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リベラルブログ・生活保護者の色々な記事

腎臓病と不安神経症で生活保護者。社会やニュース、その他、様々なこと、思ったこと、感じたこと色々なことをブログ記事にしていきたいと思っています。

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731部隊より知られざる日本の秘密細菌部隊『関東軍満州第100部隊』:捕まった人は誰一人生き残ることはなかった。

731部隊と言えば、知らない人は居ないが、同じく吉林省にある、関東軍満州第100部隊の存在はあんまり知られていない。731部隊と並んで、生物兵器の研究を盛んに行った部隊だった。

日本政府から満州第100部隊に関する情報がほとんど開示されていないため、その真実を知るのは困難を極める。敗戦前夜、第100部隊は関東軍総司令官山本乙三の命令で、ほとんどの研究施設を破壊し、資料はすべて焼却処分とした。

しかし、無数の証言により、第100部隊の存在が明らかになった。



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第100部隊の駐屯地は長春市西環路にある。今でも10メートル以上の煙突と20平米未満の庭があり、第100部隊の罪の証拠になっている。

去年9月、世界反ファシズム戦争勝利70周年の際に、長春市は第100部隊の跡地を保護対象にすることを決定した。その管理は満州皇宮博物院に任せるという。

博物院の副院長が記者に語った。
「731部隊は黒死病、コレラ、脱疽、チフス菌などを研究対象にしていたのに対し、第100部隊は鼻疽、炭疽、牛疫などを研究対象にしていた

「第100部隊が正式に出来上がったのは1939年。司令部、総務部と、5つの菌類研究開発部門からなり、実験用農場と牧場も管理していた」


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写真は馬に炭疽ワクチン接種をしている第100部隊の技術員


「私は毎日のようにあの煙突から白い煙が出てくるのを見ていた。一日10人死ぬとすれば、少なくとも数千人は死んだのだろう。寒さ耐性実験のために使われた人間が凍え死に、その死体は燃やしにくいと言うことで埋められていた」。ある目撃者がこう語りました。
「ある御者は日本軍に伝染病に感染したという理由で強制的に連行され、その後彼の姿を見たものは居ないという。その御者の使い人は全身に白い布で包まれ、実験材料にされたという」

第100部隊の研究施設を見学したことがあるという人がこう言いました。「私たちはある陳列室に案内されました。そこには巨大の試験管があり、中には黄色いホルマリンに浸かっている人間の頭、手、腕、太もも、肝臓、生殖器があった。見てられなかった

太平洋戦争勃発後、第100部隊は生物兵器の研究開発に取りかかった。日本軍は鼻疽、炭疽、牛疫、黒死病の病原菌を飛行機で散布し、大量の被害者が出た。戦犯高橋隆篤の証言によると、第100部隊は1941年からのわずか一年間で、炭疽菌1000キロ、鼻疽菌500キロ、サビキン100キロを製造していたという。そのほとんどが浙江戦場に使われていたという。
その悪魔の部隊が中国人にもたらした被害は戦後に続く。敗戦前夜、第100部隊は大量の菌を井戸に投下し、実験用のマウスも大量に逃がした。
その結果、長春地方でコレラが流行し、数千万人が死亡した。
今でも旧日本軍が残したと思われる生物兵器がたびたび見つかり、中国人に衝撃を与え続けている。

「軍機」医学、歴史の闇に <731部隊軍医の博士論文>

http://www.kyoto-np.co.jp/picture/2018/01/2018011731部隊の石井四郎部隊長からの書簡(立命館大平
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和ミュージアム・竹澤正夫資料)
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731部隊の石井四郎部隊長からの書簡(立命館大平和ミュージアム・竹澤正夫資料)
 京都府精華町の国立国会図書館関西館で閲覧した731部隊の平澤正欣軍医の博士論文には不自然な点がある。当時の学術論文でも実験にサルを使う場合、通常は「タイワンザル」などと特定して書く。「特殊実験」とは人間にペストを感染させた生体実験だと、複数の研究者が指摘している。
 平澤軍医は戦死したが、終戦後の1945年9月、京都帝国大医学部は博士号を授与した。医学者を派遣するだけでなく、軍医らに博士号を出す学術的権威の仕組みとして帝国大学は731部隊を支えた。軍事機密の判を押され、公開されなかった学術論文。
 京大に対し、人道に反した不正な論文だとして、今月にも「731」学位検証を求める会を設立する準備が、京滋で進められている。
 京都帝大医学部4年の時に731部隊長石井四郎の講義があったと、昨年105歳で亡くなった日野原重明・聖路加国際病院名誉院長は何度か語ってきた。「細菌、ウイルスを食事や動物を介して患者に感染させて、何週間で熱がこのように出て、脳死を起こして死んでしまうというグラフなどもありました」(2012年「医師のミッション-非戦に生きる」)
 731部隊の実態を知る元隊員は戦後73年を経て、もう少ない。だが、歴史的な資料を次代に継ごうとする人はおり、貴重な資料が京都にもある。
 立命館大国際平和ミュージアム(京都市北区)に09年、「竹澤正夫資料」が遺族により寄託された。731部隊員の生活や武道日誌。極秘印が押された「野戦防疫給水部勤務ノ参考」。ノモンハン事件に731部隊が出動、銃撃され重傷を負うなどした「国境事変出動日誌」もあった。
 中でも戦友会誌のため戦後寄せられた北條円了軍医大佐の書簡と直筆原稿は貴重だ。ドイツで細菌学も研究した東京帝国大医学部卒。731部隊でチフス研究をした経過を述べ、敗戦時にドイツから戻る途中、米国で勾留され尋問された様子も記す。癖のある字で、長文だが、北條軍医は自分が生体実験をしたとは一言も書いていなかった。
 竹澤氏は元731部隊員だが、武道師範で太平洋戦争開戦に同部隊を離れている。戦後は警察で武道教師として勤務、戦友会の事務局も務めた。戦中は、研究施設とは遠く、少年隊員の「東郷学校」教育や自治会と、普段の暮らしのあったことが資料から読み取れる。細菌研究と無縁だったからこそ資料を廃棄せず、戦友会活動にも熱心だったのかもしれない。
 2006年、竹澤氏は長野県で亡くなった。孫の男性(31)は遺品を整理している時、「石井四郎」とある書簡に気付いた。731部隊は中学生の時に森村誠一氏の「悪魔の飽食」を読んで知っていた。
 祖父は戦争の話をせず、祖父が野戦病院で命を取り留めたと祖母から聞かされたぐらい。祖父は几帳面で731資料を封筒で分類し、アルバムには説明も付されていた。「森村誠一さんの731部隊についての本に、祖父は線を引いていました。戦後、複雑な思いだったでしょう。731部隊は施設を爆破し証拠隠滅したとされますが、極秘資料を祖父が持ち帰ったのは奇跡的です」
 731部隊の人体実験を巡って論争があり、追及する研究者に「売国」などと匿名の罵倒がネットで飛び交う。身内が負の歴史に関わったことを公にするのは勇気がいったのか、聞いてみた。
 「いいえ。自宅で保管するよりも、1次資料を散逸させず、歴史の暗部を探究する人に役立てたい」。孫はデリケートな隊員の個人情報も含む資料に対応できる博物館を全国で探し、平和ミュージアムに行き着いた。(12回続きの8回目)
 ■【次回】 不失其正。そう書かれた扁額(へんがく)が明治35年築の京大医学部資料館、旧解剖学講堂に掲げてあるという。中国の古典「易経」から、正しさを見失わないことの意。731部隊の系譜をたどり、石井四郎と病理学教室清野教授が出会った大正時代へ、樺太のアイヌ民族の遺骨へとさかのぼる。医学部資料館を訪れると、扁額は修復中で取り外されていた。
【 2018年01月20日 19時10分 】

特殊実験「サル」が頭痛? <731部隊軍医の博士論文>

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立命館大平和ミュージアムに寄託されている「竹澤正夫資料」には、貴重な731部隊の写真が含まれている
 戦時中まで京都帝国大病理学教室の教授だった清野謙次が1955年に亡くなった通夜の席で、同教室で学んだ関東軍防疫給水部「731部隊」元部隊長、石井四郎元中将は話した。「ハルビンに大きな、まあ丸ビルの14倍半ある研究所を作っていただきまして、それで中に電車もあり、飛行機も、一切のオール総合大学の研究所が出来まして」(清野を追悼する「随筆遺稿」より)
 旧満州のハルビン近郊にあった731部隊は終戦時で約3900人、博士号を持つ医官は53人いた。ペスト菌などの細菌戦を研究し、中国人捕虜らで人体実験をしたとされる。石井は恩師、清野の貢献を語る。
 「先生が一番力を入れてくれたのが人的要素であります。各大学から一番優秀なプロフェッサー候補者を集めていただいた。先生が拍車をかけられまして、段々に、最後に大東亜の全面にわたつて、この民族線防禦(ぼうぎょ)の第1次完成をみたのであります」(同)
 京大医学部を出て731部隊で凍傷研究をし、戦後は京都府立医科大学長になった吉村寿人によると、「京大の助教授・講師級の若い者が8名(病理学3、微生物学2、生理学2、医動物学1)が軍属として派遣されることになった」(「喜寿回顧」より)。戦後、京大出身の元731部隊員は医学界に戻った。石川太刀雄は金沢大医学部長、岡本耕造は京大医学部長に。
 学者以外にも京大出身者はいる。石井の片腕といわれた増田知貞軍医大佐も、戦後ミドリ十字を設立した内藤良一軍医中佐も京大医学部卒。731部隊の人脈。製薬業界で成功した元隊員も多い。石川らが米側に人体標本と引き換えに戦犯を免れたことが、研究者が発掘した米側資料で裏付けられている。
<遊泳船真紅き浮標のすぐ横に>
 石川太刀雄が京大時代に夏の琵琶湖で遊覧船に乗り、真野の沖合を進んで雄松(近江舞子)の船着き場で作った句。文芸にも夢を抱いた若者たちは、軍事研究でその人生を変えた。
 731部隊は終戦時に施設を爆破し、元隊員の多くは沈黙を守った。京大がどう関与してきたか、全容は明らかではない。
 西山勝夫滋賀医科大名誉教授は、京大が731部隊関係者33人に医学博士号を授与した論文を検証してきた。イペリット、炭疽(たんそ)菌、コレラ菌…学位論文の題は731部隊の研究と重なる。京大で保存されていない論文もあるという。
 京都府精華町の国立国会図書館関西館へ向かった。閲覧したのは、731部隊の平澤正欣軍医少佐が終戦直前の45年5月、京大に提出した博士論文「イヌノミのペスト媒介能力ニ就(つい)て」。薄いリポートだ。「特殊実験」でペストを保菌するノミを付着させると「サルは附着(ふちゃく)後6~8日にして頭痛、高熱、食思不振を訴へ」たと論文に書いてある。1匹は39度以上の熱が5日続き、付着後13日目に死亡。論文を発掘した常石敬一神奈川大名誉教授は「サルが頭痛を訴えるだろうか?」と、人体実験だと指摘する。
 記者は日本モンキーセンターと京大霊長類研究所に「サルの平熱は何度ですか?」と尋ねた。サルの種類を特定しないと体温が違う上、睡眠中は朝方に低いなど1日でも変動する。霊長類研は「ブタオザルとニホンザルの場合、昼に38~39度くらいが、人間の平熱に相当するのでは」という。素人の目でも医学博士の論文にしては、ずさんにみえる。
(12回続きの7回目)
【 2018年01月20日 19時00分 】
 京都府精華町の国立国会図書館関西館で閲覧した731部隊の平澤正欣軍医の博士論文には不自然な点がある。当時の学術論文でも実験にサルを使う場合、通常は「タイワンザル」などと特定して書く。「特殊実験」とは人間にペストを感染させた生体実験だと、複数の研究者が指摘している。
 平澤軍医は戦死したが、終戦後の1945年9月、京都帝国大医学部は博士号を授与した。医学者を派遣するだけでなく、軍医らに博士号を出す学術的権威の仕組みとして帝国大学は731部隊を支えた。軍事機密の判を押され、公開されなかった学術論文。
 京大に対し、人道に反した不正な論文だとして、今月にも「731」学位検証を求める会を設立する準備が、京滋で進められている。
 京都帝大医学部4年の時に731部隊長石井四郎の講義があったと、昨年105歳で亡くなった日野原重明・聖路加国際病院名誉院長は何度か語ってきた。「細菌、ウイルスを食事や動物を介して患者に感染させて、何週間で熱がこのように出て、脳死を起こして死んでしまうというグラフなどもありました」(2012年「医師のミッション-非戦に生きる」)
 731部隊の実態を知る元隊員は戦後73年を経て、もう少ない。だが、歴史的な資料を次代に継ごうとする人はおり、貴重な資料が京都にもある。
 立命館大国際平和ミュージアム(京都市北区)に09年、「竹澤正夫資料」が遺族により寄託された。731部隊員の生活や武道日誌。極秘印が押された「野戦防疫給水部勤務ノ参考」。ノモンハン事件に731部隊が出動、銃撃され重傷を負うなどした「国境事変出動日誌」もあった。
 中でも戦友会誌のため戦後寄せられた北條円了軍医大佐の書簡と直筆原稿は貴重だ。ドイツで細菌学も研究した東京帝国大医学部卒。731部隊でチフス研究をした経過を述べ、敗戦時にドイツから戻る途中、米国で勾留され尋問された様子も記す。癖のある字で、長文だが、北條軍医は自分が生体実験をしたとは一言も書いていなかった。
 竹澤氏は元731部隊員だが、武道師範で太平洋戦争開戦に同部隊を離れている。戦後は警察で武道教師として勤務、戦友会の事務局も務めた。戦中は、研究施設とは遠く、少年隊員の「東郷学校」教育や自治会と、普段の暮らしのあったことが資料から読み取れる。細菌研究と無縁だったからこそ資料を廃棄せず、戦友会活動にも熱心だったのかもしれない。
 2006年、竹澤氏は長野県で亡くなった。孫の男性(31)は遺品を整理している時、「石井四郎」とある書簡に気付いた。731部隊は中学生の時に森村誠一氏の「悪魔の飽食」を読んで知っていた。
 祖父は戦争の話をせず、祖父が野戦病院で命を取り留めたと祖母から聞かされたぐらい。祖父は几帳面で731資料を封筒で分類し、アルバムには説明も付されていた。「森村誠一さんの731部隊についての本に、祖父は線を引いていました。戦後、複雑な思いだったでしょう。731部隊は施設を爆破し証拠隠滅したとされますが、極秘資料を祖父が持ち帰ったのは奇跡的です」
 731部隊の人体実験を巡って論争があり、追及する研究者に「売国」などと匿名の罵倒がネットで飛び交う。身内が負の歴史に関わったことを公にするのは勇気がいったのか、聞いてみた。
 「いいえ。自宅で保管するよりも、1次資料を散逸させず、歴史の暗部を探究する人に役立てたい」。孫はデリケートな隊員の個人情報も含む資料に対応できる博物館を全国で探し、平和ミュージアムに行き着いた。(12回続きの8回目)
 ■【次回】 不失其正。そう書かれた扁額(へんがく)が明治35年築の京大医学部資料館、旧解剖学講堂に掲げてあるという。中国の古典「易経」から、正しさを見失わないことの意。731部隊の系譜をたどり、石井四郎と病理学教室清野教授が出会った大正時代へ、樺太のアイヌ民族の遺骨へとさかのぼる。医学部資料館を訪れると、扁額は修復中で取り外されていた。
【 2018年01月20日 19時10分 】

    3月22日、第3回裁判があった。裁判長に叱られて未だに落ち込んでいる。

    裁判は10分ぐらいで終了。俺は裁判長が無能かつ公平ではないと判断して裁判長を無視して相手の弁護士の相変わらずの虚偽の記載及びあり得ない準備書面に対してケンカ腰に向う側に座っていた弁護士に口論を仕掛けた。

    俺は完全に裁判長を見下していて好き勝手に言いたいことを大声で弁護士を攻撃していた。

    すると突然裁判長が「masaoさん!!!(私の苗字)」と今まではぼそぼそ耳を立てないと聞こえない声で話していた裁判長が突然大きな声で俺を戒めた。俺は裁判長に大きな声で名前を呼ばれて、それまで弁護士を言いたい放題口論を仕掛けていたのをピタリと止めた。

    ショックだった。まるで天から叱られているかのように思った。そしてそのショックは未だに続いている。裁判報告が遅れたのもショックで書く気が起きなかったのと、どう書いて良いかわからなかったからだ。

    確かに俺にも悪いところがあると思う。だけど裁判長があんな風に大声で叱りつけるというのは裁判をコントロールしていないという証拠である。

    裁判長はあんな風に大声で諫めてはいけない。被告とはいえショックを与えることをしてはいけない。何故俺を怒鳴らなければいけない事態になっているのかということを考えなくてはいけない。裁判長は反省すべきだ。

    要は裁判をコントロールしていないからこういうことになっているのだ。

    即ち俺に対して裁判をするということは全力を出さないと俺をコントロールすることはできないということを気付くべきだ。俺は普通の生活保護者ではない。

    次回の裁判は4月26日だ。


    2018年2月22日(木)、簡易裁判所で第2回裁判があつた。今回から本格的な裁判だったはずが、大変に混雑して11時からの裁判が約30分遅れ。私の後にも人が待っていて、本来最低でも10分はあるはずなのに5分ぐらいで終わり。何も変わることなく何も進まなかった。

    1つ分かったことは、裁判では証言する時間はないということだ。従ってその裁判の前に提出する準備書に言いたいことをたくさん書いて提出しておかなければいけないということ。

    次の裁判は3月22日(木)、ここまでに言いたいことをたくさん書かないといけない。すごく面倒だ。

    しかし自分の順番の前の裁判を見ていたが、裁判長と弁護士同士のやり取りを見ていたが、なんか談合をしているような感じというか、あらかじめ決められた政治家の答弁のやり取りを聞いているようで、アニメ逆転裁判の「異議あり!!」みたいなようなことはないんだなと言うことは分かった。その中で俺の声だけは大声で裁判所のなかで響いていたのでまるで自分だけが場違いにいるようだった。

    兎に角裁判というのはつまらん。全く相手とのやり取りもなく、裁判長も俺の言葉をすぐ遮る。がっかりだ。


    裁判とは、単なる書面のやり取りだと見つけたり、だ。

    人生で初めて裁判をした。でも5分~10分で、第一回は顔見せ程度で全く書くことがない。兎に角時間が短すぎる。これでは判決まで何回かかるか@_@。しかし裁判官がいて書記?がいて証言台があって相手の弁護士と向かい合って、TVやドラマどおりの裁判に感激した。「ああ、俺は裁判所の中にいて本物の裁判をしているんだなと。」
    短かかったけど面白かった。

    次回は2月22日11時(木)から。今回は1月11日11時、1号法廷。次回は2月22日。何だこの数字のそろい方は。

    兎に角ドライブレコーダーを提出してくれるので、作っていなければ一発で分かるはずだ。DNA鑑定と同じだからな。映像で見れば真実が一発で分かる。よく提出を言ってくれた。自信があるのかな?俺は提出するとウソがばれるので隠すと思っていたが提出すると約束したから結構早く終わるかも。

    しかし2回目が一か月先なんて長すぎる。もう少し早く裁判長が提案したが相手の弁護士が伸ばしてくれと。伸ばしても嘘は嘘。俺の証言も時間がないから途中で止められたしどうにかならんか日本の裁判は。もっと早く進めないと駄目だ。日本の裁判の長さは時間の無駄遣い税金の無駄遣いだ。

    兎に角ドライブレコーダーを裁判所と俺の家に送るそうだから見るのが興味深い。俺もあの時一体何が起きたのかドライブレコーダーを見て見たい。

    次の裁判は2月22日だ。
    訴えられて裁判になってしまいました。2018年1月11日に簡易裁判所に出頭命令が来ました。

    理由は私の買い物のカートがスーパーの坂を滑って、S氏の車の左ドアに当たって40センチぐらいの傷が真横に付いたとして警察を呼んで、私が支払うと約束しましたが、送られて来た写真は全く関係ない所をあちこち修理され、全身塗装に防水塗装で約15万円請求されたので、さすがにこれは事故詐欺だと支払い請求を無視していたら、相手が弁護士を立てて私を訴えてきました。


    裁判自体は勝つ自信がありますが、問題は私の身体が病身なので裁判に行けるかどうかです。一応、出席しなくてもいいように答弁書を書きましたが、こちらは弁護士がいないので私一人で闘わなければいけないので、欠席するといい様に言われて負ける可能性があります。だから出席したいのですが、少しだけ遠いので行けるかどうか自信がありません。


    兎に角関係のないところまで修理しているし、カートが絶対に届かない所の傷まで修理しているので私が出頭できれば100%勝つ自信はあります。問題は裁判所に時間までに行けるかどうかです。いつもはまだ寝ている午前中に開始で、もう何年も乗っていない電車にも乗らなければいけないなど、出頭できるかが問題です。

    兎に角、人生で初めての裁判が始まります。

    裁判は2018年1月11日午前11時からです。
    [CBSノーカットニュース]     2017年08月04日

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    来る10日KTとSKの試合で始球者を務める李オクソンさん。 日本軍慰安婦の被害者としては初めてKBOのリーグ戦始球式を務めた。
    プロ野球KTとSKが独立記念日を迎え、意味深いイベントに向けて意気投合した。 日本軍慰安婦のお婆さんたちの為に手を握った。

    先にKTは3日「来る10日、京畿道水原KTウィズパークで開かれるKIAと'2017タイヤバンクKBOリーグ'ホーム試合に李オクソン(90)さんを始球者に招待する」と明らかにした。 来る15日光復節の行事で、日本軍慰安婦被害女性のKBOリーグの始球式は今回が初めてだ。

    この行事についてKTは「慰安婦被害者を慰労・支援して、社会的関心を集めるための目的」と説明した。 李オクソンさんも社会にメッセージを伝えという意志を見せ、快く提案を受諾した。

    李さんは始球式前マウンドでktの選手団とファンに希望のメッセージを伝えるインタビューも行う予定だ。 KTは、日本軍に苦難を受けた後遺症とひどい退行性関節炎を経験する李さんを向け、始球式の位置を調整したり、機構を提供する案を検討中だ。

    釜山出身の李さんは、14歳の時、日本軍によって中国延吉に連れて行かれ、3年間さまざまな苦難を経験した。 以降、李さんは、米国、日本、オーストラリア、ドイツ、中国などから慰安婦の惨状を知らせる講演と、証言をするのに貢献してきた。

    これと共にSKは、慰安婦被害者のための様々なイベントも進める。 来る12、13日ktとホーム試合でSK選手たちがコラボレーションのユニホームを着用する。 13日には慰安婦被害者であるキル・ウォンオクさんの始球式とマリーモンド紹介文展示、動く少女像の運営、プラカードイベントなどだ。

    マリーモンドちはデザイン製品、コンテンツ、コミュニティを通じて、尊貴性を示唆する企業として毎シーズン、日本軍慰安婦被害者を記憶するため、お婆さんたちに固有の花を付与するヒューマン・ブランディングプロジェクト「花のおばあさん」を進めている


    歴史改ざんのネトウヨ等の右翼愛国者は『従軍慰安婦はただの商売慰安婦』と言っているが戦前の韓国で14歳で慰安婦の仕事をしていたとは考えられない。
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    当時の韓国内での日本軍の慰安婦募集のポスターでは右では【18歳以上30歳以内】、左では【17歳以上23歳まで】と書いてあり、14歳の慰安婦は存在しなかったからか、募集していなかったことがわかる。従って14歳で慰安婦として日本軍に連れて行かれたのは明らかに誘拐強制であり、商売慰安婦ではない。【明らかに従軍慰安婦である。】

    DAYS JAPAN (デイズ ジャパン) 2007年 06月号 [雑誌]
    この雑誌の特集記事『「慰安婦100人の証言』のデータを視覚化して見たのが次のグラフ。(Stiffmuscleの日記)
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    【明らかに日本軍人のための従軍慰安婦は、存在したのである。】

    台湾人元慰安婦が死去 馬英九前総統「日本の軍閥の残虐さを批判し続ける」

    中央社フォーカス台湾 4/22(土) 13:05配信

    台湾人元慰安婦が死去  馬英九前総統「日本の軍閥の残虐さを批判し続ける」
    (台北 22日 中央社)台湾人元慰安婦の陳蓮花さんが20日夜、腸破裂による感染症のため死去した。92歳。生存する台湾人慰安婦は3人だったが、残り2人となった。知らせを受け馬英九前総統は21日、フェイスブックを更新。「日本の軍閥の残虐な行為と日本政府の道理をわきまえない態度を引き続き批判していく」とつづった。

    陳さんは1924年生まれ。18歳の頃、「看護婦」の名義で半強制的に日本人にフィリピンに連れて行かれ、軍の性奴隷とされたという。陳さんは生前、日本政府に謝罪と賠償を求めていたが、願いは果たされなかった。

    馬氏は2014年4月17日、日本への台湾割譲119周年の日に陳さんを総統府に招き食事をともにしたほか、2015年5月の総統就任7周年の際にも来賓として陳さんを招待していた。

    馬氏はフェイスブックで「私たちは今度もずっとあなたの誠意と勇敢さを懐かしむでしょう」と悼んだ。慰安婦問題については「人道と人権の原則的な是非に関わる問題であり、忘れたり回避したりすることはない」との考えを示した。

    慰安婦記念館「阿マ(おばあちゃん)の家 平和と女性人権館」(台北市)には22日から、陳さんの追悼コーナーが設けられる。

    (陳至中、謝佳珍/編集:名切千絵)