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「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」(第二部)

「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」(第二部)
渡邉大輔/海老原豊/佐々木友輔/藤田直哉




第二部 創造の生成/生成の創造

渡邉:続いて、「慣習」という言葉についてですが、拙論をお読みになった方はお気づきのように、僕の場合は、かつて英米系言語哲学が定式化した「規約」と訳されている概念などと接続させて扱っているので、ごく一般的な意味での用法とは微妙にずれがあるのです。このへんは、お二人の見解も参考にしながら、これからもっと詰めて考えていきます。
 ともあれ、僕は、最近こんなことを考えています。例えば、一般的に、「作品」とか「表現」というのは、既存の「慣習」のネットワークこそを揺るがし、創造的な差異をもたらす営為であると考えられていますね。それで行くと、慣習に依拠した作品作りという僕の主張は、あまりに……有り体に言えばつまらないのではないか(笑)と思われるのでしょう。
もちろん、現実に存在する優れた作家とはCGMの大海に蠢く有象無象の「作家」たちとは明らかに異なるでしょう。そして、そうした作家たちは凡庸なジャンルの「慣習」こそを内破していく存在だとも思います。
 しかし、そうした「差異」というか「オリジナリティ」にしても、少し逆説めきますが、むしろ慣習の生態系に浸りきることによってこそ生まれるとは考えられないでしょうか。事実、何度も繰り返すように、映画というジャンルはそういう「慣習」の力こそをポジティヴフィードバックに繰り込んで発展してきたジャンルです。例えば、50年代アメリカの無数の「フィルム・ノワール」の歴史を考えてみればいい。フィルム・ノワールはまさに古典的ハリウッドから現代ハリウッドの表象システムの重要な結節点となった映画史上特筆すべきジャンルであり、無数の巨匠や傑作を生み出したわけですが、それらの作品の中には、既成作品のテーマやプロット、さらには(予算的な関係で)違う作品のフッテージを平気で流用して作られた作品が多く存在するわけですね。つまり、そこでは「作家性」と「慣習」の区別は非常に曖昧です。言ってみれば、「慣習」がある種の「作家性」を擬態し、逆に「作家」の企図が「慣習」に寄生するというような癒着が露骨に顕在化している。
 あるいは、僕は以前、『オトシモノ』(2006)や黒沢清作品の脚本を担当したことで知られる若手映画監督の古澤健さんに非公式な場でインタビューしたことがあるのですが、そこで彼が言っていたことが非常に印象に残っています。そこで古澤さんは「自分は「映画作家」という言い方にすごく違和感を感じる」というようなことを言っていました。古澤さんによれば、実際に映画を撮っている時というのは、当初の脚本段階で自分が想定していたものとは全然違うものができてしまうと。それは例えば天候の変化やスタッフ・キャストのスケジュール上の問題、撮影過程での急遽の変更など、いろんな要因があるのでしょうが、とにかく、実際に完成した作品というのは当初の予定の1割も反映していないことがあるというんですね。だから、自分は全然「作家」などではない、という意味のことを言っていたんです。むろん、これはどんな作品作りにも言えると言えば言える。しかし、通常の映画作りはその幅がとてつもなく大きいということは言えるのではないか。例えば、僕の考えでは、ハリウッドの「ディレクター・システム」とか、あるいは、フランスの「カメラ万年筆論」からヌーヴェル・ヴァーグの「作家政策」にいたる言説というのは、そうした映画における近代的な「作家」概念の曖昧さを意図的に抑圧するようなイデオロギーとして出てきたのではないか、という気すらしますね。
 ただ、ここには文字通りの「作家」としての佐々木さんもいるので誤解のないようにまた言い添えておくと(笑)、僕が言っているある種の「作家性」が「慣習的」なシステムの挙動と区別がつかなってくるという話は、あくまでも僕たちの文化的な信憑性、ようは「リアリティ」のレヴェルの話であって、現実の作家の活動とは区別するべきです。端的に議論のレイヤーが違いますので。それは例えば、有名なベンヤミンの「アウラの消失」の議論を例に出すと分かりやすいでしょうか。あのベンヤミンの議論は、よく写真や映画といった複製芸術作品からは近代的な一回性=「アウラ」が消失している、というふうに紹介されることがあるけれども、それは読み間違いですよね。「複製技術時代の芸術作品」を丁寧に読めば分かるように、ベンヤミンは複製芸術が僕たちの「知覚」の編制を変えたことによって、「アウラ」が消えたように見えてくる、と言っているのです。僕が言っているのは、このベンヤミンが言っているのと同じことです。現実に、「作家」や「作家性」の行為が消失するわけないじゃないですか(笑)。
 では、せっかくなので――急に振って申し訳ないんだけど(笑)、ここで佐々木さんに今までの議論を受けて何か喋っていただきましょうか。「擬似ドキュメンタリー的」なフィルムをある種戦略的に撮られている作家として、佐々木さんは、現代映像作家における「作家性」といったものについて、何か考えるところはありますか?

佐々木:すごく難しい質問ですね。うまく答えられるか分かりませんが、もしかしたら答えの糸口を掴むきっかけになるかもしれないので、とりあえずまず僕の映画製作の動機を説明させていただきます。僕は中学2年の時に実験映像作家の小池照男氏に師事して、本格的に映像制作を学び始めました。当時、普通に全国劇場公開される映画を撮りたいと思っていた自分にとって、テレビのノイズのようなものが延々と流れ続けたりする実験映画との出会いは衝撃的だったわけですが、それは案外すぐに受け入れることが出来た。むしろ、映画というものの幅が広がったように思えたんですね。自分でも映画監督になれる、映像作家になれる、と、これまで夢に過ぎなかったものが、現実に手が届く所に来た感じがしたんです。また、ほぼ同じ頃に『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』が公開された。非常に大きな勘違いも含んでいたとは思いますが、低予算で撮られて大ヒットしたこの映画を見て、自分も映画を撮れるという思いはますます強くなった。あるいは『リリイ・シュシュのすべて』とか。そういった映画を観て僕は、ハンディカム一台あれば映画が撮れるんだ!と狂喜乱舞したんですね。そして、実際にハンディカムで色々と身近なものを撮りまくった。編集に関しても、その頃はまだ自宅のパソコンで快適に映像編集作業が出来るほどの環境は整っていなかったと思いますが、iMacで映像編集が自由自在、みたいなCMを見たり噂を聞いたりして、「誰でも映画監督になれる」、そして「全てが映画に成り得る」状況が近い将来やって来るのだという期待はどんどん高まっていったわけです。それは、自分にとってある種のユートピアでしたし、今でも映画製作における前提条件のようなものになっている。特定の映画や映画監督に感化されて映画産業に憧れたと言うよりは、今自分は映画を制作しているのだという思いと共に、ハンディカムを持って町に出かけていって撮影することそのものが、自分の映画体験の核にあるような気がするんです。だから、渡邉さんの「映像圏」についての論文を読ませて頂いた時、自分の映画体験、映像体験ととても近いところの問題を扱っている人が居たと思い、正直感激しました(笑)。僕が勉強不足なだけかもしれませんが、このような問題意識から映画について語っている人は、これまで殆ど見たことがなかったんです。
 しかし、当時の僕が思い描いていたユートピアは結局やって来なかった。いや、そのような状況がやって来なかったというわけではなく、やって来たのですが、自分が思っていたものとは違っていたんです。確かに誰でも映像撮影や編集は手軽に出来るようになったけれど、そうやって作られた映画の多くは、予算を掛けたハリウッド映画などの劣化コピーにしか見えなかった。新しい映画のかたちは、思ったより増えなかった。映画製作の環境は大きく変わったけれど、実際に作られている映画そのものは、あまり変化していないように思ったんですね。可能性は広がっているはずなのに、作家がその可能性を殆ど生かせていないというか、これまでの「映画」というものに縛られて過ぎているように見えた。それは自分自身の作品制作についても同じで、実際に撮影をしてみると、どんなものでも撮っているつもりでいても、自分が意識していないところで、実は撮っていないものや撮れていないものがある。無意識的に、「映画」的な被写体を選択して撮っているわけです。また、「映画」的ではないと思われるものを敢えて撮ってみても、その素材を編集してみると、ショットとショットがつながって見えなかったりする。少し限定的な話になり過ぎたかもしれませんが、僕はこうした体験から、映画を映画足らしめる別の枠組みがあるのではないかと思い始めたんです。それが今日の議論で出て来ている「慣習」ということなのでしょう。そして、映像を巡る状況がこれだけ変化しても、映画を映画として成立させる慣習というもの自体は、実はほとんど変化していないのではないかと思った。それは程度問題かもしれませんが、僕個人としては、そのことをとても不自由に感じたというか、物足りなく感じたんですね。
 具体的な話をすると、昨年制作した『彁 ghosts』が、こうした問題意識が前面に出た例として挙げられるかと思います。この映画では、事前に脚本を用意していません。私が2005年頃から毎日撮りためている[映像日記](http://www.geocities.jp/qspds996/diary/movie.html)を素材として、それらをつなげたり切り離したりしてこね回しているうちに、何となく物語の輪郭が見えてくる。その見えて来た物語を補強するために追加撮影を行い、新たに加えた映像素材から、また新たな物語が生まれてくる…といったことを繰り返しながら、ひとつの映画を立ち上げるという試みです。しかし先ほども言いましたが、「映画」的でない映像素材を用いようとしても、それぞれのショットがうまく接合してくれない。映画としてつながって見えません。作者である自分にしか見えていない物語を観客にも伝えるための工夫、そしてバラバラの映像素材をひとつの映画としてまとめるための工夫が必要です。そこで考えたのは、慣習というか映画のお約束を、最大限に利用しつつも、そのルールを緩和することです。普通、映画においてショットとショットがつながって見えるためには、同じ役者、同じ衣装、同じ場所を撮っている必要がありますね。他にも、季節が同じだとか、雨が降っているとか、あるいはホワイトバランスが合っているとか。しかし『彁 ghosts』では、それぞれのショットに似た色の服を着た人間が映っているとか、画面中を移動する被写体の運動の向きが同じであるとか、そういう、映画文法的につなげられる要素がひとつでもあれば、他の要素には全く関連性がなくても、ショットとショットをつなげても良いというルールを設けました。例えば、異なる日、異なる時間、異なる場所で撮影した素材でも、画面上に同じ人物が映っていれば、他の違いは無視してつないでしまう。次のショットに移ると突然朝から昼になっていたりしても構わない、と。そのように、映画としての体裁を保てるギリギリのところまでルールを緩和しつつ、一点だけの結びつきでショットをつないでいく。そうすることで、映画としては扱いにくいものを、なるべくそのままのかたちで、なるべく多く、映画の中に取り込んでいけないかということを考えたんです。
 この映画に関して重要なことは、これがあくまで「映画」であることです。観客が最初から最後まで見終わった時に、ああ映画を観た、と感じることが大事なのです。あくまで映画という枠組みは守りつつ、最大限まで「映画」に可能なことを追求したかった。言葉のニュアンスだけの違いかもしれませんが、僕は、慣習を撹乱したいと思ったことはあまりないんです。そういう挑発的な意図は元々あまり持っていません。ただ、こんなものが映画になってしまうのか!とか、なぜこんな魅力的なものが映画にはならないのか…とか、そういう違和感をずっと感じてきて、その衣擦れの感覚をどうにかしたいと思っていたんです。寒いし、慣習という衣服を脱ぎ捨てたいとは思わないけれど、ちょっとサイズが小さすぎてきついな、どうにかしたいなと、その程度の気持ちです。映像を巡る環境がどんどん変化していくのに対して、所謂「映画」はその変化のスピードに付いていけていない。だから、慣習を撹乱するというよりは、慣習の幅を広げるという方がしっくりきます。これも映画です、あれも映画になります、とひとつずつ指し示していくことで、慣習の幅を広げて豊かにしていくことで、当初に思い描いたユートピアとしての「全てが映画になり得る」状況に近づいていけるのではないか、と。そういうわけで、映画がもっと多様な可能性に開かれていくための映画をつくろうとして制作を始めたのが『彁 ghosts』という作品でした。そういう試みが自分の「作家性」として認知されるのかはあまりよく分からないし、むしろそういう前提条件を作った上で、初めて作りたい映画をつくるためのスタート地点に立てるのかもしれない。…あまり答えになってないかもしれませんね。申し訳ないです。

渡邉:いや、佐々木さんの作家としてのスタンスが伺えて、とても興味深いですね。そして、ご自身の製作体験に引きつけながら僕の議論を好意的に引き取ってくださってありがとうございます。もちろん、僕も佐々木さんほどの巧緻な作家の言葉をすべて真に受けるほどうぶではありませんが(笑)、いまのお話は大いに示唆的でしたし、僕の考えていることとも非常に近いように思います。
 佐々木さんのこれまでのお仕事でいうと、例えば、初期作品の『手紙』なんかはむしろ漫然とカメラを回しているという感じが強いんだけど――そして、僕はこの作品がとても好きなんですが(笑)――、対して、『夢ばかり、眠りはない』は、かなり意識的にいま言われたような、映画的「慣習」の幅を緩ませつつ、そこに新たな規則性をインストールしていくという作業を展開されている気がする。
 とにかく、おそらく実作者の方は僕の議論に実感として少なからず違和感を覚えると思うのですね。ただ、いずれにせよこれだけは言えると思います。現代における「作家性」(創造性)の問題は複数のレイヤーで考えなければならないということですね。東浩紀さん的に言えば、作家の「実存」(企図)の問題と「システム」の問題は分けて議論しなければならない。今日、「作家」という存在がいろんな意味で複数のコミュニティを結びつけるコミュニケーションメディアの一つとして活発に機能している以上、そこに付随する複雑性はなるべく個々の問題に即してモジュール化して――ハーバート・サイモン的に言えばdiscomposableに扱わなければならない。ただ、すぐに前言を翻すようですが、それこそ佐々木さんのテクストを観れば分かるように、この二つのレイヤーは相互に還流してもいる(笑)。例えば佐々木さんが主体的に世界を映像で「切り取る」際の「映画的」な文法も「慣習」です。そして、現代においてはその慣習が極度に拡散していることは疑いえない。そこが難しいところであり、興味深いところではないでしょうか……。
 まあ、それと当り前の話ですけど、僕だってテクストを生産している以上、れっきとした「作家」なわけですよ(笑)。むしろ、僕は個人的な実感では、小説を書くように批評を書いていると言ってもいいくらいです。で、ここ何年かそうやって活動してきて実感したのは、確かに、作家の生身の営為をすべてシステム合理性のレヴェルに還元して観測することは誤りですし、映像圏とはそういうことを主張しているのではない。しかし、かと言って、必要以上にロマン主義的に捉えるべきでもない。例えば、「作家とは自国語の中で外国語を話す人間のことだ」というプルーストの言葉があるでしょう。僕は10代の時には、あの言葉を非常にロマンティックに捉えていたし、作家という存在も神秘的なものとして考えていた。しかし、いざ批評家としてデビューしてみて、それなりに仕事をこなしてきていると、何のことはない、結構、締切に間に合わすために他人のアイディアを分からないように加工してサンプリングしたり、昔書いた習作の文章をコピペして再利用したり、途中で全然違う論旨に進んで行ったり……そんなことばかりなわけですよ(笑)。それは、ある種ウェブの「集合知」とそんなに変わりがない。それはいうまでもなく、テクストが「物質的」な存在だからです。したがって、僕は「作家性」を過度にロマン主義的に捉えるのにも慎重でありたいと思います。

藤田:僕はそんな中でまた反動的に「作家性」を擁護したいんだけど(笑)。僕が作家性を擁護する理由というのは渡邉さんがおっしゃるような実存とロマンティックな概念とはあまり関係がないんですね。作家がものを作るとき、既にあるものやメディアと応答しながら相互に連携しあって何かを作るというのはプレモダンだろうとモダンだろうとポストモダンだろうと変わらないと思います。そして近代の「作家」概念が、ロマン主義的な、「個人の擁護」「個性の尊重」「天才」などの思想に支えられていたことも確かだと思います。それはある種の偽装ですね。映画の製作に関わる人はいっぱいいるのに、なぜか監督だけが代表者面する。それは確かに偽装というか、複雑性の縮減的な部分があると思います。
 しかし、近代における「作家」概念にはロマン主義的なものだけではなく、笠井潔さんが「純文学論争」の際におっしゃっていたように、「労働者(labor)としての作家」というものもあったわけですよね。新聞連載にせきたてられて、原稿料を稼ぐために書いていたドストエフスキーは、「文学」であり「作家」だとされています。笠井さんと個人的にお話している際に、笠井さんは、ヴァレリーの「詩はダンスだ」を引いて、「小説は歩き続けることだ」というようなことをおっしゃっていたと思います。それは労働なんですね。その「作家」というのは新聞というメディアの再編の際に生じてきた、いわば「原稿料を払う相手」としての作家であり、労働者としての作家です。僕が擁護しているのはこの作家であり、苦労してものを考えたり、新刊を追ったり、文化の動向を追ったりしてコストをかけて、パッチワークする材料を集めたりしていろいろと考える、この作家です。その努力を作家が行っており、その結果が作品の質に反映されている限り、「作家」という単位を認めて原稿料の帰属先だという風にしておくほうが、脳の報酬系への作用なり、作家の生存なりを考えた上で、トータルに文化をよくしてくれるだろうと思うから擁護するわけです。たとえば「作家性」が消えてなくなって、まったく誰にもお金を払ったり名誉(象徴資本)を与えたりしなくても、質の高い「作品」が生まれ続けるのであれば、僕はそれでもかまわないんです。今はメディアの再編期なので、僕はなるべく「優れた物を作っている人にお金がいくようにしておきたい」と思って作家性を擁護しているわけです。そのほうが僕が「いい作品」に出会える確率が上がるだろうという、自己中心的で唯美的な動機に支えられた上でこの論法を貼っているので、かなり捩れてはいるのですが(笑)。芸術労働論とでも言うべきでしょうか、作家がいい作品を作り、消費者としての自分が美的なものを享受できる労働とインフラの環境整備というのは言いすぎですが、そのような関心が常に僕にはあります。多分、貧乏しながら演劇をしたり文章を書いたりしている友人と多く関わってきた経験が僕をこうさせているのだろうと思います。
 それに関連して、「誰でも映像作家になれる」問題についてですが、そうすると爆発的に「作品」が増えるので、有限の時間の中で如何に効率よく面白い作品に出会っていくか、みたいな問題が現実的に生じますよね。そうすると、「誰でも映像作家になれる」のだが、「映像作家として人々に認められる」人とそうでない人が現れてしまい、この違いが今度は前景化してくるのだと思います。
 ネットを見ていてたまに疑問に思います。小説と名乗ってネットに発表したらそれは全部小説で、ネットに発表した人は小説家ということになるのだろうか。『電車男』(2004 新潮社)が出た後に、あれが小説だとしたら2ちゃんねるの書き込みも全部小説だって事になってしまい、そうするとネットの書き込みは全て作品であるという状態になってしまうのではないかと考えたことがあります。でも、『電車男』は、新潮社が本の形にして出版したということが「小説」であるということを身も蓋もなく保証していたわけですよね。しかしその保証に根拠があるかといえば、別にないわけですよね。ケータイ小説とか、ネットの文字も「文学」だとなりつつある今、相対化がどんどん始まったら「面白い文学」か「面白くない文学」かというまた別の価値判断の基準が現れるのだと思います。読む側や観る側、受容する側としては全部文学だと考えても伝統や制度の問題を抜きにすれば別に構わない。しかし、やっぱり作り手側として考えざるを得ないのは、みんなが作家になれるとして、つまんないものを作ると埋もれるから、突出した人だけが作家と呼ばれるという風に変わるのが現実的な落とし所になってしまうのではないかと思います。

海老原:作家という場合、具体的な一個人の物質的身体を持った作家を意味している場合と、意味を支える唯一の最終審級としての視点としての作家を意味している場合と両方あると思います。今までの常識であれば前者と後者が分離していることはなかった。あるいは、ないと信じられていた。ただ、今までここで議論してきたように、新しいテクノロジーの登場によって被った作る方/見る方の関係性の変容や、日常空間の物理的変化を考えると、両者の関係は今までほど自明ではない。ズレが生じている。ただ、私の立場を言うと、ズレはあるが決して作家性はなくならないでしょう。当たり前ですね。なくなったかのように感じるのは、あくまでズレがそう感じさせているだけです。
何か何かが並んだ時にその背後にそれを並べた者とその意図を、私たちは想像します。想像することによって本来並ぶべきではないものが並んでいることの意図を感じ、そこから意味を生み出します。映像の場合、確実に切って貼って切って貼ってするわけですから、切って貼っている人が誰か想像します。その時の対象として呼び出されるのが、作家性を付与された、それでもなお抽象的な存在である、作家です。この作家が具体的な一個の身体をもった人間でなければならない必然性はない。今までの常識からそうであるだろという強い推量は働いていますが。でもこれは、作家性の解体であるとか、作家なんて存在しないなんていうことを意味していません。
 一般的に映像作家というと、作家って言葉の使い方からも判るように、文学の、もっといえば小説の作家からの意味拡張であることが分かります。小説というのは小説家という一人の人間によって書かれているという約束事があるので、その意味拡張として、映像についても映像を切って貼っている人はひとりであるっていうことになっているんですが、別に10人で切って貼ってもいいわけですよね。でも、いちいち10人全てを想像して、10人でのやり取りとか喧嘩とかその和解とかを想像するのは、面倒くさいし、目の前の作品から意味を取り出すのに、その作業は実は必要ではない。抽象的な意味での作家、意味の源泉としての作家というのは、一人であると考えた方が読み手としては安心しやすい。色んな人がグチャグチャ作っていると考えるよりも、誰かが統一的な意思を持ってやっていると考えたほうが、すんなりと受け取る。この根拠として、これも私たちが言語、ひいては記号を用いて意味をやり取りするときい、一番原始的なレベルでは、一人対一人の対人コミュニケーションがあるという素朴な事実から派生していると思います。この素朴かつ原始的なコミュニケーションが、文字言語を含めた種々のテクノロジーによって複製・反復可能になったり、一度に多くの人に伝えることができるようになったので、現在のような問題が生じたのでしょう。
 実際、小説にしたって映画にしたって漫画にしたってどんなものであれ作品には複数人が関わってるのは当り前です。漫画には編集者がいて、傑作とされる作品のいくつかは、編集者の存在がなければ傑作にならなかったのではないか、なんていわれるものもあるわけです。小説よりも前の時代、活版印刷登場前の写本という職人的テクノロジーの時代であれば、写す人の誤字・脱字まで含めての作家性でした。フーコーの「作者とは何か」にもありますが、作家性が一人の具体的な物質的身体をもつ作家という人間に宿ると考えるようになったのは、近代のある時期以降のことであり、それも便宜的にそうしたというのが本当のところではないでしょうか。たまたま具体的な人間としての作家と意味の審級としての作家が一致した。ただ、その後、テクスト論が勃興し、現実的に作家が複数であってもそれは捨象し、意味の審級としての、抽象的な作家性が重要視された。で、少しややこしい話になりますが、テクスト論以降のこの流れ、具体的な身体をもつ存在としての作家ではなく、意味を支える点としての作家をより重要視する流れは、ある意味で誤解をされ、「作家はなくても作品は成立する」となってしまったのではないかと考えています。具体的な作家と抽象的な作家との距離を最大限にするテクノロジーが誕生し、それが当たり前のものとなったとき、具体的な人間はおろか意味を支える点としての抽象的な作家すら存在せずとも問題がないと考える。しかしこれは明らかな間違いでしょう。一人の人間に集約されるかどうかはともかく、意味を支える点がなければ作品は存在しないのは明白だからです。
 監視カメラの映像だけを使って映像にしたとしても、そこには何者かの作為・意図が入ってくる。これとあれを繋ぐ意図。監視カメラの映像をそのまま映画に流したとしても、監視カメラが一定の秒数で切り換るとき、それをプログラムしているのは誰だとか、そのカメラをそこに設置することを決めたのは誰かとか、あるいはそもそもその映像を映画として流そうと決めたのは誰か、とか。監視カメラの映像の向こう側に何らかの意思を想定しないと私たちはそれを意味あるものとして受け止めない。
 だから監視カメラそのものを擬人化して「監視カメラの作品です」って言い方はありです。でもそれは、あくまでも擬人化している、監視カメラが意思を持ったとか監視カメラがSF的に超進化してその結果これは作ったということでしかない。「監督・ディレクター:監視カメラ」っていう風にしてもいいと思うんですけど、そこには何者かが意味を支える点として存在している。
 そのように慣習を撹乱してるのが、ここで評価されている映像作家ということでしょう。だから思うのは、カメラが普遍化した世界で、実際に映像作家になれる人間というのはものすごく頭いい人だな、ということです。皆、私もケータイのカメラを持っていますし、監視カメラも街中に溢れている。データとしての映像量は増大している。こういう私たち一般人のリアリティというのは確かにある。だけれども、それとは地続きで、それでいて非常な芸術的高みに、リアリティを的確にかつ美的に切り取る、映像作家と言うべき映像作家がいる。それらの作品はものすごく面白い。そして美しく、批評的に先鋭で、批評家として「おいしい」作品であると思います。慣習が揺らいでるからこそ誰もが作家性をもてるのではなくて、慣習に一番忠実でありかつ熟知しているゆえにラディカルな攻撃者になれるのでしょう。 
 だから私の中では審美的な軸と倫理的な軸というのは全くではないにしろ、かなりの部分が重なっています。芸術的に美しいものは、何らかの倫理的メッセージ、慣習への批判的視座を必然的に持ってると思います。一応、付帯条件として、ポストモダン批評以後に私は立脚しているという言い訳を書いておきますが…。

藤田:海老原さんの仰っている「慣習に習熟している人間こそが慣習で遊び、作家ということになる」ということに対する疑問は、ブルデューのいう「文化資本」の問題と関わっていると思います。要するに、慣習に習熟するためには、それなりに高い階層や収入に属し、豊かな文化に触れて育ち、「文化資本」を蓄積した上でないと慣習を破壊することはできない、すなわち、慣習の破壊者のようなアーティスト像は、一見破天荒でありみなに夢を与えて「誰でも作家になれる」という希望を与えるが、実際は文化資本や親の階層の影響を大きく受けて、その再生産になってしまうのではないかという問題ですよね。僕は親の階層と関係なく立ち上がるアーティストもいるだろうという希望は持っていますが、おおまかな問題意識は理解できます。
 今更ながら確認しておくと、渡邉さんの仰っていることは、デュシャンに象徴されるような、現代美術の制度やルールを破壊して遊ぶという発想の映画版という側面があると思います。確かにデュシャンは裕福な家庭に育って、20世紀前半に絵画の学校に通って絵を習っています。当時の社会情勢はわかりませんが、結構豊かな文化的生活を送る余裕はあったのではないかと思います。だから、デュシャンが美術のルールを熟知してそのルールを破る事をアート化するという戦略も親の豊かさやルールの熟知という、知識の蓄積の上にようやく成立しているというご指摘は、頷く部分は確かにあります。
 ただ、まぁ渡邉さんの問題意識や評価基準は理解した上で、現代映画を評価する軸というのは「慣習と遊ぶ」ということ「のみ」に絞られるわけではないと思います。「情念」とか「執念」とか「技術」とか、様々な側面で人々は映画を楽しむと思うし、評価する人もいると思うので、それは古臭い評価基準かもしれないし、僕自身が評価するかどうかもわからないけど、いろいろな方法論がありうるので、海老原さんの危惧も半分は正しくて、半分は違う可能性の存在を見落としているような気がします。

渡邉:もちろん、いまのお二人の批判については、細かいところで理解の相違はあるにしても個々の局面としてその通りだと思いますよ。いま藤田さんが言われたように、デュシャンというのは、おそらく現代美術の領域で最初にそういう「慣習のゲーム」を「係数的」に扱ったアーティストだったわけですから。ただ、僕自身、いろいろと考えをまとめている最中でもあって、お二人に向けてうまく説明できるか心許ないのだけど、僕はもっと慣習の問題系についてラディカルに考えたいわけね(笑)。つまり、「慣習の言語ゲーム」をある種の創造性の糧に組み替えていくこと。それがいまの創作家に課せられたミッションなのではないか。近代のロマン主義者は、アーティフィシャルな人工環境(慣習)を仮構的に希釈し、そのゼロ地点から作品という「自然」を作りだすことに意を用いた。それが近代一般の美学の根拠でもありました。しかし、今日では、それはむしろ逆転している。僕らは、いわば自明化した慣習の海に不可避的に浸り切っていて、そこから逃れることはもはやできない。したがって、そうした慣習のネットワークに寄り添いながら、かつそこに単独的な差異=「美的なもの」を派生させていくこと。それが重要な局面になっているのではないでしょうか。

藤田:デュシャンは慣習のゲームでありつつ、慣習を破壊した。制度を破壊した。そして慣習を破壊すること、制度を破壊することを慣習化・制度化した。しかしこれと同じことをやってもデュシャンの二番煎じでしかない。二番煎じを世間や慣習や制度は評価してくれるか。評価するようにしたのがシミュレーショニズムの作家・批評ですね。慣習で遊ぶという慣習、で遊ぶ、という二番煎じを評価するという二番煎じ、を評価する……という、無限コピーが理屈上では想定できるんですが、本当に個人的な感性としては、「最初にやった人の衝撃」に匹敵する「衝撃」がないとだめだと思いますね。便器を置いたデュシャンはすごい。しかしそれを真似したやつらはすごくない。しかし真似に価値があると主張して衝撃を与えた連中はすごい。しかしそれを繰り返して、「真似を真似することを肯定する」人はすごいのだろうかとか、色々と思いますが…… 

海老原:ザクティ藤田は映像作家として評価できるんじゃないかと思いますけどね。

渡邉:僕は当然どちらかと言えば「デュシャン派」ですね。あと、僕も「ザクティ藤田」の映像作家としての才能もかなりポテンシャルはあると思っていますよ。結構マジで。それはある種の「批評性」(形式性)が「創造性」(単独性)に転化するというアクチュアリティを秘めていたからです。それはある意味きわめてデュシャン的であり、かつデュシャンとは何の関係もない。それが本当の意味での「新しさ」ではないでしょうか。
 とにかく、議論が壮大な方向に拡張してきたし、作家性と慣習の問題については、継続的かつ生産的な討議が必要なようですね……。まあ、とはいえ、お三方の啓発的な反論や意見を伺って、自分の議論の補足点や、いまだ充分に意図が伝わっていないなという思う部分などがクリアに分かりました。ありがとうございました。僕の議論についてこれだけの有意義でかつ先鋭な反応をいただけたことに本当に感謝しています。
 しかし、かくいう藤田さんも、実は現在、僕とかなり近い視点から非常に先鋭的な現代映画論を着々と構想していらっしゃいます。僕が忙しい藤田さんに毎度お付き合いをいただいているのも、その議論や活動に啓発されているからなのですね。というわけで今度は、ぜひ藤田さんの「ポスト911系映画論」の徹底討議をやりたいですね!互いの対立点が分かってきたところで、有益な議論をしたいです。

藤田:僕の作家性を擁護してくださる方々が何人かいてくださるというのは、正直変な気がするわけですが……。少しだけその話をしますと、僕はキューブリックのように神経質にカットを割って編集するようなの人こそ「映像作家」だと思っていて、一方、ザクティは内容もその場の流れに任せて、カメラはピントもホワイトバランスも自動で機械に任せているし、さらに作る内容も2ちゃんねらーの指示を受けてという、自分としては「作家性」みたいなものを捨てていたつもりなんですね(参照 http://www.youtube.com/user/fujitanaoya)。それを「作家」というような言い方をしてくださるというのは、個人的にはかなり複雑な心境です。でも確かに、そういう太田克史さんと東浩紀さんが「ゼロアカ道場」という形で設計していただいた「祭り」の生成力を利用しながらも、僕はカメラを振り回しながら、既存の映画の文法やテレビの映像の文法では撮らないような撮り方を心がけていた覚えがあって、それは映像の「慣習」に違和感を与えて揺るがす、ノイズ的な部分を慣習を揺るがして生じさせていたという部分もあったのかと、渡邉さんの話を聞いて思います。信じてもらえるかは分からないですが、あのとき映像を撮りながら意識していたのはルイス・ブニュエルが監督した『ブルジョワジーの密かな愉しみ』(1972)の中で、「股間を中心にカメラを映してはいけない」という当時の映画の規範をあえて破って股間に焦点を合わせていた場面でした。
 少し話は戻りますが、デュシャンと同じことを美術の中でやっても評価はされないだろう、と判断しているのは一番無邪気な「消費者」としての僕です。とにかく飽きさせないで面白いものを次々と持って来いと図々しく要求している消費者の次元の自分がいて、その自分が無邪気に作品を喜んでしまうこと。これは無視すべきではないし、できないと思うんですよね。僕は自分の芸術鑑賞の一番底の次元にそういう自分がいることは否定しないです。
 なので、優れた芸術は必ず倫理を持っているという海老原さんの意見には真っ向から反対します。どちらかというと「自由」や「倫理による抑制からの解放」と美を繋げて論じる理論の方の僕は親和性を感じています。倫理性が全くない美、というか、倫理性がないからこそ美と感じる、というリアリティの方が強い。しかし、そうすると、僕の考える芸術の最高傑作は核爆弾とかになってしまうので、そんなわけにはいかない。そういう「世界の終わり」的なものを美的対象として消費したいという欲望は、ポストモダン以降の「破局」というモチーフの作品の氾濫、例えば『AKIRA』や『新世紀エヴァンゲリオン』が掬い取っていたんだと思いますが、結局あれはアニメであり、実写でビルが崩れる911の方が「すげえ」と思う自分はいるわけですよ。そのような自分自身の感覚の「しょうもなさ」を引き受けた上で、社会と芸術の相克の問題を考えなければいけないと思っています。
 そういう葛藤はエンターテイメントとしての破壊や殺戮、暴力や性のもたらす快楽を提供してきたハリウッド映画の持っている葛藤とも通じると思うんです。「911系ハリウッド映画群」の作家たちはその問題に商業的な要請の中で向き合っていたと思っていて、そこが重要だと思って論考を準備しています。

海老原:批評性です、ね。これも当たり前の話になります。私がずっと不安に思っている、懸念しているのは、作品のもつ批評性を伝達することが、ますます困難になっているのではないかということです。といっても、昔がどうだったかなんて実体験として知らないので勘で言っているだけですが。ここまで話してみて、私は渡邉さんや藤田さんと全然、意見の対立はしていないと思いました。繰り返しているように、監視カメラは監視カメラです。私は全く同時に、監視カメラも作家性を「持ちえる」ということを否定しているわけではありません。擬人化を経て、作品を解釈するための意味を支える点として抽象的な作家性を付与された上でという条件がつきますが、監視カメラに批評性を託すことはできます。私が問題にしたいいのは、監視カメラが批評性をもつ条件や環境です。気になっているのは、この批評性が、実は相当にややこしくときほぐすのに職人的技術が必要で、だからこそそれが表現されるときにはこの上なく芸術的な効果を発揮するも、伝達されると、特にメディアを媒介し、マス=多数の観客に向けて伝達されると、作品の批評性が脱臭されてしまうという現象がおこることです。作品に寄り添うことといいますか、作品の伝えるリアリティに忠実であることといいますか。なにをいまさら批評のイロハをと思われるかもしれませんが、実は私は予想以上に常識人といいますか(笑)、当たり前のことを当たり前だということの必要性を今現在かなり感じています。ここ数年の労働者としての経験が反映しているといえばそうなのですが。
 それはさておき、作品の批評性に忠実であること、です。それはつまり、監視カメラも映像だよね何でも映像だよねというわけでは当然なくて、ある作品が鋭い切り口で監視カメラの批評性を表現したとしても、そこには監視カメラが批評性をもち、作家性を通じて「映画に成り得る」という時のリアリティが息づいているわけです。慣習を破壊するときの別の慣習とでもいいますか。こういう状況だと批評に成り得るよという様々な担保や条件が付いて初めて成立する。そこを上手く批評家として伝達しないと、非常にまずいと思います。ましてやこんな時代です。うっかりした発言がほぼ無限に増殖され、ベタなものとして受け取られてしまう。カメラは持っている、私が撮ったものもあなたが撮ったものも監視カメラが撮ったものも、全て映画だよという風に、これははっきりいってものすごくつまらない言い方でしょう。意味が漂白されていく。全てが映画だ、というならば、それは何も言っていないに等しいのではないでしょうか。
 藤田さんがよくおっしゃられる言葉に、「世界がSF化している」というものがあります。元をたどれば巽孝之先生にたどり着くのだと思います。この、強力なキャッチコピー、ともすれば非常に危険です。「全てがヴァーチャルリアリティになる」「世界がSF化してる」「全てが戦争化している」とかもそうだと思いますが、そのどれもが最初は批評性を持ってラディカルな行為として言っているのは間違いがないのでしょうが、言えば言うほどだんだん陳腐になってって、当初の意味もどんどん抜けてってるんじゃないのかというのは、最近、ふと思います。本の帯になった瞬間に、「ああ終わりだな」と思ってしまいます。もちろん、これは極端な言い方で、挑発的な言葉を帯に書いて読者の興味を引き、本を読んでもらい、そこに書いてある批評を伝えられればいい、という市場に訴えかける手順は私も理解しているつもりです。ただ、「世界は○○である!」という帯の文句に引かれて本を手に取り、批評を読んだけれども、「そうか、世界は○○なのか」となってしまうと、これは非常にまずいのではないかと思います。帯文句しか伝えられなかった批評そのものの弱さもあります。同時に、強い言葉に振り回されてしまったことも確かでしょう。なるべく、強い文句には禁欲的であるべきではないでしょうか。なぜかといえば理由は簡単で、今まで話題になった作家や作品と言うのは、そういった強い言葉に切り取られない機微、つまりは現実の現実さを、何よりも鋭敏に切り取ってきたからです。
 やたら「当たり前」という言葉を連発してきましたが、実はこの言葉、私が現在直面している批評的悩みでありまして、これをどう超えていくかに悩んでいます。超えていくと語弊があるかもしれません。私にも野望はありまして、新しい批評、批評性を持った批評をやりたい。しかし同時に、当たり前の感覚を大切にしたい。余談になりますが、私はどこかリアリティという言葉が嫌いです。リアリティと言った瞬間に、うそ臭くなるというか現実に寄り添っていない気がする。カタカナがいけないのかもしれない、批評という海にこの単語がどっぷりと浸りきっているからかもしれない、塾講師のアルバイトをしていたときに「リアルにヤバい」と繰り返し続ける女子高生を教えたことがあるからかもしれない。まあ、理由はさておき、リアリティという言葉への一定の留保はここで示しておきます。新しい、批評性のある批評を当たり前のこととどうやって両立させていくのか、それが私の悩みです。方向としては、作品に対して真摯であることぐらいしか分かりませんし、この程度のことは、誰でも知っているでしょう。最後のくだりは完全に余談でしたね。

藤田:佐々木さんいかがですか?

佐々木:そうですね。まず、余談に反応してしまって申し訳ないのですが、僕は、リアリティという言葉好きです(笑)。それから、「リアルにヤバい」という言葉にもゾクゾクします。海老原さんの仰る、リアリティという言葉が持っている嘘臭さというか、軽薄さを伴った響きが、逆にとてつもなく生々しくて、それこそリアリティがあるように感じます。その言葉に対して映像作家はどうすれば太刀打ちできるのだろうかと正直悩んでしまいますよ。実際今も、ちょっと絶望的な気分なりつつあります…。これはもちろん、海老原さんに対して批判めいたことが言いたいんじゃないんです。その例が出された時、一応映像作家と名乗っている身としては、そういう「リアルにヤバい」みたいな言葉を当たり前に映画に翻訳する術を持っていないことが問題だなと思ったんですよね。女子高生を例に出すとあまりにも90年代っぽく聞こえてしまうかもしれませんが。今ある映画の慣習では、リアリティという言葉で表されているリアリティを描くことが出来ないという焦りが、先ほどお話しした、慣習の幅を広げたいということに結びついています。しかもそれは、ちょっとやそっと映画の慣習を撹乱しただけではとても足りない。だって、映画と言わず映像ということで考えれば、自分がわざわざ手を出さずとも、既におそろしく混沌とした状況が広がっているわけですから。だから、もっとどん欲に色んなものを取り込み、消化していかなければならない。これは、現実に映像作家と名乗って活動している作家についての話です。というよりは、ほとんど自分自身についての話ですが、とにかくそういう危機感は常に抱いています。
 今日の座談会では、皆さん、僕に気を遣ってくださっているのか(笑)、現実に活動する作家の「作家性」を非常に大事にしてくださっているというか、もっと言えば甘めに話を進めてくださっているような印象があるんですが、それは大変ありがたいのですが、僕はやはり「作家性」の失効というようなことが言われる時、そのことを割り切って考えることが出来ないというか、決して穏やかな気持ちでは居られないのです。つまり、心当たりがあるということです。映像を巡る環境が変化し、それこそ「全てが映画に成り得る」という可能性が見えてきているのに対して、作家が実際に作っている作品の多くが、そうした状況を殆どフィードバック出来ていない気がする。監視カメラとか、あるいはニコニコ動画やustream上で起こっている出来事というか、現象の方がおもしろく見えてしまうことも多いし、批評家の方々が皆そっちの方向しか向いてくれなくなったらやばいな、切ないなと思ったりもします(笑) 実際、今個人の作家に出来ることは以前よりも限られているのではないかと思いますし、また、非常に地味な仕事になるのかもしれないとも思います。
 先ほど海老原さんが、「世界は○○である!」「全ては○○に成り得る」というような言葉の危険性についてお話しされていましたが、僕はそれにとても共感しながら聞いていました。僕自身、「全てが映画に成り得る」という状況にユートピアを見出し、今でも「全てが映画になりつつある」のだと思いながら製作を行っています。しかし、その言葉だけが先行してしまうと、おそらく映画を撮ったり観たりする感度が落ちてしまう。結論を聞いた気になって安心して、いまだ映画として扱われていないものや、検討し尽くされていないものの存在を見過ごしてしまう。そうしたものを発見し、気を留め、拾い上げなければと思います。自分がほっておいたら他の誰も取り上げないもの、ニコニコ動画でもustreamでも取り上げられることがなく放置されるであろうものに、無理矢理スポットライトを当てるという、ある程度不自然な行為をしていきたい。それは、場合によっては本当に地味な作業かもしれませんが、今の所自分は、そういうことを地道にやっていきたいと思っています。


第三部 「イメージの身体/身体のイメージ」に続く


(テープ起こし・工藤伸一 構成・藤田直哉)【収録日】2010/03/07

「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」(第一部)

「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」(第一部)
渡邉大輔/海老原豊/佐々木友輔/藤田直哉


 はじめに

 この座談会は渡邉大輔/海老原豊/佐々木友輔/藤田直哉の四人で「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」と題して四時間近く行われた座談会に加筆修正し、著者校でさらに議論が膨らんで膨大になったものである。あまりにも膨大な量のために削ることを要求したが、著者校をすればするほど分量は膨らむばかりであった。しかし内容に関しては深まり、率直に信念を語るようになっていったこの「熱気」を、インターネットによるチープ革命によって紙媒体による物質的拘束から解放された我々は、そのまま提示してもいいのではないのかと思うようになった。40000文字を超えるこの座談会にお付き合いいただける読者の方々がどの程度いるのかは分からないが、僕たちはこれをこのまま発表したいと思っている。
 全体は「リアリティの慣習/慣習のリアリティ」「創造の生成/生成の創造」「身体のイメージ/イメージの身体」の三部に便宜上分けて、三週にわたって掲載していくことになる。それぞれ、依拠している理論もフィールドも実践も異なる四人が本気でぶつかっている中で、何か読まれている方々にとって有益なものがあればと願うばかりである。
 長時間にわたる討議を文字起こししてくださった工藤伸一氏にも、重ね重ね感謝を示したい。(藤田直哉)


第一部 リアリティの慣習/慣習のリアリティ

藤田:渡邉大輔さんは、『早稲田文学増刊 wasebunU30』(2010、早稲田文学会)での「世界は密室=映画でできている――現代映画の言語ゲーム」や『社会は存在しない』(2009、南雲堂)に収録されている「セカイへの信頼を取り戻すこと――ゼロ年代映画史試論」で、「現代映画の言語ゲーム」や「映像圏」などの刺激的な概念を提示されていらっしゃいます。主に疑似ドキュメンタリーという表現形式を中心に論じられていて、ゼロ年代の映画作品においてその表現方法が異様なほど隆盛した理由について広範な理論を構築されようとされていらっしゃいます。擬似ドキュメンタリーという手法が重要であるという認識はまた僕も共有していて、その重要性の評価や切り口は渡邉氏とは随分と違うのですが、大変刺激になる対話を何度も繰り返させていただきました。
 今日は率直に、「映像圏」や「現代映画の言語ゲーム」について渡邉さんを中心にお話を伺うことができればと思います。とはいえ、僕と渡邉さんとは、『ユリイカ』(青土社)での「クエンティン・タランティーノの/による映画史」(2009年12月号)「ポン・ジュノの/による映画史」(2010年5月号)などでご一緒に仕事をさせていただいて、その際にかなり長い時間対話をしていますので、ゲストにお二方をお招きしたいと思いました。おひとかたは、ジェンダーSFについての評論文を書かれており、現代の労働やジェンダーの問題に鋭い意識を持っていらっしゃるSF評論家の海老原豊さんです。もうひとかたは、実作者の立場として、「映像の身体、身体の映像」を主宰され、海外でも作品を上映され、6月14日にはUPLINK FAKTORYで新作『夢ばかり、眠りはない』(2010)の公開を予定されている、映像作家の佐々木友輔さんにお越しいただきました。
 では、まず最初に、渡邉さんの最近主題的に考察されている「映像圏」(イマゴスフィア)や、「現代映画の言語ゲーム」について語っていただければと思います。

渡邉:分かりました。では、まず僕のほうからできるだけ簡単に基調報告をさせていただきます。
 僕はここ最近、映画批評の分野で特に2000年代(ゼロ年代)以降の現代映画の現状を踏まえながら、そこに原理的な考察を加えるような仕事をいくつか行なっています。その端緒となったのは、08年に『ユリイカ』で発表した少々長めのスピルバーグ論なのですが、ほかにも限界小説研究会で出した批評論集『社会は存在しない』や、『早稲田文学増刊 wasebunU30』に寄稿した論文などが、その主要なものとなるでしょうか。
 ……とはいえ、いまのところ、そうした僕の仕事に対する、肝心の映画批評の分野からの反応というのは皆無に近い(笑)。そんな中で、SF評論の分野で主にお仕事をされている藤田さんや海老原さん、そして、非常に批評的な問題意識を持ちながら先鋭な実作作業をされている佐々木さんが、僕の批評に興味を持ってくださったことは単純にうれしく思っています。今日はぜひ、忌憚のないご意見を伺えればと思います。
 さて、そこで僕が提起している問題意識というのは、一言で申し上げれば、現代の映画をはじめとする複製イメージ=映像文化の示す表象空間は、ここ十数年ほどの間に、いくつかの局面において重大な構造的変容を蒙ってきており、また、その変化は映像に対する具体的なアプローチの仕方や、それが表象する僕たちの世界に対するリアリティのありようにも大きな影響を与えてきているのではないか、というものです。つまり、僕の現在の主な仕事は、そうした映画(映像)文化をめぐる大きな時代的変化に対して、何らかの批評的な見取り図を示そうとする試みだと申し上げていいかと思います。
 さて、では現代映画の表象空間やその生育環境が置かれている文化的かつ構造的特性とは、具体的には何か。――それはいうまでもなく、90年代半ばから2000年代にかけて急速に社会に普及した、インターネットや携帯電話、あるいはセキュリティといった無数の「アーキテクチャ」、あるいは、それらに密接に関わりながらウェブ上に繁茂する膨大な動画共有サービス(CGM)の持つ新しい情報システムによる従来の映像の文化的編制との相互浸透にあるでしょう。例えば、文学の世界でケータイ小説を抜きに新しい文学的想像力について考えることができないのと同じように、いまやYouTubeやニコニコ動画、あるいはケータイ・ムービーやウェブ・シネマの台頭を無視して「映画的想像力」の未来について批評的に語ることはできないわけです。僕の見るところ、そうした現代映画の置かれている大域的な「ネットワーク化」「モバイル化」の趨勢に対して、既存の映画批評の持つ言葉はあまりにも無防備だと思います。おそらく、それにはさまざまな原因があるのですが、まず、僕はそうした現代の文化的変容をダイレクトに受けた世代の批評家として、そうした現状を変えたいと思った。
 何にせよ、僕たちは映像の工学的かつ情報社会学的な「フラット化」(一元化)という文化的条件から出発して、映画(映像)に対する主体のアプローチの様式を練り直さねばならない。しかし、そうしたアプローチの変化の意義を実感するのはそう難しくはないはずです。
 それは例えば、まさに佐々木さんが長編『夢ばかり、眠りはない』で的確に描いていたように、08年の秋葉原連続殺傷事件などをはじめ、僕たちは日常生活の中で起こるさまざまな出来事を実に気軽にいつでもどこでも携帯電話のムービー動画に記録し、それをコミュニケーションの素材にしたり、何らかの「テクスト」を立ち上げる要素として活用していますよね。また同時に、そうした僕たちの姿は社会に遍在する無数の監視カメラなどのセキュリティにつねにすでに取り巻かれ、それ自体、何らかの「映画的なもの」を生み出す資源的なフッテージとして膨大に蓄積されている。さらにいえば、そうした現状を僕たちもまた日常の中で、日々予期しつつ生きている。
 つまり、高度にネットワーク化/モバイル化され、日常生活や社会に遍在化・常態化する映像環境(視覚的アークテクチャ)に囲繞されている僕たちの生や文化は、いわばいろんな形で、「映画的」な偶有性(可能性)の種子をつねに孕んだ、イメージの微分的かつ複層的な布置の中にあるのです。現状の社会は、「映画的なものの拡散化=日常化」が人々の記号に対するリアリティやテクストの表象のレヴェルにおいて過剰に飽和した世界だと捉えたほうがいい。僕たちは、いままで「映画的なもの」だとは看做されなかったモジュールをも「映画的」なテクストを構成するものとして把握することができるようになりつつある。例えば、観客(ユーザ)の「身体性」というのは、その重要な要素の一つではないか、と僕は思っています。比喩的に言えば、僕たちの世界はかつてテオドール・W・アドルノやジル・ドゥルーズがいみじくも述べたように、「映画」そのものになっている。僕たちの生が映像によって簒奪されており、さらに、そうした現状を僕たち自身も予期的に認識や行動の細部に繰り込んでいる……社会システム論者のニクラス・ルーマンはそうした事態を「二重の偶有性double contingency」と呼びましたが、僕が注目するのは、いわば映像文化をめぐるそうした「二重の偶有性」の諸様相だとも敷衍することができます。僕はそうした現代の映像文化が示す記号的特性、リアリティの審級を「映像圏Imagosphere」という造語で呼んでいます。注意していただきたいのは、僕はそうした現状を疎外論的に捉えているわけではありません。むしろ、そうした現状をシステマティックに分析していきたい。
 そして、そのための格好のサンプルとして僕が注目しているのが、「擬似ドキュメンタリー」という映像表現のスタイルです。これは文字通り、ある種の「リアルさ」を仮構して作った、「ドキュメンタリーっぽいフィクション映画」のことですね。よく知られた作品では、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)や『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008)などを思い出していただければいいでしょう。最近では、福嶋亮大氏も『神話が考える』(2010 青土社)という著作の中でこの擬似ドキュメンタリーに言及していましたが、これの何がいま申し上げたことに関して重要なのか。
 端的に言えば、擬似ドキュメンタリーとは、「ドキュメンタリーっぽいフィクション映画」というスタイルであることからもお分かりのように、「現実」(非映画)と「虚構」(映画)という近代的な区分が受け手の側に決定不可能な、単一のリアリティの審級をわざと撹乱させ、脱臼させるような形式を採っている。これは先に述べた、僕たちの生や文化環境すべてがつねにすでに「映画的なもの」の資源に回収されうるという、現代のネットワーク化/モバイル化された現状、つまり「映像圏」の持つリアリティをきわめて寓意的に表現しているわけです。そこで佐々木さんの一連の映像作品はまさにこの擬似ドキュメンタリー的な感性に明確に基づいているわけで、僕に言わせれば、佐々木さんは現代の「映像圏」が孕む事態にきわめてセンシティヴに対応している、優れた映像作家だと考えています。
 ――だいたい、そんなところです。おそらくこうした僕の議論にはいろいろ疑問点もあるでしょうし、論点も出てくるでしょうが、実作者の佐々木さんもいらっしゃるところで、まあ、ひとまずここらへんから議論を展開していければいいなという感じでしょうか。

海老原:私たちの世界が「映画」になっている、と渡邉さんが言ったとき、慎重にかつ確実に挿入されたカギカッコの意味を考えていきたいと思います。私たちの日常世界には、かつてないほどにカメラが溢れ、それは数のみならず種類も雑多です。そもそも安く撮影・編集機材を手に入れられ、それをパッケージにして頒布したり、あるいはウェブを通じて流通させたりすることができるようになったので、いつでもどこでも誰でも映画を撮れるといえます。これは従来の映画という芸術活動がテクノロジーの変化、簡単に言えば家電製品の激安化(!)によって参入・流通・鑑賞のハードルが低くなったということです。他方で、ケータイのカメラであるとか監視カメラであるとか、カメラの数が単純に増えてて、それに接する人が増えているという現象もあります。これは映画という芸術活動へのハードルを変えるというよりも、芸術活動そのものの意味、姿が変容していることと連動しているのだと思います。映像のフッテージが蓄積されていく。それによって世界がある種「映画的な状態」になっていく。私が問題にしたいのは、「映画」とか「映画的」「映画的な状態」という、渡邉さんが言う「比喩」としての映画において、問題はどこまでが比喩でどこまでが本当の映画なのかという線引きです。
 先日、新聞で読みましたが、介護施設で老人の要介護者がトイレに入っているとき、職員が鼻をつまむとか、そういう事をしていた職員の映像がYouTubeといったウェブ上の動画投稿サービスに流れたという事件がありました。職員としては親しみのつもりでやったと言っている。撮影、投稿をしたこの職員の発言の真意および真偽は、ここでは判定できないですが、ウェブ上に鼻をつまむ動画が流れたという事実は確認できたので、記事になったのでしょう。このウェブ上に流れた動画は一体、ナニモノなのかというのが私の問いです。これは、撮った時点でもウェブに流れた時点でも映画ではない、と私は思っています。近いといえばドキュメンタリーかもしれません。もっとも森達也のドキュメンタリー論を参照する限り、これをドキュメンタリーと言ってしまうと怒られてしまうのは確実ですが、一言で言えば、単なるやっている(やった)事の記録ですよね。このような事例は、新聞やテレビで報道される事件になっただけでも探せばたくさん出てくると思います。ということは、事件になっていないレベルでは、もっと溢れている、それこそこの世界の空気といってもいっていいぐらいになっているのだと思います。同様の事件で有名なのは、やはりいじめでしょう。学校の教室で行われているいじめの様子をケータイで撮影し、YouTube等にアップしたという事件は今までに何件も報道されています。この動画が、いじめ告発なのか、それともいじめ加害者たちが盛り上がるための「空気」を共有するための装置としてなのかは、やはりここでは判断することができませんが、とにかくケータイ、ウェブの動画投稿サイトという流れで教室内的な狭いいじめの関係性がより広い社会へと可視化されたというこの事件は、先に紹介した介護施設での事件と相似形であることは確かです。そしてまたこのいじめ事件の動画も、映画ではない。映画的であるかもしれないが、映画ではない。
 十年前なら「映画的」という表現も避けられたかもしれません。ケータイ-ウェブ動画的な映像を、映画的であると形容する下地ができたのは、ごく最近のことなのでしょう。藤田さんや渡邉さんが論じているように、ケータイのカメラ、ハンディカム、監視カメラといったものの映像を繋げて作った映画作品も一方で存在している。この線引き。何が映画として封切りされ、何が社会的な、いわゆる現実の事件を切り取ったものとして扱われるのか。その線引きは一体、誰がどういう風に、可能にしているのかなというのはずっと考えていることです。カメラの数が増えてるっていうのは本当でしょうし、それゆえに、カメラにアクセスする人間が増えてるっていうのも本当でしょう。それは世界が「映画化」しているということなのかもしれませんが、果たして、「映画化してる」と言った時の「映画」というのは、私たちが劇場でお金を払ってみるあの映画なのか、それとも比喩なのか。そこをもっと詳しく訊きたいと思っています。

藤田:その作品がフィクションかフィクションでないかに関して内在的に解明する基準はあるのかという問題ですが、先日清塚邦彦さんの『フィクションの哲学』(2009、勁草書房)という本を読んで、映像や言葉自体がフィクションかフィクションでないかを、作品内部で判別する理論は構築できないという意見で、僕もそれは正しいと思います。YouTubeの動画も、観てる側にとってはそれがフィクションの作品なのか作品じゃないのか、内容だけからは判別するのは難しいというのが現実だと思います。
 少し前に大学生がホームレスに生玉子をぶつける映像をアップロードしてネットで炎上が起きたんですが、後からそのアップした生徒たちは、あれは演技で、作品なんだと主張しました。実際に処分は下されなかったわけですが、モニタの手前でその事件を観ている僕らにはその真偽はわからないわけです。で、何が映画作品か「現実」かっていうのは、渡邉さんの議論を踏まえながら僕なりに考えると、それは慣習が決定するわけですね。これは映画であるという枠組みこそが映画をならしめていて、これは多分、渡邉さんが「現代映画の言語ゲーム」であると仰っていることですよね。
「言語ゲーム」について僕はそれほど詳しくなくて、橋爪大三郎さんの著作を経由して知っているだけなのですが、哲学的に言葉の「定義」をする際に、その「定義」がイデア的に存在する何かではなく、言葉と言葉は相対的なものであり、実際に運用されているというまずこの現実性に着目して、言葉が何かと何かを分節しているのだからそれは人々の言葉のネットワークの中の「慣習」が決定しているのだという風に、定義の問題をひっくり返したんですね。これはいわゆる「言語論的転回」と呼ばれていて、従来は事物にくっついていたラベルとしての言葉だったものを逆転させ、言葉こそが現実を分節して作り出すという思考方法に(誤解や誤読も含めて)大きな影響を与えたと言われており、後半に問題になる「構築主義」もまたその影響下に生まれたものですね。
 で、この点に関しては僕はまったく異論はないのですが、その「慣習」を操作する「現代映画の言語ゲーム」が社会に与える影響を問題視する意見がでるだろうことは予測できるはずです。例えばそれはこのような論点ですね。世界そのものが映画として感受されるようになってしまうような感覚をアーキテクチャなり情報環境が助長していくと、世界をいわゆる「スペクタクル化」というような、ロマンティッシュ・イロニー的あるいは審美的態度で現実の事件を観てしまう感覚を助長するのではないかという、きわめて古典的で素朴な疑問ですね。海老原さんの問題意識はそう言い換えることも可能なのではないでしょうか。

海老原:なるほど、私のもやもやは映画と映画的の境界を画定する「慣習」とは何か、ということですね。以前も『社会は存在しない』のトークショウ(http://www.cinra.net/interview/2009/08/26/000000.php)が青山ブックセンターで開かれたとき、質疑応答のときに会場から質問したのですが、「疑似ドキュメンタリーの疑似性を担保するのは何か」ということの繰り返しといえば、そうなりますね。これはアメリカの新聞を読んでいたら見つけた記事なのですが、アメリカの夫婦が実験気球に子供を乗せたら飛んでいってしまい、大変だ大変だと騒いでいたら、実はフィクションだったという事件。その新聞記事では、この夫婦は『リアリティ・ショウ』に出たかったということで、アメリカの『リアリティ・ショウ』を始めたプロデューサーのコメントを載せていました。業界の先駆者的プロデューサーが、彼らの求めるリアリティと、私達がテレビを通じて視聴者の家の中に作りたかったリアリティは違い、「彼らのは過剰なリアリティだ」とある意味で、切り捨てていたのが印象的でした。

渡邉:海老原さんと藤田さんのほうから早速、きわめてクリティカルな提起をしていただきました……(笑)。いま出してもらった論点を整理すると、(1)現代におけるニコ動の「マッドムービー」や「テレビバラエティ」からほかならぬ「映画」を区別する、文化的かつ制度的条件とは何か、(2)「擬似ドキュメンタリー」などの「擬似」性(虚構性)を担保する条件とは何か、そして、(3)そのための文化的契機としての「慣習convention」の問題ですね。うーん、いずれも、この座談会の場では満足に応えることは難しい大きすぎる問いですが、ひとまず次のように応答させていただきます。ちょっと長く展開しますが。
 そもそも、僕の議論に対する最も典型的な批判というのは、まさに海老原さんが言われた疑問に連なるものです。例えば、『U30』の論文に対して、文芸批評家の中沢忠之さんがTwitterで寄せてくださった批判もほぼ同様のものでした。僕はその論文で、情報環境の進展に伴い「映画的想像力」の底が抜け落ちてしまった現状を踏まえ、「テレビバラエティ」(お笑い)からYouTubeの「投稿動画」、果ては「AV」までをひとしなみに現代の「映画的なもの」を構成する「言語ゲーム」(規則性)の中に含めて論じています。しかし、いうまでもなくそれは一種の「日和見主義」、あるいは「価値相対主義」のように見られてしまう。それは僕のみならず、リチャード・ローティから東浩紀さんまで、現在のポストモダニスト一般に指摘される傾向ではあるわけですが。
 すべての映像テクストが潜在的(偶有的)に「映画的なもの」になりうると主張する以上、それら個々のテクストに対する美的かつ制度的なクライテリア(評価基準)は必然的にキャンセルせざるをえません。つまり、僕の想定する「映像圏」の到来は、一方で「映画的なもの」の文化的想像力をめぐる「寛容さ」の感覚を育てるのですが、他方でそれは「映画」の再帰的で散漫なメタゲーム化をも押し進めてしまう。
 そうした批判に対してはいまだ不十分ながら、『U30』論文の「補論的」な意味を持つ早稲田文学ウェブサイトにアップした作品論(「『イエローキッド』の言語ゲーム」として発表http://www.bungaku.net/wasebun/read/index.html)の中で暫定的に応えるつもりです。したがって、ここではその原稿の内容とは違うことを述べておきましょう。
 まず、(1)と(2)に関しては、やはり「映画」(虚構)を「非映画」(現実)からリジッドに区分するような普遍的かつ特権的な条件などというものは(最初から)存在しない、とお答えするしかありません。むしろ、そうした区別ができたのは、これまでの文化的資材や僕たちの活動に伴うメディア的かつ制度的条件が精度の低い演算に基づいていただけだと考えるほうが適当だと思います。実際、「何が映画か」を規定する定義など、最初からひどくあやふやなものです。僕は映画史を専門に研究していますが、戦前にはいまの僕たちには例えば「メディアアート」とか「遊園地のアトラクション」としか思えない様式のものが、少なからず「映画的」(活動写真的)なメディアとして認識されていた。たかだか百年前のことですよ。
 おそらく、そうした人間の活動的生活のあやふやさと、近代における再編制を問題視したのが『人間の条件』のハンナ・アーレントですよね。そして、何度も繰り返すように、現在の情報環境の発達は、そうした条件の依って立つ根拠の脆弱さを身も蓋もなく露呈させてしまったと考えるべきではないでしょうか。ノルベルト・ボルツがいみじくも言うように、僕たちの文化的世界はいまや「プロメテウス」(生産)の時代から「ヘルメス」(コミュニケーション)の時代になっている。そこでは、「作品」や「ジャンル」の概念や価値観も変わる。その中で、僕たちは文化的テクストに対する発想をラディカルに転換させなければならないと思います。
『U30』の拙論をお読みになった方はお分かりだと思うのですが、僕の「映像圏」に関する議論は、後期ウィトゲンシュタインの哲学、とりわけ有名な「言語ゲーム」についての議論を参照しています。例えば、彼の提示した言語ゲームという「概念」は――ウィトゲンシュタイン自身は概念ではなく、日常言語の「比喩」だというでしょうけど――、ご存じのように、柄谷行人の『探究Ⅰ』でも重要な参照先となりました。そこで、柄谷はウィトゲンシュタインが示した言語ゲームの典型的な事例――「教える‐学ぶ」という関係(社会的な交通空間)について取り上げ、それはいわば「共同体」(構造主義)のように、相互に対応/置換可能なコギト的関係性ではなく、事後的に遡行(「命がけの飛躍」)して初めてその象徴的な関係性が見出される、本質的な「他者」との関係だと論じたわけです。柄谷の解釈は独特なものですが、ここで重要なのは言語ゲームとは、ようは安定的な「外部」が存在しない、言い換えれば事後的にしか「外部」が見出されない一種の「例外状態」(カール・シュミット)だということです。すなわち、極端に言語ゲーム化していると思われる現代映画を取り巻く環境では、何が「映画的」な要素を多く含み、何が相対的に含んでいないか、何がどれだけ「虚構的」かという基準(クライテリア)は、あくまで「事後的」にのみ了解されるほかないのです。ここは重要なポイントです。先ほどのお二人が出されたケータイ動画の事例に対しては、僕はそういうふうに応えます。そして、それは実は、柄谷の議論を介して、非常にオーソドックスな日本の映画批評の問題系、つまり、蓮實重彦の「凡庸さ」をめぐる議論にも接続可能だと思っていますが……。
 また、これは誤解されがちなのですが――僕はあくまでも「世界が映画的になりうる」と論じているのであり、当然ながら「世界がすべて映画になる」と考えているのではありません。そこには確然とは区別されてはいませんが、あるテクストの中にどれだけ「映画的」だと思われる要素が含まれるかを決定する相対的な判断には、やはりある程度は、はっきりとしたグラデーション(リアリティの濃淡)はある。そして、例えば「いま世界が仮に「映画化」しているとしたら、では、ある局面においてはニコ動のマッドムービーも「映画」と看做せるのか」という疑問や批判に対しては、僕はそれはいまの時点ではいまだあまり意味のない「擬似問題」でしかないようにも見える。事実、そうは言っても、マッドムービーを「映画」だと看做すひとは現実に、ほとんどいないでしょうしね。なぜなら、何が「映画」かを規定する制度的条件やリアリティが僕たちの中で強く機能しているからです。
 こうした答え方はそれ自体、結構素朴で、日和見主義っぽく映るでしょう(笑)。しかし、それは違います。なぜなら同時に、それは僕たちの文化的感性が徹底してベタな「事実性」(日常性)に基づいていることの証明でもあるからです。いや、僕たちはある意味で、もはやそうしたベタな事実性にのみ基づいてしか、文化的な思考をできなくなっているというべきでしょう。そして、翻って言えば、その事実性=日常性への圧倒的な信頼というのも、今日の社会のネットワーク化/モバイル化の重要な一因なのは明らかです。
 では、そうした現代の情報環境の事実性(日常性)を担保する最大の文化的条件は何か。それが(3)の問いに繋がります。僕たちは、映画に限らず、文化を語る時、多かれ少なかれ事実性から出発せざるをえない。さっき藤田さんが紹介してくれた、僕がしばしば批評で持ち出す「慣習」というキーワードは、ようはこのポストモダンな「事実性」の構造的条件の言い換えだと思っていただければいいと思います。つまり、ある種の緩やかに、一定の規模で人々に共有されている「リアリティのネットワーク」みたいなものと言ったらいいでしょうか。いうまでもなく、慣習とは本来、無数の不確定性が前景化した領域の中で「差異」(意味のパターン)を暫定的に確保する情報処理の手続きのことを意味します。社会哲学の分野では例えば、フリードリヒ・A・ハイエクのような古典的自由主義者が流動性の上昇した現代社会(個人主義的社会)の運用に必要な要素として注目していましたね(「真の個人主義と偽の個人主義」)。そして、ようは元来「イメージ」(映像)というきわめてアナログな多義性を抱え込んだ記号をメディウムとして作られる「例外状態的」な表現としての「映画」(物語映画)という形式もまた、実はこの「慣習」(安定したパラディグム)の力能に大きく依存したジャンルだったと思うのですね。それは、先のハイエクが展開している議論と、戦後の代表的な映画理論家の言説がある意味で驚くほど似通っていることからも察せられることです。
 さらにいえば、慣習とは、さまざまなコードや儀礼、あるいは数理的なプロトコル(規約)を例に出すまでもなく、現代のインターネット文化を統べる秩序や情報処理システムともきわめて近似的なものです。言ってみれば、既存の映画もインターネット文化も、高度に「慣習的」(コンベンショナル)な資材である点においては共通している。インターネット文化は僕たちの美学的な判断についても大きな影響を与えていると思うのですが、いずれにせよ、この映像圏の時代において、「慣習的なもの」がこれまでの「映画的なもの」と、新しい「映画的なもの」を関連づけて考える端緒を与えてくれる重要な視点を構成するだろうとは思っています。
そして、こうした慣習/アークテクチャ化された表象文化の瀰漫は、一方である種の倫理性を閑却する「政治の美学化」(ベンヤミン)、つまり、ロマンティック・イロニー的な「スペクタクル化」の契機となるのではないか、という藤田さんの出された危惧ですが、こんなふうに言うと無責任だと取られるかもしれないけど、しかし、僕には多少過剰な反応に思えます。むしろ、捉えようによっては、映像圏は対照的な「美学の政治化」になりうる特徴も秘めているはずですしね。さらに言えば、表象文化が高度に慣習化=リアリティ化しているということは、同時に、「何がスペクタクル的か」に対する基準も流動化するということで、今度はその「スペクタクル化」なる現象の根拠づけが問われることにもなるでしょう。

藤田:映像における大きな構造変化について、何を映画と看做すかは慣習に委ねるという態度ですね。それはおそらく、一つのありうべき答えだと思います。しかしながら、その「慣習」の「制度」を支えているのは誰なのか。作家や批評家、あるいは編集者、プロデューサー、ブロガー、マスメディア、(この言葉は好きではないですが)大衆が決めるのか。マスメディアは大きな影響力を持っていますし、制度の中では研究者や批評家は影響力を持つでしょう。慣習に任せるとしても、その場合、慣習をどの方向性にするのか努力することは個々人には可能なのではないかと思われます。その辺りには問題を含んでいると思いますが、これは巨大すぎる問題なので、作り手や評論家や鑑賞者がこの慣習を動かすプレイヤーであるというフィードバックの中にいる、という指摘で今は十分だと思われます。
 さて、疑問が二点あります。福嶋氏の『神話が考える』でもそうなのですが、インターネットと慣習的なネットワークをどこまで重ねあわすことができて、どこまでできないのかは慎重に考えるべきだと思います。それこそ類似性による未開の思考のアナロジーになってしまう。そのことで発見できることもあると思いますが、隠蔽されることもあると思います。さらに言えば、インターネットというテクノロジーは基本的には従来の慣習を破壊するものですから、破壊された慣習がインターネットの中にどれが再帰してきて、どれは再帰してこないのか、そしてネットの言語と人々が慣習や生活体験の中で持っていた言語、それは同じものなのか、伝達の媒体でどう変わるのか、きわめて慎重に見極めないといけないと思います。
 二つ目の疑問です。先ほどの老人ホームの例を出すまでもなく、我々の「作品」「フィクション」の感覚、つまり現実世界の我々のリアリティを構築している慣習が揺らぎ、その揺らぎの中でいろいろな問題が起こっているというのはネットを見れば毎日観察できると思います。そして、老人ホームの映像やいじめの映像が「作品」「フィクション」と受け取られる「慣習」が形成されてしまっては問題なのではないか、という立場はやはりあると思うのですよね。それは素朴な強力効果説的な議論のように聞こえるかもしれませんが、作品受容の態度が、世界に対する態度にも影響を与える“のだとしたら”それは確かに問題なのかもしれません。もちろん、僕は「現代映画の言語ゲーム」や、「規則で遊ぶこと」「リアリティを揺さぶること」の魅力には大変共感しますし、どちらかというと僕自身はそのような映像の快楽を好む人間ではあります。ただ倫理を言い募ることによって快楽や美、遊戯性を抑制せよ、という立場に立つつもりはまったくありません。
しかし、ゼロ年代に大量に作られた戦争や戦場に関しての映像作品を観ていると、そのような批判的・ 倫理的な問題意識を持っていた作品は多かったように思います。ブライアン・デ・パルマ監督の『リダクテッド 真実の価値』(2007)や、リドリー・スコット監督の『ワールド・オブ・ライズ』(2008)、あるいはジョージ・A・ロメロ監督の『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(2008)などで、戦場の「映像」をめぐる、メタフィクション的・情報戦的な主題と、同時に「実際に死んでいる(という風にニュースや映像で見る)兵士の身体」についての倫理的な主題が模索されていたことも事実だと思いますし、ゼロ年代の映画の主題として考察されるべき重要性を持った課題であると考えています。
 たとえばその感覚を、ポン・ジュノ監督の「インフルエンザ」(2004)という作品はよく現していました。我々が「映像の先で現実に起こっている(かもしれない)暴力」に無感覚になっていく、そういう「社会」自体に対する問題提起をしていた作品というのは実際にあって、その表現自体を僕は無視するべきではないと考えています。それはここでは仮に「倫理的問題」と呼んでおこうと思います。
 ボードリヤールは、911の映像に大喜びして、それを審美的(快楽主義的)に消費したことを全く隠していませんでしたが、そのような自分自身も含めて「ポルノ化」という言葉で我々の映像=世界への態度を批判しています。僕自身も911の映像にカタルシスや感動、痙攣的な美を感じたということは正直に言っておきます。そしてその呆然とする時間が過ぎてから、911に美を感じてしまっている自分は、いつしか世界を美=破壊の対象にしてしまってもかまわないという方向に行きそうだという危機感を覚えました。以前、文芸評論家の井口時男さんと個人的にお話している際に、映像の話題になり、この映像の時代に何が文学にできるのかという問いに、「その中で死んでいく人々を想像させることだ」と仰っていたことに、非常に強い印象を受けた覚えがあります。
 もちろん、(隠喩的な意味であれそのものであれ)ポルノを消費して快楽を獲得すること自体が悪いと言うほど僕はラジカル・フェミニストではないです。ただし、そこで、「AV女優の人格や内面」や、「傷つく身体/精神」を想像してしまわないのは問題だという海老原さんの批判に対しては、そのような倫理こそが攻撃衝動をより増大させるのではないかという疑問も僕の立場からは持たざるを得ないのですが、ある一定の反省を促されていることも事実です。
 僕自身は最近サドを読んでいるせいで、「傷つく身体/精神」を想像できる「からこそ」ある種のポルノの持つ攻撃性や暴力性と、それによって生じる性的快感も高まっているのではないか、むしろ罪悪感こそが快感を高める材料として機能しているのだと思っていて、必ずしも「想像力」が「倫理」につながらないのではないかと思ったりもします。

海老原:倫理的であること、あるいは審美的であることですね。藤田さんの枠組みでは、この倫理的と審美的という軸が垂直に交わる、エックス軸とワイ軸のようなもので、美しいものが倫理的ではない可能性が生まれてしまう、あるいは美しさの根拠として非倫理性が参照されているかもしれない。この問題を考える前に、まず慣習と表現について考えていることを述べます。渡邉さん、藤田さんが示した諸作品や映像系コンテンツはいずれも、私たちが当たり前と思っていた慣習とその枠組みを揺らすものだと思います。ただ、その時、忘れてはならないのは、揺らすにはまずなにより確固とした慣習が必要である、という非常に当たり前の話です。だから世界が「映画的」である現在の状況であれば、評価される映画というのが、テクノロジーの恩恵にあずかりつつ慣習という波にきれいに乗る非常に分かりやすい映画と、慣習を熟知したうえでそれを意図的に撹乱する映画と2つに分かれているのではないか。映画という芸術表現における作家性が、慣習を正確に把握してそれを踏襲することで発現されるものと、慣習を把握した上でそれを意図的に撹乱することで発現されるものとに、わかれていく。何が言いたいかというと、当たり前の話で恐縮ですが、皆がカメラを持っている時代であっても皆が作家性を持つ映像作家になれるわけではないということです。テクノロジーの普遍化によって皆が映像作家になれるチャンスはあるのかもしれないけど、ね。私が示した作家性の2つの形というのは、どちらの場合も、業界内慣習に精通したある意味で、「頭のいい人」が可能なのだと思います。
 で、その上で倫理的な軸と審美的な軸について考えたいと思います。
 藤田さんはボードリヤールによる911の発言をひいていますが、この発言、私たちが受け取るときには、ボードリヤールの批評家としての立場、それもある意味で自覚的に露悪的に振舞っている彼の立場を含んだ上で評価しなければならないと思います。ボードリヤールに限らず、批評家というのは、自分の発言がどのような土台に置かれているのか知っている人間であるはずです。だって、そもそも何かに〈ついて〉の発言をするメタ言説装置が批評なのですから。それはともかく、ボードリヤールの批評的立場とは何か。このうちの一つに、映像が日常を覆ってしまい、すぐ横にある日常を映像というフィルターを通じて感じ、フィルターを通してのみリアリティを感じるという現実のねじれを言語化していくことがあると思います。実際にどうかは分かりませんが、ボードリヤールがあるいは藤田さんが、身内や親しい仲間を911で失っていたり、あるいはビルが倒壊し、ハリウッド的想像力の埒外にあった延々とその場を覆いつくす粉塵の中に包まれていたりしていたら、この発言はできないだろうということです。これもまた当たり前のことです。問題なのは、当たり前に考えればできないことができると錯覚できてしまうのがメディア、特に膨大な情報量を伝達できる映像メディアの特性だということです。私たちはテレビに映されたカミカゼをする飛行機と倒壊するビル以外の現実が、そのふもとで起こっていることを知っています。そんなのは当たり前です。そこに生活し、笑い泣き怒り悲しむ人間がいるのは、当然です。ただ、この当たり前のことがいとも簡単に、ディスプレイというフィルターを通すことで、別のものに、ざっくりと切り取った単純でスペクタクルなものに変換されてしまう。ボードリヤールの発言のもとに当たったわけではないですが、彼の発言やそれに類するものは、このメディアの「ざっくり感」への違和感として解釈されるべきでしょう。ビルの中にいた人間が、飛行機の激突を受けた天井が上から落ちてきた瞬間に感じたことはハリウッド的スペクタクルとは違うものであることは、少し考えればわかると思います。という私の立場は、藤田さんが紹介した井口さんの立場に近い。
 私が考える倫理的な軸は、人間は自分自身が考えているほど自由に自分の身体や感情をコントロールできない、というものです。後で身体について話をする機会があると思うので、詳しくはそこに譲りますが、911の被害者および遺族に向かってあの映像を「美しいだろう」といって共感を求めても、それは無理でしょう。彼ら彼女らの感情は、彼ら彼女らの経験に根付いたものであるべきでしょう。ただ、先にも述べたメディアの特性である当事者以外のものを当事者であると感じさせる強力な効果が、非‐当事者の共感を生産してしまう。文学史的な常識の反復になりますが、小説の勃興が近代国家の成立と平行関係にあるのは、小説という文字メディアが共同体という人々の想像力の範囲のはっきりとさせることに一役買ったからです。そしてこのメディアの特性には、コインの裏返しとしての非‐共感をも生み出す。非‐共感というのは、「美しい」として消費する態度のことです。自分自身のことについてすらよくわからないものを抱える人間が、自分ではない他者について言及するとき、慎重にならなければならない。大文字の他者は永遠にたどり着けない、なんてことをいいたいのではありません。そんなちょっとした反省の後に没入するナルシシズムはもはやいらないでしょうし、そんな悠長なことをしている時代でもないと思います。よくわからないけれど、いろいろやっていくうちに、何か共感できる部分が生まれてくる。自分と他者というのは、そういう「落とし所」があるものです。この落とし所を探っていくのが、共同体の倫理だと思うのですが、メディアというのはうまく機能することもあればうまく機能しないこともある。先ほどから繰り返していますが、「当たり前の話」でたいへん恐縮です(笑)。
 慣習と芸術表現、批評という言語活動に引き取るならば、その慣習、メディア的常識は、本当に「当たり前」のものであるのかどうか、今一度、考えてみませんか、ということに作品・批評の批評性があるのではないかと思います。

渡邉:なるほど。まず最初のインターネット(アーキテクチャ)文化と「慣習性」との関連についてですが、これはすでに私見は述べたし、個々の批評的な形式化の手続きの問題だと思われるので、ここでこれ以上敷衍するのはやめましょう。
 問題は、やはり二点目の藤田さんのいう映像圏的秩序の孕む「倫理的問題」についてでしょうね。海老原さんの話も、大枠においてこれと共鳴するものであると言っていいと思います。僕と藤田さんはこれまでにも何度も私的な対話を重ねてきたこともあって、おっしゃることはよく分かる。映像圏的な「公共性」の問題を考えるうえで、非常に重要な問題提起だと思います。
 というのも、藤田さんや海老原さんの問題意識は、「映画的」(フィクション的)なモジュールが世界に遍在化している、という僕のイメージを別の側面から照射する議論でもあるからです。すなわち、現代の映像圏的世界においては、これまでよりも「映画批評」と「社会批評」の区別が曖昧になってもくるわけですね。思うに、お二人の「倫理的」な関心は、この区分の溶解から派生している。ただ、疑問点や突っ込んで訊きたい部分もないではない。例えば、藤田さんの老人ホームや「ポルノ化」の事例は、いわゆる従来までの「メディア・リテラシー」的な問題とどこが違うのか、もっと繊細に考えなければならないのではないでしょうか。また、僕は藤田さんの――こういうと非常に陳腐な表現になってしまうけど――文化左翼的(あるいはイメージ資本主義批判的)な立場に対してはその意義を認めつつも、自分のスタンスとしては、もっと表象やシステムの挙動そのものに寄り添った形式的な分析を行いたいのですね。例えば、そもそも現代映画批評の先駆的存在である蓮實重彦の批評自体、一種の「社会性の捨象」のうえに成立していたものだったから。僕は、その意味で蓮實的な(括弧つきの)「形式主義」をラディカルに徹底化させたいのです。映画批評家としては、まずそちらの言説の整備のほうが急務だと思う。そこから見えてくる映像圏特有の「倫理性」もきっとあるはずです。



■第二部「創造の生成/生成の創造」に続く

(テープ起こし・工藤伸一 構成・藤田直哉)【収録日】2010/03/07

階級形成論の方法的諸前提(第五回)笠井潔

階級形成論の方法的諸前提(第五回)

 資本制的商品経済は、商品形態がその価値と使用価値との矛盾を貨幣形態を経て、現実的に止揚したものとして出現する資本形態が、流通形態(G─W─G')としてだけでなく、生産過程をも全面的に包摂する(G─W…P…W'─G')ことにその本質をおき、したがってこの経済過程は純粋に自立的なる自己運動を展開し、幻想的諸過程はこれとの対応においてこれに適合する限りにおいて運動するものとしてあらわれる。だから資本制的商品経済社会におけるあらゆる人間関係は、商品と商品との交換関係として実現される。ブルジョワ社会における自然発生的な生活意識は、この社会のもっとも原基的な関係としての商品(交換)関係を、日々、あらゆる場所で形成され再形成されるものとして意識化したものに他ならない。
 この意識形態は、階級関係をも商品関係として意識する限りにおいて階級関係を隠蔽する。なぜならば、ブルジョワとプロレタリアとの関係もW─G、G─Wとして、つまり商品関係として結ばれているからである。
「商品関係についての意識」としての、ブルジョワ社会における自然発生的な生活意識は、一方において「物象化された意識」として、自己の外部では客観的な法則性をもって展開し、自己を規制してくる客体に対しては(それは自己の社会的運動に他ならないのだが)、静観的・傍観的態度をその属性とし、他方、「自由」や「平等」についてのブルジョワ・イデオロギーを受けいれる素地となる。「労働力の売買が、その限界内でおこなわれる流通または商品交換の部面は、事実上、真の天賦人権の楽園であった。ここでもっぱら支配的に行われるのは、自由、平等、所有、およびベンタムである。自由! けだし、一商品、たとえば労働力の購買者と販売者とは、彼等の自由意識によってのみ規定されているのだか
ら。彼等は自由で法律上同じ身分の人格として契約する。契約はそれにおいて彼等の意志が一つの共通の法的表現を与えられる最終結果である。平等! けだし、彼等は商品所有者としてのみ相互に関係し合い、等価物を等価物と交換するのだから。所有! けだし、誰もみな、自分のものだけを自由に処分するのだから。ベンタム! けだし、相方のいずれにとっても肝要なのは自分のことだけだから」(註1)とマルクスが皮肉に述べているのはこのことである。
 レーニンは、何故大衆の自然発生的な意識がブルジョワ・イデオロギーの方向に進むのか、と設問してこう答えている。「それはブルジョワ・イデオロギーが、社会主義的イデオロギーより、その起源においてずっと古く、いっそう全面的に仕立てあげられており、はかりしれないほど多くの普及手段をもっているという、単純な理由によってである」(註2)。けれどもこのレーニンの論議は充分に明確であるとはいえない。ブルジョワ社会における自然発生的な意識形態は「商品関係についての意識」として本質的な規定を受けていることに、その本源的な理由があるのだ。
 ブルジョワジーの階級意識は、生活意識としての「商品関係についての意識」を土台として、その上部に「意識の意識」としての知のブルジョワ的形態=ブルジョワ・イデオロギーを展開する複合体をなしている。ブルジョワジーの階級意識は、「資本家の関心は(生産という視点からみれば)副次的な問題である流通という視点をどうしても固執せざるをえない」(註3)ものとして、社会をその構造において捉えることができない。だから、資本家は社会の本質を他の階級に知らせないことが利益であるので「ブルジョワジーのイデオロギー的歴史とは──ごく初期の発展段階、たとえば、ただシスモンディの古経済学学批判だとか、自然法のドイツ的な批判だとか、初期のカーラライルなどを思い浮かばせるにすぎないような段階からして──ブルジョワジー自身のつくった社会の真の本質を洞察することをさまたげようとして、すなわち自分の階級意識をほんとうに意識するまいとして、死に物狂いに闘うことにほかならない」(註4)という結果が生まれるのである。ブルジョワジーの階級意識は虚偽の意識である。ルカーチのいうように、虚偽なるものが虚偽なるものとして真であるような、こうした弁証法的な内容において、それは虚偽の意識なのである。

註1 『資本論』三二八ページ
註2 『何をなすべきか』レーニン(「レーニン全集5」大月書店)四〇八ページ
註3 『歴史と階級意識』一二七ページ
註4 同 三ページ