀打ちができない人物だったのである。聖歊は自分がか぀お皇倪子の地䜍にあり、そしお珟に倩皇ずしお即䜍したずしおも、長屋王ずその䞀族を芋るたびに、自分の血統的条件の悪さを痛感させられたに盞違ない。』

遠山矎郜男『圷埚の王暩 聖歊倩皇』,1999,角川遞曞,pp.80-81.  

 

 

 

Franz von Stuck (1863-1928)          

 

 

 そこで、聖歊倩皇はどうしたかずいうず

 

 

『「文曞では皇倪倫人、口頭では倧埡祖おおみおやずするように。先に䞋した勅は回収せよ。」』

遠山矎郜男『圷埚の王暩 聖歊倩皇』,1999,角川遞曞,p.78.〔䞀郚改〕 

 


 けっきょく聖歊は、「勅みこずのり」の撀回に远い蟌たれたこずになりたす。倩皇が倪政官に突っこたれお「勅」を撀回した――あたり䟋のないこずかもしれたせんが、こうでもするほかはない。それでもなお、口頭では「おおみおや」ず蚀え、ずダマトコトバ颚の呌称を䜜っお「倧倫人」のおもかげを残した。負け惜しみかもしれたせん。ずにかく、「倩皇の意志は絶察的で、埋什に拘束されない」ずいう “過激信念” を抌し通したこずになりたす。

 

 

『聖歊のなかには自分の血統的コンプレックスをいたずらに刺激した長屋王ぞの䞍快感だけが確実に残った。


 蛇に睚たれた蛙〔 〕、長屋王ずその䞀族の運呜は、この事件以埌、聖歊ずいう劄執をもった蛇に捕えられた哀れな蛙のそれにほかならなかった。』

遠山矎郜男『圷埚の王暩 聖歊倩皇』,1999,角川遞曞,p.89.  

 

 

 

 

 

 

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