限界小説研究会BLOG -9ページ目

『ネコソギラジカル』 /戯言転変(蔓葉信博)

『ネコソギラジカル』 /戯言転変
蔓葉信博



1.軌跡

 はじめに戯言シリーズの軌跡を確認していこう。孤島で首を切ったり再利用したりする殺人事件の解決した「ぼく」こといーちゃんは、大学同級生の連続殺人事件に巻き込まれたのち、とある少女を救出するために女子校に潜入し、とある研究所では密室殺人事件に遭遇、とある診察所跡でも殺人事件に遭遇したあと、とある理由で入院することになる。『ネコソギラジカル(上)』(2005)では、闇口崩子や浅野みいことの萌えるやりとりをしていたいーちゃんを、狐面の男率いる《十三階段》のひとり、奇野頼知が訪れる場面から始まる。みいこの機転によって奇野をやりこめたのいーちゃんだが、その来訪には実は陰湿な罠が仕掛けられていた。そうしていーちゃんは自分から根こそぎなほど急進的な物語に立ち向かっていくのだった。
 西尾維新は、非現実的な設定、本格推理という仕組み、萌えキャラの三つの要素によって推理小説を書き始めたが、シリーズ途中から本格推理の代わりに伝奇小説的技巧を物語の推進装置として組み込むようになった。またその推移と重なるように人の生死が混濁した悲劇的幕引きから、個々人の幸せな終幕へと変わっていった。
 いってみれば、戯言シリーズ10作の軌跡とはそういったものだ。
 その軌跡において、誤解をおそれずにいえば、西尾維新の維新はひとまず完了してしまったのだ。今後、西尾維新は維新後の世界で伝奇的な可能性を検証していくことが中心になっていくだろう。その発端、推理小説という領域から西尾維新を見つめてきたひとりとして、あらためてこの推理小説という領域からの観測をしておくことの必要性を感じている。以下では、ある補助線を引いて西尾維新の立ち位置を検証したい。なお、念のために書いておくが、本論では「ネコソギラジカル」上中下巻の真相を伏せているものの、暗示させる言葉は散りばめているので注意してほしい。


2.相似

 小説とは畢竟、物語を書き始め、書き続け、書き終えることで完結する構成物である。その三つの段階にはそれぞれが質的な違いがあることは、多くの作家による証言で明らかだろう。たとえば竹本健治『ウロボロスの偽書』(1991)はそのことを主題にして書かれたといってもよい。
 早書きを作家的特性と主張していた西尾維新だが、戯言シリーズ外伝というべき零崎シリーズやりすかシリーズを立ち上げため、最終巻となる「ネコソギラジカル」の上中下巻は一年がかりとなってしまった。その事実を踏まえてのことだろうが、「このライトノベルがすごい!2006」のインタビューで、西尾維新が早書きを吐露することへの恥じらいを魅せたことは特に印象的だった。終わらせることへの配慮を見せた一瞬といえる。早書きゆえに多くの物語を終わらせる経験をした西尾維新にとって、終わらせ方の法則性に絡め取られ、その立ち位置に早々についてしまったのである。だからこそ、当初は2004年9月から連続して敢行されるはずだった「ネコソギラジカル」が遅れたわけだ。
 翻ってみれば、すでに僕たちの前には多くの書き終えられた作品がある。多くの作家が、それだけ終わりに工夫を凝らしたということだ。その一方でシリーズとしていまだ続いている作品がある。西尾維新が小説の方法論を学んだという5人、笠井潔、森博嗣、京極夏彦、清涼院流水、上遠野浩平のなかでも、自分の代表作となるシリーズを早々に終わらせた森博嗣の立ち位置は、今の西尾維新にとても近いはずだ。犀川・萌絵シリーズをはじめとした森ミステリィと戯言シリーズを比較することで、その共通性と差異がはっきりするだろう。森博嗣を意識したように大学や研究施設を舞台にしていることや、天才的な登場人物の抽象的な会話、小説冒頭に印象的な言葉を用意することなどなど。そして、森博嗣もまた清涼院流水と違った形で言葉遊びを好む作家であり、『夢・出会い・魔性』をはじめ、題名や章題、登場人物の会話の端々で感じられるちょっと脱力気味の言語感覚などは、西尾維新の作品に散見されよう。そして、今回決定的になったのは、殺人事件が結局のところ人間関係を描くための一手段として用いられてきたことである。簡単にいってしまえば、恋愛模様を描くための枠組みとして殺人事件の道具立てが援用されていたことだ。いや、正確に書くとするならば、作品を書き続けるうちにそのような援用を承認するに至ったというところだろう。僕にとって「ネコソギラジカル」の結論がそのようなかたちで出たということは一種の衝撃だった。表紙で既に結末は暗示されている、という指摘は本格推理の読者の耳には入らない。これまで数々の物語的脱臼を試みてきた西尾維新なら何かをやるだろう。そのような期待を持つことは実に自然なことだ。そして、それはある意味しっかりと達成される。


3.論理的構成力

 もちろん戯言シリーズで回収しきれなかった様々な伏線が零崎シリーズで語られるということは、最新短編「零崎軋識の人間ノック2」(05 「ファウスト vol.6 SIDE-A、SIDE-B」収録)で明らかになった。この方法論はすでに森博嗣が素晴らしい構成力で私たちの前に提示したことは記憶に新しい。
 一方で森博嗣と西尾維新の相違点もはっきりした。森ミステリィは、密室トリックを中心として物語を構築し、「謎と論理的解明」という構成を基本的に崩さなかった。シリーズが続くにつれ、作品の論理的緊迫感よりも、人間関係の詩的な空気を描くことに比重を移していったことには注意を促したいが、それでもしばしば本格推理の臨界点を垣間見せる一瞬を森ミステリィは生み出していったことには変わりない。阿潜荘の面々が登場するVシリーズで提示された「シンプル、シャープ、スパイシィ」というコンセプト、『φは壊れたね』(04)からはじまるGシリーズではその配分を更に増すこととなり、重く長い本格推理作品とは一線を画している。
 対して西尾維新は3作目『クビツリハイスクール』(02)から、本格推理とは違った自由な振る舞いをみせるようになる。そこには連作というものの拘束に囚われない自由さが感じられ、その自由奔放ぶりが一部の読者から反発を買いはしたものの、若い読者からは圧倒的な支持を受けるようになった。
 森ミステリィも戯言シリーズも作品内の度合いの差はあれ具体的な推理構造は減っていった。森博嗣は登場人物たちの思惑や振る舞いを描きながら、少女漫画的な空気感を読者に与えていく。これは客観的な世界設定で読者と知的な駆け引きを行う推理小説には本来向かないやり方である。実際、推理小説の構造を支える冴えた技巧よりも、登場人物たちの恋愛の駆け引きのほうが注視されやすいのは否めない事実だろう。しかし、犯行の物理的な分析や、動機の抽象的な解釈などを描くとき、事件を見つめる抽象的な視点は、詩的な雰囲気の中でもしっかり保たれている。
 また西尾維新は、伝奇小説にあるような戦闘場面の駆け引きや戦略的思考に得意の逆説的論理を用いるようになる。それらは上遠野浩平や菊地秀行で描かれるようなスタイリッシュなものではない。西尾維新の饒舌な戯言から一歩引いた視点であらためると、その論理構造は随所に飛躍と不自然さが見いだせるはずだ。しかし、その一歩引いた視点を読者に保持させない文体こそが西尾維新の持ち味であり、そのためには読者をつかんで離さない箴言めいた台詞や醒めた戯言、そして読者を驚愕させる魅惑的な逆説をリズミカルに打ち出していく。たとえば『ネコソギラジカル(下)』で語られる一里塚木の実の特殊能力からは、あたかも山田風太郎の忍法帳のような奇想的説得力が感じられることだろう。決して感性だけで書いているわけではないところがまた面白い。そうした論理的構成力がある限り、彼らが驚くべき本格推理を書いてしまう可能性は残されている。僕はじっとその予兆を感じ取れるようにしていようと思う。


4.希望

 そして、その論理的構成力の結果として、「ネコソギラジカル」の最後の風景があることは指摘しておきたい。あれは順当な落としどころなのではなく、逆説の逆説としての答えなのだ。論理的な構成をいくらでも試行することは可能だが、最後は暴力的に決断という一線を越えねばならない。西尾維新の暴力的決断は、そのあとどのような地平を切り開いていくのか。こっそり僕は願っている。ひとつ、希望の光を提示しておこう。戯言シリーズの「名もなき彼女」が再登場する可能性を。あたかも森ミステリィを俯瞰する超越的な視点を獲得した彼女と同じように、である。そのとき物語が論理的構成力によって生み出される物語の地平の広大さを感じさせてくれるはずだ。

階級形成論の方法的諸前提(第四回) 笠井潔

階級形成論の方法的諸前提(第四回)

「主客」カテゴリーにおける客体とは、直接的には自律的なる自己運動を展開する経済的現実過程に他ならないが、その自立性、その自己運動を保証するものが労働力商品の存在である以上、労働力商品の担い手としてのプロレタリアートは、資本制的商品経済社会の普遍的本質の具体的定在であり、その限りで「主客」カテゴリーにおける客体そのものに他ならない。商品形態こそが「主客」両者の結合環であり、「商品関係の構造のなかに、ブルジョワ社会でのあらゆる対象性の形態と、これに対応する形態との原型を見つけ出すことができる」とルカーチが断言したのも、このことを指している。
 自律的な自己運動を展開する経済的現実過程から排除され、その法則によって外的に規定されたものとしてのブルジョワ的「主体」であるとともに、この過程の自立性の保証であり、自己運動の原動力として「客体」であるプロレタリアートは、「主体の対象についての意識が対象の自己意識であり」また「対象の自己意識が主体の自己意識である」という条件を満たしうるのである。すなわち、プロレタリアートの社会的現実(その規定的要因は経済過程にある)についての意識は、経済過程の自立性の体現者としての、自己運動の原動力としての商品の自己意識であり、商品の自己意識は、労働力商品としてしか存在しえないプロレタリアートの自己意識である。
 プロレタリアートこそが、こうして、ブルジョワ・イデオロギーの二律背反を止揚し、知の全体性の担い手として歴史に登場するのである。プロレタリアートの自己意識は、知の全体性の実現であり歴史の自己意識に他ならない。歴史は自己を意識するにいたる。人類の前史は終焉するだろう(*1)。
 ルカーチは、プロレタリアートの主客の同一性に触れてこう語っている。「プロレタリアートは、たしかに社会的な現実の総体を認識する認識主体である。しかし、それはけっしてカント的方法の意味における認識主観、すなわちけっして客観とはなりえないものとして定義される主観ではない。プロレタリアートはけっして社会的な現実の発展過程に参加しない傍観者ではない。プロレタリアートは社会的な現実全体の行動し、受苦する部分である」(註1)。受苦するものとしてのプロレタリアートのみが、歴史の終焉を告知する。
 このことの確認のもとに、われわれは、ブルジョワ社会の構造とそれに対応する一般的な生活意識、この生活意識を土台としてその上部に体系化される「意識の意識」としての「知のブルジョワ的形態」=ブルジョワ・イデオロギー、ブルジョワジーの階級意識とプロレタリアートの階級意識との構造的な差異、プロレタリアートの階級意識成立の必然性などについて検討する段階に達した。知の全体性とは、プロレタリアートの階級意識に他ならない。
 まず、ブルジョワ社会の構造に全面的に規定される自然発生的な生活意識の内容について解明しなければならない。
 すでに強調したように、ブルジョワ社会の特性は、商品形態が流通過程のみならず生産過程をも包摂し、それによって経済的現実過程が一切の幻想的諸過程を排除して自立的なる自己運動を、内在的な法則性をもって展開しているところにある。この点から、ブルジョワ的な生活意識の内容を導出しなければならない。
 ブルジョワ社会の自然発生的意識とは、「物象化された意識」であり、それは商品の物神的性格に根ざしている。これについて、マルクスは次のように語っている。
「商品形態の神秘性なるものは、単に次の点にある、──というのは、商品形態は、人間自身の労働の社会的諸性格を、労働諸生産物そのものの対象的諸性格として・これらの諸物の社会的な自然諸属性として・人間の眼に反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係を、彼らの外部に実存する諸対象の社会的な一関係として人間の眼に反映させるということ、これである」(註2)。商品の物神的な性格とは、本来の人間関係に物的な外被をかけ、人々の眼にあたかも物と物との関係という幻想的形態をもたらす点にある。商品のこうした物神的性格は何に起因しており、人間にどのような態度を強制してくるのだろうか。
 商品のこの性格は、商品を生産する労働の社会的な性格から生じるのである。諸使用対象は、相互に独立して営まれる私的諸労働の生産物としてあるが、これらの私的諸労働が社会的総労働の一分肢としてのみ存在しうるという点を実現するのは、生産物が商品として交換された後である。このために諸労働の社会的性格は「彼等の諸労働における人と人との直接的に社会的な性格としてではなくて、むしろ、人と人との物象的諸関係および物象と物象との社会的関係として、現象するのである」(註3)。こうして交換こそが、労働諸生産物に商品としての物神的性格をもたらすことが明らかとなる。この交換を可能にするのは、相異なる質の具体的有用労働、同質な抽象的人間労働への還元であり、生産物の商品への、したがって有用物の価値物への転化に他ならない。交換は価値の決定によって可能になる。価値は交換者たちの意志や予見に係わりなく変動するから、「交換者たち自身の社会的運動が、彼等の眼には、諸物象──彼等によっては制御されないで彼等を制御する諸物象──の運動という形態をとる」(註4)。
 こうして、商品の物神的性格は、人間の社会の社会的関係を物象化し、その物象的外被の内部を透視しえない、そして逆に、物象によって規制される「物象化された意識」をもたらす。


註1 『歴史と階級意識』五九ページ
註2 『資本論』一七二ページ
註3 同 一七四ページ
註4 同 一七六ページ

*1 少年期から脱したばかりの筆者は、こうした箇所に顕著なルカーチの黙示録的=否定神学的な精神に惹かれたのだと思う。高校を中退して人生の退路を断った筆者は、なんとしても「歴史」を終わらせなければならない、それ以外に先はないと思っていた。歴史が終わったあとの「先」は、A・C・クラーク『幼年期の終り』のオーヴァーマインドになるのだろう。『立喰師、かく語りき』に収録された押井守との対談でも語ったように、歴史の終わりとは、とりあえず東京を焼け野原にすることだった。どう見てもマルクス主義的ではない、プチブル急進主義少年の発想である。第一次大戦とロシア革命を目撃して急進化したプチブル急進主義者がルカーチだとすれば、二〇歳の筆者がルカーチに共感したのも当然のことだ。

「リアリズム/ズ序論  柴幸男の演劇のリアル――分離した心と身体、反復し続ける一回性」(海老原豊

リアリズム/ズ序論  柴幸男の演劇のリアル――分離した心と身体、反復し続ける一回性
海老原豊



 芸術諸ジャンルはそれぞれのリアリズム(写実主義)を持つ。絵画においても、文学においても、演劇においても、時代と場所を問わず「ほんもの」を追求しようとするプラントン主義的な行為は、必然的に特定の技法と連動し作品という結晶を生み出してきた。二十一世紀に入って約十年が経過し、自己言及性やメタ・フィクション性を特徴である芸術運動としてのポストモダニズムの興奮が過ぎ去った今、ポストモダニズムが私たちにいったい何を残していったのか。リアリズムの相対化・複数化もその一つだろう。
 近代の単一にして巨大なイデオロギー=ナラティブの効力が薄れたポスト近代社会において、人々は、いくつかの自閉=充足しつつも外部を失った島宇宙に属し、それぞれの島宇宙における言葉と振る舞いのコードを洗練することに専心してきた。その結果、島独自のリアリズムを結実させた。マンガ、アニメ、ゲーム、ライトノベルといったサブカルチャーに注目すればそれは大塚英志『定本 物語消費論』(角川文庫)から東浩紀『動物化するポストモダン2 ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書)へと橋渡しされたマンガ・アニメ/ゲーム的なリアリズムであるし、近年話題になったケータイ小説という文学現象を東京/地方と絡めて『ケータイ小説的。 再ヤンキー化時代の少女たち』(原書房)で読み解く速水健朗によれば、そこにはケータイ小説的リアリズムがある。あるいは宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』(早川書房)で、平成『仮面ライダー』シリーズと『野ブタ。をプロデュース』や『木更津キャッツアイ』というTVドラマが、ゼロ年代の殺伐とした「戦場」を生き抜くためのサヴァイヴァル術を描き出しているという点においてゼロ年代のリアリズムだという。もちろん宇野は自著を『ゼロ年代の想像力』と名付けているが、この「想像力」には現実に影響を受け敏感に反応する人々の振る舞いを指しているわけであり、東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』において使った「リアリズム」と通じ合っている。
 いずれにせよここで簡単に触れたこれら複数のリアリズムは、モダン的大きな世界であれ、ポストモダン的島宇宙であれ、その世界の中で考えられる「ほんもの」を追求する姿勢のことを意味している。ただ急いで注意を喚起しておくが、プラトンの伝統を引継ぐならば、この「ほんもの」に私たちはリアリズムという技法を通じても――いや、まさにそれゆえに――達することができない。私たちができることは、せいぜい「ほんもの」の「ほんもの性」とでもいうべきものを、美学的表象/代理(リ・プレゼテンテーション)を通じて擬似的に体験することであり、ほんものであると錯覚できればその表象はリアルであると感じこの芸術はリアリティがあるというのだ。
いささか長くなった前口上はこの程度に、本題である演劇のリアリズムについて考えていこう。二〇〇九年、岸田國士戯曲賞を『わが星』にて受賞した劇作家・演出家の柴幸男の諸作品をテクストに、現代において演劇がどのようなリアル/リアリティ/リアリズムを志向しているのかをラフスケッチすることが本稿の目的である。といっても、柴幸男にたどり着くまで、少し寄り道をする必要がある。柴幸男が何をしたかを理解するには、そもそも彼がどんな舞台の上に立っているかを理解する必要があるからだ。
「リアルな演劇」と私がいうとき、それは舞台の上に生身の人間が立ち、言葉を発し、笑い泣き、何かに怒り喜びしたからといって、それだけを根拠に、演劇は私たちの世界をリアルに表象しているなどといっているわけではない。かつてはどうであったか分からないが――おそらく過去においても、人間が出ているからという根拠だけでは不可能であったと推察されるが――少なくとも現代において、人間が出ているがゆえに人間の「ほんもの」にたどり着けるだろうという信念/錯覚を観るものに与えることは不可能だ。小説やマンガには原理的に生身の身体は登場できない、しかし演劇にはそれができる、だから演劇はリアルだ、とならないのは、生身の身体がそこにあるために可能なことになったものがあるのと同時に不可能になってしまったこともあるからに他ならない。暴力や死といった身体に及ぶ物理的にして一回的なものは、舞台上において表現不可能である。正確にいうならば、表現することは可能でも、再現することは不可能であり、この再現不可能性がそもそも舞台と観客席を分け隔てていた演劇的約束事(コンヴェンション)を完膚なきまでに破壊してしまう。ほんものを志向しつつも断念し、いかにほんもの性を担保するかがリアリズム/ズの倒錯的目標であるならば、いかに演劇独自のリアルを現出させるかに専念するべきだろう。
 演劇のリアルを考える一つのモデルは、柴幸男が所属している青年団の主催・平田オリザの演劇論が与えてくれる。平田は彼独自の演劇のリアリズムを「現代口語演劇」と呼んでいるが、自身の『演劇入門』(講談社新書)によると、次の三点に基づいて書かれた戯曲はリアリティをもつという。
一、登場人物しかしゃべらない
二、独白、叫び以外、他人に向かってしゃべる
三、互いが知っていることは話せない、互いが知らないことは話せない
「人生に暗転はない」という平田の芝居は、一幕もので、観客に向かって状況や人物を説明する狂言回し的な登場人物は不在であり、登場人物同士の情報格差を埋めるためだけになされた会話から観客は目の前の舞台がいつ・どこで登場人物がだれなのかを理解しなければならない。美術館が舞台であるとき、登場人物は「ここが美術館かあ」というセリフは慎まなければならない。現実の世界に美術館に入ってきた瞬間に「ここが美術館かあ」と発話する人間は(特殊な事例をのぞいて)存在しないからだ。平田の芝居を観に劇場に入ると、上演時刻前であるにも関わらず既に役者たちが登場人物として舞台の上を往復したり、たわいもない雑談をしている様子に観客は出くわす。「人生に暗転がない」以上、「これから始まります」という合図もないのだ。ここまで徹底するのが平田オリザの目指す演劇のリアリズムなのだが、しかし当然のように彼の手法にも限界はある。日常世界と地続きにはじまった一幕の芝居は、物語のような物語でないようなエピソードを連ね一人また一人、役者は退出していく。全ての役者が舞台上から消え、終幕となる。もちろん、暗転することも幕が下りることもないのだが、舞台袖に一度下がった役者たちは律儀にも再び現れ観客の前で頭を下げる。カーテンコールが終幕の合図となっているわけだが、平田の先の発言を踏まえていえば「人生にカーテンコールはない」のだから、リアリズムを徹底していない以上、これは片手落ちというほかない。
 平田オリザの演劇はリアリズムを志向している。演劇の中に現実の一回性(「暗転はない」や狂言回しの不在)を積極的に導入することで演劇のわざとらしさを抹消するその手法は、しかし突き詰めていけば演劇の(あるいは広義の芸術がもつ)反復可能性までも崩してしまう。反復可能性とは、何かを切り取って提示するときの「はさみ」のような役割を担保するもので、作品のはじまり-おわりと表裏一体であり、日常と芸術の断絶を示す標識でもある。どんなに日常性を自然に描き出したものであっても、それが作品として成立する以上ははじまり-おわりの標識タグを埋め込むほかなく、またこの標識タグゆえに作品に作家性が宿る。平田オリザがどんなに一回性を志向しようとも、それが作品である限り反復可能性は排除できない。これはリアリズムの失敗を意味しない。なぜならアリズム/ズの現代には、平田とは異なるリアリズムもありえるからだ。
 さて、ようやく柴幸男である。先にも述べたが柴幸男は平田オリザの青年団演出部に所属し、自身の劇団ままごとの主催でもある。代表的な作・演出作品は、「あゆみ」「ハイパーリンくん」「反復かつ連続」「純粋記憶再生装置」の四短劇からなる『四色の色鉛筆があれば』(〇九年一月シアタートラム)、『少年B』(〇九年四-五月駒場アゴラ劇場)、カニクラ『73&88』(〇九年七月アトリエヘリコプター)、ままごと『わが星』(〇九年一〇月三鷹市芸術文化センター)、ままごと『スイングバイ』(一〇年三月駒場アゴラ劇場)。平田オリザ作『チャイニーズ・スープ』を駒場アゴラ劇場で演出していることもあり、平田の現代口語演劇的リアリズムの影響を受けていることは確かだ。その証左に、平田同様に上演時刻前に舞台上に役者を配置している(『少年B』『チャイニーズ・スープ』)。ただし、平田が作品の枠を決めるはさみをできるだけふるわない方へと向かっていったのに対し、柴は積極的にはさみをふるう。「あゆみ」(シアタートラム)では、三人の女優が観客には意味の分からない楽屋的雑談をしながら舞台に登場、舞台のはじにある靴箱で靴を履き替える。その間ずっとおしゃべりは続き、まだ楽屋であることを観客に印象付けるのだが、ふと気がつきと芝居が始まっている。それは靴紐がほどけてしまったので立ち止まり結わえなおす演技からはじまる。ここでは役者の身体と登場人物の振る舞いがつなぎ目なくつながっている。カニクラ『73&88』においても、役者から登場人物へとなだらかに変化する。例えば四人の俳優のうちの一人である玉置玲央は一個人として自己紹介し、この芝居に出るにいたったきっかけなど、楽屋的な話を始める。しかし「もし」という言葉を挟むことで、ゆっくりと確実に観客を役者としての玉置ではなく登場人物の玉置へと誘導していく。柴がふるったはさみは、しかし、入念に隠されるのだ。
 役者と登場人物の間には、薄いが本質的で必然的な皮膜が一枚、挟まっている。演劇的約束事が担保するこの皮膜を、極力見せないように、役者がそれを身にまとう瞬間を分からないようにすることが平田オリザのリアリズムであるとするとき、柴幸男のリアリズムはそれとは逆に、皮膜を最大限に引き伸ばす。自覚的に演じると無自覚である外部がどうしてもどこかに存在してしまうのであれば、無自覚に演じ続ければよいという逆転の発想がここにはある。それを可能にするのが、柴幸男が繰り返し導入する身体から人格=心を分離するという演出である。
例えば「あゆみ」。「あゆみ」と「みき」という二人の女の子は幼馴染で、くだらないことで喧嘩をしたり仲直りをしたり、家出をしたりちょっといじわるをしたり、金魚の糞みたいにくっついてまわったりそれをうっとうしいと思ったり、とにかくどこにでもいそうな女の子。あゆみはぐんぐん歩き続ける、後ろから半べそでみきが追いかけてくるのもかまわずに、どんどん歩き続ける。小さい頃の記憶と大人になったあゆみの姿が交互に描かれるこの戯曲には、しかし三人の女優が必要だ。舞台上に太い一本の道が照明で照らされ、その上を一方通行に役者は歩く。右端からスタートし、左端まで着くと急いで右端まで戻りそこからまた光の道を歩く。光の道の上に立っている間のみ役者たちは登場人物となり、誰かどの役を演じるかもその場の配置によって適宜、入れ替わる。この演出上のルールを観客に共有してもらうため、先に述べた靴紐を結びなおすシーンからはじまって、前を行くあゆみをなんとかして止めようとするみきの様子が数回、同じセリフで繰り返される。ただし、誰があゆみで誰かみきかはその場面による。
 当たり前のことだが、役者は役を演じることで登場人物になる。そして、この役者と登場人物の間の薄いが本質的な皮膜の扱いに平田と柴のリアリズムの差異があると先に述べた。柴は役者が役を演じること、(自分の)身体に(別の誰かの)心を付着させることの不自然さに気がついているが、平田のようにそれをどこかにおいやるのではなく、徹底的に不自然さを繰り返すこと、反復することを通じて、自然さへいたる回路を開こうとしている。あゆみを演じるのは誰でもいい。誰でも演じられるあゆみは、不思議なことに観たものすべての中に、あゆみにしか演じられないあゆみ、つまり皮膜を被った役者ではない「ほんもの」のあゆみが浮かび上がってくる。もちろん、それは錯覚なのだろう。ただ、この錯覚は錯覚にしては「ほんもの」過ぎるのだ。柴幸男が作る演劇のリアリティが光る。
「あゆみ」のあゆみ、「ほんもの」のあゆみはどこに宿るのか。声、あるいは舞台上を漂う意識であると思われるかもしれない。声こそがあゆみである、と。しかし「反復かつ連続」を見てみると、ことはそう単純ではないことがわかる。タイトルが示すように本作品は反復を通じて一回性、私たちの生きる「ほんもの」を彫りだす。ある家族の朝、わずか数分程度のシーン。目覚まし時計の音で幕が開く。小学生の女の子が目覚めて、顔を洗い、ご飯を食べ、家を出るまでを一人の女優が演じる。その場にいない家族に向かって話しかけ、返事をし、身振りをする彼女の姿はまさに一人芝居である。玄関の呼び出しチャイムが鳴って外に出ると、数秒後に再び目覚まし時計の音が鳴る。そしてついさっき演じ終わった女の子の演技が音声として再生される中、それにあわせて二人目の女の子――一人目の女の子の姉で、部活の練習があるということから中学生と思われる――を同じ女優が演じる。このときになって観ているものは、これがどうやら従来の意味での一人芝居ではない、ということに気がつく。この芝居のルールが分かったところで、三人目の女の子=二人の姉で不登校ぎみの高校生、四人目の女の子=三人の姉で会社の同僚の彼氏を紹介すると約束する社会人、そして最後に五人目の女性=四姉妹の母親が、それぞれ前に演じられた声に自分の声を重ね朝のシーンを完成させる。五度目の母親のシーンにはバッハのフーガの一節が、先に進むことなくずっと反復され、その後、六度目は今までの五人の女性の声が重ね合わされる。今度はゆっくりとフーガが進行し、それにあわせて舞台中央に今まで五人の女性を演じ分けた女優が進み座る。遠くを見ながらお茶をすすり、やがて静かに寝入る女性に「おかあさん、ご飯できましたよ」というおそらく嫁の声が重ねられ、今再生されている重ね合わせ=反復の朝のシーンが、年を重ねた女性の記憶であることが示唆される。嫁の呼びかけに「いってきます」というまた別の声が重ねられ、フーガが終わり、芝居も終わる。
 一人目の女の子が演じられたとき、そこには身体と声の一致があった。しかし、二人目の女の子が演じられたとき、そこには一人目の女の子の意識が声に変換されてのこり、そこに二人目の身体と声の一致が重ねられた。三人目以降も同じ過程を経ている。ここでも柴はまず身体から声という意識を引き剥がすことから始めている。しかしそこで終わることはしない。ここで終わってしまうと、人間の意識はすなわち声であるとした、ポスト構造主義者が完膚なきまでに脱構築したいわゆる「西欧形而上学の伝統」を「反復」していることになる。柴の野心はもっとラディカルだ。ジャック・デリダが示した意識=声の絶対的な遅延性を、柴は最後のシーン、六人目の老婆の思い出に五人の声=意識を重ねることで視覚化している。最初に、身体から声をはがし、かつそれを反復、重ね合わせることで身体はなくても声だけあれば「そこに誰かがいる」という現前性を観るものに感じさせるのだが、最後にはその声の重ね合わせも、別の誰かの想起であることが明らかにされることで声=意識の遅延性が示される。
「あゆみ」のあゆみにしろ「反復かつ連続」の家族にしろ、役者(たち)によって集合的に演じられる声が意識の正体ではない。身体から心を引き離し、その中間地点、絶妙なポイントにふわふわと漂っている。平田オリザ的なリアリズムから発想する限り、柴幸男の戯曲はあまりに概念的(コンセプチュアル)でリアリティを欠いていると批判されてもしかたがないかもしれない(平田オリザ自身は柴幸男に批判的だと思わないが)。ただ、冒頭に述べたように、現在、リアリズムはリアリズム/ズとなっている。柴の演劇のリアルは、平田とはまた別に存在している。身体から心を離すこと。反復すること。私たちがリアルを感じるその前提を積極的に不自然にすることで、改変しえない、つまり薄い皮膜を取り去った、演じ得ない「ほんもの」を私たちに垣間見せるのが柴幸男の演劇である。