大正6年11月 帝国劇場 九代目市川團十郎十五年祭追善 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は大正6年11月シリーズの第1弾として帝国劇場の九代目市川團十郎十五年祭追善の筋書を紹介したいと思います。

 

大正6年11月 帝国劇場

 

 

演目:

一、茶臼山凱歌陣立
ニ、大森彦七
三、勧進帳
四、お夏清十郎
五、薪荷雪間廼市川

 

本編に入る前に前回紹介した6月公演以降の帝国劇場について少し説明したいと思います。

 

参考までに前回紹介した6月公演

 

 

6月公演を記録的な大入りで無事成功させた後、例によって7月は女優公演、8月は市村座の引越公演を行い7月は普通、8月は無事大入りとなり、下半期は好調なスタートを切りました。そして9月は再び女優公演を開きましたが、ただ帝劇の女優と若手だけでは7月の焼き直しに過ぎないと判断したのか女優はそのままに専属役者を休ませて代わりに市村座から守田勘彌、歌舞伎座から市川猿之助と市村亀蔵を呼んで劇場の垣根を越えて共演させるという斬新な座組で公演を開きました。

猿之助はこれが初めての帝国劇場出演でもあり、守田勘彌とは明治45年3月の市村座の公演以来、本公演としては5年ぶりの共演となりました。共に新富座での子供芝居の頃からの顔見知りであり、海外の新作などを得意とする両優だけに互いにライバル意識を燃やしていたらしく、二代目左團次の自由劇場に影響を受けてか勘彌が黒猫座や文芸座、猿之助は自由劇場への出演の傍ら春秋座をそれぞれ結成し、本公演の合間を縫って新作や翻案劇を上演し、時には猿之助が文芸座に客演するなど互いに凌ぎを削っていました。

勘彌が猿之助をどう思っていたのかは定かではありませんが、猿之助の方は勘彌について

 

世間から私の好敵手と言われていた守田勘彌を失った。まだ四十八歳の若いこの才人の死は私には大きな打撃でもあったし、あの文芸座で彼と協力して新しい仕事に二人の情熱をそそいだことなども悲しい思い出となった。」(猿翁より)

 

と述べていて、強いライバル意識を持っていた事が分かります。

そして10月には6月以来久しぶりとなる幹部役者による本公演を開き、こちらも台風による大雨の被害を蒙りながらもそこそこの成績を収めました。

 

さて、話を元に戻すと今回の追善公演では当初の計画では提携している市村座と交渉し菊五郎を始めとする市村座の幹部役者たちが市村座と掛け持ちで出演する予定だった様です。元々は市村座も独自に追善公演を開くという計画もあったようですが、

 

・直弟子の段四郎、八百蔵、娘婿の福三郎がいる歌舞伎座

 

・同じく直弟子の幸四郎がいる帝国劇場

 

に比べて市村座は九代目が我が子同様に可愛がった菊五郎こそいるものの、他には直接九代目と関わりがある役者がおらず名うての名興業師と知られた田村成義の

 

わたしはその仲間にはいって心配はするが、三軒同時にやっては却って面白い結果は見られまい」(芸界通信無線電話)

 

と判断もあって市村座は通常公演を行う一方で同じ十五年祭追善公演を行う歌舞伎座には吉右衛門を、帝国劇場には菊五郎をそれぞれ振り分けて掛け持ちさせる方向で考えていましたがここで吉右衛門が病気の為に市村座、歌舞伎座の出演を取りやめるというハプニングが起きました。その為当初の計画は立ち消えとなり同じ十五年祭追善公演を行う歌舞伎座との天秤にかけた結果、田村は菊五郎、三津五郎を歌舞伎座への出演を選択した事でやむ無く専属俳優のみでの公演になりました。

 

菊五郎達が加入した歌舞伎座の筋書

 

 

余談ですが、もし専属俳優と菊五郎、三津五郎たちとの出演が実現していれば幸四郎とは明治42年10月を歌舞伎座以来8年ぶり、宗十郎とは以前に紹介した二代目市川段四郎襲名公演となった明治43年11月の以来7年ぶりの共演となり大きな話題性を持った事は間違いなくそれだけに今回の話が流れた事で菊五郎と幸四郎、宗十郎との共演は、大正9年6月まで待たねばなりませんでした。

 

参考までに明治43年の二代目市川段四郎襲名公演の筋書

 

劇場を三升紋で飾った帝国劇場

 

今回は同封されてた投票用紙

 
さて、専属俳優のみでの公演と書きましたが、実は演目が始まる前に行われた口上には専属俳優以外にも出演した人が3人ほどいました。
一人は歌舞伎座で五代目市川三升を襲名した堀越福三郎で、市川宗家の1人として口上に出演しました。2人目は三升の義弟である五代目市川新之助で彼もまた宗家の一員として三升同様に歌舞伎座との掛け持ちで口上のみ出演しました。そして最後の1人が新之助の娘で九代目唯一の孫となる堀越喜久榮でした。この時まだ4歳で彼女は歌舞伎座の方には出演せず帝国劇場の口上のみ出演しました。
可愛い孫娘の初御目見得とあって堀越ます未亡人も聟2人が掛け持ちで出演してる歌舞伎座には1度も現れず、ずっと孫娘が出てる帝国劇場のみ楽屋に日参していたそうです。
それは兎も角、口上には真ん中に梅幸、舞台下手から三升、新之助、喜久榮、幸四郎、舞台上手から宗十郎、宗之助の帝劇の専属俳優が並び口上を述べたそうですが、どうやら親族及び幸四郎を除いては九代目に関する話もそうない為か専ら帝国劇場の自慢に終始する口上が多かったらしく劇評には
 
浅ましき言種さぞやと悉皆忌(すっかりいや)になって了ったり。台詞以外の日本語も稽古したらしゃべれるやう常日頃心掛けて置くがよし
 
とボロクソに批判されてしまいました。

 

茶臼山凱歌陣立

 
一番目の茶臼山凱歌陣立は明治13年11月に新富座で初演された河竹黙阿弥の書いた活歴物の1つで、2年前の明治11年に同じく黙阿弥の書いた千代田神徳で九代目團十郎が徳川家康(役名は家泰)を演じて好評を得た為に、信康切腹から神君伊賀越えを経て小牧・長久手の戦いの辺りまでを描いた前作に対して今度は晩年の大阪の陣における家康と豊臣家を描いた物として書かれました。
追善とあっても九代目が演じた古典物ではなく敢えて活歴物で追善を行う辺りが帝国劇場ならではの意地と特色が垣間見えますが、何故か團十郎の演じた家康が出てくる場面はカットされ木村重成と後藤基次の討死が演目の主になっていてさながら活歴版沓手鳥孤城落月といった趣になっています。
今回は宮内の局を梅幸、木村重成を宗十郎、淀の方を宗之助、後藤基次を長十郎がそれぞれ務めています。

 

劇評では活歴である上にカットもあるせいか、

 

この頃は狂言名題も早分かりに改めるが流行様になるにこれまた篤実に「茶臼山凱歌陣立」と据て凱歌の方はなくて討死で終りしはいかに、追善劇ゆえ茶臼山といふ所に茶気ありてか

 

黙阿弥作の活歴の一部、下積み(埋もれていた)になっていただけの事はあるつまらなさ。(中略)原作通り何時も掲ぐるこの座の真面目さは確に誉める価値あり

 

といずれも原作そのものに難があると指摘されています。その上で役者についても宮内の局を演じた梅幸は

 

梅幸の局は追善の心の腹芸が重成よりチョボに乗らず大分渋がったるは好けれど顔色までがちと渋の方にて小穢く(中略)やはり團よりも菊の追善をすべき優と思はれて当人に取りては名誉の不出来

 

梅幸の宮内局も重成の母としては老過ぎたり、これも檜扇をかざすと城の天守へ現われさうなり

 

となまじ沓手鳥孤城落月で淀君を演じられるだけの品格があるのが宮内局には合わずそれに加えて活歴物とあって腹芸を意識しすぎた演技もマイナスポイントになり不評でした。

 

梅幸の宮内の局と宗十郎の木村重成

 

そして本来なら梅幸が演じてもおかしくない程の役である淀君を演じた宗之助は

 

無理の行止まり

 

宗之助の淀の方は若すぎて内大臣秀頼の母らしくなく

 

とこちらは梅幸と役を取り換えた方が良かったのではないかと思われる程逆に貫禄の無さが淀君のニンに合わずこちらも不評でした。

この様に女形陣は揃って不評でしたが、面白い事に立役陣は何故か意外に好評でまず手を入れた事で事実上の主役となった木村重成を演じた宗十郎は

 

優美にて好し

 

宗十郎の木村重成、出立榮はあざやかなれどいふ事が理に落ちて今生の暇乞といふ憐れけ薄き様なり

 

宗十郎の重成、歩行立にての討死はよけれど敵の陣へ切り入りての討死ならずして落口の最期の様なり、これは鎧に少しちぎれを見せた(これは無理か)手負にて気ばかりにて戦ふ体はよし

 

と活歴とは一番縁が遠い彼だけに腹芸の演技は今一つだったものの、二枚目役者としての美しさ、立振舞は評価されているのが分かります。

また後藤基次を演じた長十郎も

 

長十郎の後藤基次、勇猛無双なれども若輩にて後藤の身替といふ形なり

 

と流石に若さ(当時29歳)ゆえに貫禄こそ不足していたものの父の訥子譲りの大立廻りは評価されています。

 

大森彦七

 
中幕の大森彦七は新歌舞伎十八番の1つで三回忌追善の時にも幸四郎が演じた事でお馴染みの演目です。
 
羽左衛門が演じた時の歌舞伎座の筋書

 

幸四郎が初演した時の歌舞伎座の筋書

 

 

今回は大森彦七を幸四郎、千早姫を宗之助、道後左衛門を幸蔵がそれぞれ務めています。
初演の時には前半部分は評価されながらも後半の狂乱部分は偽狂だと一目で分かると批判されていた幸四郎ですが今回はどうかと言うと
 
幸四郎の大森彦七はその場を広き山川谷道に見せて十分なり、偽気違の舞の間も勇気充ちて道後の左衛門に呆れてばかりに手もささせぬ威風ありて大よしなり
 
と苦手な後半部分を含めて評価されている劇評もあれば
超絶辛口で知られる岡鬼太郎は作品そのものについて
 
活歴以上の写実劇に近けて幸四郎が演ずる事に因って竹本常磐津の有る効力も無き一の空々しき新史劇とされたる大森
 
と評した上で
 
幸四郎の彦七、度々演り過ぎて膏が抜け踊のお浚を見るが如く大して面白い事はなし。
 
とあまりに淡白に演じ過ぎて詰まらないと断言し問題の後半部分については
 
飛んだ喜劇の下直
 
とバッサリ切り捨てていて評価が正反対に分かれています。
そしてこの正反対の評価は千早姫を演じた宗之助も同じで
 
宗之助の千早姫も大森に切りかける気持ち鋭く、後に物語を聞いてその義に感じてその薄命を嘆つところも品格を落とさずしてよし
 
とする劇評に対して
 
誠に大無理のお附合
 
とニンに合っていないと批判しています。
結局、幸蔵が演じた道後左衛門を除いては悉く評価が異なるという珍しい結果となりました。
この辺りはあくまで主観なのでどちらが正しいとか間違いだとか言い切れませんが、一つ補足しておくとこの違いは最初の茶臼山凱歌陣立に対する評価もそうですが活歴ひいては團十郎に対する見方の違いが根底にあります。團菊絶対至上原理主義者で幸四郎の事を蛇蝎のごとく嫌って何かとイチャモンを付けてた遠藤為春みたいな三流劇評家と違い岡鬼太郎は團十郎個人にこそ一定の評価と敬意を払っているものの、九代目が推し進めた活歴やそれに附随する極端な写実重視の演技には疑問と警鐘を鳴らしていました。特にお家芸の荒事に必要な豪快さと威厳、品位を併せ持つ團十郎に当て込んで書かれたこそまだ何とかなった活歴物をニンも柄も合わない次世代の役者たちが安易に演じる事には否定的でした。それに対して好意的な劇評を書いてる饗庭篁村は古典物に対する高い知識と教養を持つ一方で劇評を始めた時期が丁度活歴の全盛期であり少なからず團十郎の写実重視の演技方法を好意的に受け止めている部分がありました。今回の正反対の評価の背景にはそういった劇評家の世代的なギャップが図らずとも写し出された形になりました。

 

勧進帳

 
同じく中幕の勧進帳は説明不要の歌舞伎十八番の代表的演目です。
配役は以前紹介した3年前と同じ為に省略させて頂きます。
 
3年前の三座競演の時の筋書

 

紹介はしていませんが、実は帝国劇場ではこの年の1月にも宗十郎の富樫、宗之助の義経という配役で勧進帳を演じていて幸四郎、宗十郎にとっては今回がこの年2度目の勧進帳となります。
 
前回は慣れている余裕故か初役の羽左衛門に足をすくわれる様な形になりましたが、今回は奇しくも九代目の三年祭追善で弁慶役を争い後に1日替わりも務めた段四郎との競演になりました。劇評では
 
幸四郎も格別の出精、身より迦楼羅の炎を出さんばかりの弁慶振、不動の化身か團十郎の再現か勢ひ四邊をはらいたり、勧進帳の読上も威風堂々たりしが延年の舞の中も勢力充ちて弁慶の精神の少しも脱げざりしは感服なり
 
師匠を薄くして弁慶の量を多くすべく努力の段は一般に認められて大好評。(中略)元気の幸四郎の今の手馴れ、歩あるは当然なるべし
 
とこの時既に上演回数は200回近くこなし師匠のコピーから脱却してすっかり手慣れた物にした勧進帳とあっての余裕に加えて三年祭追善の時にはます未亡人の独断で段四郎に奪われてしまった師匠の追善公演という場での弁慶を12年越しに実現できた喜びもあったのか大森彦七ではボロクソ言っていた岡鬼太郎もここでは幸四郎を高評価しています。
 
幸四郎の弁慶

 
続いて3年前の時には初役の吉右衛門、2回目の左團次にすら負けてしまう程の不評と言う屈辱を味わった(?)梅幸の富樫ですが今回はと言うと
 
近頃の急製作ゆえ調子立たずたくすれば息続かず
 
と前と同じく台詞廻しにおいてはやはり難が見られたようですが一方で
 
見た目は梅幸の勝ち、芸は羽左衛門の勝ち
 
梅幸の富樫もよし風采も故菊五郎の趣あり、山伏との問答との問答も落付きあり、台詞に少し滑りたるところあれど気力精神弛みなく、強力と呼び止ても悪噪がしからずして勇気は十分、太刀に手を掛けても押合ながらも山伏を物共に思はず只義経を義経をと心掛けて詰寄る擬勢大によし
 
と帝国劇場での立役を演じた経験が活かされたのか品位ある立ち振る舞いは改善されたらしく同じく富樫を本役とする羽左衛門と比較される所までには評価されています。
 
梅幸の富樫

 
そして3年前は貫禄の品位において右に出る者がいない歌右衛門に完敗してしまった義経を演じた宗十郎はというと
 
何うやら勝手違い
 
と安珍だと言われた3年前の評価は覆らず再び不評でした。
 
宗十郎の義経

 
この様に義経こそ不評だったものの、弁慶、富樫については大幅に進歩、改善の余地が見られた事から見物からも好評で追善演目に相応しい出来になりました。

 

お夏清十郎

 
二番目のお夏清十郎は唯一追善から離れた新作の世話物演目となります。
以前に浪花座で紹介した演目と同名ですが、今回のは別物で小山内薫の実妹で小説家である岡田八千代の書いた原作を右田寅彦が改作した物となります。
 
参考までに大森痴雪が書いた浪花座のお夏清十郎

 

 
内容としては鴈治郎に合わせて活歴風にした大森版とは正反対に清十郎に恋する遊女皆川を登場させて清十郎に逢えぬあまり世を儚んだ皆川は自殺してしまい、その怨念がお夏に憑り付いてしまい、清十郎に心中を迫るという怪談物に仕立て上げているのが最大の特徴となります。
このアレンジについて劇評は
 
見たところは一寸面白し
 
お芝居染みんとしてドッコイと踏止まる處に、多少の新味を看出すなり
 
と心中物の話に怪談物を織り交ぜる手法や狂乱を憑依による物だとした作者の解釈は概ね好意的に受け止められています。
今回は既に大正3年に坪内逍遙のお夏狂乱でもお夏を演じた梅幸が再びお夏と二役で皆川を演じる他、清十郎を宗十郎、番頭九兵衛を松助、太鼓持卒八を幸蔵がそれぞれ務めています。
劇評ではまず梅幸について
 
梅幸の皆川、筋の運びだけの事に見ゆ
 
梅幸二役お夏にて狂乱となり男の後を慕うてさまよひ出るまでえ艶麗にてよし
 
二役のお夏、狂人になるまでの芝居が無く判決文の主文だけ聞かされたやうなきものなれば美しいといふ事の外は何も目に遣らず
 
と皆川も不評、お夏も美しさは評価されているものの演技については手厳しく不評と言う意外な結果となりました。
この公演では後述する薪荷雪間廼市川でも梅幸の評価は芳しくなく立役の富樫を除いて本役の女形ではスランプ状態と言う結果になりました。
 
梅幸の皆川と宗十郎の清十郎、松助の番頭九兵衛
 
 
梅幸のお夏
 
この様に梅幸が思わぬ苦戦を強いられる中、清十郎を演じた宗十郎は一番目同様に好評で
 
体にある役とて、見ていて楽なり
 
と2人の女を虜にしつつも皆川の亡霊によって人を殺めてしまう悲劇的な結末を迎える色男役が評価されました。
また清十郎の生家の番頭九兵衛を演じた松助も
 
松助の番頭九兵衛が篤実にて初は新町の花菱屋に清十郎を諫めて寺へ伴ひしが、次に(皆川を死なせた責任を取って)清十郎を伴ひて姫路の但馬屋へ来る時にはグット砕けて膝栗毛の喜多八らしく、お夏の姿が皆川に似ているとて茫然とする清十郎の後から「去れ」と西恵和尚の真似をして一喝するには見物驚かされながら大喝采
 
と真面目な番頭を演じたかと思えば幸四郎の演じた西恵和尚を真似してお夏に憑りついた皆川を一喝するなどコミカルな演技まで縦横無尽に演じて見物の受けは非常に良かった様です。

この様に梅幸こそ思わぬ不評でしたが一方で宗十郎や松助は好評であり、演目としては原作の新鮮味もあり悪い出来では無かった様です。

 

薪荷雪間廼市川

 
そして大切の薪荷雪間廼市川は嘉永元年11月に河原崎座で八代目市川團十郎、四代目市川小團次、四代目坂東彦三郎によって初演された舞踊演目となります。最も今回は振付などを新たに付け直し三田仕を幸四郎、山姥を梅幸、怪童丸を宗十郎がそれぞれ務めています。何故九代目とは縁と所縁もないこの演目を選んだのかは不明ですが後述する理由で幹部役者3人を揃えるのには持って来いの演目であった事も選ばれた可能性が高いです。
内容としては以前に紹介した山姥とほぼ同じ内容になりますのでリンク先をご覧ください。
 
山姥を上演した時の筋書
さて、実はこの演目はある人物の襲名披露狂言を兼ねていました。それは幸四郎の養父である二代目藤間勘右衛門で、彼が藤間勘翁を襲名し、同時に幸四郎が藤間流家元の名跡である勘右衛門を三代目として襲名しました。
かつて九代目に対して春興鏡獅子、素襖落などの振付を付けるなど九代目の活歴路線を舞踊の面から支えた勘右衛門もこの時77歳と喜寿を迎えるなどかなりの高齢になっており、養子幸四郎も47歳と脂が乗り切った時期に差し掛かった事もあり藤間流の大名跡を譲る事になりました。九代目とは直接関連は無いものの、九代目との縁の深い彼の喜寿と勘翁襲名を九代目の追善と兼ねて今回行われた様です。
彼にとっては歌舞伎役者としての幸四郎襲名以来となる襲名とあって緊張した面持ちで演じた事あってか劇評でも
 
無論立派。謹んで御勉強を謝す。
 
と皮肉交じりながらも評価されていますが菊五郎にみっちり舞踊も仕込まれたはずの梅幸はと言うと
 
感心せず。この優大分末枯れが来て立役の災禍色気に及ぶ事近来一層甚だしき
 
と富樫を演じる上ではプラスになった立役の経験が本役の女形芸に悪影響を及ぼしていると強く批判されています。
とはいえ、この演目では梅幸のマイナスは大きく影響する事もなく襲名と言う場もあって見物にも好意的に受け入れられたそうです。
 
この様に演目は活歴2つに歌舞伎十八番、新作の世話物に襲名の舞踊と同じ追善公演を開いている歌舞伎座に比べると九代目の追善としては地味である事は否めませんでしたが、悲願であった追善公演での弁慶と藤間勘右衛門としての襲名という大役を見事に成し遂げた幸四郎の八面六腑の活躍ぶりと意外にも新作や活歴で思わぬ活躍をした宗十郎の好演、更には多くの見物が歌舞伎座との見比べをした事、当時の日本は第一次世界大戦による大戦景気の真っ只中という外的要因も重なり多くの見物が観劇した事から連日の大入りとなりました。
 
この後帝国劇場は12月公演では幹部役者を休ませ代わりに9月の猿之助貸出以来となる松竹との提携第3弾に踏み切り歌右衛門、左團次に次ぐ大幹部を迎えての公演を行い大正6年度の収益は開場した明治44年を上回る事に成功し有終の美を飾りました。
残念ながら12月公演の筋書は持っていませんので帝国劇場の筋書紹介はまた暫く間が空きますが楽しみにお待ちください。