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『ネコソギラジカル』 /世界の終わり、物語の終わり

『ネコソギラジカル』/世界の終わり、物語の終わり
笠井潔



「絶海の孤島での首斬り殺人。/京都の町に現れる殺人鬼。/傭兵を養成するだけの女子校。/意図的に天才を創造しようという研究施設。/永遠に死なない少女の死」。主人公の「ぼく」は、このように「戯言」シリーズ第一作『クビキリサイクル』から第五作『ヒトクイマジカル』までの物語を要約しているが、このシリーズも第六作『ネコソギラジカル』で終わりだ。しかし、物語は本当に「終わった」のだろうか。
 シリーズ第一作と第二作『クビシメロマンチスト』は、一応のところ探偵小説形式に則って書かれている。『クビシメロマンチスト』は『きみとぼくの壊れた世界』と並んで、西尾維新による本格探偵小説の代表作だろう。
 しかし第三作『クビツリハイスクール』以降、作品から探偵小説的要素は急速に失われ、物語は国際秘密組織のエージェントや世界の破滅を望む陰謀家や、もろもろの超能力者が暗躍する伝奇アクション小説の方向に傾斜しはじめる。作者が影響された先行作家の名前でいえば、森博嗣から上遠野浩平へ、という感じだろうか。探偵小説形式から離脱した結果、このシリーズは新たな難問を抱えこんだ。「終わり」をめぐる難問である。
 探偵小説を「終わり」の小説と定義することもできる。もちろん、終わらない小説は原則として存在しない。作者の死による未完などを例外とすれば、どのような小説も最後には終わる。『物語批判序説』で「終わり」をめぐる言説を非難した蓮實重彦の小説『陥没地帯』でさえ、頁が尽きれば終わりになるのだ。しかし近代小説の「終わり」には、多かれ少なかれ恣意的なところが否定できない。作者が「終わり」だと宣言したから、小説は終わる。作者の意図とは無関係に、小説がそれ自体の「終わり」を示しているような場合も稀にあるが、そう思わない読者が存在する可能性は排除できない。とすれば、この場合も作者が権利を行使して小説を終わらせているわけだ。
 奇形的な近代小説である探偵小説のみが、作者の意思とも読者の反応とも無関係に、終わるときには「終わる」。いかなる疑問も反論も許さない完璧な形で終わる。謎が解明された瞬間に、探偵小説は必然的に終わる。探偵小説が「終わり」の小説である所以だ。
 もしも探偵小説の連作として「戯言」シリーズが書き継がれたなら、「終わり」をめぐる難問は表面化しないですんだろう。探偵役など登場人物を共有する各巻ごとに「終わり」のある長大な連作は、探偵小説ジャンルでは少しも珍しくない。ホームズ連作やポワロ連作などの場合、シリーズそれ自体は終わることなく、たんに「中断」されるだけだ。コナン・ドイルのように作者の権力を行使して、探偵役を作中で殺害しシリーズの「終わり」を宣言しても無駄である。ホームズは生き返ってしまうのだ。ドイルが書かなくても、第三者がパロディやパスティーシュとして連作を書き継いでしまうかもしれない。「戯言」シリーズの作者は中途で探偵小説形式を放棄し、探偵小説連作では定型的なシリーズの「中断」を自分に禁じたのである。
 この問題にかんして、作者の選んだ方向性が見えはじめるのは、「狐面の男」が初登場する第五作『ヒトクイマジカル』からだ。「物語の存在を確信した以上、確信してしまった以上、それを読みたいと思うのは人の情ってものさ、さして特別な感情ではない。なればこそ、その達成こそが悲願」と狐面の男は「ぼく」に語る。この人物にとって、物語と世界は同義である。第六作で明らかにされるように、狐面の男は超能力者の秘密結社「十三階段」を組織して、世界に終末をもたらそうと暗躍しているのだ。世界の終わりを、自分の眼で見たいという理由で。
 歴史の終焉する地点に身を置き、あらゆる出来事を一方的に見下ろしうる学的観望者に憧れている点で、狐面の男はヘーゲル主義者である。また狐面の男の野望(世界の終わりを見たい)が、物語読者の欲望(話を最後まで知りたい)の鏡像であることはいうまでもない。蓮實もまた「物語批判」の一環として、「終わり」の言説を非難していた。
『ネコソギラジカル』全三巻はひたすら、「終わり」という難問との格闘に費やされている。探偵小説的な「終わり」、あるいはシリーズの「中断」という特権的な結末を放棄して、どのような「終わり」が可能なのか。
「ぼく」陣営と「十三階段」の、世界の存続を賭けた決戦は中途半端に終わる。狐面の男の野望は計算違いのため中途で挫折し、世界の終末は延期される。物語の結末は、伝奇アクション小説としてはアンチクライマックスとしかいえそうにない。
「終わり」をめぐる難問は、セカイ系的なテーマとも通底する。セカイ系では通例のヘタレ少年として登場した「ぼく」だが、最後には「正義の味方」として「闘う」ことを決意する。ただし「ぼく」が決断するのは、「人類最強」と「人類最終」の二人の戦闘美少女を「闘わせる」ことなのだ。二人のヒロインを「闘わせる」ことにしか自分の「闘い」を見出しえないという主人公の倒錯に、この作品とセカイ系とのねじれた関係を見ることができる。また「ぼく」は、狐面の男を射殺するという決定的な行動に踏み出すことなく、あえて「人類最悪」の敵を逃がしてしまう。セカイ系的なキャラクターからの離脱を望みながら、しかし、それに主人公は失敗している。
 エピローグで描かれる四年後の「ぼく」は、「大好きな誰かのためなら、あたしはいくらでも強くなれるし──なんでもできる」という大人に、「ぼくもそう思います(略)誰かのために──何か、してみたいって」と応じる。へタレ少年だった「ぼく」は教養小説的な成長を遂げ、社会的な主体として成熟したのだろうか。
 簡単にいえば、教養小説とは『精神現象学』の小説版である。「ぼく」が人格的に成長し、「戯言」シリーズが教養小説的な「終わり」を迎えるとしたら、それはヘーゲル主義者である狐面の男への「敗北」をしか意味しない。探偵小説シリーズ的な「中断」を放棄した作者は、大きく一回りして、結局は近代小説的な「終わり」に行き着いたようにも見える。
 しかし、戦闘美少女を「闘わせる」ことでしか「闘う」ことのできない「ぼく」は、狐面の男を射殺して物語を終わらせることも回避した。ねじれながらも「ぼく」は、依然としてセカイ系的な少年キャラクターである。そんな主人公が、予定調和的な成長と成熟に達することなどできるものだろうか。エピローグ全体が「戯言」にすぎず、物語は「終わる」ことに失敗しているという疑惑を、読者は棄てることができない。「闘い」は、そして物語は、依然として継続中なのかもしれない。

「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」(第三部 その2)

「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」(第三部 その2)
渡邉大輔/海老原豊/佐々木友輔/藤田直哉




渡邉:前半の討議ですっかり果てていました……(笑)。ともあれ、お二人のお話――そして、間接的な形での僕の議論に対する違和感の表明(?)も、とても面白く伺っていました。そして、海老原さんのデビュー論文であるイーガン論も拝読させていただき、ものすごい明晰な論文で面白く読ませていただいたし、その中の海老原さんの強い問題意識であるジェンダーと身体性の問題についても、いろいろ考えさせられました。正直、僕は現代SFのいい読者ではなくて、イーガンも『祈りの海』とか、一部の作品しか読んでいないのですが、確かにアクチュアルな問題意識を備えた作家だということはすぐに分かりますよね。
 それで、お二人は面食らうかもしれないけど、実は僕はこの手の身体論的な議論や発想というのは非常に好きなんです。例えば、機会があれば、05年に『群像』の若手評論家特集に書いた僕の赤坂真理論を読んでみてください。海老原さんの論文の主題と結構近いところで響き合うテクストなのが分かります。その後も、先ほど海老原さんが出してくれた『空気人形』論をはじめ、実は僕は身体論的な評論を何篇か書いているのです。
 さて、僕はここでは、エピソード的な話をしようかと思います。05年に『波状言論』で評論家デビューした僕は、その直後、前島賢さんの誘いで限界小説研究会に参加しました。その当時、限界研に顧問格として参加してくださっている作家の笠井潔さんと研究会が終わった後の飲み会の延長上で、何回か笠井さんの長男の翔くんが当時住んでいた下宿先で三人で夜中までいろいろと話をしていたことがありまして。
 そこである時、ひょんなきっかけで僕が身体論の話を笠井さんに振ったんですよね。大学時代、僕は友人に誘われて山海塾とか勅使河原三郎の舞踏とか観に行っていたし、メルロ=ポンティとか小林康夫の身体論とか超好きだったんですね(笑)。で、その時の笠井さんの答えは、「自分はあまり身体論はやりたくない」と。僕がその理由を伺ったら、「身体論をやると、少なからずある種の神秘主義みたいなところに行ってしまう」と。で、その危うさに自分は慎重なのだというようなことをおっしゃっていたんですよね。僕はその笠井さんの言葉は今でもすごい印象に残っているのです。要するに身体論とは、一種の「ブラック・ボックス」や「マジック・ワード」の議論になってしまうわけ。そういう、(少し文脈が違うけど)ジジェク的にいえば「仮想化しきれない残余」みたいなニュアンスを身体論から払拭することは確かに難しいと思うのです。特に、笠井さんの場合は、『テロルの現象学』の文脈で考えると、そういう「身体性」みたいなものが「ナロード」とか「女性」みたいな観念の累積を自堕落に担保する要素に転化してしまうことへの危惧みたいなものがおありなのだと思います。その話を聞いて、僕も何か笠井さんに感化されてしまって(笑)、それから一年くらいは身体という言葉を使いたくなかったんだよね。
 まあ、それはいいのですが、それでいうとまず前提として身体性の問題っていうのはすごい批評的な感化が強いわけだよ。あるいは、これを「物質性」に置き換えると、実は映画批評の領域における、蓮實重彦の批評の一種の危うさにも繋がる問題なんですね。どういうことか。つまり、蓮實さんの批評とは、やっぱりその、それこそ「仮想化しきれない残余」というか、深層の意味に還元できない表層=テクストの物質性を読むみたいな方向に行くわけでしょう。それが表層批評という言葉の意味なわけで、例えば一時期、「魂の唯物論的な擁護」などという表現も使っていたし。つまり、この場合、蓮實さんのいう「魂」というのは、テクストの秘める「事件」とか「荒唐無稽なもの」とか「愚鈍なもの」、要するに「仮想化しきれないもの」のことですね。つまり、テクストの快楽みたいなものをあくまで「唯物論的」に――すなわち、それをその物質性(テクスト)そのものとして擁護するってことを彼は盛んに言っていたわけなんですよね。で、そういう彼の「物質性」の扱い方というのは、今行ったような身体論が陥りがちな神秘主義と接近してしまう側面があるわけです。
 実際に、例えば、彼は80年代に柄谷行人と出した対談集『闘争のエチカ』の中で、はっきりと自分で「僕の議論というのはどうしても「仏教的」な方向に行くがちである」みたいなことを言ってる。つまり、彼の批評というのも、笠井さんが批判的に危惧する意味での神秘主義的な方向に近づいてくるわけだよ。『思想地図』2号の投稿論文で、若手批評家の入江哲朗さんが書いていた蓮實重彦論の論旨も、まあ、そういうことを言っていると考えていい。
 いずれにしろ、そういう神秘的な「身体性」とか「仮想化しきれない残余」っていうものに、いかに落とし込まずに、それこそ「物質的」に扱っていくかというところに、やっぱりその身体論の難しさというか、逆に言えばポジティブな部分っていうのがあるんじゃないかっていうふうに感じたわけです。それは映画を撮るときのコンセプト作りにしても同じことですよね。
いかがでしょうか。

佐々木:そうですね。僕の場合でも、映画の製作を決めた段階、もしくは企画を練っている段階では、神秘的な「身体性」とか「仮想化しきれない残余」という方向に思考が進みがちだなあと、少し反省しながら聞いていました。けれど、いざ撮影や編集を始めてみると、そういう自分の思考は被写体によって打ち砕かれる場合がほとんどです。先ほど、女性を所有する欲望、操作可能にする欲望というような話が出ましたけど、実際に撮影を行っている時の感触としては、撮っている瞬間は、こちらの欲望が完全に敗北している状態というか、常に、被写体を捉えられていないと感じるんですよ。撮っている時はひたすら、ずっと負けていて、相手の動きに自分のカメラの動きが付いていけないし、こちらがどんなに所有しようとしても、絶対に触れることが出来ない感じがするわけですね。こういうことを言うと、それもちょっと神秘的な他者性みたいな話に聞こえるかもしれませんが、実感としては、もっと味気ない、夢も希望も無い現実をさらっと突きつけられるような体験なんです。全く使える素材が撮れていない、これはとても映画にならないと思うし、出演者に対しても気まずいと感じたり(笑)。これは完全に失敗だ!という気分になるわけですね。しかし、夢も希望も無いと言いつつ、それでもやはり僕はそうした体験に、何かしら特別な、神秘的な何かを感じていたり、求めていたりする。だからわざわざ撮影をしているわけですし。本当にそのさじ加減は難しいところです。それに、今は撮影について話していますが、その撮った映像をHDに取り込んで編集を行う段階に来ると、また全く違う状況がやってくる。編集する段階になると、映像素材として撮られた被写体は、もう完全に自分の所有物になってしまっているという感覚が強まります。撮影の段階ではとにかく被写体に負けないように全力で追いすがるわけですが、編集の段階になると、逆にあまりにもこちらの好きなように映像を加工できることに恐れを感じたりもする。こんな自由に切り刻んでしまっていいのだろうかと、不安になってくるんです。

渡邉:なるほど。ここで、少し映画理論的な文脈で敷衍しますと、現代ハリウッド映画研究でも、海老原さんの関心にダイレクトに繋がるような、フェミニズム的な文献が70年代以降の一時期、ブームになったことがあります。その代表的な事例がローラ・マルヴィによる、1973年の論文「視覚的快楽と物語映画」ですね。彼女は典型的なラジカル・フェミニストなんですが、ようは「ハリウッド映画のカメラの視点というのは全て男性の視点である」という……今読んだら、すごいこと言うなという感じの論文なんですね(笑)。でも、お分かりのようにマルヴィのこの主張は、美術史研究におけるグリゼルダ・ポロックのように、当時はすごいインパクトがあった。
 ここで話を戻しますと、例えば、佐々木さんは作家として、そういった男性作家の女性に対するその欲望の対象の所有というような話の文脈で言うと、同様のことは感じます? もしそういう意識を逆説的にせよ感じるとすれば、それはカメラを撮っている、見つめている時か、それともそのフィルムをモンタージュしている時でしょうか?

佐々木:男性の視点、所有の欲望が無いとは言えません。しかし、編集している時はその対象を好きに扱える感覚があると言いはしましたが、それも結局、負け惜しみに過ぎないとも思うんですね。撮影の段階ですでに被写体に完全に敗北しているので、編集作業は、負け惜しみでちょっとだけ仕返しして終わるくらいの感じになってしまうんです。一矢報いるくらいのことしか出来ないんですね。だから、自分の欲望がどうあろうが、対象を所有している、あるいは所有出来ているという気には殆どなれないし、それが分かっているから、そういう欲望そのものを映画の核に据えようとも思わないですし。

渡邉:なるほどね。僕から見ると、佐々木さんの「被写体に完全に敗北していて、編集作業でちょっとだけ仕返しする」という言い方は面白いですね。というのも、それはそのまま僕が批評家として作家やテクストに対して思う感慨と一緒であるからです(笑)。蓮實重彦の『シネマの煽動装置』という書物はそれを言語化=批評化した残酷な試みであるわけですが、まあ、一言で言えば、非常に倒錯的ですね(笑)。で、作家としての資質にもよると思いますけど、ここでいきなりものすごく身も蓋もない話をするとするならば(笑)、「ドM」の作家と「ドS」の作家というのがいるとざっくり仮定しましょう。 変な話をして恐縮ですけど、その場合、佐々木さんはご自身を振り返ると、やっぱり作家としてのアプローチは「ドM」ですか? お話を伺っていると、どうもそっちのような気がしますが(笑)。

佐々木:撮っている時はドSだと言われたりもしますけど(笑)。ただ、『夢ばかり、眠りはない』という映画に関してはやはり、そのカメラの視点が男性の欲望や所有欲であると一言で言ってしまえるほど単純ではないとは思うんですよね。相手を所有したいという欲望が、不可能だということを自覚しつつ、それでも全力で所有しようとしてみたり、あるいは所有されたかったり、被写体に共感してたり、憧れて同化したかったり、これって私!って思ってたり、肯定してほしかったり逆に否定してほしかったり…。この辺、自分自身のことはあまりうまく答えられないですね。むしろ誰かに診断してもらいたいところです。また、これもあまり一般的な話にはできない個人的な問題なのかもしれないですが、先ほど、この映画は撮るべき「キミ」が居なくなった映画だと言いましたよね。けれど、この映画に出てくる「キミ」は、女性なのか男性なのか作中では明示しないようにしていて、「ボク」に当たる主人公も、男性ではなく女性という設定です。自分の映画では基本的にいつも、どの登場人物も男女の性差をなるべく中性に近づけていきます。台詞も、声に出して読まなければ男か女か判らないような、どちらでも有り得るような口調にしてあって、「彼」とか「彼女」というような言葉も使わないようにしています。
 もしもシンプルにセカイ系のパロディとして映画を作るとすれば、主人公は当然男性にするべきだっただろうと思うのですが、これは本当に個人的な問題かもしれませんが、僕が映画を作る時は大抵、自分を投影するキャラクターは殆どの場合女性に演じてもらうんですね。そしてその人間が関係する相手も女性的なキャラクターになるので、よく「レズ映画だ」と言われてしまうのですが。
 これは、自分の姿は自分で見ることが出来ないというのが大きいかなという気がします。映画を観まくって、その映画に感情移入したり、その他いろんなメディアに感情移入したり、あるいは自分で映画を撮ったりしていると、そこでは自分の姿が見えなくて、代わりに自分が感情移入する人物だけがはっきりと見えているわけですね。そして、そういうことをずっと続けていると、たまに鏡で自分の姿を見た時に「これは自分じゃない」と思ったりする。自分が普段考えている自分の姿と、実際の自分の姿とが、ヴィジュアルとして結びつかないということがあって、では、自分のイメージはどういうふうに形作られているのだろう、自分は自分をどういう姿で捉えているのだろう、と考えた時に、僕の場合は女性の姿として現れてくるんです。またそれだけではなく、先ほど紹介した[「彁 ghosts」という映画では、5人の役者が同じ青いワンピースを着ることで一人の役を演じる、つまり5人1役ということをしている(http://www.youtube.com/watch?v=VudcY5ZtRA8)のですが、それも、自分の見ている自分の姿をなるべく忠実に描こうとしたというか、一番しっくりくる姿を探した結果そうなったんです。

渡邉:それをさっきの海老原さんのお話に繋げて言えば、海老原さんがさっき言われた「頑張れば性差が克服できる」というか、社会的な性差=ジェンダーとその剰余という議論の文脈に繋がりますか?

佐々木:克服というよりは、自分の場合、順序としてはむしろ逆だと思うんですよ。克服できると言う時、その状態を肯定的に捉えているわけですよね。しかし、僕の場合はそのことをすごくネガティブに捉えているのかもしれません。性差というか、「この私」という固有性をしっかりと持っていたいと思うが、なぜか勝手に中性的になってしまうというか、自分がバラバラになってしまうというか…。しかし、そうかと言って、自分の固有性として今すぐ挙げられるもの、例えば自分のこの顔を見ても、それがリアルな自分だとは思えないし、何か違和感がある…。だから、中性的であることは、自分にとってすごく自然なことであるのだけれども、同時に、その置き換え可能であるということをネガティブに感じることもある。ひとつに定まらず、変更できてしまう事の怖さというか、不安定さというか。

藤田:自己意識と自分の像との乖離と、取り換え可能性への恐怖は僕も感じることが多いです。このあたりはラカンの鏡像段階論をベタに思い起こすわけですが、バラバラであるという感覚をウェブが助長しているような気がします。普通、子供は鏡の中の自分と、自分自身で感じる自分が一致していなくて、鏡を見ることで、自分の中でバラバラなものを統一してひとつのものであることを覚えていくわけです。そして、その映像が不本意であろうとも、自分であるということをしぶしぶ受け入れるわけですね。内心では「俺はもっとカッコいい/かわいいはずだ!」とか思いつつも。
 しかしネットは鏡ではないんです。好きな自己イメージを自分自身の身体とは別に仮構できる。そのせいで人格イメージ、主体イメージが混乱しやすくなるという文章を僕は書いたことがあります(「『ひぐらしのなく頃に』は何を浄化したのか?」『パンドラ』3号 講談社)。ネットの無料のゲームなどは、アバターを装飾するところに課金するシステムにしていて、実際それでずいぶんとお金を払う人はいるようです。そして「身体」がもっとも重要な「恋愛」や「セックス」ですら、ネット上で、仮想人格によって代替させようとする方向性がありますよね。海老原さんであればティプトリーの「接続された女」(1974『愛はさだめ、さだめは死』所収 ハヤカワ文庫SF)という作品をご存知だと思いますが、醜い肉の塊の女性が、美しい女性の肉体のロボットにネット端末で入り込んで操作して、そして恋愛をするわけですよね。あれが本当に現実化してしまっている印象を受けるわけです。ティプトリー作品では、その「美しい女性」に恋した男が、「本体」を助けに来るのですが、その醜い肉の塊を見て失神するというオチがついていたと思うのですが、ネット恋愛を観察していて、「会う」という契機がとてつもなく高いハードルに(特に女性の中で)なっているのは、仮構した自己イメージと本来的身体のギャップに直面せざるを得ない瞬間が待っているからですよね。「ピザ来た」「ドム来た」とか言っている男性側は、「接続された女」であれば、失神した男性に相当するわけですね。相当にアクチュアルな作品だと思います。
 ちょっと話は逸れましたが、以前僕は、ネット上の身体と生身の身体は「n×n対応」していると書きました。すなわち、単一のウェブ上の身体=アバターを複数の生身の身体が担うこともできるし、単一の生身の身体が複数のウェブ上の身体=アバターを操ることができるわけです。おそらく佐々木さんの感覚もそれに近い、あるいはそういった文化環境の中で共有されている感覚なのかもしれません。

渡邉:そこには、当然セクシャリティの視点も、入ってくるというわけですよね。面白いですね。
以前、海老原さんと最初にお会いした時に、ジュディス・バトラーなどのクィア・スタディーズの話をちょっとしましたよね。それに引きつけてまたいうと、海老原さんによれば、バトラーが『ジェンダー・トラブル』などで打ち出した、社会構築主義的なジェンダー/セックス観というのは、少しおかしいのではないかということですね。

海老原:ジュディス・バトラーはやはり哲学者だと思います。社会運動にも従事していますが、軸足は哲学でしょう。社会学でもない。ラカン、ジジェクとか、いわゆる精神分析の言語によって人間の性差を考えている。社会実践か理論構築かといえば、人文系・文学批評系・精神分析系というのは理論構築ですよね。フェミニズムやジェンダー研究を考えるとき、先にも言いましたが、理論なのか実践なのかというのは非常に重要です。両方あるべきだが、バランスよくできる人は少ないので、受容するほうが両方からバランスよく摂取する必要がある。でんぷん、たんぱく質、脂質といった栄養素みたいなもので、「バランスよく食べましょう!」というのがスローガンです。で、バトラーは理論構築系、それもかなり念入りに難しいほうだと私は考えています。日本にも両方ありまして、ジュディス・バトラーの翻訳者の竹村和子さんはやはり理論系、それも文学研究に出自をもっているタイプです。他方では社会学者系がいますが、草分けですと上野千鶴子、ただここで言及したいのは、男性の研究者で『性の歴史学』でオナニーの言説史を掘り起こした赤川学です。赤川がいうのは「とりあえず精神分析の言語に頼るのはやめよう」と。つまりはバトラー、正確に言うならば日本におけるバトラー受容批判をしました。ジュディス・バトラーは一時期、聖書みたいに読まれていたと思います。バトラー功績も、当然、あります。ただ、バトラーを読んでもどうにも解決できない問題がある。バトラー文献の研究会か何かで、翻訳者の竹村さんが会場からの質問に答える形で、こういうたとえを言いました(どんな質問内容かまでは覚えておりませんが)。「生殖器が性的なものである必然性はない。言語的・社会的に性的なものとして構築されただけであり、例えばヒジが「性的に恥ずかしいもの・それゆえに隠さなければならないもの」という文化があってもよいし、身長が一定以上に伸びたら「性的に恥ずかしい」という文化があってもよいのだ」といっていました。もちろん、そのような文化があってもよいのでしょう。ただ、私たちが生きる圧倒的多数の文化は違う。そう感じるときの気持ちを、どうすればよいのか。この気持ちはバトラーを読むと、言語的な幻想ですとなるでしょう。それに乗れるか乗れないかになってしまう。もう少し別の落とし所、私たちが今目の前で感じているこの物質性の落とし所は他にないものか、というのが私のバトラー受容への違和感です。
 渡邉さんの発言を受けて、安易に身体、身体というのはまずいといまさらながらに反省しています。先ほど、強い言葉には注意が必要だといったその傍からこれなので、情けないのですが(笑)。いかんですなあ…。
 身体なのか物質なのか、というのも深く考えなければならないところだと思います。またその物質にも様々なレベルがある。テクストの物質性という場合の物質性もやはり気をつけなければならない。どういう風に翻訳しても残る残余、翻訳不可能な残余みたいなものは確実にあると思います。それを物質性と呼ぶかどうかは議論の余地があるでしょうが。ただ私としては物質性という言葉を入れて見えてくるものがあると考えています。
 たとえばDVDという製品であるとか、カメラというモノであるとか、文学の世界だと活版印刷とか写本の技術であるとか、そういったモノ=物質が現実に存在している。イーガン流に翻訳して言えば、作品というソフトウェアが走るハードウェアといえるかもしれません。『順列都市』では消えたようで消えなかったハードウェアは、だから批評の世界でも当然、消えてしまうわけではないのです。そして芸術作品の場合、誰かに鑑賞されなければ意味が生まれない。読者という物質性もまた必要なのです。
 この物質性への注目、それも作品をのせるハードウェアへの着目を積極的に行ったのが、マルクス主義批評であるといえます。階級対立を読み込むというのがその原初だったかもしれませんが、流通であるとか消費であるとかそういった物質と人間の係わり合いを批評の視野に入れた。例えば、ある作品の出版数とその文学的な評価というのは必ずしも一致していない。売れた本が偉い、というわけではないということです。当たり前といえば当たり前ですが。数は少ないけれどもいわゆる文学(文壇)の頂点にあると思われてたり、大衆的なものですごく何万部も何百万部も売れたんだけど、文壇からは無視されたり、ズレがある。ところがよくよく見てみると、読者の読書体験は確実に存在しているし、モノとして物質として広範囲にひろがっていたわけで、本というモノの存在感はあるわけです。文学史の再編纂が今日、積極的になされていますが、その時に参照する重要な視座として本という物質があります。
 他方で、物質的身体を持った存在としての読者が文学の領域に積極的に導入されたのは、読者反応理論後に、文学批評理論が多文化主義を受容した結果だと思います。読者反応理論では、テクストを読む読者を物質的な身体として可視化しました。その後、その読者はいったいどんな人間なのか、とさらに一歩踏み込んだのが、多文化主義的な読みです。テキストもモノですが、読者もまた抽象的で観念的な読者ではなくて、現実の歴史とかジェンダーとか階級を背負った、朝ご飯を食べ、昼飯を抜いたらお腹が減って、晩御飯をたくさん食べたら太ったというような身体を持ったモノとしての読者ということです。黄色人種という経験、オトコという経験、ホワイトカラー労働者という経験が、その人の読みに影響を与えるという当たり前の話です。だからマルチカルチャリズムというのは、端的に言えば読者=受容者という存在の身体を考えようという発想で、そういう意味では、歴史主義でありマルクス主義だといえると思います。
 様々な物質性の位置があると思います。ただ、私も良くやってしまうので自戒をこめていいますが、物質性の位置をひとつひとつ丁寧に考えていかないで、身体だ物質だと言うと、まずい。実際、身体も物質も違うわけですよね。誰の身体なの。作者の身体か、表象されている人の身体か、鑑賞している人の身体か。
 最近、といってもここ3年ぐらい、小劇場を中心に演劇を見て回っています。演劇への関心にも、やはりフェミニズム、SFと共通した部分はあると思います。ただ、それが何なのかいまいち、うまく言語化できていません。とりあえずは、最近、注目している若手劇作家・演出家の柴幸男について少しまとまった論考を限界小説研究会のブログに「リアリズム/ズ序論 柴幸男の演劇のリアル――分離した心と身体、反復し続ける一回性」(http://ameblo.jp/genkaiken/entry-10505419522.html)として載せてもらいましたので詳しくはそちらを読んでいただきたいのですが、演劇の面白いところは、私がさんざん繰り返してきた「当たり前」の感覚を、一度、カッコに入れることができるところだと思っています。私たちの振る舞いを演劇という大きな約束事によってカッコに入れてしまう。もちろん、カッコに入れることは消すこととは異なっていて、当たり前は消えてしまうわけではない。ただ、当たり前を当たり前であると前景化することができる。
 演劇と全く関係がないわけではないですが、AVと絡めて話題にしますが、実は昨日・今日と1泊2日の温泉旅行で伊香保まで行って来て、そこでストリップ小屋を冷やかしてきたんですね。3,500円。ビール2本飲んでプラス800円。じゅうたん敷きの小さな小屋があってフィリピン人が踊ってました。AV的なものを想像していたのですが、それともまた違う独特な空気でした。AVは基本的に一人で見るものですが、ストリップ小屋の場合、裸の女性の身体を見ているほかの観客まで自分の視界に入ってくる。自分がイマイチ恥ずかしくてノリ切れなくても周りの人が騒いでいたらそれに感情移入できる。つまり欲望を他者に仮託し、かつ他者の欲望を自分に引き込み、裸を欲望できる。精神分析学的に、非常に面白い装置だなあ、なんて思いながら見ていました。最初に出てきた時は皆、拍手もまばらだったり手拍子もテキトーなんですが、一度その姉ちゃんが客の間をパフォーマンスしながらゴンズズバーッとやった後で舞台に戻ると観客のノリが変わり、ボルテージが上がって「ウオオオーッ!」となる。見る方/見られる方の身体を取り込みつつ、しかしあくまで本番(性交)禁止のスペクタクル系風俗であるので性的な接触を制限して、それでいて欲望を効果的に喚起する。ストリップ小屋はなんてすごいんだと思って、私も「ウオオオオーッ!」となってしまったのです(笑)。このあたりは、渡邉さんがおっしゃるAVの身体性、特に見るものの身体性を連想しましたが、やはりそうなのでしょうか。

渡邉:まあ、直接的にはそうですね。しかし、厳密には僕は、鑑賞者の身体(性)もまた、映画的テクストを構成するモジュールの一つなのだと考えているので、それはテクストの中の表象としてのAV演者の身体とも繋がっていきますが。それがイメージ論の領域から見た、「AV的身体性」の特異性です。
 少しバトラーの話に戻ると、彼女は確かもとはヘーゲル学者ですよね。したがって、弁証法的なスキームの相対化というところから、ああいうアルチュセール的行為主体に注目するセクシュアリティ研究を打ち出したわけでしょうね。
 AV的身体性の話は、先ほど申し上げたことに要約されますし、この話はおいおい海老原さんを交えてまた本格的にやりたいので、ここではペンディングにしておきましょう(笑)。今後、映像圏をめぐって書くことになっている予定の原稿でもまた言及するつもりですので。いずれにせよ、文学から映画まで、身体性の問題が非常に重要性を帯び始めていることは、どうやら全員の共通了解となったようです。問題構成が見えてきたところで、また改めてこの問題については討議していきたいと思います。

佐々木:僕はAV的な身体性というものにはこれまで興味を持って来なかったので、勉強になります(笑) 色んな映像表現の中では、一番分かり易く生々しいというか、肉々しいというか…。うまく説明出来ないのですが。僕はなるべく、身体性が希薄なもの、希薄に見えるもの、あるいは物質感があまり感じられないものを出発点として、身体というものを考えてみたいと考えてきました。夏服よりは冬服、歓楽街の看板よりはショッピングモールのクリーム色の壁とかですね…。すいません、意味が分からないですね。僕自身、まだ全く未整理なところなので、今後またお話出来ればと思っています。

海老原:私はAVや風俗嬢というセックス・ワーカーと彼女たちを取り巻く環境について興味があります。それは社会運動してのフェミニズムとも関連しているのですが、もっと大きな部分で、身体をめぐる問題、フェミニズムでいえば理論構築と関係しています。援助交際の別名は「割り切り」と呼ばれます。そもそも、売春の隠語が援助交際だったのですが、ここまで援助交際という言葉が大衆化されると更なる隠語を必要とする。「割り切り」は「割り切った交際・関係」からの転用ですが、この言葉が端的に表すように、売春に従事する女性は、頭の中でどこか「割り切る」ことを必要とする。人間の親密な身体的部位および親密な関係を、金銭を通じて、ある意味で強引に暴力的に切断されてしまう。それが自由意志に基づく同意を経たものであっても、一筋縄ではいかない。AV女優のインタビュー集を読んだり、風俗嬢を取材したルポを読んだりする過程で考えるのは、当たり前のことが担保されていない状況でどうやって当たり前のことを確保していくのかということです。当たり前のことというのは、たとえば安定した人間関係のネットワークによる相互承認であったり、安定した仕事による経済的基盤であったり、短期的な利益ばかりではなく長期的な視野に基づいた制度設計であったり、そういうことです。認めてもらったり気遣ってもらえる人がいるというのは、その人にとって単純に嬉しいことだと思います。現実に横にいて、つらいとか苦しいとかそういう時に、共感を示されるのは、悪いことではないでしょう。何もセックス・ワーカーに限ったことではないですが、こういう当たり前のこと、特に人間が人間であるために必要であるはずの当たり前の関係や条件は、しかし、なかなか当たり前ではない。ちょっとかけたり、ちょっと多かったり、バランスよく築くことはなかなか難しい。そこで、栄養素ではありませんが、うまく工夫してバランスをとる必要がある。さて、それをどうやっていくのか、というのが私の中での根本にあります。
 はっきり言って、この姿勢は数年前の私の考えとずれていると思います。ある意味で、人間の普遍性を想定しているわけですし。よくわかりませんが、数年前の私ならば、そこまでは言わなかった。ただ、ここ数年の労働者の経験が、私の「当たり前」への信頼および「当たり前」志向を強めたのだと思います。なんだかんだ言ったって、人は人が必要で、それも優しくしてもらえる人が必要なんでしょう。どうでしょうか。実験的一人暮らしを始めてみた私の弱音なのかもしれませんが(笑)。また、この人間主義的な価値観は、ともすればセックス・ワーカーを「かわいそうな彼女たち」と一くくりにする暴力的で抑圧的な価値観である、と批判されるかもしれません。が、それは違うといいたい。だいたい、「彼女たち」なんてくくってしまうことが、そもそもできない。もしそうくくってしまうのであれば、それは抽象化・脱身体化された概念としてのセックス・ワーカーなのでしょう。私の言い方もすでに抽象的過ぎますが、それはひとえに私のほうが「欠けている」のであって、「彼女たち」(またカッコをつけざるを得ませんが)が欠けているわけではない。
 ドキュメンタリー映画監督の森達也は「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」といいました。マスメディアとそこからはじかれてしまったマスにのらないドキュメンタリーを往復する過程で、「貧しい」世界・「残酷な」人は、実は、種々のものを容赦なく削り落としてしまった結果でしかないのかもしれないと気がついた。森達也が大切にするのは人に接することであったり、感じた違和感に忠実であったりするという至極、当たり前のことです。彼の姿勢は、私が目指す一つの目標でもあります。

藤田:元の原稿ではここで終わっていたんですが、公開直前に読み直して、あまりにも直球な終わりでいいのかと思ったので、最後に全く許可を得ないで加筆しますが、擬似ドキュメンタリーの問題に戻りますけど、森さんは『ドキュメンタリーは嘘をつく』という著作があったはずです。マスにのっていないドキュメンタリー、あるいはインタビュー、そういったもので「さえ」本当かどうかわからない、それこそが本質的な問題なのだと思います。森さんは『職業欄はエスパー』という「ノンフィクション」と銘打った超能力者に取材した本があるのですが、この作品の中の「スプーン曲げ」を見てしまったとき、絶対揺らぐはずなんですよ。そこは森さんは意図的なはずです。オウムの内部を映した『A』や『A2』は「マスメディアが映さない真実」を映しているかもしれないけど、しかもそれすら真実ではないかもしれないという揺らぎの中に森さんは自覚的に置いていると思います。ドキュメンタリーも証言も、本当か嘘か分からない、そんな曖昧で嘘か本当か良く分からない世界の中でおかしくならずに生きていき、かつ苦しんでいる他者の、言葉では伝えきれないかもしれない「当事者性」にどう向き合うのか。これは本質的な問題だと思います。簡単には答えが出ないでしょう。僕としては、新たな「システムの倫理/倫理のシステム」の構築をすべきだと思うのですが、具体的にそれが何なのか、どうすればいいのかは分かりません。
 しかし、「擬似ドキュメンタリー」を通して、「映像圏」「現代映画の言語ゲーム」「身体性」などについて様々な角度からの意見が発せられた今回の座談会は有益だったと個人的には感じております。この座談会をご高覧頂いている方々に何がしかのヒントを与えたり、考える元になって、リアクションを頂けたら、座談会を構成した者として本望に思います。
 本日はありがとうございました。

(テープ起こし・工藤伸一 構成・藤田直哉)【収録日】2010/03/07

「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」(第三部 その1)

「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」(第三部 その1)
渡邉大輔/海老原豊/佐々木友輔/藤田直哉



第三部  身体のイメージ/イメージの身体

藤田:では前の二部で、現代映画における言語ゲーム的な操作を巡る慣習の問題や作家性の問題は一通り討議できたと思います。それで、もうひとつ重要な討議の主題にしたいのは、身体についてです。最近、ゲーム的リアリズムとか、新自由主義社会のバトルロワイヤル状況を「ゲーム」と捉える言説が流行していますが、もちろんウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」はそのような遊戯的な意味ではないということは承知の上で、どうしてもゲームになりきらない身体の問題というのが浮上してきたように思います。特に、SF評論家の巽孝之氏の下で学び、身体性が残り続けるということを主題にイーガン論を書かれた海老原さんの思想は、ネットにジャックインして身体を失って離脱、みたいなサイバーパンクの夢が破れた現代の日本だからこそ重要な意義があると思うのですよね。そこで、「映像の身体、身体の映像」を主宰されている佐々木さんにもお話を伺えたらと思います。

佐々木:海老原さんのイーガン論は失礼ながら未読でして、具体的な内容に即して話すことは出来ないのですが、今藤田さんからご説明を頂いた「身体性が残り続ける」というテーマを聞いて、もしかしたら自分の作品とも接続出来る部分があるかもしれないな、と思いました。最新作『夢ばかり、眠りはない』(http://yumenemuri.web.fc2.com/)(2010)は、秋葉原の通り魔事件や郊外の風景を扱った映画なのですが、この映画の中に、「私はまるで、ボクとキミのセカイの、実写映画化のような存在だ」というような台詞があります。これはもちろん、セカイ系と呼ばれる作品群を意識したものなのですが、まずはこの映画とセカイ系との関係について説明させてください。
 僕はあまりオタク的な素養はなくて、大学3年の頃(2006年)に初めてセカイ系という言葉の存在を知ったのですが、実際にセカイ系と言われる作品をいくつか見てみると、おそろしく自分と親和性が高いことに気づきました。それは今から考えると、『セカイへの信頼を取り戻すこと』で渡邉さんが書かれていたような「《セカイ系化》した日本映画」の影響を知らず知らずに受けていたのだと思います。それこそ、先ほども挙げた『リリイ・シュシュのすべて』とかですね。ともかく、そうやってひとつのキーワードとして「セカイ系」という言葉を知った時、自分がこれまで、いかにセカイ系的な想像力を持って生きてきたかということが明らかになってしまったんです。大ざっぱに言ってしまえば、ボクとキミの問題が、世界の問題に直結してしまうというような、そういう話です(笑)。それは僕にとって、もちろんフィクションだと理解していても、同時に、とても生々しい実感であり、あるいはリアリティを感じさせるものでもありました。何か、人格形成における深い部分にセカイ系的な想像力がインストールされてしまっていて、それが現実に、自己の価値観や身体観に影響を及ぼしているように感じたのです。しかし、セカイ系の物語に登場するキャラクターのような身体を、実際には私たちは持ち合わせていない。セカイ系的な想像力によって観念としては自己の身体性がどんどん希薄になっていっても、もちろん、私が物理的に持っている身体性は残り続けるわけですから、そこで自己の身体観と生身の肉体との間に齟齬が起こります。そしてそれが進行すると今度は、私と、私が生きている社会との間に摩擦が生じます。実生活にあらゆる面で支障を来し始めるわけです。それをどうにかしたい、というのが作品制作のひとつの動機としてありました。これは先ほど違う話でも例に出したのですが、やはりこの感覚は、衣擦れとか靴擦れを起こしている時の感覚に近いです。サイズの合った服を着たい、サイズの合った靴を履きたいというのに近いニュアンスで、セカイ系的な想像力による身体観と生身の身体とが齟齬を起こさずにうまく調和するような、そんな新しい身体観を映画製作を通して考えていきたいと思っているんです。
 先ほど挙げた論文の中で渡邉さんは、「疑似ドキュメンタリー的手法はセカイ系的な想像力と極めて親和性が高い」というようなことを書かれていたと思うのですが、それを読んで僕は、続きを読むよりも先に「その通りだ!」と感動してしまったんですね。ミスリードだと申し訳ないのですが。僕は、疑似ドキュメンタリーと言えば手持ちカメラによる手ブレ映像だと思っているのですが、その撮影スタイルが、まさにセカイ系的な世界観そのものであるように思えたのです。これは、セカイ系の話でよく出てくる「ボクとキミ」という話で説明すると分かり易いかもしれません。手持ちカメラを用いて撮影をする時、「キミ」に当たる、撮るべき対象が画面の真ん中に一人居るわけです。そしてカメラを持つ「ボク」はその対象をずっと追いかけていく。本当は、追いかけるべき対象が居なくたって物理的にはカメラを回して撮影することは可能ですが、それでは何を撮って良いか分からないし、映画になりません。私たちが撮影を行う時にはやはり、何を撮りたいのかという目的と、なぜ撮りたいのかという根拠が必要だからです。そこで、「キミ」という撮るべき対象をひとつ設定することで、その対象をずっと追いかけていけるというか、その対象をずっと追いかけていくことで、他の諸要素も同時に撮影され、ひとつの画面の中に組織されていく。そうすれば、ひとつの映画を作っていくことができる。「キミ」を中心にして、世界が立ち上がってくるわけです。そもそも手持ちカメラによる手ブレ映像というのは、いくら「手ブレ」と言っても、画面全体が常にブレてしまっていたらそれが実験映画でもない限り作品として成立しないので、必ずどこかにブレていない被写体が映っていることが必要ですよね。背景がどんなにブレていても、中心に何かひとつブレていない「キミ」が映っていれば良く、その対象をずっと追いかけていくことで映画というセカイが生起してくるという発想は、すごくセカイ系的だなと思うのです(笑) 実のところ、僕はセカイ系と呼ばれるようなライトノベルやアニメをそれほど観たことがないので憶測で言うことしか出来ないのですが、奔放なヒロイン「キミ」に色んな意味で振り回されながらも見失わないように後を追いかけていく「ボク」の感覚と、動き回る被写体を何とか画面に収めようとしてカメラを回す感覚って、すごく似ているのではないかと思うんですよ。
 僕自身、以前はそんなふうにして、「キミ」に当たる被写体を設定して、それを追いかけるようにして撮るということを行ってきました。まあ、その時は別にセカイ系というようなことを意識していたわけではなく、本当に単純に、動き回る被写体を撮影するのが楽しかったし、被写体になってくれた出演者との間に生まれるコミュニケーションというか、やり取りのスリリングさに魅せられていました。けれどその後、セカイ系ということを意識し始めたり、秋葉原の通り魔事件について考えたりする中で、ちょっとずつ考え方が変わってきた。つまり、これまでの作品では出演者に「キミ」の役割を与えた上で動いてもらってそれを撮るということをやっていたので、ある意味ベタにセカイ系的な枠組みが出来上がっていたかもしれないのですが、それは実は、自分にとってだけ都合がよく、しかも予定調和なことをしているのではないか、と思うようになった。「キミ」なんてものは幻想なんじゃないかと考えてみたんです。そうして、都合よく自分を振り回してくれていた存在が消えてしまうと、案の定、映画を撮る根拠も無くなってしまった。何を撮れば良いのかよく分からなくなってしまったんです。でも、それでもやっぱり映画は撮りたいので、仕方なく、居なくなってしまった「キミ」の影をずっと追いかけるようなイメージで、映像が撮れないかと考えた。誰もいない場所にカメラを向けて、そこに撮るべき「キミ」が居ると想像しつつ撮影をしてみた。そうするとそこには、これまでは背景でしかなかった、郊外の風景だけが前面にせり出してきたんです。(http://www.youtube.com/watch?v=6bPkquVS5ns)この話は半ばフィクションで、でもある程度はノンフィクションでもあるわけですが、とにかくそういうイメージで撮っていって完成した映画が『夢ばかり、眠りはない』です。撮るべき対象を見失った時に現れてくる風景が新たな「キミ」となる映画を撮りたかったんです。
 身体の話から遠ざかってしまったかもしれませんね、自分としては身体とも密接につながっている問題について語っているつもりなのですが…。補足しておくと、この映画ではやはり身体と言うものが非常に大きな役割を果たしています。郊外の風景がただ延々と広がっていて、それをとりとめも無く延々と撮っているだけの映像は、そのままではとてもひとつの作品としてまとまらず、ただひたすら映像素材が増えていくだけです。ではそれをどうやって映画として完結させるかとなった時に、身体という有限なものが、結節点として機能するのではないかと考えています。手持ちカメラは、手持ちである以上あくまで私の身体を中心にして動き回るしかないし、居ないはずの「キミ」という被写体も、その身体をイメージしながら撮ることで、あるまとまりというか、枠組みを映画に与えてくれます。また、DVDやDVのような映画を記録するためのメディアを、ひとつの「映画の身体」として考えてみる。映画というものを、ひとつのディスクの中に入っているデータとして捉えてみるんです。視覚的なものであれば、ビデオカメラで撮影することで、どんなものでもひとつのデータにまとめて、ひとつの画面上に圧縮して、一枚のディスクに収めてしまえる。また、そのメディア自体の記録容量や、物理的な制限を利用して、映画の枠組みを決定することが出来る。このように、バラバラに拡散してしまいがちな諸要素を結びつけると言う意味で、広い意味での身体性が役に立ってくれているように思います。
 ただ、そういうことが出来るのはやはり、自分が映画という枠組みをある意味すごく素朴に信じているというか、そこに疑いを持ちつつも、一応最後のところでは信用出来ているからこそなのだと思います。だから、信用することができなくなれば、映画を撮ることも出来なくなるのかもしれませんね…。とりあえず、そんなところです。

海老原:身体、もっというと物質を考えていこうというのが、私がSFを読むときの一つのビーコンとなっています。日本SF評論賞で優秀賞をいただいた論文「グレッグ・イーガンとスパイラル・ダンスを 「適切な愛」「祈りの海」「しあわせの理由」にみる境界解体の快楽」(『S-Fマガジン』 2007年 06月号)の冒頭で簡単に紹介しましたが、SFの歴史をひも解くとSF作品が志向する「スペース」が時代によって異なっている。外宇宙(アウター・スペース)であったり、内宇宙(インナー・スペース)であったり。私は大学・大学院で批評理論を学び、けっこう念入りに勉強したものにジェンダー理論がありました。だから、フェミニストSFが志向したジェンダー・スペースにも、かなり興味があった。ジェンダー・スペースを描いたフェミニストSFが盛んだったのは、社会運動してのフェミニズム、その後におこった理論的成熟としてのジェンダー・スタディーズが盛んだった時期と重なります。SF史的には、サイバー・スペースを志向するサイバーパンクSFが登場します。で、その後に出てきたのがオーストラリア作家のグレッグ・イーガンです。修士論文でとりあげた作家はジェイムズ・ティプトリー・ジュニアという、当初は男性名で「男性にしてはラディカルな」ジェンダーを問題化したSFを書いていたが、後に女性であることが分かり、女性のフェミニスト作家としても評価されたSF作家で、ある程度ジェンダー理論を踏まえたうえで論じています。だた、ティプトリーについて考えながら、やはり私の中でどこかひっかかりがあり、それを全く別口で書いてみたのが、イーガン論です。修士論文とイーガン論は同時並行でしたが、今考えるとその意味というのは、自分の中でティプトリー‐ジェンダー理論的な問題がイーガンSFへと接続できるのだろうという考えがあってのことなのだと思います。当時は、はっきりとは分かっていませんでしたが。
 つまるところフェミニストSFというのは、ジェンダー構築主義もそうですけれど、「頑張れば何とかなる」という話だと思います。男の子として産まれたけど頑張って女の子として振舞えば女の子になる。ジェンダーは社会的構築物であり言語的慣習にのっとったパフォーマンスであるという現状分析と、だからこそラディカルに約束事を書き換えていこうという社会提言および運動。この二つがあわさった社会思想/実践としてのフェミニズムの社会的意義は必要性はよく理解していますし、その後に起こった社会改革も大切なものであると思いますが、時代的文脈を取り除いてしまうと、フェミニズムがその理論的根拠として主軸を置いた社会構築性というのは、非常に危ういものです。生物学的本質主義の対抗概念として持ち出された社会構築主義ですが、考えてみればすぐにわかるようにジェンダーにしろ人種にしろAからBへの移行あるいはパッシングを可能にするのは、AやBを規定する本質的な要素です。散々「○×という作家は女性/男性をステロタイプに描いている(本質化している)」という批判をしつつ、「これだから男性作家は駄目だ」という風に、批判した先の本質性に根拠に乗るというダブル・スタンダードが見られた。この「女の悪口」などは、フェミニズムのようラディカルな批評が、時代的文脈を離れてしまうと、どうしようもなく陳腐なものになってしまう一つの例ではないかと思います。
ジェンダーの構築性という場合、それはセックスっていう生物学的身体じゃなくて私たちの身体は言語=社会化された身体であるということを意味しています。うして社会的性差=ジェンダーを主張することによって何が起こったか、何を巻き起こしたかというと、社会改革であるわけですが、その背後には「頑張れば何とかなる」という一つのフィクションがあった。このフィクションの効力が弱くなってしまうと、フェミニズムの主張の効力も弱くなるのではないか。ただ、「頑張れば何とかなる」というのは、別にジェンダー問題に限った話ではないというのもまた事実で、他の領域で積極的にこの問題を掘るというのも、手としては有効だろうと思います。そうしてイーガン論へと続く下地が私の中でできていったのだと思います。
 ジェンダー・スペースのあとに来たのはサイバーパンク・ムーブメントであり、サイバーパンクSFでした。志向したのは、先の区分を用いるならば、サイバー・スペースとなります。基本的に全てがフラットになったネットワーク的、コンピューター=言語的な世界を前提としていますが、実はスペース、には、パンクという言葉がはからずも露呈しているように、抑圧や暴力、搾取というものから無縁ではない。当たり前といえば当たり前ですが、慎重になるに越したことはないと思います。それは私はウィリアム・ギブスンに顕著だと思います。
グレッグ・イーガンを私が論じるとき、ジェンダーとサイバーの後にやってきたスペースであると言うことと、ジェンダー理論以降の「頑張れば何とかなる」を批判的に検証するということという2つが主軸にあります。短編「適切な愛」では身体と母性、「祈りの海」では化学物質と信仰、「しあわせの理由」とは脳内物質と自由意志を、頑張れば本当になんとかなるのか、あるいはならないのか、考えたというのが私の論文です。イーガンのスタート地点は、当然、「なんとかなる」ですが、実は丹念に物語を追ってみると、スタート地点では明白に見えたことも、案外、そうではないぞと思えてくる。イーガン流の「ほら」から漏れ出る何か、作品自体の葛藤やためらいがあって、どうしても頑張ってもどうにもならない身体的残余とか物質的残余が結晶となって残っている。
 長編小説『順列都市』やその他の短編でも出てくるアイデアに、人間の意識を電気信号として読み取りコンピュータ上に再現できれば、人間の意識は再構築できるよ、というものがあります。『順列都市』ではこのアイデアはさらに過激に進み、意識=ソフトウェアが乗る物質的根拠となるハードディスク=コンピューターがこの宇宙に存在しなくても大丈夫だ、というところまで進んでいきます。このSF的論理の大回転を支えるイーガン的ロジックというのが秀逸で、ハードディスクにのっている101010というデータと同じものは、この瞬間、宇宙のどこかを探せば散らばっている。だからこの宇宙を巨大なハードディスクとみなしてデータを読み込めば、そこにソフトウェアを走らせることができる、というものです。これ、最初に聞くと、イーガンの語り方もありますが、なんとなくそんな気もしてくる。狐につままれたというかなんというか。このへんは小説、広い意味での物語の面白いところでもありますが。でも、よくよく考えてみればすぐに気がつくように、結局、誰が全宇宙に拡散したデータを読み取るのかがわからない。読み取る主体というのが、宇宙という物質の中に無限に溶解していって消失してしまっている。そこがイーガンの「ミソ」だと思うんです。ミスではないです、ミソです。創造的誤謬とでもいえばよい何か。
 頑張ってもどうにもならないことがあるよ、というのが私がずっと気になっていることです。身体論といえばそうなのかもしれません。身体が中心的に出てくるだけで、別に身体に限ったことでもないと思います。確かに評論で扱ったのは主に作品の中での身体ですけれど、他に例えば読者という身体でもいいですし、あるいは作者という身体でもいいですし、今までの議論を引き続いて言うならば、映画の作家性という時の作家でもよい。いずれにせよ、作家の身体がテクノロジーという新しい物質によって揺らいでいると思います。 
「グレッグ・イーガンとスパイラル・ダンスを」で私は最後にダナ・ハラウェイのサイボーグ論を引用しましたが、ダナ・ハラウェイのいうサイボーグはメタファーであって、SF小説とか漫画、映画とかで描かれるサイボーグではない点が重要なのだと思います。ハラウェイが言うのはシリコンバレーで働く黒人労働者だったりします。シリコンバレーというコンピューターの最先端のところにいる人種的にも性別的にも有標化された身体。新しいテクノロジーが現れるたびに、私たちは常に自然と人口の勢力地図を再考する(そうせざるを得ない)。この自然と人工の陣取り合戦の舞台となっているのが、シリコンバレーで働く有色人女性なのではないか、という示唆をハラウェイはしています。つまるところ、サイボーグというのは身体の境界概念が変わった時に持ちだされるメタファーであるということです。

藤田:海老原さんの問題意識と今までの論考との関係について、非常に明瞭な形で整理していただいたと思います。『順列都市』の作家、グレッグ・イーガンについて、東浩紀氏は、身体を失ってヴァーチャルの中に進んでいくというのはオタクの欲望と似ている/象徴していると述べたことも僕は重要だと思っております。非実在青年問題がこれだけ盛り上がっている今、「虚構の身体」を問題にする場合、二次元の萌えキャラの増殖の問題を無視するわけにはいかないですね。
以前、SF/評論研究会でこの問題について話したときに、キャラクターにも人権を認めて、虐待をしてはいけないと主張する方もいらっしゃって、僕は「現実世界で満たされない攻撃衝動なり性的欲動なりを昇華する装置」というフロイト的な文化・芸術観を持っていたので、いささか衝撃を受けた覚えがあります。
 そういえば、山本弘さんの『地球移動作戦』(2009 早川書房)では、明からにアイドルマスターや初音ミクの延長線上にある仮想人格に人権を与えていました。一方、同時期に出た長谷敏司さんの『あなたのための物語』(2009 早川書房)では、身体=死のない仮想人格には人権は与えられないのだという結論が出されていました。これは現代の感受性を象徴している二作品だと思います。
 イーガン的な欲望、すなわちテクノロジーによって身体を失ってデータ化してしまいたいという欲望は、ゼロ年代に流行したチャールズ・ストルスという作家にも引き継がれていると思います。「ネットにつなげばポストヒューマンになれる」などと揶揄されたりもする作家なのですが、サイバー・スペースにジャックインして肉体のない自由のユートピアにどんどん進んでいくという物語を極限まで推し進めるような作家です。自分を含めた身体をデータとして操作可能なものにしたいというのがオタクの欲望の典型だとしたら、初音ミクやアイドルマスターには、操作できない女性の身体をデータ化して操作可能にしたいという欲望を読み取ることは可能かと思います。そのような現代のオタク的状況に対する批判として僕は海老原さんの論も読めると思って、以前に僕が作っていた同人誌の「Xamoschi」に原稿依頼を差し上げたわけです(『東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦!』所収、「遠心分離機の彼方に」)。

海老原:これもまた当たり前の話で恐縮ですが、物質はなくなりませんし、物質性はどこかに見出さざるを得ません。問題は、それがどこかということにつきます。現在の批評は、この物質性の配置の仕方をめぐる問題であるといいなおすこともできるのではないでしょうか。多分、アーキテクチャという概念で社会の中身であるところの人間ではなく、社会という枠組み・環境そのものを論じるその背景には、人間の主体性というものを一度カッコに入れつつ、人間のおかれた環境の物質性に比重を置こうとする態度があるのでしょう。このような物質性への着目というのは、文学批評史に謎っていえば、様々な意匠をまとって登場した形式主義(フォルマリズム)に確認することができます。

藤田:女性をデータ化して所有したいという欲望の起源にこそ「身体性」、あるいは身体的接触を通じた母子間の愛情の問題があるのだということを問題にした作品というのは90年代にも存在していました。大岡玲さんが『表層生活』という小説を1992年に発表していますが、それは女性をテクノロジーで操作可能なものにしたいという欲望を持ってるオタク的なコンピュータ技師が主人公で、その操作をしたいという欲望の原因が母親からの愛情不足的なものに起因しているのだと傍から見ている語り手は観察できるわけです。
 その指摘は単純ながら、現在においても重要性を占めていると思う部分がいくつかあったりもします。例えば岡和田晃さんが『小松左京マガジン』第三十七巻に書かれた「21世紀の実存」で、我々が離人症的な感覚で生きてしまっているという指摘がありまして、「バーチャル」だの「ハイパーリアル」だの言っている僕にとってはこの感覚は素直に受け入れられるものです。しかし一方で、精神医学の本を読むと、離人症的感覚、例えば生きている気がしないだとか現実感覚がないというのは、身も蓋もなく「人格障害」とか「統合失調症」の症状として類型化されていて、「母親との愛情不足が原因」とか書いてあるわけですよ。僕は本当は、社会がハイパーリアル化したとか、社会構造の変化によって「離人症」的なリアリティが生じていると言いたい欲望を持っているわけですが、その欲望の根源が、単なる母親の愛情不足や生育環境レベルの問題に過ぎず、それを糊塗するために自分の批評理論、社会理論を作り上げているのではないかという疑いが常に差し挟まれてくるわけですね。
女性を操作可能なものとして扱いたいという欲望を男性は持ちやすいと思うのですが、経験上、自主製作で映画を撮る場合に、男は可愛い女の子をただ撮りたいという欲望を丸出しにしますよね。僕はそれが嫌いで、男しか出てこないで、黙々と歩いている作品とかを撮ったらすごく不評だったという黒歴史があるのですけど(笑)
 自分でも映像撮ってて思うことですが、女の子をカメラで撮るということは、女の子をデータ化するということですよね。データになってしまえば、年もとらないし、反抗もしない。好きなように操作できるわけです。僕はそういうことをやっていると誤解してほしくはないのですが、それこそ編集ソフトで切り刻んだりMADにしたりできますよね。それどころか、モンタージュのカッティング自体に暴力性のようなものが込められているように僕は感じます。
 個人的な経験からすると、カメラは男性器的な欲望を喚起させる装置ですよね。「撮影」は英語で「シューティング」と言うわけで、何か銃火器とのアナロジーで捉えられている。今は完全封印したボレックスなどのフィルム式のカメラで撮影していると、中でフィルムのコマがガタガタ流れている音は、機関銃の掃射のようにも思うのですね。ヴィリリオの『戦争と映画』によると、映像撮影の装置と軍事テクノロジーというのはほとんど手を携えて発展してきたような歴史がある。第一次世界大戦ごろでは、銃で撃つよりも、上空から映像で相手の陣営を撮影して情報を手に入れるほうが殺人の効率が上がるので、銃よりも映像のほうが効率的な殺人兵器だったという歴史もあります。ここからは散々批判されている俗流フロイト分析的なものの見方になりますが、撮影ということには、拳銃で殺害したいという欲望と、その対象を撃ち殺してデータ化して持ち帰りたいという、攻撃衝動と所有欲みたいなものの同居した複雑な状態に置かれていると思うんです。これはひょっとすると僕の個人的な問題なのかもしれませんし、誤解を招くと困るので言っておくと、ザクティ動画は音のしないデジタル撮影機で見た目も丸くて「かわいい」し、編集をあまりしないという点で、僕の本来映像撮影というものに抱いてしまう「殺害と所有」のような欲望を中和してくれる装置として使っているので、別にあの動画に写った人に僕が愛情とか憎しみを感じているわけではないとは注記しておきます。
 この問題は佐々木さんの「映像の身体、身体の映像」、あるいは作られている作品に直結する問題だと思います。『夢ばかり、眠りはない』にも、援助交際を巡る宮台真司さんの発言と、転向以後の発言を引用されていたと思います。つまり、援助交際をしている女の子は傷つかないんだ、と言っていた宮台さんから、やっぱり傷ついていた、と気がついた宮台さんの違いですね。佐々木さんは作中で明示的にその問題を扱っていて、そしてさらにそれが「映像」と「身体」を巡る表現のレベルでまで模索されていらっしゃいますね。
 援助交際している女性っていうのは自分を「可愛い」という価値観にくるむことによって現実世界を虚構だと思い、世界も自分自身も『虚構』だとしてしまうので傷つかないという風に前期宮台さんはおっしゃっていたわけですね。でも実際は援助交際を繰り返すことによって彼女たちの身体は傷つき、そのことによってメンヘル化し、壊れた脳や身体と、それを苦しむ現実は残ったわけですよね。その現実の虚構化みたいなことは出来ないんじゃないかという、宮台真司の転向以降の問題意識を佐々木さんと海老原さんも、観念的であったり理論的な立場というよりは、もっと生々しい現実の問題として引き継いでいる、あるいは意識せざるを得ないところにまで追い詰められているのではないかと僕は思います。そしてその認識は、芸術論というよりは労働や生活などの具体的な問題としてであれば、賛同せざるをえないと、僕の「ロスジェネ脳」が囁いています。
 佐々木さんの作品の描く郊外も、オタク・カルチャーの行う「美化=バーチャル化」と対比させるとより意図が明瞭になると思います。例えば新海誠さんと比較するとわかりやすいけど、新海さんの美しい映像と比べると、佐々木さんが描いている光景は同じ北関東とは思えない(笑) 郊外なんて本当は汚くて現実はすごく汚くて嫌で本当にどうしようもなくて、「バーチャルに逃げたくなる背景にある物質的環境はこれじゃねえか」っていう、告発というか、創作や受容の根底にある「未然の動機」のようなものを突きつけられる気がしたのですね。このことは公式ブログに掲載されるはずのエッセイにも書いたので、そちらも参照していただきたいのですが(「無意味な世界で、孤独で空虚な幽霊として彷徨うこと」http://yumenemuri.web.fc2.com/html/menu_04.html)。そういう身も蓋もなさの暴力性が僕はこの作品の好きなところなんです。文脈に合わせるならば、「土地」という物質性に思考も精神も魂も規定されているという即物性の感覚が非常に好ましかったです。

第三部 その2に続く