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家 原 寺  堺市西区

行基の生家に建てられた。文殊菩薩を本尊とすることから、

現在では、受験生の合格祈願寺として人気がある。


 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。
  • 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破る。「飛鳥浄御原宮」造営開始。
  • 673年 大海人皇子、天武天皇として即位。
  • 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
  • 681年 「浄御原令」編纂開始。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受け、比丘(正式の僧)となる。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
  • 699年 役小角(えん・の・おづぬ)、「妖惑」の罪で伊豆嶋に流刑となる。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。
  • 710年 平城京に遷都。

 

 

家 原 寺 の合格祈祷済み智恵文殊鉛筆

 

 


【16】 行基の生地と両親――“狭き門” の前で

 


 大阪府堺市、「仁徳天皇陵」のある百舌鳥(もず)古墳群南方に広がる台地の上に、「家原寺(えばらじ)」というお寺があります。法隆寺や四天王寺のような大伽藍ではありませんが、本尊の文殊菩薩に合格を祈願する受験生と家族連れで、いつもにぎわっています。

 

 僧・行基は 668年に、この場所で生まれたと云われています。668年といえば、百済国再興を支援する倭国が、唐・新羅の連合軍に大敗した「白村江」戦闘の 5年後。高句麗・百済から難を避けて渡ってきた移住民で、この摂津・河内の沿海地方は、ごったがえしていたと思われます。

 

 父は、「高志(こし・の)(ふひと)才智」。「百済王子王爾(わに)」の子孫を標榜する渡来系氏族の一員でした。現在、堺市の西隣りの海岸部に「高石市」がありますが、「高石」という地名は、もとは「こし」と読み、「高志」氏は、そこを本拠地とする氏族と思われます。「王爾(王仁)」博士は、応神天皇期に渡来して漢字を伝えたとされる人物ですが、応神天皇といっても正確な時代が不明だし、「王仁」の実在は疑問視されています。百済国の王子というのも、確証はありません。

 

 行基の納骨銅筒に刻まれていた『舎利瓶記』によるとしたがって、以下は『古事記』等とは若干異なる――ギトン註〕、「王仁」の子孫とされる氏族群は「文(ふみ)氏」と呼ばれ、「西文(かわちのふみ)氏」「東文(やまとのふみ)氏」の2系統に岐れていました。行基の父の「高志史(こし・の・ふひと)」は、「西文氏」からさらに岐れた枝氏族ですが、7世紀初めには、「西文氏」の本拠・河内國古市郡から和泉地方に移住して分立しており、行基の代には、すでに「西文」本家とのつながりは希薄になっていました。

 

 そのため、「高志史」は、下級役人にもめったに採用してもらえない “寒門” の氏だったのです。「史(ふひと)」という姓(かばね)は持っていても、フヒト(フミ・ヒト→書記)がそのまま渡来人系の職業になったのは、はるか昔のことで、いまでは読み書きの能力は倭人系氏族にも広く普及していますから、称号以上の意味ではありません。

 

 

家 原 寺 の ヤマモモ 堺市指定保存樹木

 

    王 仁 博 士    埼玉県日高市(高麗郷)聖天院

 

 

 ただ、精神的な面では、王仁博士の子孫で「西文」につらなるという出自は、大きなバックボーンであったはずです。「高志史」氏について史料から分かるのは、薬に関する知識技能をもった一族だったらしいことです。行基のイトコすじには、のちに朝廷の「施薬院」の現業官人として取り立てられた人がいます(吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.8.)行基自身も施薬の技能を持っていたとすれば、民衆を救済して信頼を得るうえで、おおいに役立ったことでしょう。それは十分に考えられることです。

 

 ともかく、父にとっては、この才能ありそうな息子を、どうやって朝廷周辺の知識界・上流社会に潜り込ませるか、それによって一族の再興を図るかが、大きな関心事であったはずです。伝承は、行基が幼い時から異能力を発揮したと伝えています。生まれた時から言葉を話したとか、幼児になると、近所や村の子どもたちといっしょに仏法を讃える言葉を唱えるようになり、おおぜい人が集まって、みな涙を流して聞き入った。牧童たちも、牛や馬を放り出して聞き入ったので、牛馬は逃げて行ってしまったが、行基が高い処にのぼって呼びよせると、その声にこたえて戻って来た。うんぬん。(『日本往生極楽記』,『今昔物語』11-2, usw.)

 

 おおげさな話ですが、言葉の能力や、人や動物の心をとらえる能力に優れていたのは、事実なのでしょう。

 

 他方、行基の母は、「蜂田・古爾比賣(こにひめ)」という人で、姓は「首(おくび)」。「蜂田首」という氏は、奈良時代までの史料には全く出て来ない氏でして、地元の零細な豪族だったようです。「家原寺(えばらじ)」の周辺は、当時「蜂田郷」と呼ばれ、「家原寺」の1キロほど南には現在も「八田荘」「八田寺町」という地名があります。「家原寺」をふくむこの一帯が「蜂田」氏の居住地だったことがわかります。

 

 当時の婚姻形態は「妻問い婚」ですから、「家原寺」にあったという生家は母方の家で、父・高志才智は、高石から通って来ていたのでしょう。

 

 「コニヒメ」という母の名も、なんとなく渡来人系を思わせます。「コニキシ」は百済語で「王」「王族」を意味しますから、「コニ」に倭語の「ヒメ」を付けて「王女」? しかし、行基が偉くなってから母の名前をそれらしく変えたことも考えられます。吉田靖雄氏は、「蜂田首」は倭人系の氏だとしています。

 

 

動物と感応する 行 基 少年     高倉寺蔵『行基菩薩絵伝絵巻』、江戸時代

行基少年が高い所に登って呼ぶと、逃げて行った牛馬が

集まって来たという伝説を描いている。

 

 


【17】 異能の少年は佇む――“狭き門” の前で

 

 

 行基の子ども時代については、伝説以上のことはわかりません。確実な経歴として伝えられているのは、682年 15歳〔数え。以下同じ〕の年に「得度」とくど。出家して仏教に入門すること――ギトン註〕していることです。

 

 「得度」した場所も、「得度」を与えた師僧も記録がないのですが、推定は可能です。というのは、当時は、正式の・つまり国家公認の「得度」を受けるのは、「高志」氏のような庶民にとってはたいへんに難しいことで、しかし、行基の「得度」は正式のものですから、受けられたのは何か理由があったはず。そこから探ることができます。

 

 「得度」を得ることが、どれほど難しかったか、という例を出しましょう。最澄といえば、比叡山延暦寺の開祖で天台宗の祖、唐にも留学した・日本の代表的な名僧のひとりです。近江國出身の下級官人の子で、780年 15歳で近江国分寺で得度を受けています。これは、同寺の僧に死亡した者がいて、欠員が生じたので、彼が欠員の替(かえ)に選ばれ、近江国司から太政官に得度の申請が提出され、太政官はこれを治部省に下ろして、替候補の戸籍を調べさせ、その結果、許可が太政官から国司へ、国司から国師所〔國内の僧尼を監督する「僧綱」の執務所〕に下された。あの最澄でさえ、たまたま国分寺に欠員が生じたから「得度」できたのです。欠員の「替」に選ばれるための厳しい選抜については、言うまでもありません。

 

 なんと狭き門‥‥! しかし、律令国家にとっては、これは当然のことなのです。なぜなら、いったん「得度」して僧尼になれば、租庸調その他の課役を免除され、一般人の戸籍から僧籍に移されるからです。以後、刑罰などで、天皇の「勅」によって還俗されないかぎり、この特権は終身つづきます。

 

 行基が「得度」を受けた 682年は、まだ「大宝律令」制定前ですが、律令国家の体制は、じょじょに整えられつつありました。国家公認の「得度」は、むしろ制度がまだ整備途上であるだけに、律令施行後よりも難しかったと思われます(吉田靖雄『行基と律令国家』,pp.27f.)

 

 それでは、どうやって得度したのか? ……当時、朝廷の行事として、しばしば一度に 70人、100人といった集団的な「得度」が行なわれました。天皇や皇后の病気平癒といった特別な祈願のためです。『日本書紀』に記録された「集団得度」を書き上げると、↓次のようになります。ここでは、後述の関連から、692年以前の記事のみ挙げました。(『行基と律令国家』,p.28. から作成)

 

 

 


 最初の推古朝記事の「1000人」は、とびぬけて数が多いし、時期が隔たって古いので、信憑性に問題がありますが、他方、その後天智朝まで一度も無いのも変で、記事が落ちている可能性があります。双方勘案して、「1000人」はそのまま受け入れておくことにします。天武朝の「諸王群卿」の数はわかりませんが、せいぜい数十人でしょう。これを除いて集計すると、度者数の合計は 1950余人。天武6年の「諸王群卿毎人一人」を加えて、約2000人と考えてよさそうです。

 

 一方、吉田靖雄氏の推算(『行基と律令国家』,pp.44-45.)によると、692年における日本全国の(国家公認の正式な)僧尼の数は、8175人です。つまり、この時点で、公式僧尼の約4分の1が、「集団得度」によって僧尼になった人だったのです。

 

 行基のように、官寺の高僧と何のつながりもなく、朝廷の高官にもコネクションのない少年にとって、この「集団得度」に参加することが、「得度」を受ける唯一の方法だったのではないでしょうか?

 

 上の一覧表を見ると、たしかに、行基が「得度」を受けた 682年には、「大官大寺」で「百四十余人」の集団得度が行なわれています。「大官大寺」で行なわれたのは、当時ここに「僧綱所」がおかれていたからでしょう。行基は、この集団得度に参加したのではないか? 得度人数が「‥‥余人」と、半端な数なのも、この時には、比較的おおざっぱに得度希望者を受け入れたためではないかと思わせます。

 

 とはいえ、「集団得度」といえども、民主主義国家のように政府が公報して募集する、などという親切なことはしてくれません。「集団得度」の機会をつかむには、ふだんから、皇宮の近くや、「集団得度」が行なわれそうな寺院の近くに住んで、情報を集めていなくてはなりません。寺の僧侶や下役人に事あるごとに接触し、おみやげを持参して仲良くなっておくことも必要でしょう。行基の母親をはじめとする親族は、これをこまめに励行したすえに、「大官大寺得度」に加わるチャンスをつかんだのだと、私は思います。

 

 『行基菩薩縁起図絵詞』によると、行基の得度の 2年前 680年に、母方・蜂田氏の本拠「蜂田郷」に、氏寺「花林寺」が建立されており、現在も堺市中区八田寺町にあります。一族のなかで、仏教への機運が高まっていたことが想像できるのです。

 

 

小山廃寺(紀寺址)から「天の香具山」を望む。

「小山廃寺」は、682年ころ(天智朝)の大官大寺の址とする説が有力。

いま一説は、「香久山」西麓(写真左外)木之本町にあったとする。

とまれ、この藤原京左京にあった大官大寺は、その後文武朝には

「香久山」南麓(右外)の「国史跡・大官大寺址」に移る。 

 

 

 

【18】 仏門入参――山林を駆けめぐる日々

 

 

 「得度」によって、度者は「沙弥」「沙弥尼」と呼ばれる、いわば見習い僧尼になります。「得度」の段階で、国家からは「公験(度縁)」〔僧尼の身分証〕を交付され、課役免除の扱いを受けますが、教団(僧伽 サンガ)内ではまだ正式の構成員とは見なされません。師主僧にしたがって雑役に従事しながら修業を重ね、20歳を過ぎてから受ける「具足戒」取得を準備します。「具足戒」授与によって正式な僧尼となり、「比丘」「比丘尼」と呼ばれるようになります。

 

 「得度」のさいに与えられる戒律は「十戒」。戒師が適当な 10項目を選んで授与していたようで、のちの時代には宗派ごとに決まってきます。しかし、「具足戒」ともなると、「250戒」に「三千威儀」。戒律の内容は、インド伝来の『四分律』という書物によって決められています。そのなかには、妻帯の禁止はもちろん、易・占術などの呪術の習得も禁止、神通力があると虚語することも厳禁です。

 

 行基の場合、「具足戒」は、24歳時(691年)に、金剛山中腹「高宮山寺」の僧・徳光禅師から受けています。この「徳光」がどういう人なのか、出てくる史料が他にないので、よくわかりません。しかし、「高宮山寺」は金剛山中の斜面に設けられた伽藍で、すぐ近くに大きな滝もあり、明らかに山岳修業の場です。その「山寺」の住僧であった「徳光」は、山林で苦行を行なう山岳修業者だったと考えられます。

 

 仏教が伝わってまだまもない7世紀に、こうした山林での苦行、一種の山岳仏教は、すでにかなり盛んだったと思われるのですが、‥人里離れた山奥で、生死の境をさまようような環境に身をおいて修行する目的は、主に「神通力」を得るためだったと考えられます。仏教でも、ヨガや坐禅、瞑想などの「禅定(ぜんじょう)」によって神通力を獲得することは認められているのですが、「具足戒」が禁ずる「呪術」との境目は、場合によってかなり微妙ではないかと思います。

 

 そこで、15歳で「得度」してから、24歳で「山寺」での「具足戒」を受けるまでの 9年間、行基は、どこでどのような修業をしていたのかが問題になります。見習い僧時代に、どんな仏教に接したかということが、のちのち大成してからの活動に影響するところは、たいへんに大きいと思われるからです。ただ、この点については、諸史料にはほとんど記述が見あたらないのです。

 

 吉田靖雄氏も、

 

『15歳から 24歳までの 10年間を、比丘になるための戒律・仏典の学習に捧げたのである。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.10. 

 

 

 としか述べていません。

 

 

金 剛 山  (御所市小殿から)

 

 

 結論から言いますと、私は、「得度」から「具足戒」までのあいだ、‥すくなくとも、「具足戒」受戒前の数年間は、おもに「山林修行」をしていたと思うのです。

 

 なぜなら、「高宮山寺」のような山岳寺院で受戒するのは、都邑の官寺中心の・この時代の仏教では、あまりふつうのことではないと思われるからです。もともとその山で、その禅師に付いて修行していたとすれば、行基の習得が進展し、諸条件整った段階で受戒することはありうるのではないでしょうか。

 

 『四分律』によると、正式の「具足戒」授戒は 10人の僧の立ち合いを必要とし〔三師七証〕、略式でも 5僧が立ち会わなければなりません。ただ、鑑真が 24人の弟子を連れて来朝(754年)する以前の日本では、さらに少人数で行なわれていたようです。行基の場合、徳光師以外に 2,3人の僧が「高宮山寺」に足をはこんで立ち会ったかもしれません。

 

 もうひとつの状況的根拠として、行基の「得度」が、「140余名」もの大量得度に参加して行われたことがあります。いちどに、こんなにたくさんの見習い僧尼ができあがったら、全員に対して十分な修業指導を行なえるでしょうか? 得度場所の「大官大寺」では収容しきれないでしょう。他の寺に受け入れる余力があるかどうかも疑問です。受け入れても、もっぱら雑用にこき使うだけで、読経、坐禅などは、たいして指導できないかもしれません。山岳寺院のように、修業が厳しすぎて誰も来ないような寺ならば、受け入れる余裕があるはずです。

 

 そして、行基が「具足戒」を受けた 24歳という年齢です。「得度」から「具足戒」まで 9年という年数は、吉田氏によれば、当時としては、異例に長いわけではないそうです。しかし、20歳を過ぎれば、規則(『四分律』)上は「具足戒」を受けられるのに、なお4年かかっているのです。他の名僧のようにスムースに階段を昇ったわけではなさそうです。適切な指導者が得られず、自分で「山寺」や地方の寺をまわって師を探したかもしれません。

 

 以上のような状況から推して、私は、行基は 20歳前後、ないしそれ以前から、「山林修行」に従っていたと考えます。

 

 史料的根拠も、ないことはありません。『行基年譜』(1175年成立)には、↓次のように述べている箇所があります(原漢文):

 

 

『菩薩、少年より卅七歳に至るまで、山林に棲息す。

 

 

 「菩薩」は行基を指す。「少年」が 24歳以前を指すならば、「具足戒」を受ける前から「山林」で修行していたことになります。ただ、この史料はなにぶんにも後代のもので、流布していた諸本から要約孫引きして書いています。具足戒以後の山林修行を記した書を見て、「少(わか)き年より」と言っているのではないか? という疑念はあります。吉田氏も、この「少年」とは、「具足戒」受戒した 24歳時のことと解しておられます。

 

 ところで、行基は、ふつうの修業を教えてもらう機会に恵まれなかったから、やむをえず「山林」に入ったのか‥‥? そんなことはないと思います。むしろ、本人は「山林修行」に魅力を感じたからこそ、あえてそこへ向っていったと思うのです。というのは、上で触れたように、この時代すでに「山林修行」は盛んに行われていたからです。現在まで伝わっている・7世紀以前の「山林修行者」の名を何人か挙げることができます。行基があこがれをもったかもしれない、これら先覚者の行跡を見ておきたいと思います。

 

 

大 和 葛 城 山  (御所市小殿から)

 

 

 

【19】 役小角――空飛ぶ仏教修行者

 

 

 まず挙げるべきは「役小角(えんのおづぬ)」です。修験道(山岳仏教)の祖とされる役小角の伝記は、後世になるほど伝説化し、尾ひれがついて、とほうもない怪談奇譚となっていくのですが、もともとの生涯の事実は、↓このあたりでしょう。吉田靖雄氏の考証にしたがいます。 

 

 

『624年に出生し、699年5月妖惑――おそらく百姓妖惑を意味する――の罪で伊豆に遠流されたが、翌年赦免された。伝記によると、大和葛木山〔現在の大和葛城山、金剛山を含む山脈全体をさす――ギトン註〕に三十余年住み、藤皮を着け松葉を食う苦修練行をつみ、孔雀神呪を習って験術〔霊験(人知を超えた神仏のしるし、心霊現象)を現わす術――ギトン註〕を得意とした。葛木山や吉野金峰山〔高野山〕は彼の開いたところであるという。


 小角の最古の伝記を記す『続日本紀』は、小角が優婆塞うばそく 在俗の仏教修行者――ギトン註〕であったこと、またその呪術が仏教的であったことについては語らない。〔…〕したがって小角が仏教的神呪を得意とする仏教修行者であったことは、確実なこととはいえないが、民族宗教〔原始信仰――ギトン註〕である当時の神道は、多数の百姓〔農民にかぎらず一般人民――ギトン註〕を妖惑するような高度の呪的技術を保持していなかったから、小角の呪術は神道よりは、高度な呪術技能をもつ仏教や道教、陰陽道などに依拠したものであろうと推察される。

 

 とにかく〔…〕、大宝令以前に、小角はかなりの長期に亙る山林修行の生活を送ったことが認められる。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.60-61.  

 


 「百姓妖惑」は、『僧尼令』1条に規定された大罪で、一人またはおおぜいに「仮設の言」を述べて惑わすこと。一種のマインドコントロールでしょう。還俗されたうえ流刑に処せられます。

 

 『僧尼令』が適用されたことから見ても、役小角は明らかに仏教の修行者です。

 

 また、小角が習得した「孔雀神呪」とは、『孔雀経』〔最初期のインド密教経典――ギトン註〕にもとづく呪文を唱える「まじない」です。「孔雀明王」は、毒蛇を食して除くクジャクの神格化で、人間の三悪を呑食し、いっさいの罪悪病痛を除くとされます。つまり、仏教に属する呪術なのです。

 

 それと、もうひとつ重要なのは、彼が、そのような呪術技能を習得するために長期間の「山林修行」を行なったことです。

 

 つぎに、役小角に関する最古の、したがって最も信頼に耐える史料である『続日本紀』の記事を見ておきましょう:


 

〔文武天皇3年 699年〕5月24日、役の(きみ)小角を伊豆嶋〔伊豆半島――ギトン註〕に配流した。はじめ小角は葛木山に住み、呪術をよく使うので有名であった。外従五位下の韓国連(からくにのむらじ)広足の師匠であった。のちに小角の能力が悪いほうに発揮されたので、[百姓]妖惑の罪で讒言ざんげん。「誣告」に同じ。ウソの告発〕された。そのため、遠地に流配された。世間のうわさでは、「小角は鬼神を思うままに使役して、水を汲んだり薪を採らせたりし、もし命じたことに従わないと、呪術で縛って動けないようにした」といわれる。』

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』現代語訳,1992,講談社学術文庫,pp.23-24.〔一部改〕 

 


 概略のことしか記されていませんが、①葛木山中に住んでいたこと。②下級官人にも弟子がいたこと。③「妖惑」の罪で誹謗告発され、流刑になったこと。④「鬼神を使役している」という噂があったことが確認できます。

 

 役小角の呪術が、『孔雀経』に基づく仏教(密教)の呪術であったにもかかわらず、『続日本紀』がそのことを記していないのは、「護国仏教」に立つ当時の律令国家にとっては、小角のような民間の呪術者の活動は、容認しがたいものだったためと思われます。『続日本紀』は、小角が赦免された事実さえ記していないのです。

 

 

冬 の 金 剛 山

 

 

 当時の、いま一方の資料として、『日本霊異記』(787年成立)の説話↓を挙げてみます。かなり伝説化・フィクション化してはいますが。

 

 

 『日本霊異記』上-第28段の要約

 (え)の優婆塞(在俗僧)は、大和國葛木上郡茅原村の人である。生まれながらに賢く、近郷第一の博学であった。心から仏法を信じて修行に努めていた。いつも心の中で、五色の雲に乗って仙人たちと交わることを願っていた。

 

 そのために、40余歳でなお岩窟に住み、葛(かずら)を身にまとい、松葉を食物とする苦行生活を続けて、俗界の垢を除去し、ついに「孔雀の咒法」を習得して驚異の超能力を身につけた。鬼神を自在に駆使するようになった。

 

 もろもろの鬼神を惹き寄せて、「金峰(高野)山と葛木峯のあいだに橋をかけろ」などと命じたので、神々はこれを見て不安になった。そこで、文武天皇の時に、葛木峯の「一言主(ひとことぬし)の大神」が、役小角を誹謗する神託を下して、

 

 「役の優婆塞は、天皇を亡ぼす謀反を計画している」と告げた。

 

 朝廷は、役小角を逮捕しようとしたが、捕まえられないので、小角の母を捕えておびき出し、小角を逮捕して伊豆に流配した。

 

 ところが、役の優婆塞は、伊豆でも、陸をかけるように海を渡ったり、大鳥のように空を飛んだり、夜になると富士山へ行き来するなど自由自在にふるまった。701年に赦免されて都(藤原京)に戻ったが、たちまち仙人になって飛び去ってしまった。

 

 その後、唐に渡った留学僧・道照が、新羅に招かれてトラの群れに『法華経』の講義をしたとき、群れのなかから日本語で質問があったので、名を問うと役小角だと言う。しかし、道照が高座から降りて探しても、その姿は発見できなかった。

 

 れいの「一言主の大神」は、小角の赦免を妨害しようとしたが失敗し、かえって小角に呪縛をかけられてしまい、今に至るも縛りを解くことができない。

 

 

 役小角の一族「役(え,えん)」氏は、朝廷の役民統制にかかわる氏族だったようです。

 

 弥生末期から古墳時代を通じて、ヤマトの諸・首長は、環濠集落などの閉鎖的村落に依拠するコンパクトで平等志向の共同体を解体して、氏族民の労働力を解放し、利用することに努めてきたと言えます。卑弥呼の時代の「邪馬台国」は、諸村落の環濠を埋め立てて地域を一円的に支配し、「箸墓」造営や運河の掘削をはじめとする大土木工事に多人数を集めることを可能にしています。こうして、纏向(まきむく)から倭国全土に古墳時代の権力と文化が波及し、倭国の社会は大きな変動期を迎えたのでした。

 

 おそらく、「役」氏は、そうして解放された労働力を朝廷のために組織・統制する経験を蓄積した、いわば現場監督の集団だったと考えられます。

 役小角自身は、朝廷の役民にはかかわっていませんが、一族「役」氏の性格を受け継いでいたことから、弟子たち、従者たちに対して、彼らの意思を抑圧し、厳しく統制して働かせる傾向があったのではないでしょうか。『続日本紀』の記事は、「水を汲み、薪を採る」という日常生活での使役について記しています。

 

 そうした状況が、従者の親族や里の人びとから、呪力で鬼をこき使っている、鬼が指示に従わないと金縛りの罰を与える、などと噂されるようになったのだと考えることができます。



冬 の 金 剛 山


 

 行基が「山林修行」に入ったのは 682年と 691年のあいだで、役小角が朝廷に捕えられた 699年よりも 10年ほど以前でした。そのころ、葛城の里では、役小角に関して、やや大げさな噂は出始めていたものの、まだ『日本霊異記』のような伝説化した話が広がるほどではなかったと思われます。

 山の中に、なにか、常人にない精神能力――「超能力」をもった行者がいる。その超能力で、木こりに幻覚を見せたり、おおぜいの従者を思い通りに動かしたりする。その程度ではなかったでしょうか。山間のケモノみちをたどって思わぬ場所に突然現れるので、空を飛ぶとか、テレポーテーションができる、などと思われていたことでしょう。

 しかし、役小角の支配は、人びとを、力で脅したり、鞭で叩いたりして従わせるのではなく、超越した能力で精神的にコントロールしてしまうやり方です。行基は、そうした超人的な修行者を、あこがれをもって想像していたかもしれません。

 それに加えて、行基自身が幼少時から具えていた「人を感化する力」。自分はそれを持っているという自信。それらが相まって、彼のなかで、のちに民衆の精神的統率者となる資質が育っていったのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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