今回紹介するのは再び歌舞伎座の筋書です。
大正2年12月 歌舞伎座
演目:
主な配役一覧
見ての通り、田村成義率いる市村座がそのまま歌舞伎座に引っ越してきたような座組となっています。
何故専属俳優が揃っているにも関わらず以前書いたように仲が良いとはいえ、わざわざ他の劇場の一座を出演させたかというとこれには明確な理由があります。
まず前回の10月公演の終了後、松竹は恒例となっている鴈治郎一座の出演する新富座と歌舞伎座専属組を本郷座に移動させて同時に公演を開きました。これは当時歌右衛門襲名を巡って険悪な関係にあった歌右衛門と鴈治郎を不必要に衝突させない為の防衛策の一つであり、もし歌右衛門が歌舞伎座で公演を行ってしまいすぐ近くで鴈治郎が公演を行っている新富座にボロ負けしてしまったりまたその逆をしてしまう事によって松竹の稼ぎ頭である双方の感情をこれ以上著しく損ねてしまうのを避ける為でした。
その為、鴈治郎が東上する月は必ず歌右衛門を地方巡業に出したり、横浜などの東京近郊の劇場に出演させる、あるいは休みにするなどのありとあらゆる対応策が打たれており、その後和解が成立し手打ちとして大正5年2月に歌右衛門が新富座に客演し、逆に大正6年4月に鴈治郎が歌舞伎座に客演するまで双方は一切の共演がありませんでした。
参考までに後年に鴈治郎と歌右衛門が共演した新富座及び歌舞伎座の筋書
それに加えて毎月公演を打つ事をポリシーにしている松竹は今までは公演を打たなかった12月にも公演を開く事を決めていました。しかし、前回の10月公演と同じ顔ぶれでは飽きられる上に既に歌右衛門、羽左衛門、仁左衛門、段四郎、左團次、八百蔵を始めとする幹部役者はこの時南座の顔見世に出演するなり、地方に出稼ぎに行くなり、休みを取るなどして各々散り散りになっていました。そこで松竹は田村成義に交渉して市村座の座組をそのまま借りて公演を打つという奇策に出ました。
前にも述べた様に田村は基本的に隔月で公演を打つ方針の古いタイプの興行主で初春公演を間近に控えた12月は基本的に市村座で公演は打たず、専属俳優はそれぞれ菊五郎組と吉右衛門組の2手に分かれて地方巡業に出していました。その為、12月公演に新鮮な顔ぶれを出したい松竹と普段公演を打たない月に寝ててもレンタル料が入って来る田村の利害が一致し、今回の引越公演が実現する運びとなりました。
一番目の塩原多助は元々落語の「塩原多助一代記」を原作にした世話物狂言で、六代目尾上菊五郎の父である五代目尾上菊五郎が明治25年に初演した事で有名な演目です。
塩原多助は江戸で炭の卸売りで一財産を築いた実在の人物で本来は一代で財を成した塩原家を次々と襲う不幸によって没落する有様を描いた怪談噺だったのですが、人々の注目は没落する前の多助が一代で財を成すまでの出世譚の方に集まってしまい歌舞伎化にあたっては世話物狂言となってしまい初演するにあたり福地桜痴が客寄せの為に東京の小学校に塩原多助の出世譚を本にして配布した事から教育界にその名が知られるようになり遂には明治33年に立志伝型人物として全国の修身(道徳)の教科書にも登場するに至るまでの異例の大出世(?)を遂げてしまいました。因みに上方歌舞伎でも「塩原多助経済鑑」という外題で上演され初代中村鴈治郎が得意とした事から彼の初期の当たり役として道頓堀でも何度も上演される演目の一つとなっていました。
六代目の塩原多助
六代目尾上菊五郎は父五代目の歌舞伎座での初演時に万太郎役で出演していたものの流石に父の細かいハラや工夫についてまでは分からず父以来の古参の弟子である菊三郎や音蔵などに話を聴きつつ五代目が多助の故郷群馬まで人をやって土を取り寄せてその土の色に合わせて多助の顔の化粧をしたのに対して六代目は白粉に朱銅を混ぜて極めて人肌に近くなるような色合いにするという独自の工夫を凝らして演じたそうです。
そんな六代目の塩原多助ですが劇評によれば
「極端な写実(中略)努めて自然に演じているが(劇中に登場する)馬にまで写実を求めるのは絶対不向き」
と父五代目を意識しすぎて写実な演技に偏り過ぎてしまい前半は今一つの出来だったそうです。
ただ、舞台が江戸に移る後半は得意の世話物としての要素が強くなる為にぐっと良くなったらしく出来はまあまあとの事でした。
後半は他にも吉右衛門の樽屋久八役で出演しますが
「松助ばりに演じてはいるが(二十代の)彼にこの役は老けすぎて合わない」
とイマイチで前半・後半通して出る継母役の菊三郎は
「前半は(写実一辺倒の菊五郎に対して)旧態通りだったのでチグハグで後半は持ち直した」
とこれまた厳しく、新十郎の茶屋婆役のみ「何もしないようでいてちゃんと役になっている」と好評でした。
劇評の最後には「変に新しからず(変に新しい物をやろうとせずに)やっぱり(古典的な)芝居にしてほしい」と注文が付くなど父五代目との差別化を図るあまり自身の芸風を模索して苦しんでいる最中でした。
基本的に六代目の芸風は作品世界の人物に自分がなりきるよりも自分が演じやすい様に作品世界を破綻しない程度に大胆に変えるというのがモットーでした。その為に後年彼は押しも押されぬ歌舞伎界のトップの座に付き時代物、世話物問わず幅広く手掛ける事になりますが、歌舞伎十八番やお家芸の新古演劇十種、幾つかの世話物は流石に崩す訳にはいかなかったもののそれ以外の演目、例えば加賀鳶や廓文章などが顕著ですが彼が演じやすい様に大胆な脚色やカットを施して上演されています。
そんな彼の大胆な工夫が既にこの時期には顕現していたのを踏まえると大変興味深いものがあります。
大蔵譚
続く二番目の大蔵譚はよく一条大蔵譚という外題で上演される演目で今回演じた初代中村吉右衛門が得意役とした事から異母弟の十七代目中村勘三郎や孫の二代目松本白鸚、二代目中村吉右衛門に受け継がれています。
この時は子供歌舞伎時代の明治31年4月の浅草座で初演以来実に15年ぶりとなる再演でした。
この時吉右衛門はまだ27歳の若さでありながら作り阿呆と源氏に心寄せる気概ある本音を演じ分ける難役である大蔵卿に挑戦し見事に務め上げ劇評でも
「調子を張る時苦しいが上品で(後半の奥殿の場では)いつもの團十郎型から放たれて思い切った大芝居をしたのは偉い。真ん中より少し上の出来」
と高評価で以降彼の時代物の持ち役の1つとなりました。
因みにこの時与一役で出ていた菊五郎は
「地位の為に役を壊すのは困る」
と上記のような新工夫が災いし却って不評でした。
また唯一歌舞伎座専属俳優から常盤御前役で出演した四代目片岡市蔵も「七分損」とニンに合わない役を演じて不評でしたがそれ以外は
勘彌「キビキビしていてよかった」
榮三郎「ドスが効いて立派な出来」
芙雀「檜垣茶屋の場は儲けもの」
押しなべて好評で今興行第一の出来栄えだったという事です。
中幕の素襖落は言わずもがな今でも上演される演目で菊五郎と三津五郎の鉄板コンビで演じ劇評でも短いながらも「三人の息がぴったりでまさに天下一品」と大絶賛される程の出来栄えで前2作で苦戦していた菊五郎もここぞとばかりに熱演し不評を盛り返した格好になりました。
大切のどんつくも市村座全員集合といえる演目で素襖落同様に盛大に踊って盛り上げたそうです。
市村座の面々は今までこのブログでも紹介したように何度か歌舞伎座に出演の機会がありましたが、菊五郎を例外にすれば殆ど良い役は貰えず一種の客寄せパンダのような扱いに近かったのですが、今回は上記の様にどの演目も通常市村座で演じている古典物や当たり役(になりそうな物も含む)ばかりを選んで歌舞伎座で上演している事もあって市村座贔屓の見物が押し寄せて大入りとなりました。
しかし、この成功は田村成義に「奇を衒わず普段市村座で打っている芝居をしさせしていれば見物は来てくれる」という自信を与え、来月の初春公演では歌舞伎座との競演という形で挑戦に挑み見事勝利を収めるまでに至る様になります。
今まさに時分の花を咲かせようとしている市村座の面々の底力を見せつけた興行となりました。