階級形成論の方法的諸前提(第四回) 笠井潔 | 限界小説研究会BLOG

階級形成論の方法的諸前提(第四回) 笠井潔

階級形成論の方法的諸前提(第四回)

「主客」カテゴリーにおける客体とは、直接的には自律的なる自己運動を展開する経済的現実過程に他ならないが、その自立性、その自己運動を保証するものが労働力商品の存在である以上、労働力商品の担い手としてのプロレタリアートは、資本制的商品経済社会の普遍的本質の具体的定在であり、その限りで「主客」カテゴリーにおける客体そのものに他ならない。商品形態こそが「主客」両者の結合環であり、「商品関係の構造のなかに、ブルジョワ社会でのあらゆる対象性の形態と、これに対応する形態との原型を見つけ出すことができる」とルカーチが断言したのも、このことを指している。
 自律的な自己運動を展開する経済的現実過程から排除され、その法則によって外的に規定されたものとしてのブルジョワ的「主体」であるとともに、この過程の自立性の保証であり、自己運動の原動力として「客体」であるプロレタリアートは、「主体の対象についての意識が対象の自己意識であり」また「対象の自己意識が主体の自己意識である」という条件を満たしうるのである。すなわち、プロレタリアートの社会的現実(その規定的要因は経済過程にある)についての意識は、経済過程の自立性の体現者としての、自己運動の原動力としての商品の自己意識であり、商品の自己意識は、労働力商品としてしか存在しえないプロレタリアートの自己意識である。
 プロレタリアートこそが、こうして、ブルジョワ・イデオロギーの二律背反を止揚し、知の全体性の担い手として歴史に登場するのである。プロレタリアートの自己意識は、知の全体性の実現であり歴史の自己意識に他ならない。歴史は自己を意識するにいたる。人類の前史は終焉するだろう(*1)。
 ルカーチは、プロレタリアートの主客の同一性に触れてこう語っている。「プロレタリアートは、たしかに社会的な現実の総体を認識する認識主体である。しかし、それはけっしてカント的方法の意味における認識主観、すなわちけっして客観とはなりえないものとして定義される主観ではない。プロレタリアートはけっして社会的な現実の発展過程に参加しない傍観者ではない。プロレタリアートは社会的な現実全体の行動し、受苦する部分である」(註1)。受苦するものとしてのプロレタリアートのみが、歴史の終焉を告知する。
 このことの確認のもとに、われわれは、ブルジョワ社会の構造とそれに対応する一般的な生活意識、この生活意識を土台としてその上部に体系化される「意識の意識」としての「知のブルジョワ的形態」=ブルジョワ・イデオロギー、ブルジョワジーの階級意識とプロレタリアートの階級意識との構造的な差異、プロレタリアートの階級意識成立の必然性などについて検討する段階に達した。知の全体性とは、プロレタリアートの階級意識に他ならない。
 まず、ブルジョワ社会の構造に全面的に規定される自然発生的な生活意識の内容について解明しなければならない。
 すでに強調したように、ブルジョワ社会の特性は、商品形態が流通過程のみならず生産過程をも包摂し、それによって経済的現実過程が一切の幻想的諸過程を排除して自立的なる自己運動を、内在的な法則性をもって展開しているところにある。この点から、ブルジョワ的な生活意識の内容を導出しなければならない。
 ブルジョワ社会の自然発生的意識とは、「物象化された意識」であり、それは商品の物神的性格に根ざしている。これについて、マルクスは次のように語っている。
「商品形態の神秘性なるものは、単に次の点にある、──というのは、商品形態は、人間自身の労働の社会的諸性格を、労働諸生産物そのものの対象的諸性格として・これらの諸物の社会的な自然諸属性として・人間の眼に反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係を、彼らの外部に実存する諸対象の社会的な一関係として人間の眼に反映させるということ、これである」(註2)。商品の物神的な性格とは、本来の人間関係に物的な外被をかけ、人々の眼にあたかも物と物との関係という幻想的形態をもたらす点にある。商品のこうした物神的性格は何に起因しており、人間にどのような態度を強制してくるのだろうか。
 商品のこの性格は、商品を生産する労働の社会的な性格から生じるのである。諸使用対象は、相互に独立して営まれる私的諸労働の生産物としてあるが、これらの私的諸労働が社会的総労働の一分肢としてのみ存在しうるという点を実現するのは、生産物が商品として交換された後である。このために諸労働の社会的性格は「彼等の諸労働における人と人との直接的に社会的な性格としてではなくて、むしろ、人と人との物象的諸関係および物象と物象との社会的関係として、現象するのである」(註3)。こうして交換こそが、労働諸生産物に商品としての物神的性格をもたらすことが明らかとなる。この交換を可能にするのは、相異なる質の具体的有用労働、同質な抽象的人間労働への還元であり、生産物の商品への、したがって有用物の価値物への転化に他ならない。交換は価値の決定によって可能になる。価値は交換者たちの意志や予見に係わりなく変動するから、「交換者たち自身の社会的運動が、彼等の眼には、諸物象──彼等によっては制御されないで彼等を制御する諸物象──の運動という形態をとる」(註4)。
 こうして、商品の物神的性格は、人間の社会の社会的関係を物象化し、その物象的外被の内部を透視しえない、そして逆に、物象によって規制される「物象化された意識」をもたらす。


註1 『歴史と階級意識』五九ページ
註2 『資本論』一七二ページ
註3 同 一七四ページ
註4 同 一七六ページ

*1 少年期から脱したばかりの筆者は、こうした箇所に顕著なルカーチの黙示録的=否定神学的な精神に惹かれたのだと思う。高校を中退して人生の退路を断った筆者は、なんとしても「歴史」を終わらせなければならない、それ以外に先はないと思っていた。歴史が終わったあとの「先」は、A・C・クラーク『幼年期の終り』のオーヴァーマインドになるのだろう。『立喰師、かく語りき』に収録された押井守との対談でも語ったように、歴史の終わりとは、とりあえず東京を焼け野原にすることだった。どう見てもマルクス主義的ではない、プチブル急進主義少年の発想である。第一次大戦とロシア革命を目撃して急進化したプチブル急進主義者がルカーチだとすれば、二〇歳の筆者がルカーチに共感したのも当然のことだ。