浮気は、本能の発露。
ブログネタ:なんで浮気するんだと思う?
参加中こんな設問に真顔で答えたら、見た人から総すかんを食いそうですが、なぜ?と問われれば次のように答えるしかありません。
それは、抑えられた本能の出現で、本能がいまだ失われていないからだと言えます。
ホモサピエンスも動物界の一種に過ぎず、基本的には動物の本能を有しています。ライオンやトドや、犬猫などと何ら変わるところはありません。
一夫一婦制とか一夫が4婦までOKとかいうのは、人類に知恵が付いてきて、集団を守るために必要な団結の手段として宗教が発生し、そこで決められた決まりごとに過ぎません。
動物は種の維持のために強いものを求める本能があります。人類は喧嘩で強さを競う時代はすでに終わっていますので、強さの基準が測りにくい。だからそれは今の相手にないものを求めていく行動になってきます。美しさであり賢さであり、男らしさであり、女らしさであり。
教育や理性でそれを抑え、それが人の理想の姿だとするのは、単純に宗教上の教えであって、日本の戦国時代を見るとそれらが全く意味のないものであったことが分かります。
平安・室町以前にさかのぼると、男女の仲はもっと自由です。結婚は同じ屋根のもとに過ごすのではなく、行き来するだけの暗黙の夫婦像(通い婚)でした。
日本の神々も、行く先々で子供をもうけています。
源氏物語は、光源氏の女性遍歴そのものを描いた、言い換えればエロ本ですが、現代人はそれを奇麗事に解釈してそのような臭いを感じさせないようにしているため、それに気付く人は非常に少ないし、光源氏を非難する人もほとんどいない。ことほど左様に人は簡単に洗脳されるのです。
一夫一婦制と、人はみな平等、という考え方は、大戦に負けて入ってきたキリスト教の教えによる影響が基本をなしています。
聖書の基本的考え方、神のもとにおいて人はみな平等である。神だけが特別で、それ以外はみな同じ、これがそうです。
あの時代に、人はみな平等を叫んだ福沢諭吉もその時代のキリスト教の影響を受け、男女平等を叫んだ内村鑑三はまさにキリスト教の伝道者そのものです。
このような背景は日本人の底辺を流れる思想の関係で教科書には全く記載されていません。日本の教育が不偏的な教育でないことがこれを見ても分かります。
大和魂でヒトの命を無残に散らした戦時中の教育の名残です。
敗戦でこの考え方が日本に浸透してきました。キリスト教そのものを日本に押しつけなかったマッカーサーは、その意味では非常に賢い。日本人が天皇制に心酔していることを見越した思慮深い対応でした。
それでいて、天皇は神ではなく象徴となり、そして皇族に民間人の血を入れるように進言したのも連合軍のなせる技。
このように魂の教育が行われてきて、一夫一婦が当たり前になった現在でも、人には動物としての本能がひそかに息づいています。
この動物としての本能が活路を求めて行動すること、すなわち本能の発露をヒトは浮気と呼びます。
だから、浮気は道徳教育上は非難されることになりますが、動物の本能としては当たり前の行動。
浮気をする人やその相手は、冷静に見て、いろいろな意味で今そばにいる人より優れた面を持っています。強い者同士が惹かれ合うのは人の常。
それを理性でどれくらい抑えられるかで価値観が変わってくるのは、あくまでもヒトの判断基準。
それが平和を守るために役立っているのなら、従う方が賢いでしょうか。
過去にもライガー(ライオンとトラの2世)やレオポン(豹とライオンの2世)など、科学の申し子として生まれたことがあるが、生殖能力を犠牲にした2世のため、寿命が来たらそれまで。
華やかさを売り物にした植物も、種子を結ぶ能力を奪われたものがほとんどで、挿し木・接ぎ木でしか命を永らえることができない。いわゆるクローンである。
人がそのようになることを考えると耐えられないし、私はそんな時代に生きたいとは全く思わない。
セックスレスの若者が増えていることに、私は人類の危機を感じる。そのような人間は子孫を残せないのだから、その人一代で滅亡する。そういう人間は遺伝学的には弱者なのだからそれはそれでよい。
いずれ遺伝子学的に、セックスレスの頭脳集団が世界をコントロールし、意図的に生産された男と女の、頭脳的には無能な集団を、動物と一緒に制御していく時代が近い将来に来るかも知れない。
人類がすべてそうなることを想定するとセックスレスを否定せざるを得ない。
閑話休題
ヒトが浮気するのは、本能。
ヒトの三大欲、食欲、性欲、睡眠欲は理屈では抑えられない。
ヒトから本能が消失する時は人類滅亡の時である。
小金井公園の桜
絶好の花見日和に誘われて、小金井公園に行ってきました。
ここは人出が上野公園や千鳥が淵ほどのすし詰めではありませんので、花をゆっくり観賞することができます。
江戸東京たてもの園ビジターセンター両サイドの桜です。その桜の下は、家族連れなどでにぎわっていました。
(クリックして大きな写真で見て下さい)
千鳥が淵なら、今頃たくさんの花筏が浮いていることでしょうが、ここではきれいな壁紙のように花びらが昨夜の雨のため湿った地面にびっしり張り付いていました。
ヒヨドリが、小さい桜の花の一つ一つから一生懸命蜜を吸っています。一体どれくらいの花数を吸うとお腹いっぱいになるのだろう。生きるのは鳥も大変。
場所がちょっと変わります。これは国立駅南口から一ツ橋大学へつながる学園通りの桜です。週末までは持ちそうな気配でした。
前のブログの上野公園や千鳥が淵の桜もそうですが、これらの桜の写真は、自分がどんちゃん騒ぎをした後のついでの写真ではありません。
いろいろな事情でお花見にいけない人たちがこれを見て、少しでも雰囲気を味わっていただければと思い、一生懸命撮ってきた写真です。
たくさんの人に見ていただけたら嬉しいです。
行けない人には花見よりももっと大切なことがあるからに違いありません。
桜は来年もまた咲きます。
桜の花見にいけない人たちへ、今が一番大切です。心からのエールを送ります。
この花、な~んだ? 高次元まで高められた美しさ!
日だまりで、親子の会話が聞こえてきそう。
「あのね、・・」
「な~に? ぼく。」
「も~ね、咲いていいかな~?」
















