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篭の鳥の憂鬱

トリカゴシリーズ番外。
『篭の鳥の憂鬱』




熱が、冷めない。


スザクがゼロとしての仕事で出掛けてから、三日。
抱かれることもなく、スザクがいないので食事も摂れず、紅茶ばかり飲み続けて、もう三日だ。
スザクに会いたい。
声が聞きたい。
抱きしめてもらいたい、くちづけを交わしたい。
ルルーシュの精神は、どんどんと絶望の底へと堕ちてゆく。
もし、このままスザクが帰ってこなかったら?
ゼロとなったスザクが暗殺のターゲットにされる可能性も、無くはない。
「スザク…スザク、スザク…」
ルルーシュは小さな声で、何度もスザクの名を呼んでみる。
帰ってこいと、ただひたすらに祈りながら。
ぼんやりとした意識でも、心も身体も限界なのはわかっていた。
車椅子を必死で動かして、玄関へと向かう。
ゆっくりとしか進めない電動の車椅子が欝陶しくてたまらない。
苛々、苛々。
脚が動けば、もっと早く行けるのに。
外に出て、スザクに会いに。
外に出たら駄目だよと、スザク本人から言われてはいるけれど、もう耐えられなかった。
三日間抱かれていない身体が熱くて、血が沸騰しそうな錯覚にとらわれた。
それに眩暈を感じた瞬間、どこかに引っ掛かったらしい車椅子が倒れる。
がしゃんと大きな音を立てて、倒れた車椅子とともにルルーシュは床に投げ出された。
痛い、切ない胸もぶつけた膝も、擦りむいたらしい頬も。
「すざく…す、ざく……!」
涙が溢れた。
ぼろぼろと、とめどなくあふれる涙をそのままに、ルルーシュは手を伸ばす。
指先に、何か硬いものが当たった。
倒れた時に落ちたらしいペンスタンド、そこに置かれていた鋏。
ルルーシュはぎゅっと鋏を握り締めた。
「こんな脚…動かない脚なんて、スザクに会いに行くこともできない脚なんて……っ!」
倒れたまま、左手に握った鋏を振り下ろす。
左の太股に、鋏がずぶりと刺さる感触。
焼けるような痛み。
溢れ出す血液を、ルルーシュは酷く冷たい瞳で見下ろした。
鋏は白い肌に、深々とただ突き刺さっていた。
溜め息をついて、その腿に触れる。
手が血まみれになるのと同時に、目の前がくらくらし始めた。
まずい、これは…多分、貧血だ。食事も摂れず、これだけ血を流したのだから当然の結果だろう。
「スザ…ク…どう、しよう…?」
くらくら、する。
寒い。
どうしていいかわからないまま、ルルーシュの意識は闇に落ちた。



スザクはエレベーターの中で、苛々しながら階数の表示されたパネルを睨みつけていた。
遅くても昨日には帰れる筈だったのに、今日でさえすっかり日も暮れてしまった。
ゼロとして、ナナリーの補佐やら会議に参加することには大分慣れてきたが…
ルルーシュはどうしているだろう。食事が無理でも、せめて水分だけでも摂取してくれているといいのだが。
そう、スザクは仮面の下で考える。
今日は遅くなった詫びにと、プリンアラモードと苺のショートケーキを買ってきた。
喜んでくれるといいんだけど…でも、怒ってるだろうな…ルルーシュ…
付き纏うマスコミや仕事の忙しさで、電話での連絡さえできなかったことが重く胸に引っ掛かる。
声くらいは聞きたかったのになと大きく溜め息を吐いたところで、エレベーターの機械音が最上階への到着を告げる。
扉が開くのももどかしく、スザクは走り出した。
ゆっくりと開く扉の向こうに見えるペントハウスに、明かりが燈っていないのだ。
日はもうとっくに落ちたし、なのに明かりがついていないのは、何か…彼に何かがあったということだ。
「ルルーシュっ…!」
手にしたケーキの箱が揺さぶられるのがわかったが、今はルルーシュの身の安全を確認するほうがずっとずっと大切だ。

鍵を開ける手間さえもどかしく扉を開けると、ぬるりと甘いような香りが立ち込めた。
もはや嗅ぎなれたこれは、血のにおい。
慌てて玄関先のパネルを操作し、明かりをつけると、倒れた車椅子と…少し離れた位置に、左腿から鋏を生やして横たわるルルーシュの姿があった。


「ルルーシュっ!!」
駆け寄って抱き起こした、その身体はすっかり冷え切っていた。
部屋着として使っているワイシャツ一枚でこんなところで、
部屋が荒らされた形跡がないことを一瞬で確認して、仮面を外す。
「ルルーシュ、ルルーシュ。。。」
僕だよと、真っ白な顔で目を閉じているルルーシュの肩をそっと揺さぶる。
「…ぁ……すざ、」
小さな呻きとともに目を覚ましたルルーシュは、スザクの顔を見た途端に泣き出した。
「スザク…スザク、スザクだ…スザク…っ!」
血塗れの太腿を気にすることもなく、身体を支えるスザクの胸に縋りついて泣きじゃくる。
「ルルーシュ…ごめんね、一人にして…」
囁いて抱きしめてやると、嗚咽が激しくなった。
「スザク…スザク帰ってきた…きてくれた…!」
「ルルーシュ…」
離れようとしないルルーシュの傷のことが心配で、そっと身体を離すと、ルルーシュは酷く悲しそうな顔でスザクを見上げた。
「スザク…?」
傍に居てはくれないのかと尋ねるような視線が、切ない。
「ルルーシュ…脚。手当てしないと…」
言われて初めて気付いたように、ルルーシュは自分の脚を見る。
刺さったままの鋏が押さえとなって出血は止まっているが、鋏を抜けばまた血が溢れるだろう。
本当なら病院に行った方が良い傷だ。
けれど、ルルーシュは病院には行きたくなかった。
せっかく三日ぶりに会えたスザクの体温を感じていたくて、離れたくなくて。
「これ…スザクが、抜いて…」
え、とスザクが驚いた声をあげる。
「駄目だよルルーシュ、今ちゃんとドクター呼ぶから…」
「いやだっ…!スザクがいい、俺には…スザクしか…っ!」
叫ぶようにルルーシュは言って、スザクの手を鋏にかけさせた。
ふぅ、とスザクは溜め息をつく。
「…わかった、今抜くから…痛いの、我慢できる?」
こくんと、涙に濡れた顔でルルーシュが頷く。
スザクは白い太腿に突き刺さったままの鋏を握り、一気に引き抜いた。
「ーーー!!」
ルルーシュが、声にならない悲鳴をあげてぼろぼろと涙を零す。
案の定血液が溢れてきた傷をルルーシュの手で押さえ、ちょっと待っててとスザクは救急箱を取りに立ち上がった。


「…どうして、こんなことしたの?」
消毒、ガーゼ、包帯と手際よく手当てをしながら、スザクは尋ねた。
ルルーシュがそっと唇を噛み、いらないと思った、と呟く。
「歩けなくて…スザクに会いたいのに、会いにもいけなくて…そんな脚、いらないって…」
俯いたまま呟くルルーシュの瞳から、ぽろぽろと涙が零れた。
会いたくて、ただ会いたくて。
それだけにつき動かされて、ルルーシュは外に出てはいけないという約束さえ反古にしようとしたのだ。
ぼやけた意識の中、苛立ちにまかせて自分自身を傷付けてしまう程に憔悴して。
包帯を巻き終え、救急箱の蓋を閉めると、スザクはルルーシュを膝の上に抱き上げた。
「…駄目だよルルーシュ、君の身体は僕のものでもあるんだから、傷なんてつけちゃ…」
至近距離で目と目を合わせ、言い聞かせる。
この三日間でまた痩せてしまったルルーシュの軽すぎる体重に、酷く切なくなった。
紫水晶の瞳が潤む。
ごめん、と、小さな声が呟いた。
「許せなかったんだ…自分の身体が…」
歩けなくなってから、自分を大事にするという事さえ忘れてしまったルルーシュは、時折酷く自暴自棄な行動をとる。
それを抑えてやるのも自分の役目なのに、また傷を増やしてしまったことが苦しくて切なくて、スザクはルルーシュを抱きしめた。
また細くなっちゃったね、と呟いて、ふと投げ出されたケーキの箱に気付く。
「これ…お土産に買ってきたんだけど」
蓋を開けてみると、箱の中におさまっていたケーキはフルーツがあちこちに飛び、クリームもぐちゃぐちゃで、お世辞にも「おいしそう」には見えない状態だった。
「これじゃちょっと、食べる気しないよね…」
苦笑するスザクに、ルルーシュは微笑みを返した。
ちゃんと食べるよ、と呟く。
「だって…せっかくスザクが俺に買ってきてくれたんだから…」
嬉しいよ、と身を擦り寄せてくる。
「スザク…すきだよ…」
またぽろぽろと涙を零し始めたルルーシュを強く抱きしめて、ふとキッチンに視線を送ると、あとは火を通すだけという状態の料理の残骸がちょうど三日ぶん、そのままにされていた。


「…ごはん、ちゃんと作ってくれてたんだね。」
ごめん、連絡もできなくて。
少し悲しげに料理の残骸をダストボックスに放り込むルルーシュに、スザクはそっと声をかけた。
捨てられていく作りかけの料理たち。
焼かれた肉や魚介類、刻んだ野菜、付け合わせのパセリまでごみ箱に入れて、ルルーシュはそっとスザクを仰ぎ見た。
「今日は…、今日は、家で食事にできるのか?」
少し不安げなルルーシュに、窮屈なゼロの衣装から部屋着に着替えたスザクはにっこりと微笑む。
「大丈夫だよ、明日はナナリーに無理を言って休みにしてもらったんだ。」
だから一日中一緒に居られるよ。
そう言ってくしゃくしゃとルルーシュの黒髪をかきまわすと、ルルーシュはくすぐったいと目を細めて微笑った。
「おなかすいたな。まだ冷蔵庫に材料残ってる?」
何なら今日は僕が夕飯作るよとスザクは言ったが、ルルーシュはむ、と唇をとがらせた。
「スザクに任せたら、材料がかわいそうだ。」
だから俺がつくる。そう宣言して冷蔵庫を開けるルルーシュがいつも通り……ぼんやりしているけれど、料理には真剣に取り組むいつものルルーシュに戻ったのを確認して、スザクは苦笑した。
せっかく買ってきたケーキは崩れてしまったけれど、ルルーシュは崩れずに済んだ。
それだけで充分だと苦笑いを素直な笑みに変えて、スザクはルルーシュと一緒に冷蔵庫を覗き込んだ。

ツキアカリイノリウタ3~ホシヅクヨル~【スザルル】


『ツキアカリイノリウタ』3~ホシヅクヨル~




三度目の夜。
昨日の雪は積もることもなく、既に溶けて消えてしまった。
夜明け近くまでルルーシュの歌を聴いて、その時はには止んでいた雪が昼にはもう無くて、スザクは少し淋しい想いを噛み締めた。
『明日も会えないかな?』
『…すまない。明日は何時に来られるか…わからないんだ』
スザクの問いに、たくさんの歌を歌い、少し疲れたような表情でルルーシュはそう答えた。
白み始める空の下、明け方の凍える空気からルルーシュを守りたくて連れていった小さな喫茶店で。
夜にだけ開いている喫茶店、住宅街にひっそりとある其処はスザクの隠れ家のような場所だった。
古ぼけた店内には月夜の空を描いた絵が飾られていて、いつも同じ曲が流れて居て。
馴染みの店主がカウンターの奥に居るだけの控え目な店で、スザクはルルーシュに尋ねたのだ。
『明日も会えないか』と。
彼はわからないと言った。
少し憂いを含んだ瞳をして、『何時に来られるかわからない』と言った後、俯いてしまった。
スザクには何も言えなくて、気まずく時が過ぎるうちに閉店を言い渡されて…
店を出る間際、スザクはそっとルルーシュに囁いた。
『待ってるから…』
驚いたような紫水晶の瞳を見詰めて、そのまま走って帰った。
空が明るくなり陽が天に立ち、黄昏れて沈み、暗くなるまで一日中、眠る気にもならずにルルーシュのことを考えていた。
自分は何も知らない。
音楽のこともルルーシュの住まいも、昼間何をしていて何故夜には外で歌うのかも。
ルルーシュのことでスザクが知っているのは名前と姿。
とても美しいこと、歌うのが好きだということ…それだけだ。
連絡先も何も知らない。
殆ど家との連絡にしか使っていない携帯電話を手に持って、スザクは溜息を吐いた。
「電話番号くらい、尋いとけばよかったな…」
壁を背凭れに座った膝の上には、昨日買ったばかりのギターの本。
早く弾けるようになりたくて、ギターが弾けるようになればルルーシュにもっと近付ける気がして読み始めたのに、集中出来ずにただ膝に広げたまま…
気付いたら、真っ黒な夜空に星が輝いていた。
時計を見ると、七時二十八分。
『待ってるから』
そう言った自分自身の言葉を思い出して、スザクは立ち上がる。
カーキのダウンジャケットを羽織り、本と財布、携帯電話をリュックに放り込んで。
少し重い足取りのまま、夜道を歩いた。
家からは少し離れているあの路地に、あの街路燈の下に居れば…会える気がしていた。
ルルーシュは『わからない』とは言ったけれど、『来られない』とは言わなかったのだから。







はあ、と吐き出した息が白く夜空に溶けていく。
此処に着いてから何時間経ったのだろう。
腕時計を忘れてきたのに気付いたのは、この街路燈が見えた時だった。
確認しようと思えば携帯電話で時刻が見られるのだけれど、それをする気にはなれなくて。
持参した本を読みながら、何度となく見上げた空は綺麗な星月夜。
深く黒い空に白い月、煌めく星々。
冷たく澄んだ空気はそれらをはっきりと際立たせて見せて、ルルーシュみたいだとスザクは思った。
本を持っていた手は冷えてかじかんでしまっている。
体中が冷えて、指先や鼻の頭なんて痛いくらいなのに、スザクはそこを動く気にはならなかった。
(待ってる…って言ったんだ)
昨夜自覚したばかりの恋心に、浮かれてでもいるのかも知れない。
ルルーシュが来るかどうかなんて、昨日以上にわからない…寧ろ絶望的なのに。
(馬鹿…だな。僕…)
自嘲気味に笑って、また手元の本に視線を戻す。
いくつもの写真や図解で解りやすく、『ギターの弾き方』を説明する初心者向けの本。
後半には練習用の、簡単な譜面も載っていたけれど…スザクにはまだ、楽譜は読めない。
(ルルーシュの気持ちも、この本みたいにわかりやすく解説してくれる物があればいいのに…)
そんなことを考えて、首を振る。
ルルーシュにとって自分はまだ、一昨日会ったばかりの他人なのだ。
気持ちがどうとか、それ以前の問題だ。
(会いたい、なぁ…)
時計を確認しなくとも、冷たくなる空気と…僅かでもあった人通りが途絶えていることで、既に夜中になりかけていることがわかる。
スザクは本を閉じ、リュックに仕舞い込んで…そのまま膝を抱えて蹲った。
顔だけ上げて、野良犬のように夜空を見上げる。
煌々と輝く星月夜。
また一つ溜息を吐き出して、以前ルルーシュが消えていった路地の方向を眺めてみる。
(来るわけない…かな…)
そう思いながら反対側の、喫茶店のある方向に視線を移すと。
スザクはそのまま硬直した。
ルルーシュが、立っていた。
羽織っただけの黒いコートをはためかせ、憂いに満ち満ちた顔と瞳を晒して。
視線が合うと…その紫水晶は悲しげな、痛みを堪えるような色を帯びる。
「っ…ルルー、シュ……?」
問い掛けに、ルルーシュはどこか泣きそうな顔で、微笑った。






>3上げるの忘れてた。

『ツキアカリイノリウタ』4~コーリング~


『ツキアカリイノリウタ』4~コーリング~



夜に融けてしまうような気がした。
彼の姿が、あまりに儚く 頼りなかったから。



「…スザク…」
ずっと待っていたのかと、まるで幽鬼のような顔色のまま、ルルーシュが呟いた。
その声は淡く、凍える夜にずっと此処に居たスザクよりも弱々しくて。
反射的にしゃがみ込んでいた街路燈の下から立ち上がり駆け寄って、スザクはその細いからだを抱き締めていた。
冷たかった。
スザクよりも、ずっと…ずっと外に居たかのように。
「…ルルーシュ」
ぎゅっとしがみつくようにルルーシュを抱き締めたまま、スザクは囁く。
「良かった…来てくれて」
内心の不安が声に表れてしまったかも知れないと、急に怖くなったけれど彼を離す気にはならなくて。
突然男に抱き締められたと云うのに、ルルーシュは抵抗しようともしなかった。
ただ静かに、その抱擁を受け入れていた。
「…スザク」
不意にルルーシュの冷たい指が、スザクの髪を撫でた。
冷たいなと、小さく小さく呟いて、微笑う。
「ルルーシュも冷たいよ」
笑うことができなくて、震える声でスザクは答える。
腕の中の身体、髪に触れる指の感触を覚えたくて、益々腕に力が入った。
星月夜空に、うっすらと雲が出始める。
寒くなってきたなとルルーシュが呟くから、ただそうだねと返した。
抱き合っていても足元から指先から、凍える夜が浸みてくるから。
ひゅるりと冷風が背中を撫でる。
「…寒い、ね…」
なんだか泣き出しそうになりながら呟くと、ルルーシュがぽんぽんと掌で背中を叩く。
「…昨日の店」
「え…?」
そっと身体を離すと、至近距離で紫水晶の瞳が細められた。
「寒いだろう?このままじゃ…風邪を引くから」
だから昨日の喫茶店に行こう。そう言って微笑むルルーシュの顔は青白くて、ほんとうに病気にでもなってしまいそうだったから、スザクはそっと頷いた。
「うん…行こう」
身体が離れた分、隙間から冷気が入り込んでくる。
自分よりも冷えてしまったルルーシュを温めたくて、早く室内に入ろうと。
歩き出そうとした時、背後で小さな声が呟いた気がした。
「待っていてくれて…ありがとう」
驚いて振り返ったけれど、まるで空耳だったようにルルーシュが気にした様子もなく歩き出すから、尋ねることはできなかった。








「えっと、カフェオレと…」
「ロイヤルミルクティー。」
昨日と寸分違わぬような雰囲気の店内で、同じ席に座った二人は昨日とは違う注文をした。
はいと店主が頷いて、カウンターの奥に消えて行く。
レトロな達磨ストーブが置かれた店内が暖かくて、スザクはほっと息を吐いた。
「なんか…ごめんね。ちゃんと約束したわけでもなかったのに」
良いさと首を振って、コートを脱いだルルーシュが柔らかく微笑む。
「…星月夜。…いい店だな」
こんな時間に営業してるなんて珍しい。そう言って柱時計に目を遣る彼が着ていたのは薄いピンク色のシャツに白いスラックスで、時が停まったような店内によく似合っていた。
「すごいね。この店の名前、間違えずに読めたの君が初めてだと思うよ」
脱いだジャケットを椅子の背にかけながら、スザクも笑った。今日になってから初めて素直に笑えたような気がした。
「そうか…?」
「そうだよ。絶対『ほしづきよ』って読むもん」
特殊読みの店名なんて反則だよと唇を尖らせると、夜しかやらない喫茶店自体が特殊だろうとルルーシュも笑う。
時刻は、深夜一時を過ぎようとしていた。
「…スザク…何時間、あそこに居た?」
「……っ…」
不意の質問に、言葉に詰まる。
風邪を引いてもおかしくはないような時間を待っていたのは確かで、けれどそんなことは言えなくて。
迷っているところに、恐らく気まずい雰囲気を感じたのだろう店主が温かい飲み物を運んできた。
「どうぞ」
かたん、と音を立てて目の前に置かれたのは注文したカフェオレとミルクティー、そして。
「…サービスです。ごゆっくりどうぞ」
切り分けられたパウンドケーキの皿を見て目で尋ねると、店主は短く答えてまたカウンターの奥へと入って行った。
「…えっと」
困惑するスザクを尻目にルルーシュは湯気の立つカップを手に取り、息を吹き掛けて熱い紅茶を冷まして口にする。
青白いままだった頬にほんの少し血の色が戻るのを見て、少しほっとしながらスザクもカップを取った。
「…時計見るの、忘れてたから。だけど待ってたのは…僕の意思だよ」
温かいカフェオレを一口啜り、一度カップを置いて砂糖を足す。
一口飲んでから砂糖を入れるのは此処に来た時だけの習慣だった。
「来ないかも知れない、とは思わなかったのか?」
小さく首を傾げて、ルルーシュが問う。
身体が温まってきたお陰なのかミルクティーのリラックス効果か、ルルーシュの表情や仕種が少し柔らかくなっている。
良い香りのする湯気に此方も顔を綻ばせながら、スザクは答えた。
「思ったよ。来るわけないって…でも、待ちたかった」
それだけだよ、と笑って、甘さを足したカフェオレをまた一口含む。
ルルーシュが驚いた様子で目を見開いて、それから嘆息した。
「…お前、携帯持ってるか?」
何処か優雅な仕種でフォークを摘み、ケーキを切り分けながら呟く。
「え…持ってる、けど」
「アドレス、教えるから」
だからこんな無茶はもうするなと、長い溜息を吐いてルルーシュはケーキを一欠、口に入れた。
コートのポケットから白い携帯電話を取り出して、開く。
「赤外線の使い方くらいは…わかるよな?」
慌ててリュックから携帯電話を取り出し、頷くとルルーシュの視線がリュックからはみ出したギター教本に向けられた、気がした。
すぐに逸らされてしまったから、確認することは出来なかったが。
「でも…いいの?僕に番号教えても…」
一応の確認のために尋ねるが、ルルーシュはそっと微笑んだ。
「無茶して、体調を崩されるより…ずっと良い」
それに、と細い指先が、スザクの携帯電話に触れる。
「お前とは…繋がりが有っても良いなって、思ったんだ」
息が止まるような嬉しさを感じた。
赤外線通信で交換した電話番号と、メールアドレス。
ただの他人じゃなくなったんだと、そう思うと嬉しかった。
その後。いつも流れていた曲はベートーヴェンの『月光』だと、ルルーシュが教えてくれた。
本当に音楽には疎いんだなと呆れながら。
柱時計が午前三時を示し、会計を済ませようとすると、店主はそれを断った。
「今夜は良い笑顔をされていました。それが見られただけで、代金としては充分です」
どうかまたお二人でお越し下さいと店主は微笑い、定位置のカウンターで深々と頭を下げた。
「ホシヅクヨルの祈り歌が、貴方がたに届きますように…」
スザクには意味がよく理解出来なかったけれど、ルルーシュは微笑んでまた来ますと言った。
「いつか…歌わせて下さい」
紫水晶の瞳に透明な光を湛えて、彼は踵を返す。
「行こう、スザク」
「え、うん…」
店を出ると、ほんの僅かに明るさを増した空と冷たい風が二人を包み込んだ。
「朝になったら、氷張ってそうだね…」
身を斬るような寒さに苦笑して、スザクは空を見上げる。
「…でも、頭がすっきりするみたいで気持ち良い」
「ルルーシュ…」
今日会った時に抱えていた憂いを忘れたような、綺麗な笑顔。
ふわりとコートを揺らして、ルルーシュは歩き出した。
前に入って行った路地とは違う道に、足を向けながら手を振って見せる。
「何時でも連絡、して良いから。ギター…弾けるようになったらすぐ教えろよ」
また明日。
そう言ってルルーシュは歩み去った。
耳の奥にその声と、月光が静かに響いていた。