「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」(第三部 その1) | 限界小説研究会BLOG

「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」(第三部 その1)

「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」(第三部 その1)
渡邉大輔/海老原豊/佐々木友輔/藤田直哉



第三部  身体のイメージ/イメージの身体

藤田:では前の二部で、現代映画における言語ゲーム的な操作を巡る慣習の問題や作家性の問題は一通り討議できたと思います。それで、もうひとつ重要な討議の主題にしたいのは、身体についてです。最近、ゲーム的リアリズムとか、新自由主義社会のバトルロワイヤル状況を「ゲーム」と捉える言説が流行していますが、もちろんウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」はそのような遊戯的な意味ではないということは承知の上で、どうしてもゲームになりきらない身体の問題というのが浮上してきたように思います。特に、SF評論家の巽孝之氏の下で学び、身体性が残り続けるということを主題にイーガン論を書かれた海老原さんの思想は、ネットにジャックインして身体を失って離脱、みたいなサイバーパンクの夢が破れた現代の日本だからこそ重要な意義があると思うのですよね。そこで、「映像の身体、身体の映像」を主宰されている佐々木さんにもお話を伺えたらと思います。

佐々木:海老原さんのイーガン論は失礼ながら未読でして、具体的な内容に即して話すことは出来ないのですが、今藤田さんからご説明を頂いた「身体性が残り続ける」というテーマを聞いて、もしかしたら自分の作品とも接続出来る部分があるかもしれないな、と思いました。最新作『夢ばかり、眠りはない』(http://yumenemuri.web.fc2.com/)(2010)は、秋葉原の通り魔事件や郊外の風景を扱った映画なのですが、この映画の中に、「私はまるで、ボクとキミのセカイの、実写映画化のような存在だ」というような台詞があります。これはもちろん、セカイ系と呼ばれる作品群を意識したものなのですが、まずはこの映画とセカイ系との関係について説明させてください。
 僕はあまりオタク的な素養はなくて、大学3年の頃(2006年)に初めてセカイ系という言葉の存在を知ったのですが、実際にセカイ系と言われる作品をいくつか見てみると、おそろしく自分と親和性が高いことに気づきました。それは今から考えると、『セカイへの信頼を取り戻すこと』で渡邉さんが書かれていたような「《セカイ系化》した日本映画」の影響を知らず知らずに受けていたのだと思います。それこそ、先ほども挙げた『リリイ・シュシュのすべて』とかですね。ともかく、そうやってひとつのキーワードとして「セカイ系」という言葉を知った時、自分がこれまで、いかにセカイ系的な想像力を持って生きてきたかということが明らかになってしまったんです。大ざっぱに言ってしまえば、ボクとキミの問題が、世界の問題に直結してしまうというような、そういう話です(笑)。それは僕にとって、もちろんフィクションだと理解していても、同時に、とても生々しい実感であり、あるいはリアリティを感じさせるものでもありました。何か、人格形成における深い部分にセカイ系的な想像力がインストールされてしまっていて、それが現実に、自己の価値観や身体観に影響を及ぼしているように感じたのです。しかし、セカイ系の物語に登場するキャラクターのような身体を、実際には私たちは持ち合わせていない。セカイ系的な想像力によって観念としては自己の身体性がどんどん希薄になっていっても、もちろん、私が物理的に持っている身体性は残り続けるわけですから、そこで自己の身体観と生身の肉体との間に齟齬が起こります。そしてそれが進行すると今度は、私と、私が生きている社会との間に摩擦が生じます。実生活にあらゆる面で支障を来し始めるわけです。それをどうにかしたい、というのが作品制作のひとつの動機としてありました。これは先ほど違う話でも例に出したのですが、やはりこの感覚は、衣擦れとか靴擦れを起こしている時の感覚に近いです。サイズの合った服を着たい、サイズの合った靴を履きたいというのに近いニュアンスで、セカイ系的な想像力による身体観と生身の身体とが齟齬を起こさずにうまく調和するような、そんな新しい身体観を映画製作を通して考えていきたいと思っているんです。
 先ほど挙げた論文の中で渡邉さんは、「疑似ドキュメンタリー的手法はセカイ系的な想像力と極めて親和性が高い」というようなことを書かれていたと思うのですが、それを読んで僕は、続きを読むよりも先に「その通りだ!」と感動してしまったんですね。ミスリードだと申し訳ないのですが。僕は、疑似ドキュメンタリーと言えば手持ちカメラによる手ブレ映像だと思っているのですが、その撮影スタイルが、まさにセカイ系的な世界観そのものであるように思えたのです。これは、セカイ系の話でよく出てくる「ボクとキミ」という話で説明すると分かり易いかもしれません。手持ちカメラを用いて撮影をする時、「キミ」に当たる、撮るべき対象が画面の真ん中に一人居るわけです。そしてカメラを持つ「ボク」はその対象をずっと追いかけていく。本当は、追いかけるべき対象が居なくたって物理的にはカメラを回して撮影することは可能ですが、それでは何を撮って良いか分からないし、映画になりません。私たちが撮影を行う時にはやはり、何を撮りたいのかという目的と、なぜ撮りたいのかという根拠が必要だからです。そこで、「キミ」という撮るべき対象をひとつ設定することで、その対象をずっと追いかけていけるというか、その対象をずっと追いかけていくことで、他の諸要素も同時に撮影され、ひとつの画面の中に組織されていく。そうすれば、ひとつの映画を作っていくことができる。「キミ」を中心にして、世界が立ち上がってくるわけです。そもそも手持ちカメラによる手ブレ映像というのは、いくら「手ブレ」と言っても、画面全体が常にブレてしまっていたらそれが実験映画でもない限り作品として成立しないので、必ずどこかにブレていない被写体が映っていることが必要ですよね。背景がどんなにブレていても、中心に何かひとつブレていない「キミ」が映っていれば良く、その対象をずっと追いかけていくことで映画というセカイが生起してくるという発想は、すごくセカイ系的だなと思うのです(笑) 実のところ、僕はセカイ系と呼ばれるようなライトノベルやアニメをそれほど観たことがないので憶測で言うことしか出来ないのですが、奔放なヒロイン「キミ」に色んな意味で振り回されながらも見失わないように後を追いかけていく「ボク」の感覚と、動き回る被写体を何とか画面に収めようとしてカメラを回す感覚って、すごく似ているのではないかと思うんですよ。
 僕自身、以前はそんなふうにして、「キミ」に当たる被写体を設定して、それを追いかけるようにして撮るということを行ってきました。まあ、その時は別にセカイ系というようなことを意識していたわけではなく、本当に単純に、動き回る被写体を撮影するのが楽しかったし、被写体になってくれた出演者との間に生まれるコミュニケーションというか、やり取りのスリリングさに魅せられていました。けれどその後、セカイ系ということを意識し始めたり、秋葉原の通り魔事件について考えたりする中で、ちょっとずつ考え方が変わってきた。つまり、これまでの作品では出演者に「キミ」の役割を与えた上で動いてもらってそれを撮るということをやっていたので、ある意味ベタにセカイ系的な枠組みが出来上がっていたかもしれないのですが、それは実は、自分にとってだけ都合がよく、しかも予定調和なことをしているのではないか、と思うようになった。「キミ」なんてものは幻想なんじゃないかと考えてみたんです。そうして、都合よく自分を振り回してくれていた存在が消えてしまうと、案の定、映画を撮る根拠も無くなってしまった。何を撮れば良いのかよく分からなくなってしまったんです。でも、それでもやっぱり映画は撮りたいので、仕方なく、居なくなってしまった「キミ」の影をずっと追いかけるようなイメージで、映像が撮れないかと考えた。誰もいない場所にカメラを向けて、そこに撮るべき「キミ」が居ると想像しつつ撮影をしてみた。そうするとそこには、これまでは背景でしかなかった、郊外の風景だけが前面にせり出してきたんです。(http://www.youtube.com/watch?v=6bPkquVS5ns)この話は半ばフィクションで、でもある程度はノンフィクションでもあるわけですが、とにかくそういうイメージで撮っていって完成した映画が『夢ばかり、眠りはない』です。撮るべき対象を見失った時に現れてくる風景が新たな「キミ」となる映画を撮りたかったんです。
 身体の話から遠ざかってしまったかもしれませんね、自分としては身体とも密接につながっている問題について語っているつもりなのですが…。補足しておくと、この映画ではやはり身体と言うものが非常に大きな役割を果たしています。郊外の風景がただ延々と広がっていて、それをとりとめも無く延々と撮っているだけの映像は、そのままではとてもひとつの作品としてまとまらず、ただひたすら映像素材が増えていくだけです。ではそれをどうやって映画として完結させるかとなった時に、身体という有限なものが、結節点として機能するのではないかと考えています。手持ちカメラは、手持ちである以上あくまで私の身体を中心にして動き回るしかないし、居ないはずの「キミ」という被写体も、その身体をイメージしながら撮ることで、あるまとまりというか、枠組みを映画に与えてくれます。また、DVDやDVのような映画を記録するためのメディアを、ひとつの「映画の身体」として考えてみる。映画というものを、ひとつのディスクの中に入っているデータとして捉えてみるんです。視覚的なものであれば、ビデオカメラで撮影することで、どんなものでもひとつのデータにまとめて、ひとつの画面上に圧縮して、一枚のディスクに収めてしまえる。また、そのメディア自体の記録容量や、物理的な制限を利用して、映画の枠組みを決定することが出来る。このように、バラバラに拡散してしまいがちな諸要素を結びつけると言う意味で、広い意味での身体性が役に立ってくれているように思います。
 ただ、そういうことが出来るのはやはり、自分が映画という枠組みをある意味すごく素朴に信じているというか、そこに疑いを持ちつつも、一応最後のところでは信用出来ているからこそなのだと思います。だから、信用することができなくなれば、映画を撮ることも出来なくなるのかもしれませんね…。とりあえず、そんなところです。

海老原:身体、もっというと物質を考えていこうというのが、私がSFを読むときの一つのビーコンとなっています。日本SF評論賞で優秀賞をいただいた論文「グレッグ・イーガンとスパイラル・ダンスを 「適切な愛」「祈りの海」「しあわせの理由」にみる境界解体の快楽」(『S-Fマガジン』 2007年 06月号)の冒頭で簡単に紹介しましたが、SFの歴史をひも解くとSF作品が志向する「スペース」が時代によって異なっている。外宇宙(アウター・スペース)であったり、内宇宙(インナー・スペース)であったり。私は大学・大学院で批評理論を学び、けっこう念入りに勉強したものにジェンダー理論がありました。だから、フェミニストSFが志向したジェンダー・スペースにも、かなり興味があった。ジェンダー・スペースを描いたフェミニストSFが盛んだったのは、社会運動してのフェミニズム、その後におこった理論的成熟としてのジェンダー・スタディーズが盛んだった時期と重なります。SF史的には、サイバー・スペースを志向するサイバーパンクSFが登場します。で、その後に出てきたのがオーストラリア作家のグレッグ・イーガンです。修士論文でとりあげた作家はジェイムズ・ティプトリー・ジュニアという、当初は男性名で「男性にしてはラディカルな」ジェンダーを問題化したSFを書いていたが、後に女性であることが分かり、女性のフェミニスト作家としても評価されたSF作家で、ある程度ジェンダー理論を踏まえたうえで論じています。だた、ティプトリーについて考えながら、やはり私の中でどこかひっかかりがあり、それを全く別口で書いてみたのが、イーガン論です。修士論文とイーガン論は同時並行でしたが、今考えるとその意味というのは、自分の中でティプトリー‐ジェンダー理論的な問題がイーガンSFへと接続できるのだろうという考えがあってのことなのだと思います。当時は、はっきりとは分かっていませんでしたが。
 つまるところフェミニストSFというのは、ジェンダー構築主義もそうですけれど、「頑張れば何とかなる」という話だと思います。男の子として産まれたけど頑張って女の子として振舞えば女の子になる。ジェンダーは社会的構築物であり言語的慣習にのっとったパフォーマンスであるという現状分析と、だからこそラディカルに約束事を書き換えていこうという社会提言および運動。この二つがあわさった社会思想/実践としてのフェミニズムの社会的意義は必要性はよく理解していますし、その後に起こった社会改革も大切なものであると思いますが、時代的文脈を取り除いてしまうと、フェミニズムがその理論的根拠として主軸を置いた社会構築性というのは、非常に危ういものです。生物学的本質主義の対抗概念として持ち出された社会構築主義ですが、考えてみればすぐにわかるようにジェンダーにしろ人種にしろAからBへの移行あるいはパッシングを可能にするのは、AやBを規定する本質的な要素です。散々「○×という作家は女性/男性をステロタイプに描いている(本質化している)」という批判をしつつ、「これだから男性作家は駄目だ」という風に、批判した先の本質性に根拠に乗るというダブル・スタンダードが見られた。この「女の悪口」などは、フェミニズムのようラディカルな批評が、時代的文脈を離れてしまうと、どうしようもなく陳腐なものになってしまう一つの例ではないかと思います。
ジェンダーの構築性という場合、それはセックスっていう生物学的身体じゃなくて私たちの身体は言語=社会化された身体であるということを意味しています。うして社会的性差=ジェンダーを主張することによって何が起こったか、何を巻き起こしたかというと、社会改革であるわけですが、その背後には「頑張れば何とかなる」という一つのフィクションがあった。このフィクションの効力が弱くなってしまうと、フェミニズムの主張の効力も弱くなるのではないか。ただ、「頑張れば何とかなる」というのは、別にジェンダー問題に限った話ではないというのもまた事実で、他の領域で積極的にこの問題を掘るというのも、手としては有効だろうと思います。そうしてイーガン論へと続く下地が私の中でできていったのだと思います。
 ジェンダー・スペースのあとに来たのはサイバーパンク・ムーブメントであり、サイバーパンクSFでした。志向したのは、先の区分を用いるならば、サイバー・スペースとなります。基本的に全てがフラットになったネットワーク的、コンピューター=言語的な世界を前提としていますが、実はスペース、には、パンクという言葉がはからずも露呈しているように、抑圧や暴力、搾取というものから無縁ではない。当たり前といえば当たり前ですが、慎重になるに越したことはないと思います。それは私はウィリアム・ギブスンに顕著だと思います。
グレッグ・イーガンを私が論じるとき、ジェンダーとサイバーの後にやってきたスペースであると言うことと、ジェンダー理論以降の「頑張れば何とかなる」を批判的に検証するということという2つが主軸にあります。短編「適切な愛」では身体と母性、「祈りの海」では化学物質と信仰、「しあわせの理由」とは脳内物質と自由意志を、頑張れば本当になんとかなるのか、あるいはならないのか、考えたというのが私の論文です。イーガンのスタート地点は、当然、「なんとかなる」ですが、実は丹念に物語を追ってみると、スタート地点では明白に見えたことも、案外、そうではないぞと思えてくる。イーガン流の「ほら」から漏れ出る何か、作品自体の葛藤やためらいがあって、どうしても頑張ってもどうにもならない身体的残余とか物質的残余が結晶となって残っている。
 長編小説『順列都市』やその他の短編でも出てくるアイデアに、人間の意識を電気信号として読み取りコンピュータ上に再現できれば、人間の意識は再構築できるよ、というものがあります。『順列都市』ではこのアイデアはさらに過激に進み、意識=ソフトウェアが乗る物質的根拠となるハードディスク=コンピューターがこの宇宙に存在しなくても大丈夫だ、というところまで進んでいきます。このSF的論理の大回転を支えるイーガン的ロジックというのが秀逸で、ハードディスクにのっている101010というデータと同じものは、この瞬間、宇宙のどこかを探せば散らばっている。だからこの宇宙を巨大なハードディスクとみなしてデータを読み込めば、そこにソフトウェアを走らせることができる、というものです。これ、最初に聞くと、イーガンの語り方もありますが、なんとなくそんな気もしてくる。狐につままれたというかなんというか。このへんは小説、広い意味での物語の面白いところでもありますが。でも、よくよく考えてみればすぐに気がつくように、結局、誰が全宇宙に拡散したデータを読み取るのかがわからない。読み取る主体というのが、宇宙という物質の中に無限に溶解していって消失してしまっている。そこがイーガンの「ミソ」だと思うんです。ミスではないです、ミソです。創造的誤謬とでもいえばよい何か。
 頑張ってもどうにもならないことがあるよ、というのが私がずっと気になっていることです。身体論といえばそうなのかもしれません。身体が中心的に出てくるだけで、別に身体に限ったことでもないと思います。確かに評論で扱ったのは主に作品の中での身体ですけれど、他に例えば読者という身体でもいいですし、あるいは作者という身体でもいいですし、今までの議論を引き続いて言うならば、映画の作家性という時の作家でもよい。いずれにせよ、作家の身体がテクノロジーという新しい物質によって揺らいでいると思います。 
「グレッグ・イーガンとスパイラル・ダンスを」で私は最後にダナ・ハラウェイのサイボーグ論を引用しましたが、ダナ・ハラウェイのいうサイボーグはメタファーであって、SF小説とか漫画、映画とかで描かれるサイボーグではない点が重要なのだと思います。ハラウェイが言うのはシリコンバレーで働く黒人労働者だったりします。シリコンバレーというコンピューターの最先端のところにいる人種的にも性別的にも有標化された身体。新しいテクノロジーが現れるたびに、私たちは常に自然と人口の勢力地図を再考する(そうせざるを得ない)。この自然と人工の陣取り合戦の舞台となっているのが、シリコンバレーで働く有色人女性なのではないか、という示唆をハラウェイはしています。つまるところ、サイボーグというのは身体の境界概念が変わった時に持ちだされるメタファーであるということです。

藤田:海老原さんの問題意識と今までの論考との関係について、非常に明瞭な形で整理していただいたと思います。『順列都市』の作家、グレッグ・イーガンについて、東浩紀氏は、身体を失ってヴァーチャルの中に進んでいくというのはオタクの欲望と似ている/象徴していると述べたことも僕は重要だと思っております。非実在青年問題がこれだけ盛り上がっている今、「虚構の身体」を問題にする場合、二次元の萌えキャラの増殖の問題を無視するわけにはいかないですね。
以前、SF/評論研究会でこの問題について話したときに、キャラクターにも人権を認めて、虐待をしてはいけないと主張する方もいらっしゃって、僕は「現実世界で満たされない攻撃衝動なり性的欲動なりを昇華する装置」というフロイト的な文化・芸術観を持っていたので、いささか衝撃を受けた覚えがあります。
 そういえば、山本弘さんの『地球移動作戦』(2009 早川書房)では、明からにアイドルマスターや初音ミクの延長線上にある仮想人格に人権を与えていました。一方、同時期に出た長谷敏司さんの『あなたのための物語』(2009 早川書房)では、身体=死のない仮想人格には人権は与えられないのだという結論が出されていました。これは現代の感受性を象徴している二作品だと思います。
 イーガン的な欲望、すなわちテクノロジーによって身体を失ってデータ化してしまいたいという欲望は、ゼロ年代に流行したチャールズ・ストルスという作家にも引き継がれていると思います。「ネットにつなげばポストヒューマンになれる」などと揶揄されたりもする作家なのですが、サイバー・スペースにジャックインして肉体のない自由のユートピアにどんどん進んでいくという物語を極限まで推し進めるような作家です。自分を含めた身体をデータとして操作可能なものにしたいというのがオタクの欲望の典型だとしたら、初音ミクやアイドルマスターには、操作できない女性の身体をデータ化して操作可能にしたいという欲望を読み取ることは可能かと思います。そのような現代のオタク的状況に対する批判として僕は海老原さんの論も読めると思って、以前に僕が作っていた同人誌の「Xamoschi」に原稿依頼を差し上げたわけです(『東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦!』所収、「遠心分離機の彼方に」)。

海老原:これもまた当たり前の話で恐縮ですが、物質はなくなりませんし、物質性はどこかに見出さざるを得ません。問題は、それがどこかということにつきます。現在の批評は、この物質性の配置の仕方をめぐる問題であるといいなおすこともできるのではないでしょうか。多分、アーキテクチャという概念で社会の中身であるところの人間ではなく、社会という枠組み・環境そのものを論じるその背景には、人間の主体性というものを一度カッコに入れつつ、人間のおかれた環境の物質性に比重を置こうとする態度があるのでしょう。このような物質性への着目というのは、文学批評史に謎っていえば、様々な意匠をまとって登場した形式主義(フォルマリズム)に確認することができます。

藤田:女性をデータ化して所有したいという欲望の起源にこそ「身体性」、あるいは身体的接触を通じた母子間の愛情の問題があるのだということを問題にした作品というのは90年代にも存在していました。大岡玲さんが『表層生活』という小説を1992年に発表していますが、それは女性をテクノロジーで操作可能なものにしたいという欲望を持ってるオタク的なコンピュータ技師が主人公で、その操作をしたいという欲望の原因が母親からの愛情不足的なものに起因しているのだと傍から見ている語り手は観察できるわけです。
 その指摘は単純ながら、現在においても重要性を占めていると思う部分がいくつかあったりもします。例えば岡和田晃さんが『小松左京マガジン』第三十七巻に書かれた「21世紀の実存」で、我々が離人症的な感覚で生きてしまっているという指摘がありまして、「バーチャル」だの「ハイパーリアル」だの言っている僕にとってはこの感覚は素直に受け入れられるものです。しかし一方で、精神医学の本を読むと、離人症的感覚、例えば生きている気がしないだとか現実感覚がないというのは、身も蓋もなく「人格障害」とか「統合失調症」の症状として類型化されていて、「母親との愛情不足が原因」とか書いてあるわけですよ。僕は本当は、社会がハイパーリアル化したとか、社会構造の変化によって「離人症」的なリアリティが生じていると言いたい欲望を持っているわけですが、その欲望の根源が、単なる母親の愛情不足や生育環境レベルの問題に過ぎず、それを糊塗するために自分の批評理論、社会理論を作り上げているのではないかという疑いが常に差し挟まれてくるわけですね。
女性を操作可能なものとして扱いたいという欲望を男性は持ちやすいと思うのですが、経験上、自主製作で映画を撮る場合に、男は可愛い女の子をただ撮りたいという欲望を丸出しにしますよね。僕はそれが嫌いで、男しか出てこないで、黙々と歩いている作品とかを撮ったらすごく不評だったという黒歴史があるのですけど(笑)
 自分でも映像撮ってて思うことですが、女の子をカメラで撮るということは、女の子をデータ化するということですよね。データになってしまえば、年もとらないし、反抗もしない。好きなように操作できるわけです。僕はそういうことをやっていると誤解してほしくはないのですが、それこそ編集ソフトで切り刻んだりMADにしたりできますよね。それどころか、モンタージュのカッティング自体に暴力性のようなものが込められているように僕は感じます。
 個人的な経験からすると、カメラは男性器的な欲望を喚起させる装置ですよね。「撮影」は英語で「シューティング」と言うわけで、何か銃火器とのアナロジーで捉えられている。今は完全封印したボレックスなどのフィルム式のカメラで撮影していると、中でフィルムのコマがガタガタ流れている音は、機関銃の掃射のようにも思うのですね。ヴィリリオの『戦争と映画』によると、映像撮影の装置と軍事テクノロジーというのはほとんど手を携えて発展してきたような歴史がある。第一次世界大戦ごろでは、銃で撃つよりも、上空から映像で相手の陣営を撮影して情報を手に入れるほうが殺人の効率が上がるので、銃よりも映像のほうが効率的な殺人兵器だったという歴史もあります。ここからは散々批判されている俗流フロイト分析的なものの見方になりますが、撮影ということには、拳銃で殺害したいという欲望と、その対象を撃ち殺してデータ化して持ち帰りたいという、攻撃衝動と所有欲みたいなものの同居した複雑な状態に置かれていると思うんです。これはひょっとすると僕の個人的な問題なのかもしれませんし、誤解を招くと困るので言っておくと、ザクティ動画は音のしないデジタル撮影機で見た目も丸くて「かわいい」し、編集をあまりしないという点で、僕の本来映像撮影というものに抱いてしまう「殺害と所有」のような欲望を中和してくれる装置として使っているので、別にあの動画に写った人に僕が愛情とか憎しみを感じているわけではないとは注記しておきます。
 この問題は佐々木さんの「映像の身体、身体の映像」、あるいは作られている作品に直結する問題だと思います。『夢ばかり、眠りはない』にも、援助交際を巡る宮台真司さんの発言と、転向以後の発言を引用されていたと思います。つまり、援助交際をしている女の子は傷つかないんだ、と言っていた宮台さんから、やっぱり傷ついていた、と気がついた宮台さんの違いですね。佐々木さんは作中で明示的にその問題を扱っていて、そしてさらにそれが「映像」と「身体」を巡る表現のレベルでまで模索されていらっしゃいますね。
 援助交際している女性っていうのは自分を「可愛い」という価値観にくるむことによって現実世界を虚構だと思い、世界も自分自身も『虚構』だとしてしまうので傷つかないという風に前期宮台さんはおっしゃっていたわけですね。でも実際は援助交際を繰り返すことによって彼女たちの身体は傷つき、そのことによってメンヘル化し、壊れた脳や身体と、それを苦しむ現実は残ったわけですよね。その現実の虚構化みたいなことは出来ないんじゃないかという、宮台真司の転向以降の問題意識を佐々木さんと海老原さんも、観念的であったり理論的な立場というよりは、もっと生々しい現実の問題として引き継いでいる、あるいは意識せざるを得ないところにまで追い詰められているのではないかと僕は思います。そしてその認識は、芸術論というよりは労働や生活などの具体的な問題としてであれば、賛同せざるをえないと、僕の「ロスジェネ脳」が囁いています。
 佐々木さんの作品の描く郊外も、オタク・カルチャーの行う「美化=バーチャル化」と対比させるとより意図が明瞭になると思います。例えば新海誠さんと比較するとわかりやすいけど、新海さんの美しい映像と比べると、佐々木さんが描いている光景は同じ北関東とは思えない(笑) 郊外なんて本当は汚くて現実はすごく汚くて嫌で本当にどうしようもなくて、「バーチャルに逃げたくなる背景にある物質的環境はこれじゃねえか」っていう、告発というか、創作や受容の根底にある「未然の動機」のようなものを突きつけられる気がしたのですね。このことは公式ブログに掲載されるはずのエッセイにも書いたので、そちらも参照していただきたいのですが(「無意味な世界で、孤独で空虚な幽霊として彷徨うこと」http://yumenemuri.web.fc2.com/html/menu_04.html)。そういう身も蓋もなさの暴力性が僕はこの作品の好きなところなんです。文脈に合わせるならば、「土地」という物質性に思考も精神も魂も規定されているという即物性の感覚が非常に好ましかったです。

第三部 その2に続く