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文 廻 池     ​​​​     京都府木津川市木津馬場南

正面の丘の右脇に「神雄寺址」がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 「浄御原令」官制施行。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受ける。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
  • 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。行基、和泉國大鳥郡に「神鳳寺」、若草山に「天地院」を建立か。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
  • 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
  • 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
  • 723年 「三世一身の法」。藤原房前興福寺に施薬院・悲田院を設置。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
  • 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731)。
  • 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池」を建立、「檜尾池」を築造。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」および2池を起工。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。

《第Ⅲ期》 731-752 大仏開眼まで。

  • 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)7件を起工。
  • 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか4院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。山城國に「山崎院」ほか2院を建立。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 733年 行基、河内國に「枚方院」ほか1院を起工ないし建立。
  • 734年 行基、和泉・山城・摂津國に「久米多院」ほか4院・付属施設5件(貯水池・水路)を起工ないし建立。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。行基、和泉・大和國に「鶴田池院」ほか2院・1池を起工。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児(こんでい)」徴集を停止。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏(るしゃなぶつ)」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁(くに)」に入る。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立、「泉大橋」を架設。
  • 741年 「恭仁」に遷都。諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した 750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 行基、朝廷に「天平十三年記」を提出(行基集団の公認。官民提携の成立)。「紫香楽(しがらき)」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基に食封 900戸を施与するも、行基は辞退。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。
  • 752年 東大寺で、大仏開眼供養。

 

 

神 雄 寺 址     京都府木津川市城山台13丁目

 

 


【101】 「相楽別業」の謎――「神雄寺」址

 

 

 橘諸兄の「相楽別業」があった場所として、最近有力になってきた候補が、木津川の南側にある「神雄寺」址〔↓下図参照〕です。ここは「鹿背山」のすそに広がる台地の上で、2008-09年に発掘調査が行なわれ、山岳寺院の金堂・礼堂と見られる掘立柱建物遺構、木簡、墨書土器と多量の灯明皿、奈良時代中~後期の軒平/丸瓦などが出土しました。そこで、玉水の井堤寺址ではなく、こちらを「相楽別業」とする見解が増えています。たしかに、こちらは「相楽郡」内ですから、地名の問題もクリアできます。

 

 しかし、やはり難点もあって、「神雄寺」址は、遺構も出土遺物も、山岳寺院の跡を示すものが圧倒的に多いのです。この遺跡を「神雄寺址」と呼ぶことになったのも、「神雄寺」「神尾」「山寺」と書かれた墨書土器が数点出土したことによります。遺構も、質素な掘立柱建物の「山寺」で、玉水の「井堤寺」のような堂々たる大伽藍とはイメージが異なります。はたして、これが橘諸兄という朝廷貴族の第一人者の別邸だろうか? という疑問も浮かんできます。

 

 そこで、「神雄寺」址の性格をめぐって、貴族の邸宅か、山岳寺院か、という論争も行なわれています。私が訪問した「京都府立山城郷土資料館」の展示は、山岳寺院説に立っていました。

 

 そういうわけで、決着がつかないのですが、以下、双方の見解による説明を参照しながら、「神雄寺」址とその出土遺物を見ておきたいと思います。発掘実施機関による・かんたんな説明資料は、こちら

 

 

 

 

神 雄 寺 址     出土した彩釉陶器片。下は「左五」と線刻されている。

 

 

 ↑彩色を施した陶製断片が多数出ています。各片には「右三」「左五」「東廿一」などの文字が刻まれていて、組み立てて「須弥山(しゅみせん)」か「極楽池」を表したと思われます。

 

 

神 雄 寺 址          出土した 灯明皿 と 須恵器。

 

神 雄 寺 址          灯明皿 の出土状況。

 

 

 ↑このように、おびただしい数の灯明皿が出土しています。灯明皿にはススが付いているので、油(胡麻油か荏胡麻油)を入れて燈心を差し、水の流れに多数浮かべて「燃灯会(ねんどうえ)」を催したと考えられます。このような催しには、不特定多数の来場者が予想され、従来の閉鎖的・特権的な「護国仏教」とは異なった大衆的な仏教のあり方が始まっていたことを考えさせます。

 

 大衆的な参拝者を集めて、闇の中に、彩色の施された「須弥山」ないし「極楽浄土」が浮かび上がるさまを演出し、死者の魂を思わせる無数の「燃灯」を死後の世界に送り出す・厳かなショー儀式が執り行われたのでしょう。それは、パンデミックによって多くの肉親・朋友を失なった人びとを慰める行事であったにちがいないと思います。

 

 

神 雄 寺 址       和歌木簡(左) と 「黄葉」墨書土器(右)

 

 

 問題になるのは、↑この出土遺物です。左の木簡には、のちに『万葉集』に収載された「詠み人知らず」の和歌:

 

『秋萩(あきはき)の下葉(したは)もみちぬ あらたまの月の経ぬれば 風を痛みかも』

『万葉集』十-2205.   

 

 の初めの部分が万葉仮名で書かれています。表音のみの万葉仮名で、当時の人にとっては易しい書き方です(『万葉集』では、同じ歌が、訓読みをまじえた難しい表記になっています)。「秋萩の下葉が紅葉しました。月が経って風が強くなったせいでしょうか」。裏には「越中守」と習書〔習字のために何度も書くこと〕が書かれています。

 

 右の須恵器杯の裏には「黄葉(もみぢ)」と墨書されています。左の和歌木簡と併せて考えると、「もみぢ」を題とした歌会が行なわれたことも考えられます。杯は、褒美の酒をつぐ器かもしれませんし、「曲水の宴」かもしれません。「十-2205」は当時ハヤった歌なのでしょう。題に対しては、自作ではなく・世間に知られた歌を朗誦して答えてもよいのです。

 

 そうすると、これは「燃灯」とは異なって、相当に教養のある人たちの宴席が催されたことが考えられます。そこで、習書の「越中守」ですが、大伴家持は 746-751年に「越中守」を歴任しているので、その頃なら家持を指すかもしれません。大伴家持は、橘諸兄と親しい若い官人のひとりで、諸兄は 737年秋に、家持ほか数名の官人を自分の「旧宅」に呼んで、「黄葉」を題に歌会を催しています。

 

 時期が前後するので、その歌会が、ここで行なわれたわけではないかもしれませんが、それにしても、この場所は諸兄と関係がある。諸兄の「相楽別業」は、ここかもしれない、という推測を誘います。(小笠原好彦『聖武天皇が造った都』,2012,吉川弘文館,pp.55-59)

 

 しかし、ここはあくまでも「神雄寺」という山岳寺院で、諸兄の別宅ではなかった、と考える人たちは、和歌木簡についても、大衆的な「燃灯会」や法会との関係を考えます。(以下は、「山城郷土資料館」の展示説明をもとに書いています)

 

 ここでは、和歌木簡だけでなく楽器も出土しています。そこで、おおぜいの不特定の参集者に、和歌木簡で歌詞を示しながら、仏前での弾琴唱和を行なったと推定することができます。和歌木簡は、いわばカラオケの役割をしたことになります。それゆえにこそ、わかりやすい音読み表記で、楷書でくっきりと書いているわけです。

 

 その場合、大衆的な参集者に食事をふるまい、音楽で楽しませる賑やかな行事だったと考える向きもあります。しかし、記された和歌の内容↑を見ると、流行歌だとしても、どこか悲しげな無常観を漂わせています。やはり、和歌の唱和もまた「燃灯」と同様に、賑やかな中にも厳かな・仏前の儀式だったのではないでしょうか。

 

 日本的な大衆文化の形成ということを考えるうえで、ここは重要なポイントかもしれません。その起源が、天然痘パンデミックという、世界史でも有数の激甚災害の経験だったということは、いちどじっくりと考えてみる必要のあることかもしれません。

 

 

平 城 宮 大 極 殿〔第1次〕  周りの家や電柱と比べると、巨きさがわかる。

「恭仁京」遷都時には、解体されて「恭仁宮」に移転した。

 

 


【102】 風光明媚だが‥‥「山と川の都」は不便

 

 

 木津川の南、「神雄寺」址のあたりに「相楽別業」があったとすると、諸兄がそこに聖武天皇を迎えて催した 740年5月の宴席は、直接に「恭仁京遷都とむすびついてきます。新都の予定地で、地形や風景、また木津川「泉津」の舟運の賑わいを見ながら、あれこれと都市計画の構想を練る相談が可能になるからです。


 そこで、前回の詳細年表を、少し先まで補充して再掲するとに、↓つぎのようになります:

 

  • 737年 天然痘の大流行、藤原4子の病没。「防人」を停止。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児」徴集を停止。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 2月、聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏」像を拝し、大仏造立を決意;5月、橘諸兄の「相楽別業」に行幸し、饗宴の席上、橘奈良麻呂〔諸兄の長男〕に叙位。9-11月、藤原広嗣の乱。10-12月、聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、12月、「恭仁(くに)」に入る。この年、良弁、金鍾寺(のち東大寺)に審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立、「泉大橋」を架設。
  • 741年 元旦、「恭仁宮」で遷都宣言か。1月、広嗣の乱により死罪26人等処罰247人。2月、諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔;橘諸兄?、泉橋院行基を訪ねて官民提携を交渉。3月、5位以上の官人に「恭仁京」移住を強制。8月、諸國に「大赦」を施行。7-10月、「恭仁京」の「鹿背山東河」に架橋させ、労役した「行基集団」750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 行基、朝廷に「天平十三年記」を提出(行基集団の公認。官民提携の成立)。8月、「恭仁宮」南の大路西端に大橋を架設;「紫香楽(しがらき)」の造営を開始。
  • 743年 1月までに「恭仁京」大極殿完成。5月、「墾田永年私財法」。10月、紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。12月、「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 2月、「難波宮」を皇都と定める勅。この年聖武天皇、行基に食封 900戸を賜与するも、行基は辞退。行基(77歳)、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 1月、「紫香楽宮」に遷都;行基を大僧正とす。5月、「平城京」に都を戻す。8月、平城京の金鍾寺(のち東大寺)で、大仏造立を開始。

 

 740年 5月の「相楽別業」での宴席以後、あるいはその前後から、「恭仁京」造営は事実上開始されていました。造営の初期に大きなウェイトを占めていたのは、橘諸兄の承認のもと、「行基集団」による・「恭仁京」右京予定地の「泉橋院」ほか諸院建設と「泉大橋」の架橋でした。

 

 同年 12月には、聖武一行が「東方行軍」から「恭仁京」に帰還し、15日に遷都宣言を行なっています。しかし、元正・光明は「後に至った」と『続日本紀』にあり、元正太上天皇の到着記事は、翌 741年 7月にあります。光明皇后の来着も翌年でしょう。したがって、元正・光明は「東方行軍」に同行しておらず、「平城京」にいたことが明らかです。

 

 遷都宣言をしたとはいっても、まだ宮殿の建設さえこれからです。741年正月1日の「朝賀」は、「宮垣がまだ完成していないので、帳を引き廻らして垣のかわりとした。」と『続日本紀』は記します。もちろん、公式儀式を行なう宮殿である「大極殿(だいごくでん)」はまだありません。「平城京」の「大極殿」を解体して運んでいる最中だったでしょう。

 

 「大極殿」は、翌742年元旦の「朝賀」の記事でも「まだ未完成」とあり、743年正月「朝賀」記事で、ようやく完成を確認できます。

 

 

 

 

 「恭仁京」は、平地にある「藤原京」や「平城京」と違って、都城計画地の中央に大きな山があり、泉川(木津川)という大河が貫いています。そこで、都市計画は、右京と左京を隔て、また、大路が河にぶつかる箇所には橋を架けなければなりません。

 

 右京の「泉大橋」は先に架設されていましたが、左京はどうでしょうか? 『続日本紀』には、741年 7月から 10月にかけて、「賀世山(鹿背山)東の河」に「行基集団」が架橋工事をしたという記事があります。記事には「畿内及び諸國の優婆塞ら」とありますが、これは「行基集団」を指しているということで、学者の意見が一致しています。

 

 「鹿背山・東の河」の架橋地点は、↑上図に示したように2か所が考えられます。しかし、その後 742年 8月に、「宮城より南の大路の西はしと、甕原離宮より東との間に、大橋を造らせた」という記事があります。そうすると、741年の「鹿背山・東河橋」は、「恭仁宮」真南の南北の橋かもしれません。

 

 ともかく、「鹿背山・東河橋」の建設は、これと、翌年の『天平13年記』提出によって「行基集団」が公認されることとなるので重要です。

 

 ところが、742年 8月になると、聖武天皇は、まだ「恭仁京」は造営途上なのに、その東北方の奥地にある「甲賀」に「紫香楽(しがらき)」の建設を始めます。この段階では「紫香楽」は離宮の扱いにも見えますが、翌743年には、「紫香楽」に行幸して、そこで「大仏造立の詔」を宣言するとともに、「恭仁京」造営を中止してしまいます。

 

 それでは「紫香楽」に遷都するのかと思うと、744年 2月に「難波宮」で遷都宣言。この年、「摂津國」での「行基集団」の集中的な土木工事は、「難波宮」遷都に対応したものかもしれません。しかし、時に行基 77歳。よくこれだけの統率力を発揮できたものだと驚かざるをえません。

 

 ところが、聖武天皇は踵(きびす)を返して、745年 1月「紫香楽宮」で遷都宣言。5月には、また翻って「平城京」に帰還し復都。

 

 この気まぐれのような動きに対して、一貫して協力を続けている行基にも、「行基集団」にも、まったく動揺が起きなかったのかどうか。。。。じつは、その消息をうかがわせる記述が、行基関係資料には見出せないこともないのです。が、これについては後ほど、解釈の議論をします。

 

 ともかく、聖武のこの複雑な動きは何なのか? 本人の性格の優柔不断さに帰する見解、また、橘諸兄、藤原仲麻呂、光明皇后といった周囲の人々の意向に振り回されていたとする見解が、好んで唱えられています。しかし、私は、聖武という人は優柔不断どころか、きわめて我の強い、独裁者の素質さえある帝王だと思っています。

 

 試行錯誤なのか、乱脈なのか。その行動を解明するカギは、やはり、前回【99】で指摘したような・遷都決定にかかわる5つの要因にあると思います。とりわけここで重要なのは:

 

② 交通の要地・物資の集散地であること。

 

③ 地形・風景に対する聖武自身の好み。

 

 この2つだと思います。賑やかな交通の要地は、騒々しくて居心地悪い。山紫水明けしきの良い場所は、道もなく不便。②③の両立は、なかなかに難しそうです。この2要因の綱引きで、ブラウン運動のような不規則な政策変更が生じているのではないか‥‥。そういう視角で考えてみたいのです。

 

 

木津川橋から「恭仁京」左京方面を望む。

正面の谷奥、右の岸が、「甕原離宮」のあった位置。

 

 


【103】 「恭仁京」を讃える和歌

 

 

 聖武天皇は、遷都以前から泉川岸の「甕原[瓶原](みかのはら)離宮」に何度も行幸しており(即位後だけで 727年5月4~6日、736年3月1~5日、739年3月2~5日、同月23~26日)、この山河の風景が、ことのほか気に入っていたようです。が、はたして、風光明媚のリゾート地が、国都にもふさわしいかどうか。。。

 

 「東方行軍」ではブータレていた大伴家持も、この都は気に入ったらしく、↓「恭仁京」を讃える歌を詠んでいます。

 

 

『今造る 久邇(くに)の京(みやこ)は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし〔もっともに思われる〕

『万葉集』六-1037 大伴家持.  

 

 

 ところが、ところが、‥‥よく調べてみると、この歌は、743年、聖武天皇に随行して「紫香楽宮」にいた時に詠んだとのこと。今造ってる「恭仁京」でいいじゃないですか。「恭仁京」こそ都にふさわしいですよ。いまさらまた新しい都を探して遷都するなんて、やめてください。「恭仁京」に帰りましょうよ。――そう言っているように聞こえますね。家持がこれを(おそらく天皇の御前で)詠んだのが 8月。しかし、聖武天皇は 10月には「紫香楽」での「大仏造営」を決定し、12月には「恭仁京」の造営を中止してしまいます。

 

 ともかく、その家持も、「恭仁京」へと聖武を説得するポイントとしては、「山川の清けき」風景美を持ち出しているわけです。聖武が「恭仁京」を最初の遷都地に選んだ理由は、交通でも産業でもなく、もっぱら風景の美しさだった、ということがわかる一首です↑。

 

 

『山背(やましろ)の 久邇(くに)の京(みやこ)は 春されば 花咲きををり 秋されば もみち葉にほひ 帯(お)ばせる 泉の川の 上つ瀬に うち橋渡し 淀瀬には 浮き橋渡し あり通ひ 仕へ奉(まつ)らむ 万代(よろづよ)までに』

『万葉集』十七-3907 境部老麻呂.  

 

 

 ↑こちらは、大伴家持のような下心はなく、「恭仁京」の四季の美しさを素直に褒めたたえています。それでも、この地が都として機能するために欠くことのできない道路の整備、架橋工事に言及することを忘れてはいません。身命を賭して工事に献身する「行基集団」その他の技術者・役夫の存在を、行間に読みとることができます。

 

 いきなり「平城」の都を捨てて移るように強制された官人たちは、天皇の言うことなら何でも賛成、言われるがまま――だったわけではなさそうです。おもて向き賛美しながらも、心の裡では疑問を抱く人が多かったのではないでしょうか。

 

 

『 久邇の新京を讃むる歌 幷短歌二首

 

 現(あき)つ神 吾(わご)大君の 天(あめ)の下 八島(やしま)のなかに 国はしも 多くあれども 里はしも 清(さや)にあれども 山並の 宜しき国と 川なみの 立ち合ふ里と 山背(やましろ)の 鹿背山(かせやま)のまに 宮柱 太敷きまつり 高知らす〔造営なさった〕 布当(ふたぎ)の宮は 川近み 瀬の音(ね)ぞ清き 山近み 鳥が音(ね)(とよ)む 秋されば 山もとどろに さ牡鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺もしじに〔丘にいっぱいに〕 巌(いわほ)には 花咲きををり〔どっさり咲いて〕 あなおもしろ 布当の原 いと貴(たふと) 大宮所 うべしこそ〔もっともなことだ〕 吾(わご)大君は 君ながら 聞かしたまひて〔臣下の意見を聞いて〕 さす竹の 大宮ここと 定めけらしも

 

 三香原(みかのはら) 布当の野辺を清(きよ)みこそ〔…を…み:because〕 大宮所 定めけらしも

 

 山高く 川の瀬清し 百代(ももよ)まで 神(かむ)しみゆかむ 大宮所』

『万葉集』六-1050~1052 田邊福麻呂.  



 ↓下の歌碑も福麻呂の歌。泉川(木津川)が広くて渡りにくく、不便‥‥と言っているようにも。。。

 

 

狛山に 鳴く霍公鳥 泉川 渡りを遠み ここに通はず

〔狛山ではホトトギスが鳴いているというが、泉川が広くて

対岸は遠いので、こちらに渡っては来ない〕【万】六-1058

 

 

 

 

 

 

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