広重ぶるう | geezenstacの森

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広 重 ぶ る う

 

著者/梶よう子

出版/新潮社

 

 

 武家に生まれた歌川広重は浮世絵師を志す。しかし、彼が描く美人画は「色気がない」、役者絵は「似ていない」と酷評ばかり。葛飾北斎と歌川国貞が人気を博するなか、鳴かず飛ばずの貧乏暮らしに甘んじていた広重だが、ある日舶来の高価な顔料「ベロ藍」に出会い―。日本の美を発見した名所絵で歴史に名を残す、浮世絵師の生涯!---データベース---

 

 歌川広重の浮世絵は好きで何回も取り上げています。彼の代表作はこのブログでもほとんど網羅しているのではないでしょうか。ただ、その人となりは今まで深く追求したことがありませんでした。経歴的には定火消(じょうびけし)同心の武士であったこと、最後はこれらで亡くなったことだけは承知していましたが、東海道五十三次を描いた浮世絵師・歌川広重(安藤重右衛門)に、こんな過去があったとは知りませんでした。気がつくと、ページを繰る手が止まらなくなって一気に読んでしまいました。

 

 

豊国の描いた広重

 

 物語は、定火消(じょうびけし)同心である安藤家に生まれた広重が、祖父との確執から20歳年下の叔父に家督を譲ったものの、浮世絵師としては鳴かず飛ばずでくすぶっている日々から幕を開けます。いつまでたっても芽が出ない広重に目をかけてくれるのは、今や浅草茅町(かやちょう)で地本(じほん)問屋・栄林堂を営む岩戸屋喜三郎だけでした。喜三郎は、広重の師匠である歌川豊広から、いっぱしの絵師になるまで広重の面倒を見てやってくれ、必ず物になるから、と頼まれていたのです。その豊広師匠も鬼籍に入り、三回忌も近づいているというのに、「物」になるどころか、重右衛門の錦絵は一枚八文で売られる代物でしかなかったのです。どうしても絵師で食べていきたいのなら、枕絵を書けば画料は3倍にはなる、との喜三郎の言葉を、枕絵だけはやらないと突っぱねるのが広重でした。

 

 そして、このままではダメだと頭ではわかっているものの、突破口を見つけられずにいた広重だったのですが、その糸口となったのが、喜三郎が持参した風呂敷の中にあった一枚の団扇(うちわ)でした。広重の目を奪ったのは、ぷるしあんぶるうという異国の色で、ベルリンの藍だから、ベロ藍と呼ばれている藍色だったのです。

 

 このベロ藍との出会いに心を奪われた広重は、折しも依頼された名所絵を、そのベロ藍を使って描こうと思い立ちます。江戸の空を描くのには、この色なんだ、と。やがてその名所絵が、後の東海道五十三次につながっていくことになります。同じ定火消同心の妻の加代が家計に四苦八苦しているのに、広重の頭の中にあるのは、絵のことだけです。そんな広重の不器用な一徹さが、読んでいるうちにどんどん胸に沁みてきます。この小説では、天才絵師である北斎との絡みや双筆で描かれる東海道の豊国とかも登場し、さらに妻の加代や一番弟子・昌吉との手合いのくだりも読ませます。

 

 この本では広重と仲の良かった定火消の与力の岡島武左衛門が何かと広重を助けます。通説では広重は八朔御馬進献について京都まで旅行したことはなかったことになっていますが、この小説ではこれに同行し実際に東海道を旅したことになっています。そして、行きは中山道を使い帰りが東海道で下ったという流れです。こんなこともあり、イメージ的にはあまり旅に出ない人物を想像していましたが実際には家人にも告げず、ぶらりとあちこち出かけていた様が描かれています。のちに、「名所江戸百景」などの大作も発表しているぐらいですから、スケッチで足を伸ばしていたことは伺い知れます。中でも、信州は小布施の北斎の描いた天井絵を弟子とともに見ているのも驚きでした。

 

 この小説を読んでいると幕末の江戸で活躍していた絵師が続々登場し、彼らが切磋琢磨して作品を発表していたことがわかります。そんな仲、広重は同じ歌川派であっても女絵や役者絵では芽が出ませんでした。遅咲きの絵師だったんですなぁ。この小説でも登場する10歳の時の「琉球人来貢図巻」は今でも現存しているようです。下がその10歳の時の絵です。

 

琉球人来貢図巻

 

 そんな広重に風が吹いてくるのは保永堂から版行された「東海道五十三次」でした。広重36歳です。これで風景画の広重として世間には認知されます。そこからは、時代の波に乗って広重には仕事が舞い込むようになります。まあ、ここからはよく知られた作品が次々と生み出されるわけですが、順風満帆というわけには行きません。妻の加代が死んだり、一番弟子の昌吉が老害でなくなったりと紆余曲折が続きます。そういう人生のあやもこの小説ではきちんと描かれています。普段はあまり触れられない火消同心としての矜持も持ち合わせていることがわかりますし、江戸っ子としての武士の出ということでの喧嘩っぱやい性格も見事に描写されています。

 

保永堂版 日本橋 上 朝、下 夕景

 

 物語の終盤、大地震が江戸を襲います。俗にいう安政2年の「安政江戸地震」です。広重が描きためてきた江戸の町が大きく損壊して行きます。この時の死者は5000人です。この地震を体験した広重は、壊滅した江戸の街を目にして、あることを心に抱くくだりがこの本のメインテーマの江戸を描くことに収斂していきます。「名所江戸百景」ですな。ここには労咳で亡くなった弟子の昌吉や二代目となる陳平も登場し、力を合わせてこの大作を完成させます。

 

広重が居を構えた京橋付近

 

 世界にも稀な大都市でありながら、エコロジーの最先端をいっていた江戸の原風景がこうして広重の手によって残されたというのはまさにこの物語の白眉です。あらためて、「広重ぶるう」を鑑賞して見たくなりました。