『ネコソギラジカル』 /戯言転変(蔓葉信博) | 限界小説研究会BLOG

『ネコソギラジカル』 /戯言転変(蔓葉信博)

『ネコソギラジカル』 /戯言転変
蔓葉信博



1.軌跡

 はじめに戯言シリーズの軌跡を確認していこう。孤島で首を切ったり再利用したりする殺人事件の解決した「ぼく」こといーちゃんは、大学同級生の連続殺人事件に巻き込まれたのち、とある少女を救出するために女子校に潜入し、とある研究所では密室殺人事件に遭遇、とある診察所跡でも殺人事件に遭遇したあと、とある理由で入院することになる。『ネコソギラジカル(上)』(2005)では、闇口崩子や浅野みいことの萌えるやりとりをしていたいーちゃんを、狐面の男率いる《十三階段》のひとり、奇野頼知が訪れる場面から始まる。みいこの機転によって奇野をやりこめたのいーちゃんだが、その来訪には実は陰湿な罠が仕掛けられていた。そうしていーちゃんは自分から根こそぎなほど急進的な物語に立ち向かっていくのだった。
 西尾維新は、非現実的な設定、本格推理という仕組み、萌えキャラの三つの要素によって推理小説を書き始めたが、シリーズ途中から本格推理の代わりに伝奇小説的技巧を物語の推進装置として組み込むようになった。またその推移と重なるように人の生死が混濁した悲劇的幕引きから、個々人の幸せな終幕へと変わっていった。
 いってみれば、戯言シリーズ10作の軌跡とはそういったものだ。
 その軌跡において、誤解をおそれずにいえば、西尾維新の維新はひとまず完了してしまったのだ。今後、西尾維新は維新後の世界で伝奇的な可能性を検証していくことが中心になっていくだろう。その発端、推理小説という領域から西尾維新を見つめてきたひとりとして、あらためてこの推理小説という領域からの観測をしておくことの必要性を感じている。以下では、ある補助線を引いて西尾維新の立ち位置を検証したい。なお、念のために書いておくが、本論では「ネコソギラジカル」上中下巻の真相を伏せているものの、暗示させる言葉は散りばめているので注意してほしい。


2.相似

 小説とは畢竟、物語を書き始め、書き続け、書き終えることで完結する構成物である。その三つの段階にはそれぞれが質的な違いがあることは、多くの作家による証言で明らかだろう。たとえば竹本健治『ウロボロスの偽書』(1991)はそのことを主題にして書かれたといってもよい。
 早書きを作家的特性と主張していた西尾維新だが、戯言シリーズ外伝というべき零崎シリーズやりすかシリーズを立ち上げため、最終巻となる「ネコソギラジカル」の上中下巻は一年がかりとなってしまった。その事実を踏まえてのことだろうが、「このライトノベルがすごい!2006」のインタビューで、西尾維新が早書きを吐露することへの恥じらいを魅せたことは特に印象的だった。終わらせることへの配慮を見せた一瞬といえる。早書きゆえに多くの物語を終わらせる経験をした西尾維新にとって、終わらせ方の法則性に絡め取られ、その立ち位置に早々についてしまったのである。だからこそ、当初は2004年9月から連続して敢行されるはずだった「ネコソギラジカル」が遅れたわけだ。
 翻ってみれば、すでに僕たちの前には多くの書き終えられた作品がある。多くの作家が、それだけ終わりに工夫を凝らしたということだ。その一方でシリーズとしていまだ続いている作品がある。西尾維新が小説の方法論を学んだという5人、笠井潔、森博嗣、京極夏彦、清涼院流水、上遠野浩平のなかでも、自分の代表作となるシリーズを早々に終わらせた森博嗣の立ち位置は、今の西尾維新にとても近いはずだ。犀川・萌絵シリーズをはじめとした森ミステリィと戯言シリーズを比較することで、その共通性と差異がはっきりするだろう。森博嗣を意識したように大学や研究施設を舞台にしていることや、天才的な登場人物の抽象的な会話、小説冒頭に印象的な言葉を用意することなどなど。そして、森博嗣もまた清涼院流水と違った形で言葉遊びを好む作家であり、『夢・出会い・魔性』をはじめ、題名や章題、登場人物の会話の端々で感じられるちょっと脱力気味の言語感覚などは、西尾維新の作品に散見されよう。そして、今回決定的になったのは、殺人事件が結局のところ人間関係を描くための一手段として用いられてきたことである。簡単にいってしまえば、恋愛模様を描くための枠組みとして殺人事件の道具立てが援用されていたことだ。いや、正確に書くとするならば、作品を書き続けるうちにそのような援用を承認するに至ったというところだろう。僕にとって「ネコソギラジカル」の結論がそのようなかたちで出たということは一種の衝撃だった。表紙で既に結末は暗示されている、という指摘は本格推理の読者の耳には入らない。これまで数々の物語的脱臼を試みてきた西尾維新なら何かをやるだろう。そのような期待を持つことは実に自然なことだ。そして、それはある意味しっかりと達成される。


3.論理的構成力

 もちろん戯言シリーズで回収しきれなかった様々な伏線が零崎シリーズで語られるということは、最新短編「零崎軋識の人間ノック2」(05 「ファウスト vol.6 SIDE-A、SIDE-B」収録)で明らかになった。この方法論はすでに森博嗣が素晴らしい構成力で私たちの前に提示したことは記憶に新しい。
 一方で森博嗣と西尾維新の相違点もはっきりした。森ミステリィは、密室トリックを中心として物語を構築し、「謎と論理的解明」という構成を基本的に崩さなかった。シリーズが続くにつれ、作品の論理的緊迫感よりも、人間関係の詩的な空気を描くことに比重を移していったことには注意を促したいが、それでもしばしば本格推理の臨界点を垣間見せる一瞬を森ミステリィは生み出していったことには変わりない。阿潜荘の面々が登場するVシリーズで提示された「シンプル、シャープ、スパイシィ」というコンセプト、『φは壊れたね』(04)からはじまるGシリーズではその配分を更に増すこととなり、重く長い本格推理作品とは一線を画している。
 対して西尾維新は3作目『クビツリハイスクール』(02)から、本格推理とは違った自由な振る舞いをみせるようになる。そこには連作というものの拘束に囚われない自由さが感じられ、その自由奔放ぶりが一部の読者から反発を買いはしたものの、若い読者からは圧倒的な支持を受けるようになった。
 森ミステリィも戯言シリーズも作品内の度合いの差はあれ具体的な推理構造は減っていった。森博嗣は登場人物たちの思惑や振る舞いを描きながら、少女漫画的な空気感を読者に与えていく。これは客観的な世界設定で読者と知的な駆け引きを行う推理小説には本来向かないやり方である。実際、推理小説の構造を支える冴えた技巧よりも、登場人物たちの恋愛の駆け引きのほうが注視されやすいのは否めない事実だろう。しかし、犯行の物理的な分析や、動機の抽象的な解釈などを描くとき、事件を見つめる抽象的な視点は、詩的な雰囲気の中でもしっかり保たれている。
 また西尾維新は、伝奇小説にあるような戦闘場面の駆け引きや戦略的思考に得意の逆説的論理を用いるようになる。それらは上遠野浩平や菊地秀行で描かれるようなスタイリッシュなものではない。西尾維新の饒舌な戯言から一歩引いた視点であらためると、その論理構造は随所に飛躍と不自然さが見いだせるはずだ。しかし、その一歩引いた視点を読者に保持させない文体こそが西尾維新の持ち味であり、そのためには読者をつかんで離さない箴言めいた台詞や醒めた戯言、そして読者を驚愕させる魅惑的な逆説をリズミカルに打ち出していく。たとえば『ネコソギラジカル(下)』で語られる一里塚木の実の特殊能力からは、あたかも山田風太郎の忍法帳のような奇想的説得力が感じられることだろう。決して感性だけで書いているわけではないところがまた面白い。そうした論理的構成力がある限り、彼らが驚くべき本格推理を書いてしまう可能性は残されている。僕はじっとその予兆を感じ取れるようにしていようと思う。


4.希望

 そして、その論理的構成力の結果として、「ネコソギラジカル」の最後の風景があることは指摘しておきたい。あれは順当な落としどころなのではなく、逆説の逆説としての答えなのだ。論理的な構成をいくらでも試行することは可能だが、最後は暴力的に決断という一線を越えねばならない。西尾維新の暴力的決断は、そのあとどのような地平を切り開いていくのか。こっそり僕は願っている。ひとつ、希望の光を提示しておこう。戯言シリーズの「名もなき彼女」が再登場する可能性を。あたかも森ミステリィを俯瞰する超越的な視点を獲得した彼女と同じように、である。そのとき物語が論理的構成力によって生み出される物語の地平の広大さを感じさせてくれるはずだ。