2010-05-22 01:45:05

「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」(第二部)

テーマ:(Un)Limited Review
「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」(第二部)
渡邉大輔/海老原豊/佐々木友輔/藤田直哉




第二部 創造の生成/生成の創造

渡邉:続いて、「慣習」という言葉についてですが、拙論をお読みになった方はお気づきのように、僕の場合は、かつて英米系言語哲学が定式化した「規約」と訳されている概念などと接続させて扱っているので、ごく一般的な意味での用法とは微妙にずれがあるのです。このへんは、お二人の見解も参考にしながら、これからもっと詰めて考えていきます。
 ともあれ、僕は、最近こんなことを考えています。例えば、一般的に、「作品」とか「表現」というのは、既存の「慣習」のネットワークこそを揺るがし、創造的な差異をもたらす営為であると考えられていますね。それで行くと、慣習に依拠した作品作りという僕の主張は、あまりに……有り体に言えばつまらないのではないか(笑)と思われるのでしょう。
もちろん、現実に存在する優れた作家とはCGMの大海に蠢く有象無象の「作家」たちとは明らかに異なるでしょう。そして、そうした作家たちは凡庸なジャンルの「慣習」こそを内破していく存在だとも思います。
 しかし、そうした「差異」というか「オリジナリティ」にしても、少し逆説めきますが、むしろ慣習の生態系に浸りきることによってこそ生まれるとは考えられないでしょうか。事実、何度も繰り返すように、映画というジャンルはそういう「慣習」の力こそをポジティヴフィードバックに繰り込んで発展してきたジャンルです。例えば、50年代アメリカの無数の「フィルム・ノワール」の歴史を考えてみればいい。フィルム・ノワールはまさに古典的ハリウッドから現代ハリウッドの表象システムの重要な結節点となった映画史上特筆すべきジャンルであり、無数の巨匠や傑作を生み出したわけですが、それらの作品の中には、既成作品のテーマやプロット、さらには(予算的な関係で)違う作品のフッテージを平気で流用して作られた作品が多く存在するわけですね。つまり、そこでは「作家性」と「慣習」の区別は非常に曖昧です。言ってみれば、「慣習」がある種の「作家性」を擬態し、逆に「作家」の企図が「慣習」に寄生するというような癒着が露骨に顕在化している。
 あるいは、僕は以前、『オトシモノ』(2006)や黒沢清作品の脚本を担当したことで知られる若手映画監督の古澤健さんに非公式な場でインタビューしたことがあるのですが、そこで彼が言っていたことが非常に印象に残っています。そこで古澤さんは「自分は「映画作家」という言い方にすごく違和感を感じる」というようなことを言っていました。古澤さんによれば、実際に映画を撮っている時というのは、当初の脚本段階で自分が想定していたものとは全然違うものができてしまうと。それは例えば天候の変化やスタッフ・キャストのスケジュール上の問題、撮影過程での急遽の変更など、いろんな要因があるのでしょうが、とにかく、実際に完成した作品というのは当初の予定の1割も反映していないことがあるというんですね。だから、自分は全然「作家」などではない、という意味のことを言っていたんです。むろん、これはどんな作品作りにも言えると言えば言える。しかし、通常の映画作りはその幅がとてつもなく大きいということは言えるのではないか。例えば、僕の考えでは、ハリウッドの「ディレクター・システム」とか、あるいは、フランスの「カメラ万年筆論」からヌーヴェル・ヴァーグの「作家政策」にいたる言説というのは、そうした映画における近代的な「作家」概念の曖昧さを意図的に抑圧するようなイデオロギーとして出てきたのではないか、という気すらしますね。
 ただ、ここには文字通りの「作家」としての佐々木さんもいるので誤解のないようにまた言い添えておくと(笑)、僕が言っているある種の「作家性」が「慣習的」なシステムの挙動と区別がつかなってくるという話は、あくまでも僕たちの文化的な信憑性、ようは「リアリティ」のレヴェルの話であって、現実の作家の活動とは区別するべきです。端的に議論のレイヤーが違いますので。それは例えば、有名なベンヤミンの「アウラの消失」の議論を例に出すと分かりやすいでしょうか。あのベンヤミンの議論は、よく写真や映画といった複製芸術作品からは近代的な一回性=「アウラ」が消失している、というふうに紹介されることがあるけれども、それは読み間違いですよね。「複製技術時代の芸術作品」を丁寧に読めば分かるように、ベンヤミンは複製芸術が僕たちの「知覚」の編制を変えたことによって、「アウラ」が消えたように見えてくる、と言っているのです。僕が言っているのは、このベンヤミンが言っているのと同じことです。現実に、「作家」や「作家性」の行為が消失するわけないじゃないですか(笑)。
 では、せっかくなので――急に振って申し訳ないんだけど(笑)、ここで佐々木さんに今までの議論を受けて何か喋っていただきましょうか。「擬似ドキュメンタリー的」なフィルムをある種戦略的に撮られている作家として、佐々木さんは、現代映像作家における「作家性」といったものについて、何か考えるところはありますか?

佐々木:すごく難しい質問ですね。うまく答えられるか分かりませんが、もしかしたら答えの糸口を掴むきっかけになるかもしれないので、とりあえずまず僕の映画製作の動機を説明させていただきます。僕は中学2年の時に実験映像作家の小池照男氏に師事して、本格的に映像制作を学び始めました。当時、普通に全国劇場公開される映画を撮りたいと思っていた自分にとって、テレビのノイズのようなものが延々と流れ続けたりする実験映画との出会いは衝撃的だったわけですが、それは案外すぐに受け入れることが出来た。むしろ、映画というものの幅が広がったように思えたんですね。自分でも映画監督になれる、映像作家になれる、と、これまで夢に過ぎなかったものが、現実に手が届く所に来た感じがしたんです。また、ほぼ同じ頃に『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』が公開された。非常に大きな勘違いも含んでいたとは思いますが、低予算で撮られて大ヒットしたこの映画を見て、自分も映画を撮れるという思いはますます強くなった。あるいは『リリイ・シュシュのすべて』とか。そういった映画を観て僕は、ハンディカム一台あれば映画が撮れるんだ!と狂喜乱舞したんですね。そして、実際にハンディカムで色々と身近なものを撮りまくった。編集に関しても、その頃はまだ自宅のパソコンで快適に映像編集作業が出来るほどの環境は整っていなかったと思いますが、iMacで映像編集が自由自在、みたいなCMを見たり噂を聞いたりして、「誰でも映画監督になれる」、そして「全てが映画に成り得る」状況が近い将来やって来るのだという期待はどんどん高まっていったわけです。それは、自分にとってある種のユートピアでしたし、今でも映画製作における前提条件のようなものになっている。特定の映画や映画監督に感化されて映画産業に憧れたと言うよりは、今自分は映画を制作しているのだという思いと共に、ハンディカムを持って町に出かけていって撮影することそのものが、自分の映画体験の核にあるような気がするんです。だから、渡邉さんの「映像圏」についての論文を読ませて頂いた時、自分の映画体験、映像体験ととても近いところの問題を扱っている人が居たと思い、正直感激しました(笑)。僕が勉強不足なだけかもしれませんが、このような問題意識から映画について語っている人は、これまで殆ど見たことがなかったんです。
 しかし、当時の僕が思い描いていたユートピアは結局やって来なかった。いや、そのような状況がやって来なかったというわけではなく、やって来たのですが、自分が思っていたものとは違っていたんです。確かに誰でも映像撮影や編集は手軽に出来るようになったけれど、そうやって作られた映画の多くは、予算を掛けたハリウッド映画などの劣化コピーにしか見えなかった。新しい映画のかたちは、思ったより増えなかった。映画製作の環境は大きく変わったけれど、実際に作られている映画そのものは、あまり変化していないように思ったんですね。可能性は広がっているはずなのに、作家がその可能性を殆ど生かせていないというか、これまでの「映画」というものに縛られて過ぎているように見えた。それは自分自身の作品制作についても同じで、実際に撮影をしてみると、どんなものでも撮っているつもりでいても、自分が意識していないところで、実は撮っていないものや撮れていないものがある。無意識的に、「映画」的な被写体を選択して撮っているわけです。また、「映画」的ではないと思われるものを敢えて撮ってみても、その素材を編集してみると、ショットとショットがつながって見えなかったりする。少し限定的な話になり過ぎたかもしれませんが、僕はこうした体験から、映画を映画足らしめる別の枠組みがあるのではないかと思い始めたんです。それが今日の議論で出て来ている「慣習」ということなのでしょう。そして、映像を巡る状況がこれだけ変化しても、映画を映画として成立させる慣習というもの自体は、実はほとんど変化していないのではないかと思った。それは程度問題かもしれませんが、僕個人としては、そのことをとても不自由に感じたというか、物足りなく感じたんですね。
 具体的な話をすると、昨年制作した『彁 ghosts』が、こうした問題意識が前面に出た例として挙げられるかと思います。この映画では、事前に脚本を用意していません。私が2005年頃から毎日撮りためている[映像日記](http://www.geocities.jp/qspds996/diary/movie.html)を素材として、それらをつなげたり切り離したりしてこね回しているうちに、何となく物語の輪郭が見えてくる。その見えて来た物語を補強するために追加撮影を行い、新たに加えた映像素材から、また新たな物語が生まれてくる…といったことを繰り返しながら、ひとつの映画を立ち上げるという試みです。しかし先ほども言いましたが、「映画」的でない映像素材を用いようとしても、それぞれのショットがうまく接合してくれない。映画としてつながって見えません。作者である自分にしか見えていない物語を観客にも伝えるための工夫、そしてバラバラの映像素材をひとつの映画としてまとめるための工夫が必要です。そこで考えたのは、慣習というか映画のお約束を、最大限に利用しつつも、そのルールを緩和することです。普通、映画においてショットとショットがつながって見えるためには、同じ役者、同じ衣装、同じ場所を撮っている必要がありますね。他にも、季節が同じだとか、雨が降っているとか、あるいはホワイトバランスが合っているとか。しかし『彁 ghosts』では、それぞれのショットに似た色の服を着た人間が映っているとか、画面中を移動する被写体の運動の向きが同じであるとか、そういう、映画文法的につなげられる要素がひとつでもあれば、他の要素には全く関連性がなくても、ショットとショットをつなげても良いというルールを設けました。例えば、異なる日、異なる時間、異なる場所で撮影した素材でも、画面上に同じ人物が映っていれば、他の違いは無視してつないでしまう。次のショットに移ると突然朝から昼になっていたりしても構わない、と。そのように、映画としての体裁を保てるギリギリのところまでルールを緩和しつつ、一点だけの結びつきでショットをつないでいく。そうすることで、映画としては扱いにくいものを、なるべくそのままのかたちで、なるべく多く、映画の中に取り込んでいけないかということを考えたんです。
 この映画に関して重要なことは、これがあくまで「映画」であることです。観客が最初から最後まで見終わった時に、ああ映画を観た、と感じることが大事なのです。あくまで映画という枠組みは守りつつ、最大限まで「映画」に可能なことを追求したかった。言葉のニュアンスだけの違いかもしれませんが、僕は、慣習を撹乱したいと思ったことはあまりないんです。そういう挑発的な意図は元々あまり持っていません。ただ、こんなものが映画になってしまうのか!とか、なぜこんな魅力的なものが映画にはならないのか…とか、そういう違和感をずっと感じてきて、その衣擦れの感覚をどうにかしたいと思っていたんです。寒いし、慣習という衣服を脱ぎ捨てたいとは思わないけれど、ちょっとサイズが小さすぎてきついな、どうにかしたいなと、その程度の気持ちです。映像を巡る環境がどんどん変化していくのに対して、所謂「映画」はその変化のスピードに付いていけていない。だから、慣習を撹乱するというよりは、慣習の幅を広げるという方がしっくりきます。これも映画です、あれも映画になります、とひとつずつ指し示していくことで、慣習の幅を広げて豊かにしていくことで、当初に思い描いたユートピアとしての「全てが映画になり得る」状況に近づいていけるのではないか、と。そういうわけで、映画がもっと多様な可能性に開かれていくための映画をつくろうとして制作を始めたのが『彁 ghosts』という作品でした。そういう試みが自分の「作家性」として認知されるのかはあまりよく分からないし、むしろそういう前提条件を作った上で、初めて作りたい映画をつくるためのスタート地点に立てるのかもしれない。…あまり答えになってないかもしれませんね。申し訳ないです。

渡邉:いや、佐々木さんの作家としてのスタンスが伺えて、とても興味深いですね。そして、ご自身の製作体験に引きつけながら僕の議論を好意的に引き取ってくださってありがとうございます。もちろん、僕も佐々木さんほどの巧緻な作家の言葉をすべて真に受けるほどうぶではありませんが(笑)、いまのお話は大いに示唆的でしたし、僕の考えていることとも非常に近いように思います。
 佐々木さんのこれまでのお仕事でいうと、例えば、初期作品の『手紙』なんかはむしろ漫然とカメラを回しているという感じが強いんだけど――そして、僕はこの作品がとても好きなんですが(笑)――、対して、『夢ばかり、眠りはない』は、かなり意識的にいま言われたような、映画的「慣習」の幅を緩ませつつ、そこに新たな規則性をインストールしていくという作業を展開されている気がする。
 とにかく、おそらく実作者の方は僕の議論に実感として少なからず違和感を覚えると思うのですね。ただ、いずれにせよこれだけは言えると思います。現代における「作家性」(創造性)の問題は複数のレイヤーで考えなければならないということですね。東浩紀さん的に言えば、作家の「実存」(企図)の問題と「システム」の問題は分けて議論しなければならない。今日、「作家」という存在がいろんな意味で複数のコミュニティを結びつけるコミュニケーションメディアの一つとして活発に機能している以上、そこに付随する複雑性はなるべく個々の問題に即してモジュール化して――ハーバート・サイモン的に言えばdiscomposableに扱わなければならない。ただ、すぐに前言を翻すようですが、それこそ佐々木さんのテクストを観れば分かるように、この二つのレイヤーは相互に還流してもいる(笑)。例えば佐々木さんが主体的に世界を映像で「切り取る」際の「映画的」な文法も「慣習」です。そして、現代においてはその慣習が極度に拡散していることは疑いえない。そこが難しいところであり、興味深いところではないでしょうか……。
 まあ、それと当り前の話ですけど、僕だってテクストを生産している以上、れっきとした「作家」なわけですよ(笑)。むしろ、僕は個人的な実感では、小説を書くように批評を書いていると言ってもいいくらいです。で、ここ何年かそうやって活動してきて実感したのは、確かに、作家の生身の営為をすべてシステム合理性のレヴェルに還元して観測することは誤りですし、映像圏とはそういうことを主張しているのではない。しかし、かと言って、必要以上にロマン主義的に捉えるべきでもない。例えば、「作家とは自国語の中で外国語を話す人間のことだ」というプルーストの言葉があるでしょう。僕は10代の時には、あの言葉を非常にロマンティックに捉えていたし、作家という存在も神秘的なものとして考えていた。しかし、いざ批評家としてデビューしてみて、それなりに仕事をこなしてきていると、何のことはない、結構、締切に間に合わすために他人のアイディアを分からないように加工してサンプリングしたり、昔書いた習作の文章をコピペして再利用したり、途中で全然違う論旨に進んで行ったり……そんなことばかりなわけですよ(笑)。それは、ある種ウェブの「集合知」とそんなに変わりがない。それはいうまでもなく、テクストが「物質的」な存在だからです。したがって、僕は「作家性」を過度にロマン主義的に捉えるのにも慎重でありたいと思います。

藤田:僕はそんな中でまた反動的に「作家性」を擁護したいんだけど(笑)。僕が作家性を擁護する理由というのは渡邉さんがおっしゃるような実存とロマンティックな概念とはあまり関係がないんですね。作家がものを作るとき、既にあるものやメディアと応答しながら相互に連携しあって何かを作るというのはプレモダンだろうとモダンだろうとポストモダンだろうと変わらないと思います。そして近代の「作家」概念が、ロマン主義的な、「個人の擁護」「個性の尊重」「天才」などの思想に支えられていたことも確かだと思います。それはある種の偽装ですね。映画の製作に関わる人はいっぱいいるのに、なぜか監督だけが代表者面する。それは確かに偽装というか、複雑性の縮減的な部分があると思います。
 しかし、近代における「作家」概念にはロマン主義的なものだけではなく、笠井潔さんが「純文学論争」の際におっしゃっていたように、「労働者(labor)としての作家」というものもあったわけですよね。新聞連載にせきたてられて、原稿料を稼ぐために書いていたドストエフスキーは、「文学」であり「作家」だとされています。笠井さんと個人的にお話している際に、笠井さんは、ヴァレリーの「詩はダンスだ」を引いて、「小説は歩き続けることだ」というようなことをおっしゃっていたと思います。それは労働なんですね。その「作家」というのは新聞というメディアの再編の際に生じてきた、いわば「原稿料を払う相手」としての作家であり、労働者としての作家です。僕が擁護しているのはこの作家であり、苦労してものを考えたり、新刊を追ったり、文化の動向を追ったりしてコストをかけて、パッチワークする材料を集めたりしていろいろと考える、この作家です。その努力を作家が行っており、その結果が作品の質に反映されている限り、「作家」という単位を認めて原稿料の帰属先だという風にしておくほうが、脳の報酬系への作用なり、作家の生存なりを考えた上で、トータルに文化をよくしてくれるだろうと思うから擁護するわけです。たとえば「作家性」が消えてなくなって、まったく誰にもお金を払ったり名誉(象徴資本)を与えたりしなくても、質の高い「作品」が生まれ続けるのであれば、僕はそれでもかまわないんです。今はメディアの再編期なので、僕はなるべく「優れた物を作っている人にお金がいくようにしておきたい」と思って作家性を擁護しているわけです。そのほうが僕が「いい作品」に出会える確率が上がるだろうという、自己中心的で唯美的な動機に支えられた上でこの論法を貼っているので、かなり捩れてはいるのですが(笑)。芸術労働論とでも言うべきでしょうか、作家がいい作品を作り、消費者としての自分が美的なものを享受できる労働とインフラの環境整備というのは言いすぎですが、そのような関心が常に僕にはあります。多分、貧乏しながら演劇をしたり文章を書いたりしている友人と多く関わってきた経験が僕をこうさせているのだろうと思います。
 それに関連して、「誰でも映像作家になれる」問題についてですが、そうすると爆発的に「作品」が増えるので、有限の時間の中で如何に効率よく面白い作品に出会っていくか、みたいな問題が現実的に生じますよね。そうすると、「誰でも映像作家になれる」のだが、「映像作家として人々に認められる」人とそうでない人が現れてしまい、この違いが今度は前景化してくるのだと思います。
 ネットを見ていてたまに疑問に思います。小説と名乗ってネットに発表したらそれは全部小説で、ネットに発表した人は小説家ということになるのだろうか。『電車男』(2004 新潮社)が出た後に、あれが小説だとしたら2ちゃんねるの書き込みも全部小説だって事になってしまい、そうするとネットの書き込みは全て作品であるという状態になってしまうのではないかと考えたことがあります。でも、『電車男』は、新潮社が本の形にして出版したということが「小説」であるということを身も蓋もなく保証していたわけですよね。しかしその保証に根拠があるかといえば、別にないわけですよね。ケータイ小説とか、ネットの文字も「文学」だとなりつつある今、相対化がどんどん始まったら「面白い文学」か「面白くない文学」かというまた別の価値判断の基準が現れるのだと思います。読む側や観る側、受容する側としては全部文学だと考えても伝統や制度の問題を抜きにすれば別に構わない。しかし、やっぱり作り手側として考えざるを得ないのは、みんなが作家になれるとして、つまんないものを作ると埋もれるから、突出した人だけが作家と呼ばれるという風に変わるのが現実的な落とし所になってしまうのではないかと思います。

海老原:作家という場合、具体的な一個人の物質的身体を持った作家を意味している場合と、意味を支える唯一の最終審級としての視点としての作家を意味している場合と両方あると思います。今までの常識であれば前者と後者が分離していることはなかった。あるいは、ないと信じられていた。ただ、今までここで議論してきたように、新しいテクノロジーの登場によって被った作る方/見る方の関係性の変容や、日常空間の物理的変化を考えると、両者の関係は今までほど自明ではない。ズレが生じている。ただ、私の立場を言うと、ズレはあるが決して作家性はなくならないでしょう。当たり前ですね。なくなったかのように感じるのは、あくまでズレがそう感じさせているだけです。
何か何かが並んだ時にその背後にそれを並べた者とその意図を、私たちは想像します。想像することによって本来並ぶべきではないものが並んでいることの意図を感じ、そこから意味を生み出します。映像の場合、確実に切って貼って切って貼ってするわけですから、切って貼っている人が誰か想像します。その時の対象として呼び出されるのが、作家性を付与された、それでもなお抽象的な存在である、作家です。この作家が具体的な一個の身体をもった人間でなければならない必然性はない。今までの常識からそうであるだろという強い推量は働いていますが。でもこれは、作家性の解体であるとか、作家なんて存在しないなんていうことを意味していません。
 一般的に映像作家というと、作家って言葉の使い方からも判るように、文学の、もっといえば小説の作家からの意味拡張であることが分かります。小説というのは小説家という一人の人間によって書かれているという約束事があるので、その意味拡張として、映像についても映像を切って貼っている人はひとりであるっていうことになっているんですが、別に10人で切って貼ってもいいわけですよね。でも、いちいち10人全てを想像して、10人でのやり取りとか喧嘩とかその和解とかを想像するのは、面倒くさいし、目の前の作品から意味を取り出すのに、その作業は実は必要ではない。抽象的な意味での作家、意味の源泉としての作家というのは、一人であると考えた方が読み手としては安心しやすい。色んな人がグチャグチャ作っていると考えるよりも、誰かが統一的な意思を持ってやっていると考えたほうが、すんなりと受け取る。この根拠として、これも私たちが言語、ひいては記号を用いて意味をやり取りするときい、一番原始的なレベルでは、一人対一人の対人コミュニケーションがあるという素朴な事実から派生していると思います。この素朴かつ原始的なコミュニケーションが、文字言語を含めた種々のテクノロジーによって複製・反復可能になったり、一度に多くの人に伝えることができるようになったので、現在のような問題が生じたのでしょう。
 実際、小説にしたって映画にしたって漫画にしたってどんなものであれ作品には複数人が関わってるのは当り前です。漫画には編集者がいて、傑作とされる作品のいくつかは、編集者の存在がなければ傑作にならなかったのではないか、なんていわれるものもあるわけです。小説よりも前の時代、活版印刷登場前の写本という職人的テクノロジーの時代であれば、写す人の誤字・脱字まで含めての作家性でした。フーコーの「作者とは何か」にもありますが、作家性が一人の具体的な物質的身体をもつ作家という人間に宿ると考えるようになったのは、近代のある時期以降のことであり、それも便宜的にそうしたというのが本当のところではないでしょうか。たまたま具体的な人間としての作家と意味の審級としての作家が一致した。ただ、その後、テクスト論が勃興し、現実的に作家が複数であってもそれは捨象し、意味の審級としての、抽象的な作家性が重要視された。で、少しややこしい話になりますが、テクスト論以降のこの流れ、具体的な身体をもつ存在としての作家ではなく、意味を支える点としての作家をより重要視する流れは、ある意味で誤解をされ、「作家はなくても作品は成立する」となってしまったのではないかと考えています。具体的な作家と抽象的な作家との距離を最大限にするテクノロジーが誕生し、それが当たり前のものとなったとき、具体的な人間はおろか意味を支える点としての抽象的な作家すら存在せずとも問題がないと考える。しかしこれは明らかな間違いでしょう。一人の人間に集約されるかどうかはともかく、意味を支える点がなければ作品は存在しないのは明白だからです。
 監視カメラの映像だけを使って映像にしたとしても、そこには何者かの作為・意図が入ってくる。これとあれを繋ぐ意図。監視カメラの映像をそのまま映画に流したとしても、監視カメラが一定の秒数で切り換るとき、それをプログラムしているのは誰だとか、そのカメラをそこに設置することを決めたのは誰かとか、あるいはそもそもその映像を映画として流そうと決めたのは誰か、とか。監視カメラの映像の向こう側に何らかの意思を想定しないと私たちはそれを意味あるものとして受け止めない。
 だから監視カメラそのものを擬人化して「監視カメラの作品です」って言い方はありです。でもそれは、あくまでも擬人化している、監視カメラが意思を持ったとか監視カメラがSF的に超進化してその結果これは作ったということでしかない。「監督・ディレクター:監視カメラ」っていう風にしてもいいと思うんですけど、そこには何者かが意味を支える点として存在している。
 そのように慣習を撹乱してるのが、ここで評価されている映像作家ということでしょう。だから思うのは、カメラが普遍化した世界で、実際に映像作家になれる人間というのはものすごく頭いい人だな、ということです。皆、私もケータイのカメラを持っていますし、監視カメラも街中に溢れている。データとしての映像量は増大している。こういう私たち一般人のリアリティというのは確かにある。だけれども、それとは地続きで、それでいて非常な芸術的高みに、リアリティを的確にかつ美的に切り取る、映像作家と言うべき映像作家がいる。それらの作品はものすごく面白い。そして美しく、批評的に先鋭で、批評家として「おいしい」作品であると思います。慣習が揺らいでるからこそ誰もが作家性をもてるのではなくて、慣習に一番忠実でありかつ熟知しているゆえにラディカルな攻撃者になれるのでしょう。 
 だから私の中では審美的な軸と倫理的な軸というのは全くではないにしろ、かなりの部分が重なっています。芸術的に美しいものは、何らかの倫理的メッセージ、慣習への批判的視座を必然的に持ってると思います。一応、付帯条件として、ポストモダン批評以後に私は立脚しているという言い訳を書いておきますが…。

藤田:海老原さんの仰っている「慣習に習熟している人間こそが慣習で遊び、作家ということになる」ということに対する疑問は、ブルデューのいう「文化資本」の問題と関わっていると思います。要するに、慣習に習熟するためには、それなりに高い階層や収入に属し、豊かな文化に触れて育ち、「文化資本」を蓄積した上でないと慣習を破壊することはできない、すなわち、慣習の破壊者のようなアーティスト像は、一見破天荒でありみなに夢を与えて「誰でも作家になれる」という希望を与えるが、実際は文化資本や親の階層の影響を大きく受けて、その再生産になってしまうのではないかという問題ですよね。僕は親の階層と関係なく立ち上がるアーティストもいるだろうという希望は持っていますが、おおまかな問題意識は理解できます。
 今更ながら確認しておくと、渡邉さんの仰っていることは、デュシャンに象徴されるような、現代美術の制度やルールを破壊して遊ぶという発想の映画版という側面があると思います。確かにデュシャンは裕福な家庭に育って、20世紀前半に絵画の学校に通って絵を習っています。当時の社会情勢はわかりませんが、結構豊かな文化的生活を送る余裕はあったのではないかと思います。だから、デュシャンが美術のルールを熟知してそのルールを破る事をアート化するという戦略も親の豊かさやルールの熟知という、知識の蓄積の上にようやく成立しているというご指摘は、頷く部分は確かにあります。
 ただ、まぁ渡邉さんの問題意識や評価基準は理解した上で、現代映画を評価する軸というのは「慣習と遊ぶ」ということ「のみ」に絞られるわけではないと思います。「情念」とか「執念」とか「技術」とか、様々な側面で人々は映画を楽しむと思うし、評価する人もいると思うので、それは古臭い評価基準かもしれないし、僕自身が評価するかどうかもわからないけど、いろいろな方法論がありうるので、海老原さんの危惧も半分は正しくて、半分は違う可能性の存在を見落としているような気がします。

渡邉:もちろん、いまのお二人の批判については、細かいところで理解の相違はあるにしても個々の局面としてその通りだと思いますよ。いま藤田さんが言われたように、デュシャンというのは、おそらく現代美術の領域で最初にそういう「慣習のゲーム」を「係数的」に扱ったアーティストだったわけですから。ただ、僕自身、いろいろと考えをまとめている最中でもあって、お二人に向けてうまく説明できるか心許ないのだけど、僕はもっと慣習の問題系についてラディカルに考えたいわけね(笑)。つまり、「慣習の言語ゲーム」をある種の創造性の糧に組み替えていくこと。それがいまの創作家に課せられたミッションなのではないか。近代のロマン主義者は、アーティフィシャルな人工環境(慣習)を仮構的に希釈し、そのゼロ地点から作品という「自然」を作りだすことに意を用いた。それが近代一般の美学の根拠でもありました。しかし、今日では、それはむしろ逆転している。僕らは、いわば自明化した慣習の海に不可避的に浸り切っていて、そこから逃れることはもはやできない。したがって、そうした慣習のネットワークに寄り添いながら、かつそこに単独的な差異=「美的なもの」を派生させていくこと。それが重要な局面になっているのではないでしょうか。

藤田:デュシャンは慣習のゲームでありつつ、慣習を破壊した。制度を破壊した。そして慣習を破壊すること、制度を破壊することを慣習化・制度化した。しかしこれと同じことをやってもデュシャンの二番煎じでしかない。二番煎じを世間や慣習や制度は評価してくれるか。評価するようにしたのがシミュレーショニズムの作家・批評ですね。慣習で遊ぶという慣習、で遊ぶ、という二番煎じを評価するという二番煎じ、を評価する……という、無限コピーが理屈上では想定できるんですが、本当に個人的な感性としては、「最初にやった人の衝撃」に匹敵する「衝撃」がないとだめだと思いますね。便器を置いたデュシャンはすごい。しかしそれを真似したやつらはすごくない。しかし真似に価値があると主張して衝撃を与えた連中はすごい。しかしそれを繰り返して、「真似を真似することを肯定する」人はすごいのだろうかとか、色々と思いますが…… 

海老原:ザクティ藤田は映像作家として評価できるんじゃないかと思いますけどね。

渡邉:僕は当然どちらかと言えば「デュシャン派」ですね。あと、僕も「ザクティ藤田」の映像作家としての才能もかなりポテンシャルはあると思っていますよ。結構マジで。それはある種の「批評性」(形式性)が「創造性」(単独性)に転化するというアクチュアリティを秘めていたからです。それはある意味きわめてデュシャン的であり、かつデュシャンとは何の関係もない。それが本当の意味での「新しさ」ではないでしょうか。
 とにかく、議論が壮大な方向に拡張してきたし、作家性と慣習の問題については、継続的かつ生産的な討議が必要なようですね……。まあ、とはいえ、お三方の啓発的な反論や意見を伺って、自分の議論の補足点や、いまだ充分に意図が伝わっていないなという思う部分などがクリアに分かりました。ありがとうございました。僕の議論についてこれだけの有意義でかつ先鋭な反応をいただけたことに本当に感謝しています。
 しかし、かくいう藤田さんも、実は現在、僕とかなり近い視点から非常に先鋭的な現代映画論を着々と構想していらっしゃいます。僕が忙しい藤田さんに毎度お付き合いをいただいているのも、その議論や活動に啓発されているからなのですね。というわけで今度は、ぜひ藤田さんの「ポスト911系映画論」の徹底討議をやりたいですね!互いの対立点が分かってきたところで、有益な議論をしたいです。

藤田:僕の作家性を擁護してくださる方々が何人かいてくださるというのは、正直変な気がするわけですが……。少しだけその話をしますと、僕はキューブリックのように神経質にカットを割って編集するようなの人こそ「映像作家」だと思っていて、一方、ザクティは内容もその場の流れに任せて、カメラはピントもホワイトバランスも自動で機械に任せているし、さらに作る内容も2ちゃんねらーの指示を受けてという、自分としては「作家性」みたいなものを捨てていたつもりなんですね(参照 http://www.youtube.com/user/fujitanaoya)。それを「作家」というような言い方をしてくださるというのは、個人的にはかなり複雑な心境です。でも確かに、そういう太田克史さんと東浩紀さんが「ゼロアカ道場」という形で設計していただいた「祭り」の生成力を利用しながらも、僕はカメラを振り回しながら、既存の映画の文法やテレビの映像の文法では撮らないような撮り方を心がけていた覚えがあって、それは映像の「慣習」に違和感を与えて揺るがす、ノイズ的な部分を慣習を揺るがして生じさせていたという部分もあったのかと、渡邉さんの話を聞いて思います。信じてもらえるかは分からないですが、あのとき映像を撮りながら意識していたのはルイス・ブニュエルが監督した『ブルジョワジーの密かな愉しみ』(1972)の中で、「股間を中心にカメラを映してはいけない」という当時の映画の規範をあえて破って股間に焦点を合わせていた場面でした。
 少し話は戻りますが、デュシャンと同じことを美術の中でやっても評価はされないだろう、と判断しているのは一番無邪気な「消費者」としての僕です。とにかく飽きさせないで面白いものを次々と持って来いと図々しく要求している消費者の次元の自分がいて、その自分が無邪気に作品を喜んでしまうこと。これは無視すべきではないし、できないと思うんですよね。僕は自分の芸術鑑賞の一番底の次元にそういう自分がいることは否定しないです。
 なので、優れた芸術は必ず倫理を持っているという海老原さんの意見には真っ向から反対します。どちらかというと「自由」や「倫理による抑制からの解放」と美を繋げて論じる理論の方の僕は親和性を感じています。倫理性が全くない美、というか、倫理性がないからこそ美と感じる、というリアリティの方が強い。しかし、そうすると、僕の考える芸術の最高傑作は核爆弾とかになってしまうので、そんなわけにはいかない。そういう「世界の終わり」的なものを美的対象として消費したいという欲望は、ポストモダン以降の「破局」というモチーフの作品の氾濫、例えば『AKIRA』や『新世紀エヴァンゲリオン』が掬い取っていたんだと思いますが、結局あれはアニメであり、実写でビルが崩れる911の方が「すげえ」と思う自分はいるわけですよ。そのような自分自身の感覚の「しょうもなさ」を引き受けた上で、社会と芸術の相克の問題を考えなければいけないと思っています。
 そういう葛藤はエンターテイメントとしての破壊や殺戮、暴力や性のもたらす快楽を提供してきたハリウッド映画の持っている葛藤とも通じると思うんです。「911系ハリウッド映画群」の作家たちはその問題に商業的な要請の中で向き合っていたと思っていて、そこが重要だと思って論考を準備しています。

海老原:批評性です、ね。これも当たり前の話になります。私がずっと不安に思っている、懸念しているのは、作品のもつ批評性を伝達することが、ますます困難になっているのではないかということです。といっても、昔がどうだったかなんて実体験として知らないので勘で言っているだけですが。ここまで話してみて、私は渡邉さんや藤田さんと全然、意見の対立はしていないと思いました。繰り返しているように、監視カメラは監視カメラです。私は全く同時に、監視カメラも作家性を「持ちえる」ということを否定しているわけではありません。擬人化を経て、作品を解釈するための意味を支える点として抽象的な作家性を付与された上でという条件がつきますが、監視カメラに批評性を託すことはできます。私が問題にしたいいのは、監視カメラが批評性をもつ条件や環境です。気になっているのは、この批評性が、実は相当にややこしくときほぐすのに職人的技術が必要で、だからこそそれが表現されるときにはこの上なく芸術的な効果を発揮するも、伝達されると、特にメディアを媒介し、マス=多数の観客に向けて伝達されると、作品の批評性が脱臭されてしまうという現象がおこることです。作品に寄り添うことといいますか、作品の伝えるリアリティに忠実であることといいますか。なにをいまさら批評のイロハをと思われるかもしれませんが、実は私は予想以上に常識人といいますか(笑)、当たり前のことを当たり前だということの必要性を今現在かなり感じています。ここ数年の労働者としての経験が反映しているといえばそうなのですが。
 それはさておき、作品の批評性に忠実であること、です。それはつまり、監視カメラも映像だよね何でも映像だよねというわけでは当然なくて、ある作品が鋭い切り口で監視カメラの批評性を表現したとしても、そこには監視カメラが批評性をもち、作家性を通じて「映画に成り得る」という時のリアリティが息づいているわけです。慣習を破壊するときの別の慣習とでもいいますか。こういう状況だと批評に成り得るよという様々な担保や条件が付いて初めて成立する。そこを上手く批評家として伝達しないと、非常にまずいと思います。ましてやこんな時代です。うっかりした発言がほぼ無限に増殖され、ベタなものとして受け取られてしまう。カメラは持っている、私が撮ったものもあなたが撮ったものも監視カメラが撮ったものも、全て映画だよという風に、これははっきりいってものすごくつまらない言い方でしょう。意味が漂白されていく。全てが映画だ、というならば、それは何も言っていないに等しいのではないでしょうか。
 藤田さんがよくおっしゃられる言葉に、「世界がSF化している」というものがあります。元をたどれば巽孝之先生にたどり着くのだと思います。この、強力なキャッチコピー、ともすれば非常に危険です。「全てがヴァーチャルリアリティになる」「世界がSF化してる」「全てが戦争化している」とかもそうだと思いますが、そのどれもが最初は批評性を持ってラディカルな行為として言っているのは間違いがないのでしょうが、言えば言うほどだんだん陳腐になってって、当初の意味もどんどん抜けてってるんじゃないのかというのは、最近、ふと思います。本の帯になった瞬間に、「ああ終わりだな」と思ってしまいます。もちろん、これは極端な言い方で、挑発的な言葉を帯に書いて読者の興味を引き、本を読んでもらい、そこに書いてある批評を伝えられればいい、という市場に訴えかける手順は私も理解しているつもりです。ただ、「世界は○○である!」という帯の文句に引かれて本を手に取り、批評を読んだけれども、「そうか、世界は○○なのか」となってしまうと、これは非常にまずいのではないかと思います。帯文句しか伝えられなかった批評そのものの弱さもあります。同時に、強い言葉に振り回されてしまったことも確かでしょう。なるべく、強い文句には禁欲的であるべきではないでしょうか。なぜかといえば理由は簡単で、今まで話題になった作家や作品と言うのは、そういった強い言葉に切り取られない機微、つまりは現実の現実さを、何よりも鋭敏に切り取ってきたからです。
 やたら「当たり前」という言葉を連発してきましたが、実はこの言葉、私が現在直面している批評的悩みでありまして、これをどう超えていくかに悩んでいます。超えていくと語弊があるかもしれません。私にも野望はありまして、新しい批評、批評性を持った批評をやりたい。しかし同時に、当たり前の感覚を大切にしたい。余談になりますが、私はどこかリアリティという言葉が嫌いです。リアリティと言った瞬間に、うそ臭くなるというか現実に寄り添っていない気がする。カタカナがいけないのかもしれない、批評という海にこの単語がどっぷりと浸りきっているからかもしれない、塾講師のアルバイトをしていたときに「リアルにヤバい」と繰り返し続ける女子高生を教えたことがあるからかもしれない。まあ、理由はさておき、リアリティという言葉への一定の留保はここで示しておきます。新しい、批評性のある批評を当たり前のこととどうやって両立させていくのか、それが私の悩みです。方向としては、作品に対して真摯であることぐらいしか分かりませんし、この程度のことは、誰でも知っているでしょう。最後のくだりは完全に余談でしたね。

藤田:佐々木さんいかがですか?

佐々木:そうですね。まず、余談に反応してしまって申し訳ないのですが、僕は、リアリティという言葉好きです(笑)。それから、「リアルにヤバい」という言葉にもゾクゾクします。海老原さんの仰る、リアリティという言葉が持っている嘘臭さというか、軽薄さを伴った響きが、逆にとてつもなく生々しくて、それこそリアリティがあるように感じます。その言葉に対して映像作家はどうすれば太刀打ちできるのだろうかと正直悩んでしまいますよ。実際今も、ちょっと絶望的な気分なりつつあります…。これはもちろん、海老原さんに対して批判めいたことが言いたいんじゃないんです。その例が出された時、一応映像作家と名乗っている身としては、そういう「リアルにヤバい」みたいな言葉を当たり前に映画に翻訳する術を持っていないことが問題だなと思ったんですよね。女子高生を例に出すとあまりにも90年代っぽく聞こえてしまうかもしれませんが。今ある映画の慣習では、リアリティという言葉で表されているリアリティを描くことが出来ないという焦りが、先ほどお話しした、慣習の幅を広げたいということに結びついています。しかもそれは、ちょっとやそっと映画の慣習を撹乱しただけではとても足りない。だって、映画と言わず映像ということで考えれば、自分がわざわざ手を出さずとも、既におそろしく混沌とした状況が広がっているわけですから。だから、もっとどん欲に色んなものを取り込み、消化していかなければならない。これは、現実に映像作家と名乗って活動している作家についての話です。というよりは、ほとんど自分自身についての話ですが、とにかくそういう危機感は常に抱いています。
 今日の座談会では、皆さん、僕に気を遣ってくださっているのか(笑)、現実に活動する作家の「作家性」を非常に大事にしてくださっているというか、もっと言えば甘めに話を進めてくださっているような印象があるんですが、それは大変ありがたいのですが、僕はやはり「作家性」の失効というようなことが言われる時、そのことを割り切って考えることが出来ないというか、決して穏やかな気持ちでは居られないのです。つまり、心当たりがあるということです。映像を巡る環境が変化し、それこそ「全てが映画に成り得る」という可能性が見えてきているのに対して、作家が実際に作っている作品の多くが、そうした状況を殆どフィードバック出来ていない気がする。監視カメラとか、あるいはニコニコ動画やustream上で起こっている出来事というか、現象の方がおもしろく見えてしまうことも多いし、批評家の方々が皆そっちの方向しか向いてくれなくなったらやばいな、切ないなと思ったりもします(笑) 実際、今個人の作家に出来ることは以前よりも限られているのではないかと思いますし、また、非常に地味な仕事になるのかもしれないとも思います。
 先ほど海老原さんが、「世界は○○である!」「全ては○○に成り得る」というような言葉の危険性についてお話しされていましたが、僕はそれにとても共感しながら聞いていました。僕自身、「全てが映画に成り得る」という状況にユートピアを見出し、今でも「全てが映画になりつつある」のだと思いながら製作を行っています。しかし、その言葉だけが先行してしまうと、おそらく映画を撮ったり観たりする感度が落ちてしまう。結論を聞いた気になって安心して、いまだ映画として扱われていないものや、検討し尽くされていないものの存在を見過ごしてしまう。そうしたものを発見し、気を留め、拾い上げなければと思います。自分がほっておいたら他の誰も取り上げないもの、ニコニコ動画でもustreamでも取り上げられることがなく放置されるであろうものに、無理矢理スポットライトを当てるという、ある程度不自然な行為をしていきたい。それは、場合によっては本当に地味な作業かもしれませんが、今の所自分は、そういうことを地道にやっていきたいと思っています。


第三部 「イメージの身体/身体のイメージ」に続く


(テープ起こし・工藤伸一 構成・藤田直哉)【収録日】2010/03/07
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