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連鎖する物語、背中合わせの希望と絶望(前島賢)

連鎖する物語、背中合わせの希望と絶望

前島賢


『機神飛翔デモンベイン』
『斬魔大聖デモンベイン 軍神強襲』




・『斬魔大聖(機神咆哮)デモンベイン』『機神飛翔デモンベイン』『斬魔大聖デモンベイン 機神胎動』『斬魔大聖デモンベイン 軍神強襲』のネタバレを含みます、未プレイ、未読の読者はご注意ください。

 『斬魔大聖デモンベイン』は、ゲームメーカー・ニトロプラスが、2002年に発表した美少女アドベンチャーゲームである。ニトロプラスと言えば、美少女ゲーム『To Heart』が歴史的とも言える大ヒット作となって多くのフォロワーを生み、学園ラブコメによって「埋め尽くされた」美少女ゲーム界に、『ファントム Phantom of Inferno』『吸血殲鬼ヴェドゴニア』と鋼鉄の弾丸と漢の執念が交差するハードボイルドを持ち込んで根強いファンを獲得したメーカーとして有名。『デモンベイン』は、同社の代表的シナリオライター・虚淵玄に代わり、新人・鋼屋ジンがシナリオを担当。新人らしからぬ重厚なテキストと『クトゥルー神話』を基にした熱血ロボットものという奇想天外な設定、それを支えるハイクオリティなCGやムービーなどが話題を呼び、同社の新たなる代表作となった。
 その後、PS2移植、小説化、マンガ化、アニメ化など、順調にメディアミックス展開を続けてきた本作。その待望の続編が今回取り上げる『機神飛翔デモンベイン』である。ジャンルをアドベンチャーゲームから、3Dアクションに移したが、各ステージの幕間には、鋼屋ジンのシナリオによる熱い物語が展開される。今回の書評では、3Dアクションゲームとしての部分はひとまず置き、その物語の内容を、『ブラックロッド』『ある日、爆弾が落ちてきて』で知られる作家・古橋秀之の新刊であり、公式外伝『斬魔大聖デモンベイン 軍神強襲』と共に読み解いくことにする。
 『斬魔大聖デモンベイン 軍神強襲』は、『斬魔大聖デモンベイン 機神胎動』に続く、古橋による2冊目の『デモンベイン』外伝。そもそも、鋼屋ジン自身が『ブラックロッド』に大きな影響を受けた、と公言しており(『ライトノベルを書く!』(小学館)などを参照)、このコラボレーションは、いわば鋼屋ジン版『ブラックロッド』であるところの『デモンベイン』を、さらに古橋が描くという理想的な往復運動と言えるだろう。

 なお、本書評では、数多くの『デモンベイン』シリーズについて言及することになる。そのため、それぞれの作品について、以降は、以下のように呼称する。
・『斬魔大聖デモンベイン』=『斬魔大聖』
・『機神飛翔デモンベイン』=『機神飛翔』
・『斬魔大聖デモンベイン 機神胎動』=『機神胎動』
・『斬魔大聖デモンベイン 軍神強襲』=『軍神強襲』
・『デモンベイン』シリーズ全体=『デモンベイン』

 まずは第一作『斬魔大聖』のストーリーを確認するところからはじめよう。物語は、世界有数の大都市・アーカム・シティに住む貧乏私立探偵・大十次九郎が、最強最悪の魔道書〈アル・アジフ〉の化身である美少女アルとともに、巨大企業・覇道財閥がその科学と魔術の粋を持って建造した巨大ロボット・デモンベインのパイロットとなり、悪の秘密結社ブラックロッジと戦っていくというもの。毎回追加される新武装、中盤での悪役交代=敵幹部登場、敗退と再起、などなど、基本的には、スーパーロボットものの様式美をなぞりながら展開する。
 ところが、いよいよ「ラスボス」であるブラックロッジの首領マスターテリオンとの最終決戦に臨んだところでストーリーは急展開を迎える。実はデモンベインとマスターテリオンの戦いは、遠い昔に封印された邪神=〈旧支配〉の陰謀によって引き起こされていたことが明らかになる。彼らの狙いは、二つの強大な力を激突させることで、自らを封じこめた神器〈輝くトラペゾヘドロン〉を破壊し、その封印をとくことであり、マステー・テリオンもデモンベインもそのためのコマに過ぎなかった。彼らは〈旧支配者〉の望む姿へと成長するまで何千回、何万回と同じ戦いの歴史を繰り返していたというのだ。つまり「正義のスーパーロボットが、悪の親玉を倒す」こそが真の黒幕の狙いだったわけである。
 すんでのところで、その陰謀に気づいた九郎とアルは、土壇場で激突を回避、その力をもって再度、旧支配者を封印。戦いを終えた九郎は「旧支配者の介入がなく、デモンベインが必要とされない、本来の姿の宇宙」へと帰還、そこでアルと再開し、戦いを終える、というのが大まかな流れである。
 今回とりあげる、『軍神強襲』『機神飛翔』では、『斬魔大聖』では終盤で少しだけ言及されるに過ぎなかったループ世界観が前面に押し出され、両作とも――というより両作あわせて極めて思弁的な物語を展開している。

 まず『軍神強襲』のほうから見てみよう。
 物語は『斬魔大聖』の過去、覇道財閥の創始者にしてデモンベインの建造者である覇道鋼造の駆るデモンベインと、マスターテリオンの最終決戦から幕を開ける。決戦の舞台は火星軌道上。鋼造に追い詰められたマスターテリオンは、火星の歴史を改変。無人の荒野であるはずの火星に、マスターテリオンに奉仕するためだけに進化した「火星人」を生み、覇道とデモンベインを火星の大地へと封印してしまう。火星に生まれた火星人は、電波を用いて地球人の火星人化という侵略を開始。操られた人間たちは、お馴染みの三つ足ロボット(トライポッド! トライポッド!)を建造し、かくして『デモンベイン』世界を舞台にした、『宇宙戦争』(ウェルズ)が開始される。物語の主人公は、魔の吸血植物の「肥料」として殺されそうになったところを、謎の存在に助けられ、アルのパートナーとなった、凶暴で破壊的な性格の持ち主・エドガー。デモンベインが封印された現在、人類の希望は、アルが召還しエドガーが操る魔術的ロボット・鬼械神アイオーンのみ。彼らは『月世界へ行く』(ヴェルヌ)を髣髴とさせる巨大な大砲から発射される弾丸宇宙船に乗って、敵の本拠地たる火星へと進軍、見事にデモンベインを解放し、同じく復活を果たしたマスターテリオンとの決戦が始まった。
 駆け足でしか紹介できないのは残念だが、様々な名作古典SFへのオマージュをちりばめながら、火星の運河全体を魔方陣にして復活する超巨大デモンベイン、この宇宙を超えて、「遅い宇宙」「死の宇宙」そして「超・超時空間」などなど想像力の限界に挑戦する勢いで紡ぎだされる奇想と、ハイスピードで展開される怒涛の物語をどうか楽しんでほしい。ところが、時空を超えて続く彼らの戦いは、その絶頂を迎えたところで、かつてエドガーを助けた謎の存在=『デモンベイン』の真の黒幕、〈旧支配者〉ナイアルラトホテップにより突如、中断されてしまう。彼/彼女は、このデモンベインとマスターテリオンの戦いが永遠に続くものであり、自らの目的を達成する役には立たないと判断。歴史を書き換え「エドガーは怪植物の餌となって死んでいた」ことにしてしまうのである。
 かくて、物語はいきなり終わる。鋼造とマスターテリオンの火星軌道での決戦もなければ、火星人の襲来も起こらず、エドガーはアルと出会うこともなく、暗い地下室に閉じ込められたまま、誰にも見取られずその生涯を終えた「ことになる」。そんな彼について物語は「彼の生涯には、最初から最後まで、意味と言えるものは一切なかった」と断言する。唯一、残る彼の戦いの痕跡は、アル・アジフの脳裏に一瞬だけ浮かんで消えた、儚い夢のような思い出のみだ。言ってみれば『軍神襲来』という「エドガー・ルート」は、それを望まないナイアルラトホテップというプレイヤーによって、あっさりと「リセット」されてしまったのだ。唯一、小説における、デモンベインの内部に宿る呪力を指した「エドガーはそこにいる」という謎めいた一文を残して……。

『軍神強襲』を一本の物語として読めば、この展開はあまりに唐突過ぎるだろう。仲間たちとの交流や戦いを通して成長していったエドガーが、あっさりと全否定されてしまう手つきに、憤りさえ感じる読者もいるはずだ。しかしながら、すでに『機神飛翔』をプレイされた読者であれば――『軍神強襲』の刊行は、『機神飛翔』の発売の約二ヵ月後――、そこに一筋の希望を読み取ることができるはずだ。それでは、『機神飛翔』が描こうとする「希望」とは何か? 次はそれを見ていこう。

『機神飛翔』の物語は、『斬魔大聖』の後、「マスターテリオンは存在せず、よってそれに対抗するデモンベインも存在しなかった」ことになった世界で、探偵として暮らす九郎とアルの前に、アナザーブラッドという少女、彼女と敵対関係にあるらしい九朔と名乗る謎の少年、そして失われたはずのデモンベインが現れるところから始まる。自らの存在を確立するため、世界を「悪徳の物語」で覆わんとするアナザーブラッドは、アルを捕らえ、彼女の内の記述から、この宇宙には存在しないはずの者たち=かつて倒したマスターテリオンやその配下たるアンチクロスといった悪役たちを復活させ、みずからの手駒とする。デモンベインを失い戦うすべを持たない九郎たちだったが、アナザーブラッドは過去の「物語」を再生させたおりに、メタトロンやアイオーン、そしてデモンベインといった過去の仲間の物語まで一緒に再生されてしまっていた。かくして、かつての仲間と敵が再結集、ここに『劇場版デモンベイン デモンベイン・トゥーソードVSデモンベイン・ブラッド』とでも形容すべきオールスターバトルの幕が上がる。
 ここで、「物語」という視点から、もう一度『斬魔大聖』を確認しよう。正義のロボットが悪の秘密結社を倒す、勧善懲悪の物語、という構図は、実は邪神の陰謀により作られたものであった。『斬魔大聖』における九郎たちの勝利とは「悪を打ち破ったこと」ではなく、「『善と悪の対決』という構図を打ち破った」ことである。物語に抗う物語、それこそが『斬魔大聖』なのだ。そうした要素は、ドクター・ウェストをはじめとした人の話を全く聞こうとしない登場人物たち(何しろ『斬魔大聖』で一番真面目に自らの役割を演じているのは、悪の黒幕のマスターテリオンなのである)、あるいは魔術的な存在である鬼械神を、科学という別の物語によって語りなおすことで生まれた主役メカ・機械神デモンベインなど、さまざまな要素に散見される。
 このテーマは『機神飛翔』にも受け継がれ、より全面的に展開される。ドクター・ウェストはあいかわらず人の話を聞かないし、せっかく復活したマスターテリオンは、九郎との再戦を拒否してあっさりと退場してしまう(再対決がなされないことへの不満をいくつか聞いたが、むしろ僕はこの点について肯定的である。『デモンベイン』における最大の被害者というべき彼が、ようやく自分だけの物語を紡ぐことに成功したのだ)。九郎と九朔は全世界の危機のさなかに突然、喧嘩をはじめるし、反撃に移る間際になってアル・アジフは出番の少なさに憤って八つ当たりの高笑いを始めるし、そもそもルートによっては、ドクター・ウェストが開始早々一人で事件を解決してしまう等々等々それぞれが好き勝手に自分の物語を生き続ける。アナザーブラッドの用意した物語は、彼女が語った物語自身によって様々に語りなおされ、決定的に変化していくのだ。
 物語。『機神飛翔』はこの単語に、セカイとルビを振る。しょせん、私たちの語る物語とは、自分一人だけの閉じたセカイでしかない。しかし、これは諦念ではない。そうしたセカイが物語として語られた時、それは誰か別の人間によって語りなおされることができる。誰かの物語を、誰かが別の形で勝手に語り、物語が連鎖する。
 たとえば、物語の中盤。実は自分の乗っていた正義の象徴たるロボット・デモンベイン・トゥーソードが、この宇宙に再度介入するため、邪神によって作られた偽物であったことを知り絶望する九朔に、小説『機神胎動』の主人公であり、本作にゲスト出演(?)したアズラッドは、「デモンベインを信じろ、あれは人間のためのデウスマキナだ」と叫ぶ。小説『機神胎動』において覇道鋼造の口から語られたこのセリフが、別の話者、別のシナリオライター、そして別のコンテクストで、九朔に届き、九朔は悪意ある物語によって生まれたデモンベインを、自らの信じる正義のデモンベインへと作り=語り直すことに成功する。物語=セカイの連鎖が、諦念と絶望を打破し、全く別の物語=世界を生みだす。それが『機神飛翔』が描く物語である。
 古橋の『ブラックロッド』が鋼屋により(クトゥルー神話などと共に)読み変えられて『デモンベイン』が生まれ、その『デモンベイン』を読み変えて古橋が『機神胎動』を語り、さらに鋼屋が『機神胎動』に登場したキャラクターたちを『機神飛翔』に登場させる、といった展開に触れてきた私たちプレイヤーは、『機神飛翔』の「物語が読み替えられ連鎖していく」というシナリオを、まさに実感として読むことができる。
 複数の物語(マルチエンディング)を内包した、ゲームという非物語を、プレイヤーの経験という一回性に焦点を置いて物語化したのが、『CROSS†CHANNEL』や『All You Need Is Kill』などの美少女ゲームやライトノベルである(詳しくは東浩紀の『動物化するポストモダン2』を参照されたい)。これらの作品では、突然のことながら、ループ者は極めて孤独な存在であり、ループを繰り返すうちに物語は限りなくモノローグ的になっていく。
 しかしながら、一応、設定としてはループものでありながら、まるで登場人物全員がプレイヤーとして勝手に自らの物語を語ろうとする『デモンベイン』は、ループものの様式が作動しないように思える(どうか『All You Need Is Kill』の物語にドクター・ウェストがいたらどうなるか想像してほしい)。「繰り返される世界」という設定は、ループものというより平行世界ものとして展開され、世界の世界への乱入という形をとるのである。九朔とアナザーブラッドの正体がまさにそれだ。『機神飛翔』の開始地点である「戦いを終えて、アーカム・シティに帰還した九郎」は数あるエンディングのうちのひとつにしか過ぎない。別のエンディングでは、九郎とアルは邪神との永遠の戦いに身を投じ、やがては時空をさかのぼって始原の時に至り、〈旧支配者〉を封印した〈旧神〉となる(*)。九朔とは「そのありえたかもしれない世界」における九郎とアルの子供であり、九朔と敵対するアナザーブラッドはその世界において、「もしかしたら女の子として生まれていたかもしれない九朔」である。
『機神飛翔』は、ある可能世界に別の可能世界の可能性とその別の可能世界の別の可能性が集う物語である。『機神飛翔』が肯定するのは、この「可能性」そのものであり、それこそが『機神飛翔』の描く希望だ。やがて物語のクライマックスにいたって九朔とアナザーブラッドが和解し、彼らを裏で操っていた〈旧支配者〉ナイアルラトホテップとの決戦が始まると、〈旧支配者〉を封印した謎の神器〈輝くトラペゾヘドロン〉が、数多の平行宇宙を「材料」に作られた武器であることが明らかになる。つまり『斬魔大聖』で語られた数多のエンディング、『機神飛翔』の物語、『機神胎動』や『軍神強襲』語られたありえたかもしれない物語、そしていまだ語られざるありえたかもしれない物語が、〈輝くトラペゾヘドロン〉を構成しているというのだ。『機神飛翔』のラスト、〈輝くトラペゾヘドロン〉によってナイアルラトホテップを打ち倒すべく現れる無限の可能世界における無限のデモンベイン軍団は、古橋が『軍神強襲』で描いた巨大デモンベインに勝るとも劣らない奇想である。
 そして、その無数の大軍団の中には、無限に戦い続けることとなった、あのエドガーのデモンベインも必ずやそのなかにいる。
『デモンベイン』において、ナイアルラトホテップら〈旧支配者〉たちは、自らの封印を解くべく無限に繰り返す世界を創造し、無限の可能世界を生んだ。そこでは、エドガーのように数多くの「一度きりの人生」が彼らの思惑によって無残に打ち捨てられてきた。しかし、それでも彼らがそこにいた、という事実は彼らを封印する力たる〈輝くトラペゾヘドロン〉として確かに存在している。
『軍神強襲』と『機神飛翔』はひとつの事実の裏表を描く相互補完的な物語である。多くの可能性は、可能性としてしか存在できず、あるいは可能性として認知されることもなく『軍神強襲』のエドガーのように、孤独に消えていくしかない。たとえそれが邪神の封印という結果に繋がるとしても、エドガーの一度きりの人生を思えば、端的に言ってそれは悲劇であり、エドガーの絶望はどうしようもなく現実である。だから『軍神強襲』は、小説という一回性の物語を描くメディアをもちいて、その一度きりの人生に起こった、受け入れがたき現実を描く。
 しかしながら、その「現実」と、「現実」は別の形でもありえた、という認識は両立する。そもそも九朔とアナザーブラッドの関係は、「分岐」や「可能世界」といったいわゆる「ゲーム的な発想」が、実は生殖という私たち人間の最も基本的な行為に内在するものであり、人間存在の根幹であることを示している。この世には数多の悲劇があり、しかしながらその悲劇には別の可能性もありえたということ、ありえたかもしれない無数の歴史があるという認識を肯定せねば、私たちは、私たち自身を否定することになる。だからこそ、『機神飛翔』は、ゲームという本質的に可能世界的なメディアにおいて、「選択」と「可能性」こそを人間の力として全肯定するのである。

『軍神強襲』は言う。「彼の生涯には、最初から最後まで、意味と言えるものは一切なかった」と。
『機神飛翔』は全力で叫ぶ。「否」と。
『軍神強襲』は問う。「はたして、存在しなかった男は、現実の世界に影響を与え得るものだろうか?」と。
『機神飛翔』は全力で答える。「肯」と。

 最後に、少しだけ筆を滑らせてしまおう。『機神飛翔』のシナリオライター・鋼屋ジン(1976年生)は、オタク向け商品やメディア展開など、オタクがオタクである環境が、角川を中心とした企業によってすでに整えられていた時代に生まれたオタクの一人である。とりわけライトノベルやテーブルトークRPGに親しんだ鋼屋は、いわば角川メディアミックス戦略の「申し子」といえる存在だ。
 桜坂洋『All You Need Is Kill』や田中ロミオ『CROSS†CHANNEL』が、ゲームをプレイするオタクたち個人の実存を描き、肯定しようとした。
 それに対して、『機神飛翔』とは、そんな鋼屋が、自らを、そしてオタクたちを取り巻く環境そのもの、つまり、すべての物語がメディアミックス、あるいは二次創作の材料として瞬時に解体され語りなおされてく現状を、全力で肯定しようとした作品である、と言えるのではないだろうか。

(*)クトゥルフ神話を、旧神と旧支配者の対立という善悪二元論の構図を中心に体系化したのは、ラヴクラフトの弟子ダーレスである。この「改変」は、ラヴクラフトの「人間的な認識などはるかに超越した根源的な恐怖が存在する宇宙」という世界観を、人間中心主義的なものに貶めてしまった、としばしば批判される。『斬魔大聖』はここで「〈旧神〉という存在を人間が望んだから〈旧神〉はいる」として、善悪の構図を、再帰的なものとしてとらえなおすことで、ラヴクラフト/ダーレス間の決定的な差異を極めて巧みに接合している。
機神飛翔デモンベイン 通常版/ニトロプラス

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階級形成論の方法的諸前提(第二回) 笠井潔

階級形成論の方法的諸前提(第二回)





 われわれは、ルカーチがカント哲学の批判を通じて、主客カテゴリーの歴史性を暴露したその方法をここで検討することはできない。われわれはただ、ルカーチのすべての分析を前提に、近代に特有な主客カテゴリーと資本制的生産との関連を、少しだけ明らかにしてみることにする。


 知のブルジョワ的諸形態(ブルジョワ・イデオロギー)は、例外なく「主客」の二律背反に陥ることによってその原理的限界性を明らかにするのだが、この場合の客体とは何であり、主体とは何であるのか。近世=近代哲学における「客体」とは、結論的にいえば「幻想的諸過程を排除して自立的なる自己運動を展開する資本制的経済過程」を「哲学的」に加工した概念に他ならない。そして「主体」とは、こうした資本制的経済過程の自立的なる自己運動の合法則性に規制され支配されているブルジョワ的個人を素材とした概念なのである。だからこの意味で、主体・客体というカテゴリーは資本制的商品経済社会を不可欠の前提としている点で、その限りにおいてすぐれてブルジョワ的なカテゴリーなのであり、決して超歴史的なものではない。


 経済過程の自立性は、経済過程を規定要因とする幻想的諸過程の相対的自立性をもたらす。こうして、社会的現実は人間から自立して、人間によっては変えることのできない「永遠の法則性」をもって人間に敵対してくるのである。第二の自然である社会的現実がこうした様相を呈してくると、その投影として第一の自然の方も同様に見えてくる。第一の自然と第二の自然にとりかこまれたブルジョワ的個人は、ただ静観的な態度で、自分とは無関係に動いていく外界の法則性を観察し、形式的な体系に創りあげようとする。経済学を始めとする諸社会科学がブルジョワ社会において初めて発展していったのは、こうした理由による。そしてまた、このことは、いわゆる自然科学でさえ、その本格的発展がブルジョワ社会において初めておこなわれた原因を考察するならば、知のブルジョワ的形態をなすものにすぎない、したがってそれはブルジョワ社会とともに墓穴に蹴りこまれるものとしてあることが確認されなければならないのである(*1)。自然科学の発展はブルジョワ社会において初めて本格的となった。まずブルジョワ社会において社会的現実が法則性をもった自立的自己運動を展開し始め、これとの対応において主体は客体に静観的に対し、客体の内在「法則」を形式的に観察するというブルジョワ的・悟性的方法が発生したのである。こうした方法をもって自然を眺めた時、自然は中世的な「生物態的自然」ではなく、社会的現実と同様に、主体を排除して内在的な法則にしたがって運動する「近代的な自然」となった。この過程をまって初めて、自然の諸法則についての学としての自然科学は、本格的に発展することが可能となったのである。逆にいえば、「客体」カテゴリーの底にある次のような規定(それは自然的環境から社会的現実まで一貫したものである)、主体とは無縁の独自の法則性をもって運動する対象──この規定はあくまでもブルジョワ社会における経済過程の自立的なる自己運動に根源的に起因しているということになる。


 それでは、このような資本制的商品経済社会における経済的現実過程とは何であるのか。


資本制生産に先行する諸形態においては、経済的現実過程と幻想的諸過程(政治的・法的・イデオロギー的諸過程)とは未分化のまま混在しており、融合状態にあった。資本制社会に先行する諸社会の社会的経済生活は、「何等かの宗教的な、慣習的な、権力的な、あるいは政治的な制度をもってなされたのであった」(注1)。つまり資本制社会に先行する諸社会において、経済的現実過程は、政治的・イデオロギー的過程を媒介してのみ、その再生産を維持することができたのである。資本制的商品経済社会における経済的現実過程と幻想的諸過程との分離は、第一に社会の物質的生産からあらゆるイデオロギー的幻想性を排除し、その物質性が端的に物質性として発現する、第二に、あらゆる階級社会に不可欠な属性としての「直接生産者の剰余労働の収奪」が、経済外的強制なしに資本制的合理性をもって貫徹するにいたる、などの諸結果をもたらす。第一点に関しては、たとえば生産の古代的形態においては宗教的イデオロギーが不可欠の構成要素をなしていたこと、第二点に関しては、中世的な「名目的土地所有者のための剰余労働は、経済外的強制──それがどんな形態をとるかを問わず──によってのみ彼等から収奪されうる」(注2)というマルクスの記述によって、明らかであろう(*2)。





註1 『経済学方法論』宇野弘蔵(東京大学出版会「経済学大系1」)7ページ


註2 『資本論』マルクス(青木書店版)1112ページ





*1 こうした発想には、68年当時の学生ラディカリストに共有されていた反科学主義が影を落としている。エンゲルスの『反デューリング論』や『自然弁証法』を典拠としてロシア・マルクス主義(ボリシェヴィズム)は、自然科学的真理の超歴史的客観性を主張した。これにジェルジ・ルカーチやカール・コルシュを源流とする西欧マルクス主義は、近代科学もまたイデオロギーにすぎないという批判を対置する。初期マルクスの『経済学=哲学草稿』の出版は、こうした観点の疎外論的な展開をもたらし、戦後日本でも梅本克実、田中吉六、黒田寛一などが主体性唯物論を探求していく。


 ルカーチ『歴史と階級意識』は、20世紀初頭のドイツで新カント派の理論家たちが展開した社会科学論争(自然科学のような法則学として社会科学は方法的に可能か、をめぐる論争)や、フッサールとハイデガーの現象学的な近代科学批判と発想や文脈を共有していた。しかし、この側面を戦後主体性唯物論は見落としている。再建共産党の指導者として、1920年代に『歴史と階級意識』の議論を日本に紹介した福本和夫の場合も、事情は基本的に変わらない。現象学を学んだ九鬼周造、和辻哲郎、三木清などの非マルクス主義者に、ルカーチ=ハイデガー的な科学批判は受容された。


 とはいえ西田幾多郎門下生による科学批判は、「近代の超克」論を経由して、非合理主義や根性論的精神主義という戦争遂行イデオロギーを下支えする結果になる。これらを戦後民主主義は、日本を破滅に導いた無知蒙昧の極みとして批判した。そして戦後日本社会には、懐疑を知らない科学技術万能論と生産力主義が瀰漫する。1960年代の高度経済成長と「ゆたかな社会」は、その帰結だった。60年代の「ゆたかな社会」を標的とした学生ラディカリストたちは、こうした背景からも反科学主義を掲げることになる。


 また全共闘運動の抑圧者、弾圧者として登場した大学教授たちが、権威の源泉としていたのも学問や科学の客観的真理性だった。それに対抗するためにも、学生たちは反科学主義を主張したといえる。





*2 ここまでの記述からも明らかだろうが、本稿の発想は、ルカーチの階級意識論と宇野弘蔵の経済学原理論を重ねるところにある。『エロス的文明』のマルクーゼのような俗流疎外論(ただしマルクーゼは、『経済学=哲学草稿』の研究者として出発している)や、主体性唯物論による理論的疎外論に筆者は納得できないものを感じていた。

“探偵小説のクリティカル・シンキング”のためのメモ(飯田一史)

“探偵小説のクリティカル・シンキング”のためのメモ
飯田一史


限界小説研究会のメンバーが替わるがわるレビューや時評やその他評論っぽい原稿を載せる、というのがこのコーナー「(Un)Limited Review」。

で、2回目はぼく飯田、と。

「レビュー」ということばがタイトルに入っているにもかかわらずブッちぎるが、わりとそのへんはゆるいっぽいので。

とつぜんだけど、自身もミステリ作家である小森健太朗が書いたミステリ論『探偵小説の論理学』(南雲堂)をビジネスパースン御用達の「クリティカル・シンキング」のメソッドと照らし合わせてみよう(たとえばマッキンゼーのコンサルだったバーバラ・ミントが書いたクリシン本の定番『考える技術、書く技術』といっしょに読んでみよう)。

小森健太朗は推理をするさいに必要な(日常的な)「前提」を「ロゴスコード」と呼んだ。
これは時代や地域、人によって変わる。
だから登場人物間で、あるいは作者と読者との間でこの「前提」のすりあわせができないと、「その推理おかしくね?」とか「ちょwww飛躍しすぎwwwww」といった話になる。

小森は石持浅海のミステリなどは、ここの「前提」部分がそもそもおかしいんで(古典的な本格ミステリに親しんできた人間には)論理展開に違和感をおぼえるんじゃないか、と言っている。

小森本は「ロゴスコードの変容」に重きを置いているけど、そもそも推理をして真相にたどりつく、打ち手を考えるときにふつう踏むべきステップを踏んでない(だけな)んじゃないか、ともミント本を読むと思ったりする。

もちろん、クリシンでも「前提の共有」は重要なことだ。
たとえば外部から来たコンサルと頼んだ側の企業(組織)では持ってる情報が違うから、まずそこのすりあわせをしないと業績向上に向けて問題解決をしていこうにも話が噛みあわない。

マッキンゼーにいたことがある勝間和代は、たしかどこかでパトリシア・コーンウェルをすすめていた。文脈的にはコーンウェルの小説で描かれる手続きがコンサル的な問題解決に近いから、じゃなかったかな?(僕はカツマーじゃないから、うろおぼえだけど)

アメリカのミステリには、発生した事件に対しWhat/Where/Why/Howのステップ(超有名な問題解決フレームワーク)を踏んでそれぞれの段階でロジックツリーを展開し、MECEに(モレなくダブリなく)可能性洗いだして最適解=解決に至るパターンのものが一般的に流通していると。

対照的に、日本でいまそういうタイプの作品がどれくらいあるのか、ぼくはよく知らないので知っている範囲で書くと、たとえば、周知のように1980年代後半から隆盛した日本の新本格ミステリは叙述トリックをやたらと発展させてきたと言われている。ロジックを重視しつつ、「語り」に仕掛けをほどこすことを好んできた。

これはつまり小森健太朗用語で言うロゴスコード、ふつうに言えば読者の「前提」を利用し、そこを揺るがすことに焦点を合わせて小説の仕掛けをつくるということだ。

あるPS(ピラミッド・ストラクチャー)の下部を構成する情報が替われば(増えれば)、上部を成立させえなくなる情報が提示されれば、PS自体ガラッと組み替えなければいけない。
※参考(PSなるもののサンプル↓)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&lr=lang_ja&safe=off&client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja:official&um=1&ei=yxt0S-2dFIue6gOo3e2hBg&sa=X&oi=spell&resnum=0&ct=result&cd=1&q=%E3%83%94%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC&spell=1&start=0


ミステリは作中で提示されていく(推理の前提となる)「情報」と「推論」(論理構成)の往復をしながら展開するフィクションだが、「叙述トリック」は、ふつうならば問題解決の手順に入る以前の、状況把握(情報収集)、情報整理(分析)の段階で潰しておくべき「誤解」を、終盤になって「前提」を操作する(していたことを明かす)ことによって意図的に生じさせ、それまで作中で進行していたはずの問題解決のステップ(問題は何で、どこにあって、なぜ生じて、いかに起こり/解決すべきか)をひっくり返すような試みである。

――しかしここから、とにかく最後に「前提」をくつがえしてどんでん返しをしてビックリさせればいい、とか、前提がおかしいキャラがあるべき手順も踏まずに推理する、とか、ロジックよりもレトリックに頼る、あるいはロジックの飛躍をよしとしさえすることまではあと一歩。だっていくらミステリっつっても、べつにロジックをいちばんにしなきゃいけないきまりはないし、読者がもとめてなかったらよけいそうだし。そして現状すでにそうなっているし、その加速は止まらないだろう。


……とかいうふうに議論を進めても(なお↑この推論自体、クリシンのメソッドにのっとってないテキトーな発言だけど。念のため)あんまり楽しくないので、むしろもっと違う思いつきを。

前述のとおり、クリシンでは打ち手を考えるときには、選択肢を洗いだすためにロジックツリーをつくる。
※参考
http://images.google.co.jp/images?q=%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%84%E3%83%AA%E3%83%BC&lr=lang_ja&oe=utf-8&rls=org.mozilla:ja:official&client=firefox-a&um=1&ie=UTF-8&sa=N&hl=ja&tab=wi

↑これらに似たようなものを、RPGとかアドベンチャーゲームとか分岐があるゲームのシナリオライターなら用意する(されている)ケースも多いだろう。


で、たとえば舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』なんかはこういうLTつくって出した複数の可能性=選択肢同士(基本的に最適解以外はすべてダメな選択肢=真実ではない、というのがふつうのミステリ)が「ようよう」とか言ってひとつの場所に一堂に会しちゃった(一堂に会させた)話だと思う。
※途中までは。

ようするに、哲学とか引っ張ってきてめんどくさい可能世界論を展開しなくてもですね、LTとPSと問題解決フレームワークを応用してパワポとかエクセル使って図示してみればもっとすっきり議論できること多いんじゃね?
と思うわけです。

言ってみればLTは「“現実的な”(実現可能な)可能世界」について考察する手段なんで。

あと逆に、創作する側やチェックする編集者も、こういうの使えばもっと自然な展開をさせたり、あるいはもっと意外な展開を用意できる気がするんですけどどうなんですかね。
いや、使ってるひともいるのでしょうけど、不勉強ながらぼくはあまり聞いたことがないので……。

ぼくはマリー・ロール・ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』みたいに「読んでいてたくさんほかの可能性(選択肢)を想像させるのが良い作品」という考えを否定しないし、ライアンの議論とクリシンのメソッドはぜんぜん接続できると思う、というかガンガンいろんな議論に接続していただきたい。

(そもそもこの話を思いついたのも『新版MBAクリティカル・シンキング』の巻末参考文献にミント本と並んで三浦俊彦や野矢茂樹の本が入っていたからなのだ。「ここの横に小森本を置いたらどうなるかな……」と感じたことに端を発している)

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