昨日は、UFJ貨幣資料館で開催されている「広重 竪絵東海道」展へ言って来ました。今までも、小生のブログでは様々な東海道五十三次の浮世絵を取り上げて来ました。
保永堂版 http://blogs.yahoo.co.jp/geezenstac/52090344.html
行書版 http://blogs.yahoo.co.jp/geezenstac/52114967.html
隷書版 http://blogs.yahoo.co.jp/geezenstac/52303058.html
司馬江漢版 http://blogs.yahoo.co.jp/geezenstac/52002066.html
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歌川広重が天保4年(1833)37才の時に描いた代表作「保永堂(ほえいどう)版東海道五十三次」から22年後の安政2年(1855)、59才の晩年に描いたのが「五十三次名所図会(ずえ)」です。全ての図が縦の版型に統一されているので、「竪絵(たてえ)東海道」とも呼ばれます。広重は15種類以上もの東海道絵を残しており、日本橋から京まで完結したシリーズでの東海道絵は本シリーズが最後となります。タイトルに名所図会とあるように、本として製作された名所図会の挿絵と共通の趣向となっており、ほとんどの構図が縦の判型を活かし上空から斜めに見下ろすような俯瞰(ふかん)図法で描かれています。このような俯瞰図法や、近景の事物を極端に拡大し背景に小さく描く風景との対比を狙う構図は、翌年(安政3年)から描き始める画業の集大成となる名作「名所江戸百景」の先駆けとなっています。広重が活躍したのは、幕末期ということもあり、黒船襲来に備えて江戸湾に造営されたお台場を描いた「品川」のような世相を反映した図や、宿場名に続いて、神奈川では「台の茶屋海上見はらし」、保土(程)ヶ谷では「境木立場(さかいぎたてば)鎌倉山遠望」、戸塚では「山道より不二眺望(ふじちょうぼう)」というように図柄の説明が付されているのも特徴です。また、ゴッホ作「タンギー爺さんの肖像」の背景として描かれた浮世絵6枚のうちの1枚である「石薬師」など印象派に影響を与えた図があるのが本シリースの特徴です。今回の展示では、この「五十三次名所図会」の全作品55点を鑑賞することが出来ます。
これらの作品は、安政二年(1855)に江戸・蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)が版元となって刊行したものです。蔦屋からは嘉永(かえい)(1848-54)頃にも横中判(よこちゅうばん)の東海道シリーズが刊行されているためこのシリーズは「竪絵東海道」と区別して呼ばれています。弘化四年(1847)に、8名の版元が存在していたことが資料で残っています。和泉屋市兵衛、佐野屋喜兵衛、蔦屋吉蔵、山本屋平吉、山口屋藤兵衛、大黒屋平吉、喜三郎(屋号不明)、上州屋金蔵です。このうち、老舗の和泉屋と山口屋(文化四年には仲間に加入)の他6名は、新興の版元ということで、蔦屋重三郎が活躍した寛政期から名前が残っているのは、和泉屋市兵衛1名だけです。結構出版業界は栄枯盛衰が激しかったようです。そんな中で、広重の二つのシリーズの出版は蔦屋吉蔵が行なっています。ここで登場する蔦屋吉蔵は分家で紅英堂を名乗り、他には3枚続きのシリーズである東都名所、天保10年ころに江戸名所などを出しています。そんなことで、落款を見る限りデザインは一緒のようです。

最初は「日本橋」です。日本橋の後方には江戸城と富士が描かれています。このシリーズの代表ともいえる俯瞰図での構図です。前景が日本橋の河岸の賑わいを、橋向う本来は青果市場なのですが、蔵屋敷が立ち並ぶ武家の町というように対比させて描いています。このシリーズでは人物には主眼がおかれていないため、どうしても画面から受けるイメージは静的なものになっています。この図では、日本橋の奥の一石橋までがディフォルメされて描かれています。

続く「品川」では御殿山からの眺めを描いています。沖に築かれたお台場が当時の世相を色濃く映し出しています。それよりも、個人的には江戸への入り口としての品川が既に家屋が密集する町として描かれていることです。そして、更には三角に尖った建物が描き込まれていることです。この時期にはまだキリスト教会などあるわけではなく、火の見櫓にしてはおかしな形です。なんなんでしょうかね?

この絵は川崎宿と神奈川宿の間、鶴見川に架かる鶴見橋の風景です。東海道は市場村と鶴見村(両村とも現横浜市鶴見区)との間を流れる鶴見川を鶴見橋で渡っていました。この橋は長さ25間(約45m)・巾3間(約5.4m)で、橋を挟んだ両村で売られた米(よね)まんじゅうは街道名物として「江戸名所図会」にも紹介されています。米粒の形をして皮が厚く腹持ちが良いこの饅頭は1個3文で売られ、籠代2文を出せば籠に入れて持ち歩くこともできました。その生麦村は鶴見川の右岸河口部に位置し、海岸部は漁村で江戸城の菜肴を定期的に献上する御菜八カ村の一つとされていた。ところで、この生麦の地は文久2年(1862)、薩摩藩主島津久光の行列とイギリス人一行との間で殺傷事件が起き、薩英戦争に発展した場所として有名です。この絵は実際は安政2年(1855)広重59歳の時に出版されていますから、広重はそれを知らずに描いています。歴史はこういう不思議な偶然を残しているのだと、思わずに入られません。

府中は江戸から19番目の宿です。駿府城があり徳川家康のお膝元であるということで賑わいの合った宿です。当然郭もあり、この竪絵東海道ではその二丁町にあった郭を描いています。寛永9年(1632)、駿府は幕府の直轄になり「駿府」、「江尻」、「丸子」、「清水湊」を統括して駿府町奉行が置かれました。町奉行が置かれたのは、大阪、京都、江戸以外ではここだけです。そういう土地ですから人口は2万人ほどでしたが幕府公認の遊郭が置かれていたのです。広重はその遊郭を大門の外から俯瞰図で描いてみせています。

次の「丸子」宿では珍しく人物がアップで描かれています。このシリーズで人間目線で人物がアップで描かれているのはここと「赤坂」ぐらいでしょうか。旅籠の並ぶ町並みのなかでは名物のとろろ汁を食べる旅人画描かれていますが、その後ろの壁には浮世絵が何枚も掲げられています。自身の作品も一枚描いていて茶目っ気を発揮しています。

このシリーズでは十返舎一九作の『東海道中膝栗毛』四編上を題材としており、「赤坂」では、御油から赤坂に向かう途中の寂しい道で、弥次郎兵衛が、喜多八を化けた狐と思い、懲らしめようとするという下りが描かれています。わざわざ人物名を書き込むという洒落っ気で、このシリーズの中でもユーモラスな作品となっています。

このシリーズでは十返舎一九作の『東海道中膝栗毛』四編上を題材としており、「赤坂」では、御油から赤坂に向かう途中の寂しい道で、弥次郎兵衛が、喜多八を化けた狐と思い、懲らしめようとするという下りが描かれています。わざわざ人物名を書き込むという洒落っ気で、このシリーズの中でもユーモラスな作品となっています。

各地の名産をさりげなく取り込んでいるのは何時ものシリーズと変わらないところです。「鳴海」では有松絞りを描き込んでいます。貨幣資料館では友の会に登録した人には、次回の案内がきます。そのはがきを持参すると、展示品の絵はがきが一枚貰えます。今回小生が貰ったのはこの「鳴海」をデザインしたものです。有松絞りは現在まで続いている伝統産業です。大切にしたいものです。

海上七里を渡った桑名は焼き蛤が有名ですが、ここでは到着した渡し船に早速小舟が近づきその焼き蛤を売り込んでいます。こういう商売は昔もあったんですなぁ。船中では長い船旅で暇を持て余した旅人が大あくびをしていますし、早速蛤売りに声をかけている人もいます。ほのぼのとした旅風景で、旅情を誘います。

広重はこのシリーズでも雪の場面や雨の場面を描いています。この亀山でも、降りしきる雨の場面を描いています。この構図で珍しいのは彼方の空に赤い稲妻が走っていることです。そして、この画像でははっきりとは見えませんが、実物では右下の雨だまりの中に反射した稲妻が描かれています。瞬間を切り取った映像がリアルさを持っています。

最後は、近江の国は石部の宿です。ここではかなり大きな旅籠の様子を描いています。手前では長旅で疲れたのか按摩をしてもらっている人、その奥に食事に興じている人、さらにその奥出は着物を脱いで風呂に入っている人の様子まで描き込まれています。2階には夫婦連れの旅人や、相部屋の風呂上がりの人物まで配して、広重の観察眼の鋭さに感心してしまいます。最晩年の作品ですが、そこには、やはり広重の見る人の旅情をかき立てる何かを感じ取ることが出来、同時代の浮世絵画家の中では一歩抜きん出ていたことをまざまざと思い知らされます。
この「広重 竪絵東海道」展は9月9日まで開催されています。