このブログを書き始めた当初はパソコンで読んでいる人がほとんどでしたが、今はスマホからのアクセスがほとんど。スマホで読んでいる人とパソコンやタブレットで読んでいる人では見えているブログのデザインが違うのでほとんどの人が知らないのでしょうが、このブログの右側にはずっと私が直近で読み終えたエンタメ小説を紹介しています。
私はスパイ小説とミリタリー小説が大好きでよく読みます。また、SF小説やファンタジー小説も好きです。日本の歴史小説では忍者ものを好んで読むのはスパイ小説とかファンタジー小説と同じ枠で読んでいるからです。


冷戦時代以前を舞台とするクラシックではない現行シリーズで人気のあるものだと、2022年にNetflixで映画化もされたマーク・グリーニー(Mark Greaney)の〈暗殺者グレイマン〉シリーズなんてエンタメとして面白いですよ……映画版と原作シリーズはストーリーが全く違いますがイメージ映像として。
CIAの特殊工作部隊から脱走した主人公が悪党の暗殺だけを請け負う殺し屋となり、CIAはじめとする各国諜報機関や軍情報部、傭兵企業(PMC)やマフィアから次々と送り込まれる追跡の手を避けながら依頼を遂行していく物語が〈暗殺者グレイマン〉シリーズ。2009年にシリーズが開始され今年24年は13巻『The Chaos Agent』が出ています(日本語翻訳は現時点では12巻『Burner(日本語題:暗殺者の屈辱)』まで)。
また、グリーニーは、2013年に亡くなったトム・クランシーの〈ジャック・ライアン〉シリーズも引き継いでいます。……〈ジャック・ライアン〉シリーズは昔から映画化されてきましたが、最近ではAmazon Prime Videoがドラマ化していますね。

グレイマンに代表される現在のスパイ/ミリタリーのアクション小説の物語は日本の時代小説の忍者ものと相似しています。少年時代から戦闘技術や潜伏工作技術を叩きこまれた男が組織に裏切られて抜け忍となり、抜け忍狩りの追っ手を避けながら陰謀を暴くための戦いを繰り広げる。こうした作品では「抜け忍」という日本語はさすがに見たことないけれど、日本語のまま「Ronin」(浪人)という言葉が出てきたりもしますので意識はされているはずです。
なので普段は日本の時代小説を読んでいる方にも現代の忍者もの/浪人ものとしてお薦めできますし、エンタメとして楽しみながら現実のニュースに登場する兵器や組織の名前や機能も覚えられます。

そんな私ですから、日常的にたっぷりと「陰謀」をエンタメとして楽しんでいます。
しかし、エンタメとして楽しめるこうした「陰謀」に対し、今この瞬間にもインターネット上で流布されている「陰謀論(Conspiracy Theories)」の「小説として」成立するレベルのリアリティにも想像力にも欠けた低質さにはうんざりします。スパイ小説やミリタリー小説を「小説として」楽しめるレベルの解像度だとしても陰謀論者の語りの支離滅裂さには本当にうんざりできるはずです。

例えば、陰謀論者の振り回す「CIA」。彼らはまるで世の中の森羅万象を司る組織かのように語りますが、スパイ小説のなかで描かれるCIAはじめとする各種諜報機関は、どこも官僚主義に蝕まれいて後手後手に回り、その後始末に主人公たちが奔走する、というのがスパイ小説の基本的な物語。

英国諜報部の国内部門MI5と国外部門MI6の両方に所属経験を持ち、英国スパイ小説の第一人者となったジョン・ル・カレ(John le Carré)は2016年に発表した回想録『地下道の鳩』にこう記しています。
「とんでもないことをしてくれたな、コーンウェル」かつて同僚だったMI6の中年職員が叫ぶ。多くのワシントン関係者が集まった、イギリス大使館主催の外交レセプションでのことだ。「まったくひどいやつだ」ここで私に会うとは思っていなかったが、会ったからには、絶好の機会とばかりにふだん思っていたことをぶちまける。私がMI6の名誉を汚し――われわれの部署だぞ、こともあろうに!――国家を愛する職員を、反論できないのをいいことに笑い物にしたというのだ。
~(中略)~
「人でなしなんだろう、われわれは? 人でなしで無能! まったくありがたいよ!」
怒っているのはこの元同僚だけではない。ここまで激しくなくても、私はこの五十年間、同じような非難を浴びせられてきた。悪意のある攻撃や集団での嫌がらせに遭ったという意味ではない。必要な仕事をしていると考えている人々から、感情を傷つけられたとくり返し言われるのだ。
「なぜわれわれをいじめる? 現実はどうだかわかっているだろう」
~(中略)~
外交パーティーで私を殴り倒さんばかりに怒っている元同僚に対して、私はどう答えるべきだったのか。イギリスの諜報機関を現実よりはるかに有能な組織として描いた本も書いているなどと言っても無駄だろう。MI6のある高官が『寒い国から帰ってきたスパイ』について「うまくいった二重スパイ作戦はこれだけだ」と言っていたことを伝えてもしかたがない。
英国諜報部MI6を代表するキャラクターといえばジェームズ・ボンドでしょうが、ル・カレ言うところの"現実よりはるかに有能な組織"のジョージ・スマイリーがよりキャラクターとしてリアルにイメージされるのではないでしょうか。そして、そのル・カレが描く諜報部は、諜報部に残った者たちを"殴り倒さんばかりに怒"らせます。
そうそう、陰謀論者の皆さんが大好きな「ハニートラップ」という言葉を造語したのもル・カレです。言葉の初出はジョージ・スマイリーが登場する『Tinker Tailor Soldier Spy』(1974年発表)。

陰謀や秘密が「存在しない」なんて言うつもりはありませんよ。
問題は、荒唐無稽な「陰謀論」が、現実に存在する危険を本気で追求する際にはノイズとなって邪魔をすること。

2020年にル・カレが亡くなった際、BBCは追悼文にスパイ小説の意義をこう記しています。
この小説でル・カレ氏は、民主国家でさえ自分たちの秘密を守るためには非合法な手段をとることがあるのだと、深刻な問題を提起した。

政府が何もかも隠し立てするような世界では、民主主義を守るためにスパイ小説は必要な役割を果たしていると、ル・カレ氏は主張した。小説が描くのは現実そのものではなく、映し出す姿は多少ゆがんでいるとしても、小説を通じて現実にある秘密の世界に光を当て、それがどれほどの怪物になり得るか示すのは大事なことだと説明していた。
こんな時代だからこそ、軽挙妄動せず、現実と虚構を切り分ける必要がありますよね。ル・カレ言うところの"民主主義を守るため"とまで大げさなことを私は言うつもりはありませんが、思考訓練として、そして本来のエンタメとして楽しみつつ、スパイ小説を読んでみるのはいかがでしょうか。
楽しむための基本的な知識があるだけでもおかしな陰謀論に耐性はつくように思いますよ。「ナラティヴ(物語り)」という言葉がここ数年の世界を説明する用語として流行していますが、現実を無知ゆえに改変してしまうよりは、まずはフィクションの物語を読むところから始めましょう。



現在では、頭のおかしい人たちの振り回すおかしな異説珍説を「陰謀論」で「陰謀論者」と呼んでいますが、私が若い頃の日本では、こういうのを「電波系」の「トンデモさん」と呼んでいました。妄想上のおかしな電波を受信してしまってとんでもないこと言い出すトンデモさん、と。
もちろん昔からそうしたトンデモさんは存在していました。「電波」という概念が無い時代は「天からの声を聴いた」だのと。
ただ、今と昔が違うのは、インターネットという「電波」を通してトンデモさんたちが横に繋がり、時間差無しに連携して動くようになった結果として現実社会にまで介入し、「陰謀論者」という人間社会全体への危険な存在へと変化したのが今現在の世界。

話を変える前に一曲。

大槻ケンヂが2009年に発表した『林檎もぎれビーム』。
この曲の元ネタとなったのは1960年前後頃の日本であった終末論「リンゴ送れ、C」事件ですね。
1962年に人類は滅亡するも、事前に一斉送信される「リンゴ送れ、C」という一文の記された暗号電報を受け取った者だけがUFOに救い出されて生き延びる、と主張する当時の陰謀論者たちの引き起こしたトラブルです。
……2020年の米国大統領選挙でのトランプ敗北後に日本のQアノン陰謀論者たちが信じていた「世界緊急放送」ってのも、これが元ネタとして流用されたんだろうな。


ゲーム作家で小説家の山本弘が2007年に発表した『宇宙はくりまんじゅうで滅びるか?』が最近になって文庫化されましたので紹介していきます。
山本弘は1956年生まれのオタク第一世代の作家。そんな彼が2007年段階でオタク文化と自身との関わりを振り返りつつ、それまで発表してきた文章を収録した本です。
山本弘は1992年、〈と学会〉という読書サークルを結成し会長に就いています。〈と学会〉の「と」とはトンデモ本の「と」。

〈と学会〉に関わる文章を集めた第二章「トンデモを見れば世界が分かる?」に収録された『トンデモノストラダムス本の世界』(1997年発行)あとがきより。
結局、「ノストラダムスの大予言」とはいったい何だったのか?
それは一種のロールシャッハ・テストだ、と僕は考える。
ただのインクの染みが、人によっては「チョウチョ」に見えたり、「悪魔の顔」や「抱き合っている男女に見えたりする。それと同じで、あいまいな言葉で書かれているノストラダムスの予言詩は、読む人間の主観によって、どのようにでも解釈できてしまう。自分が平凡な人間であることにコンプレックスを抱く英森単氏は、優秀なクローン人間の出現を詩の中に読み取る。聖書を深く信じる内藤正俊氏は、聖書の預言を読み取る。地震に興味を持つ池田邦吉氏は、地震や火山噴火に関する予言ばかりを読み取る。戦争を嫌う一方、自ら「助平」と認めるミカエル・ヒロサキ氏は、平和的でエッチな予言ばかりを読み取る……。
そう、ノストラダムスの四行詩の中には、彼らの望むことは何でも書かれているのだ。池田邦吉氏や浅利幸彦氏や中村恵一氏のように、「ノストラダムスの詩には私のことが予言されている」と信じる人が現われるのも、不思議ではない。
~(中略)~
そう、ノストラダムスの予言が映し出すものは未来のビジョンなどではない。研究家たち自身の心の中――彼らの抱いている恐怖や願望なのだ。
「リンゴ送れ、C」は私が生まれるより前の時代の話ですが、私が子どもの頃の終末論と言えば何といっても「ノストラダムスの大予言」。
1972年に五島勉が『ノストラダムスの大予言』で、「迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日」と書いて以来、1995年のオウム真理教による無差別テロ事件を引き起こす遠因となって問題視されるまで、日本では多くの人間が関わり二十年以上も流布されていました。
私も自分の意志で「ノストラダムスの大予言」本を買った記憶は一度も無いけれど、意思とは無関係に大量に「ノストラダムスの大予言」を注ぎ込まれていたので「1999年7の月」の部分は今でも思い出せるものな。私が小学生の頃の夏休みなどよくテレビでも夏の怪談の一種としてか番組がありましたし、95年以前にもの心ついていた多くの日本人は信じる信じないは別として「1999年7の月」、思い出せるのではないでしょうか。
人類滅亡などなかった1999年7月からちょうど四半世紀分の時間が過ぎ、自称ノストラダムス研究の大家たちは忘れられた名前となっていますが、あれは何だったのだろう?
山本弘は1998年7の月に発行された、自称ノストラダムス研究の大家たちの文章を収集した本『トンデモノストラダムス本の世界』の後書きに"ノストラダムスはロールシャッハ・テストである"と記しています。自己の内側にあるものを投影する存在としての「ノストラダムス」だった、と。

そして、ノストラダムスの名前を見る機会も無くなった今現在、新たにインターネットを使って語られている終末論を含んだ陰謀論は、語る人びとがどのような人間かを映し出す鏡になっています。……他人ごとながら心配になります。あんな丸裸でインターネットを使うなんて。本気で「世界を支配するDS(Deep State)」とやらと闘っているつもりならば、まずインターネットを出来るだけ使わない生活に変えるべきです。

「終末論」とは何か? と問われれば、
それにしても、なぜノストラダムスの予言はこんなに人を惹きつけるのか? 浅利幸彦氏は『セザール・ノストラダムスの超時空最終預言』のあとがきでこう書いている。

こんなことを街角でわめいたら、変人か狂人扱いされるだけだ。あるいは怪しい新興宗教に洗脳されてしまった哀れな人、と思われるだろう。
だが、予言を研究していくと確かにこのような結論にいきつく。私はなんとしてでも真理を理解したかった。自分と人類の存在理由に納得したかった。


自分の存在理由――そう、ノストラダムスの研究家たちにとって、予言詩の解読とは、自らのレゾンデートルを確立する作業そのものなのだ。「私は世界でただ一人、ノストラダムスの予言を正しく解読できる人間だ」という信念は、自分が才能ある特殊な存在であり、「どこにでもいる誰か」ではないことを確信させてくれる。「変人か狂人扱い」されるのも、たいしたことではない。彼ら研究家にしてみれば、自分の偉大な業績を認めようとしない連中は愚か者であり、世間から嘲笑されることはむしろ誇りなのである。
終末論を含んだQアノン陰謀論者たちも全く同じ語りをしますよね。「こんなことを言ったら陰謀論者扱いされるかもしれないけれど~」と。
でも、その「私は真実を語っているのに迫害されている」という自意識過剰な思い込みこそが、本人たちにとっては"自分が才能ある特殊な存在であり、「どこにでもいる誰か」ではないことを確信させてくれ"て、選民意識を刺激する気持ちよくなれるドラッグとして機能しているわけです。これは選民化ではありません。単なるカルト化ですよね。
彼らがあれほど大災害や人類滅亡の予言に魅了されるのも、「私の価値が認められない世の中なんて滅びてしまえ」「私を笑った連中なんてみんな死んでしまえ」という願望がひそんでいるように思われてならない。その証拠に、大災害や核戦争のシナリオをつむぎ出す彼らの筆はうきうきしており、多数の死者に対する哀悼など微塵も感じられないのだ。
池田邦吉氏は『ノストラダムスの預言書解読Ⅲ』のあとがきで、予言詩の解読作業を、「不謹慎かもしれないが、とても楽しかった」と書いている。それは楽しかったに違いない。何億という人間を紙の上で抹殺してみせたばかりか、自分が偉大な人物として世界中から拍手喝采されるという夢を満喫することができたのだから……。


2004年発行の『トンデモ本の世界S』あとがきより。
日本SF界の重鎮、故・星新一氏の名言のひとつに、僕が座右の銘としている言葉がある。
~(中略)~
星氏のこんな発言。
「目のウロコが落ちたのと、飛びこんだのとはどこで見分けるんだ? 本人は落ちて新しいものが見えだしたと思ってるけど、じつは飛び込んだから見えだしたんだ(笑)」
~(中略)~
そもそも「目からウロコが落ちる」というのは聖書の世界の言葉である。『使徒言行録』九章、キリスト教徒を迫害していたサウロが、天下からの光とともに「なぜ私を迫害するのか」というイエスの声を聞き、とたんに目が見えなくなる。彼の家に、やはりイエスの声に導かれたアナニアがやってきて、サウロの上に手を置く。すると、目からウロコのようなものが落ちてサウロはまた目が見えるようになる。彼は改心して洗礼を受ける。
だから、何かの宗教に入信した人が「目からウロコが落ちた」と言うのは、用法として正しいのである。しかし、僕みたいな無神論者は、ついつい星氏と同じことを言いたくなってしまう。「それって本当はウロコが飛び込んだんじゃないの?」と。
日本では聖パウロという名で知られるサウロ。
当時まだ新興宗教だったキリスト教を取り締まる側だったサウロは突然に視力を失います。そこにイエスの声を聴いてやって来たというアナニアがサウロの顔に手をかざすとポロリとウロコのようなものがサウロの目から落ち視力を取り戻し、以後、サウロは熱烈なキリスト教徒となり布教の旅に出て殉教者となり聖人と呼ばれるようになるのが「サウロ(/パウロ)の回心」という物語。
"無神論者"とまで言わずとも信者ではない視点で見れば、典型的な新興宗教に「目覚めた」人の入信過程にしか思えませんよね。
「ウロコ」は本当に落ちたのか、それとも本当は飛び込んだのか。
ウロコとは、心の目にかかった偏見のフィルターである。フィルターがなくなれば、世界がよりクリヤーに見えると思われるかもしれない。それは逆だ。このフィルターは自分に都合の悪い情報をシャットアウトする働きがある。だから目にウロコが飛び込んだ者は、不都合なことが目に入らなくなり、世界が単純明快に見える。「目からウロコが落ちた」と勘違いしてしまうのだ。
今の時代が昔と違うのは、一部の思い込みの強い「トンデモさん」だけが「ウロコ」フィルターを装備しているのではなく、「フィルターバブル」という言葉があることで分かるよう、現在のインターネットは利用者の好みそうな情報を自動的に選別して表示するようになっています。「マスゴミと違ってインターネットには真実がある」と語ってしまう人の目にはすでに「ウロコ」が飛び込んでいるのですよね。
そして、極論を煽ることで数字を稼ぐ現状のインターネットのアテンション・エコノミーのシステムはトンデモさんたちの荒唐無稽な妄想を増幅させる。
「〇〇が諸悪の根源である」という考えは、たいていはウロコであり、間違っている。世の中の複雑な構造を、そんな短い文章で要約できるわけがない。単純化すれば分かりやすくはなるだろうが、正しくはない。それが正しいように見えるのは、図式に合わない事実をフィルターが切り捨てているからだ。
おそらく「フリーメーソンの陰謀」とか「相対性理論は間違っている」というトンデモ説も、同じ心理――「世界は単純なものである」という誤った信念に根差しているのだろう。
「世界がこんなに混乱しているのは、どこかにすべてを操る親玉がいるからだ」とか「相対性理論のような難解なものが宇宙の真理であるはずがない」というわけだ。
いいかげん、こんな幻想は捨てよう。世界は複雑である。ちっぽけな人間の頭ではとうてい把握できないほどにややこしく広大なのである。正解が存在しない問題だってたくさんある。それに単純な正解を出そうとするのは間違った行為なのだ。
「ウロコが落ちた」と思った時が危ないのだ。
トンデモさんたちを笑っていたはずの1992年に結成された〈と学会〉。
しかし、その〈と学会〉からも2010年代に入る頃には、自らがトンデモさん化していく人が続出します。
複雑さを避けて単純化に逃げ込もうとする怠惰さへの欲求をコントロールするのはなかなか難しい。


リンクしてあるのはPost MaloneとBlake Sheltonの『Pour Me A Drink』。

ポスト・マローンのカントリー転向は興味深い。
テキサス育ちとはいえカリフォルニアのヴィデオゲーム的な世界観のMV(例えば『rockstar』『Psycho』『Circles』といった)を発表してきた「New Geek」なポップスターだったポスト・マローンが、カントリー歌手のBlake Sheltonと一緒に歌う『Pour Me A Drink』は白人労働者階級の「弱者男性」を描いたもの。気が遠くなりそうな40時間勤務を終えてきたけど、贔屓のチームは延長戦で負けてるし、スピード違反で罰金とられたし、家で待ってる恋人もいない。そんな俺に誰か酒とタバコを奢ってくれないか、という曲。
Morgan Wallenとの『I Had Some Help』、Luke Combsとの『Guy For That』を発表。ポスト・マローンとカントリー歌手とのコラボは次々と発表されています。どれも「弱者男性」をカントリーの文脈に落とし込んだ良い歌詞です。

今現在の米国を「分断されたアメリカ」と表現するのは、ちょっと時代遅れになりつつあるように私には見えます。
カントリー・ミュージックを聴きつつ、私が思う今の米国のトレンドは「再統合」。分断が解消されたと「単純化」して言うつもりはありませんが、少なくとも振り子は統合の方へと揺り戻している印象があります。
2019年にLil Nas XがBilly Ray Cyrusと『Old Town Road』を発表した時には反発が強かったのですが、今年2024年、Beyoncéがアルバム『COWBOY CARTER』で黒人女性ポップスターによるカントリーを発表。スペイン語圏のスーパースターであるEnrique IglesiasMiranda Lambertと『Space in My Heart』、アイドル的存在だったMachine Gun Kelly改めmgkはJelly Rollと米国民謡として『Lonely Road』を発表。
そして現在は黒人によるカントリーとしてShaboozeyの『A Bar Song』がヒット中。


都会のポップスターがカントリーに歩み寄り、カントリー側もそれを受け容れる「分断」から「再統合」へと振り子が揺れる今現在の米国の状況は、白人労働者階級の悲哀を2016年に広く世に知らせた『Hillbilly Elegy』の著者J.D.ヴァンスが、ドナルド・トランプの副大統領候補に選ばれたと同時に時代遅れの存在になってしまったことからも明らかなように、時代の移り変わりを感じさせます。
「都会から無視された錆びついた田舎の白人労働者階級」みたいなナラティヴはもう時代遅れで、彼らの声に寄り添うアプローチはもう始まっています。

「知識をアップデートしましょう」と言うと、まるでウロコをどうこうさせられるかのように感じて反発する人もいるようですが、そんな大げさな話ではなく、刻々と変化する最新状況を追うようにしましょうよ、という話です。
状況を追うのも、何も「勉強しろ!」とか苦労を強いようってつもりもないですよ。エンタメを楽しみながら追ってみませんか、というのが私の主張。エンタメは現実そのものではないけれど、空気のようなものを把握しようとする時に手がかりになるはずです。
逆に言えば、エンタメを楽しめないほど感性が老い衰え、新しいものを億劫がるようになると終末論的陰謀論に絡め捕られていくのかもしれませんね……私も気を付けよう。

思っていたより曲の後が長くなったので、ポスト・マローンをもう一曲紹介しておきましょうか。

リンクしてあるのは、Post Maloneの『Mourning』。

カントリーに至る直前の去年2023年に発表された『Mourning』と『Chemical』の二曲のMVはヒルビリー的世界観で描かれ、止めたくても止められない依存症の苦しさを歌っています。
日本のメディアではテイラー・スウィフトの名前ばかりがチープに単純化された消費をされているけれど、今、注目すべきはポスト・マローンじゃないのかな、というのが私の視点。
今年2024年上半期、Disney+で放映中の真田広之がプロデューサーに名を連ねるドラマ『SHOGUN 将軍』が話題になりました。

1980年にもドラマ化されたことのあるJames Clavell原作の『SHOGUN』は日本史を題材に翻案したものであって史実通りではないので、日本人の目には「ん?」と思うところも当然ながらあって引っかかりはするのですが、日本国外で書かれた歴史ファンタジーだと思えば楽しめます。ファンタジー作品「『Game of Thrones』の日本版だ」と語る記事も少なくないですが、そういうものだと思えば。
日本を舞台とした作品に西洋人視点のオリエンタリズムを感じると、私は日本人として視聴を継続するのか悩むほど萎えますが、主演でプロデューサーも兼ねる真田広之とヒロイン役の澤井杏奈の二人がオリエンタリズムを拒否すると語っていたのが安心材料でした。

真田広之は『The Last Samurai』でハリウッドに「発見」されて以来二十年。ようやくハリウッドで日本人としての意見を通すことが出来るようになった語ります。日本人として今回の『SHOGUN』ドラマ化がこれまでのところ成功しているのは良いことです。
現在はゲーム『Ghost of Tsushima』の映画化が準備されていて、聞くところによると真田広之にアドヴァイスを求めた製作者はファンタジー寄りにするか史実寄りにするかをちゃんと決めた方が良いと言われたらしいですが、外からの勝手なイメージではなく日本人の意見が求められるようになったのは、日本人として悪い話ではないと私は感じています。

いわゆる文化盗用(Cultural appropriation)の問題に対して日本では否定的に語る人も少なくないですが、本当に不思議なのが「文化盗用」問題で、ハリウッドが日本人キャラクターを中国系や韓国系に演じさせるのに対しては怒る人が、例えば『ゴールデンカムイ』など、日本国内では「アイヌ人キャラクターはアイヌ系が演じるべき」だという声には踏み潰す側に回るのが理解できないのだよな。私個人としては出来るだけ舞台となるその土地の人たちやルーツを持つ人を使うべきだと見て思っています。
これはフェアネスとかコレクトネスといった話ではなく、日本国外で小遣い稼ぎ程度ではあるけど映画やドラマに出てみた私個人の経験もあるのでしょうが、「東アジア人ならみんな同じだろ」とばかりに中国人と日本人の区別がついていない所作を強いられているのを見るのは本当にうんざりします。やっぱりその土地の人が持つ独特の容姿や振る舞いってあると思うんですよね。

でも、ハリウッドで「マスター」と呼ばれるに至った真田広之が日本式の所作を明確にイメージとして刷り込めばこれも変わっていくのでしょう。
その意味ではNetflixでドラマ化され、Netflix内のテレビドラマ部門で2023年の年間視聴時間数1位となった『One Piece』でゾロ役を演じた新田真剣佑が物語冒頭で披露する殺陣も面白い。


真田広之は千葉真一と過去に師弟関係にありましたが、千葉真一の息子の新田真剣佑も「発見」されたことで、日本式の殺陣が米国でも認識されるようになると代用できない日本人の所作の存在が分かってもらえるようになるのではないでしょうか。例えば1984年の映画『The Krate Kid』の続編ドラマ『Cobra Kai(コブラ会)』で披露される格闘シーンと新田真剣佑の動きを比べれば一目瞭然。
……しかし、カラテ・キッドといえば、「カラテ」と銘打ちながらジャッキー・チェンが師匠役を演じた2010年の映画なんて完全に中国化していたし、2018年にシリーズが開始された『コブラ会』第1話で主人公が披露した空手に対し弟子になる少年が真っ先に尋ねるのは「それテコンドー?」。
2010年代という時代は「日本」が恐ろしいほどひどく地盤沈下した時代だったのだな、と改めて実感します。
最近、驚いたのが「韓国の俳優を使うと日本の同格の俳優の五倍のギャラが必要」という話。2010年代前半頃までは韓国の芸能人は「ギャラが日本に進出すると三倍、中国に進出すると十倍になる」と喜んでいたのに、逆転どころかそれだけの差がついて「安い日本」になっています。この現実を認識した上でどう日本を再興するのか、ってことなんでしょう。いまだに「経済大国日本」の幻想に浸っている人たちは認識を改めるべきです。


真田広之とともにハリウッドに「発見」された二大日本人スターとなるのが渡辺謙であることに異論がある人はいないでしょう。
渡辺謙が出演を選び、こちらも渡辺謙自身がプロデューサーに名を連ねているのはシーズン2が今年配信開始されたmaxの『Tokyo Vice』。

90年代日本を舞台に、ヤクザ組織を追うジャーナリストの白人男性に助言を与える日本人刑事役を渡辺謙が演じています。

真田広之の『SHOGUN』と渡辺謙の『Tokyo Vice』、時代劇と現代劇ながら物語の構造は似ていますよね。よそ者として日本にやって来た白人冒険者と、暴力に満ちた日本社会を冒険する彼に知恵を与えるトライヴを率いる日本人長老の関係を描きます。

この二人に次ぐ日本人長老を演じる役者として日本国外で重用されているのが平幹大。『SHOGUN』では石田三成をモデルとしたキャラクターを演じ、BBC制作のドラマ『Giri/Haji』ではヤクザを追う英国人キャラクターに知恵を与える日本人刑事役でした。
「エンタメとして描かれた」わくわくするほど暴力的な日本を冒険する、そのガイド役となる日本人長老キャラクターとしては、世界のプロレスのファンに「Murder Grandpa」の愛称で知られる鈴木みのるのここ数年のキャラクター役割の存在感でも、世界が日本人に何を求められているのかが分かります。

真田広之は『SHOGUN』の成功に「王道」という言葉を使っていました。日本を題材とした作品に求められる「王道」はやはりありますよね。サムライとヤクザ、カイジューにニンジャですか。
今年上半期、怪獣は映画『GODZILLA MINUS ONE』がオスカーを受賞し、ニンジャは賀来賢人がプロデュース兼主演した『House of Ninjas』がNetflixドラマとして配信されまあまあなヒット。
どちらもストーリーラインは奇をてらったところのない「普通」な作品ですが、そこが今、日本人に求められているところなのかな、と。
新田真剣佑と『ゴジラ-1.0』主演の神木隆之介がハリウッドで「発見」されれば、この二人が出演している映画『るろうに剣心』シリーズの他の出演者たちも「発見」されるかもしれませんね。
Netflixは続いて岡田准一プロデュース兼主演で今村翔吾の『イクサガミ』をドラマ化すると発表していますが、明治の時代に取り残された剣豪たちがチャンバラする『イクサガミ』を映像化するというのは『るろうに剣心』をNetflixでも作りたくなったからなのだろうな。
若手もベテランも、有名も無名も、日本のテレビ芸能界の序列をすっ飛ばすチャンスの時代がやってきました。ある意味、安くて性能の良い「Made in Japan」の復活です。

世界が待っていた「日本人女性キャラ」を演じられる存在となった澤井杏奈は、Apple TV配信の怪獣ドラマ『Monarch Legacy of Monsters』では主演。

『SHOGUN』では敵対する役だった平岳大が、この作品では澤井杏奈の父親役。
面白いな、と思うのは、平岳大は平幹二郎の息子ですが、『Monarch』で主人公の弟役を演じる渡部蓮も渡部篤郎の息子。新田真剣佑もそうですが、二代目の時代なんですね。

口の悪い人は「日本の俳優なんて下手くそばっかで学芸会だ」なんて言いますが、英語でこうした作品の感想を読んでいると「日本の俳優は上手い。もっと世界に出てほしい」なんてコメントをよく見ますし、中国語で読んでいると「日本の俳優は若手も殺陣が上手い。中国語圏の若手は編集で誤魔化さないと動けないのに」と日本での評価とは真逆だったりします。なんだかそれこそ過去となった「Made in Japan」の安心感みたいなものが残っている印象があります。

「日本スゴイ」に与する気はないし、「日本ダメだ」にも与する気はありません。
結局のところ「日本」のボトルネックとなっているのが大衆市場をこれまでコントロールしてきた各業界の大企業(エンタメで言えばテレビ局がその代表)にあるように思えてきます。
今年のゴールデンウィークの時期に話題となったNetflix版『シティーハンター』も映画というよりはテレビドラマの初回2時間スペシャルみたいな作品ですが、これを日本のテレビ地上波が作れるかと言われれば無理ですよね。
であれば、とりあえず、日本のエンタメについて何かを語りたくなった場合には、テレビ地上波の外にあるものについてもちゃんと語る、ということは大前提として明確に皆が認識すべきで、テレビ地上波だけで全てを知ったつもりになるのは止めておきましょう。


で、今の時代にそんな「日本」が提示する「普通」とは何なのかについて、インタビュー集『人類の終着点』(2024年2月発行)収録のマルクス・ガブリエルの語る現在の日本についての話から。
――マルクス・ガブリエルさんは、2023年春、4年ぶりに来日されました。久しぶりの東京訪問についてまずはお聞きしましょう。何か変化や新しいことはありましたか。

私が滞在していた時期は、パンデミックの収束が、正式に宣言された時期でした。法的な意味では「パンデミック収束」のまさにそのときでした。国境が開かれたばかりの時期だったので、私が知っている東京の国際的でグローバルな感じはまだありませんでした。
ロシアのウクライナ侵攻の影響で、東京へのフライトや私の旅行ルートは以前とはまったく違っており、日本は以前より遠く感じられました。
マルクス・ガブリエルは1980年生まれのボン大学教授。現代のスター哲学者の一人として日本でもよく知られています。
……マルクス・ガブリエルの語りって、私にとってとても同世代感があります。ちょっと前に、彼が学生の頃に体験した中南米での思い出話を読んでいたら、私もその場にいたエピソードがあって驚きました。その場にいただけで面識はありません。でも、同じ場所で同じものを見ていたのか! と。
彼の発言に私が全て賛同するかどうかは別の話です。でも同じ時代の同じ世代の他者の視点を取り入れるという意味において興味深い存在です。哲学者としての彼の仕事よりも同じ世代の代弁者としての通俗的な語りのほうが私には興味深く感じられるのですよね。
そして、私が感じたことは、国境が閉鎖され、厳しい政策が取られる中で、日本は1990年代から続いて、とても興味深い国へと変貌を遂げてた、ということです。
ポストモダニズムの絶頂期である1990年代、日本はいろいろな意味で世界をリードしていました。ビジネス界などのソフトパワーとして、日本は多くの面で文明の象徴でした。
そしてある意味では、パンデミックの最中に――ニンテンドースイッチの素晴らしい発明を私はいつも例にするのですが――日本は、その成功の一部を取り戻しました。別の面では、日本は1990年代の考えを替えずに、それを別次元に押し上げたのです。パンデミックの期間に、日本は非常に知的な形で改革に取り組み、いくつかの欠陥を修復したと思うのです。
ある意味で、4年ぶりの日本は、90年代末の「未来」に旅行したような気分でした。日本が過去から抜け出せなかったという意味ではなく、日本は欧米の他の地域と比べると別の「未来」に行ったのです。
これは文字通り「未来に戻る」(back to the future)旅でもありました。そう表現するのは、文化的にも適切だと思います。それも非常に成功した方法でやっており、批判的な意味ではありません。
世界保健機関(WHO)が新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミックを宣言したのが2020年3月11日。次々と国境が封鎖され始めたこの時をもって無条件にグローバリズム経済を謳歌できる時代は終わりました。
この無条件なグローバリズム経済の時代というのは日本にとっては「失われた三十年」でもあります。
パンデミックによりグローバリズムがストップした時、世界は日本に、21世紀に対応できずにいた日本がゆえに残存していたポストモダンな「20世紀世紀末に夢見た未来」を「再発見」したのですね。それをマルクス・ガブリエルは「back to the future」と表現します。
もちろんこの「back to the future」とは1985年にシリーズが始まった映画『Back to the Future』に掛けてあるのでしょう。私たち世代にとっては子ども時代を象徴する映画の一つでもあります。
コロナ後の日本は、まるで若い頃に見ていた夢の世界のようでした。私はソフトパワーであり、ロールモデルでもある日本を見ながら育ったからです。今の子どもたちもそうでしょう。
意図的ではないかもしれませんが、日本はこの戦略とポジショニングによって、若い世代に対するソフトパワーを獲得しているということです。
私の子どもたちや多くの子どもたちは、再び日本の製品に魅了されています。『スーパーマリオ』の映画などはその典型でした。これは最もわかりやすい例ではありますが、漫画やファッションなどより深い層も同様です。
~(中略)~
パンデミックの前に日本に来たときは、(知的、文化的、社会経済的な)日本の発展は、欧米の他の国とシンクロしていました。
しかし、パンデミックの「鎖国」期間中は、日本は外部の視線からある程度独立して自らを定義していました。
一部のジャーナリストや、パンデミック中に、日本にとどまらざるを得なかった人たちを除けば、日本人以外の視点を入れさせることはなかったのです。そういう意味では、ある種の90年代の日本的なエッセンスが新しい形として現われたということですね。
ある意味、2020年代の幕開けと同時に始まったパンデミックは「日本」にとってタイミングが良かったとも言えます。日本の経済的絶頂期である1980年代に子ども時代を過ごし、文化的絶頂期の90年代に若者時代を過ごした世代の子どもたち世代が若者になる2020年代に日本が「再発見」されたのですから。

21世紀に背(back)を向けて20世紀末の世界に立て籠もる「日本」。21世紀の経済発展に取り残された「遅れた国」であるゆえに"鎖国"の時代を経て世界に再び発見されたわけです。国境が解放されると「懐かしい」とノスタルジー体験を楽しみに観光客が押し寄せているのが今現在、私たちが見ている光景です。
……今現在の「円安」もある意味では90年代ノスタルジー。当時の私は通貨危機に陥った「安いメキシコ」や「安いタイ」などで遊んでいたけど、今度は逆の立場で眺めることになるなんて。

とはいえ、これでめでたしめでたしとはなりません。
新型コロナウイルスはパンデミックの時期を過ぎて日常化し、世界は再び動き始めているのですから。

NHKで放送されている『欲望の時代の哲学』シリーズを書籍化した『欲望の時代を哲学するⅢ 日本社会への問い』(2023年12月発行)より。
今までよりも今回、日本に来て感じた印象の一つは、一九九〇年代の興味深い時代に来たようだということでした。あの時代の様子はしばしば建築物に見られました。八〇年代と九〇年代の日本の成功は、今も残る建築物に見て取ることができます。
加えて、もちろん、世界に対して日本が持っているソフトパワーの起源は一九八〇年代と九〇年代にあると、私自身実感します。それらは私の日本観を支える要素でもあり、また実際に視覚的に確認することができるものでもありました。しかし今回は、以前感じたよりも強く、そうした要素を感じました。以前よりも日本は「九〇年代的」になっているのではないでしょうか? これがまさに、大きな問題の一つです。
~(中略)~
なぜなら、日本は、まだ自身を、二一世紀に置いていないからです。日本は今でもある程度、九〇年代の恩恵を享受することができていて、今後も、やはり九〇年代の遺産によって進み続けることができるでしょう。自身を模倣し、繰り返し始めているのです。
~(中略)~
二一世紀には、それだけでは不十分です。なぜなら日本は、新たな提案を掲げて変化の時代に参入するということを、まだやっていないからです。日本は、世界が既に見たものの改良版を掲げて、変化の時代に参入しようとしています。今は、それだけではなく、新しい挑戦をすべき時です。
ノスタルジーだけでは未来が無い。
他国の人から言われるまでもなく、日本に漂う閉塞感は、内向きで後ろ向き、未来を感じられないところにあるのでしょう。そして、未来を感じられないのは、過去の成功体験にあまりに囚われている現状にあるはずです。
私だって80年代に子ども時代、90年代に若者時代をリアルタイムに過ごした世代ですからノスタルジーは分かりますよ。でも、過去の再生産に未来は感じられません。それどころか、かえって最近の日本における数字に媚びた懐古主義にはノスタルジーよりも不安を感じます。
新たな挑戦の兆候が見えないこと、それが日本に見られる最も強い不安の正体です。それが経済にも反映されていると私は考えます。「それで十分なのか?」ということなのです。私は、日本は今こそ、ジャンプするべき時だと思います。何か新しいものへと思い切った賭けに出なければならないのです。日本が既にやっていることと結びつけたものでもいいのです。
そこでの私の提案は、当然、「倫理資本主義」です。あるいは私が昨日フォーラムで提案したように、それを「形而上学的資本主義」と呼んでもいいかもしれません。なぜなら、先ほどもお話ししましたように、「倫理」という言葉は日本ではどうも受け入れられにくいということもあるようですからね。ネーミングだけで抵抗感を持たれてしまうのはもったいないですから、「倫理資本主義」「形而上学的資本主義」、どちらでも結構です。
資本主義の現状を批判的に見、新しい挑戦を、と言えば「お前は共産主義か? 左翼か?」と攻撃されますがマルクス・ガブリエルは資本主義を否定しているわけではありません。現状の資本主義は不完全なもので、より良い未来のための新しい資本主義に必要なのは「倫理だ」と言うのが彼のポジションです。
この「倫理資本主義(Ethical Capitalism)」という概念を23年5月に経団連を相手に説きますが、彼の得た感触では"「倫理」という言葉は日本ではどうも受け入れられにくい"し、"抵抗感を持たれてしまう"ようだ、と。
日本人の「倫理」という言葉に対する忌避感は、日本社会が今も(大衆的に理解された)ポストモダンの段階にあるからなのかもしれませんね。ポストモダンにおいては「倫理」もまた解体すべき対象でしょうから。でも、例えば、皆が「数字、数字」と数字をカネに替えて「職業倫理」を持たないような社会ではかえって人間は生きにくくなるし、閉塞感もあるはずです。
私が推奨するのは、独自の形而上学的、非物質的な源を見つけ出すことです。つまり、まだ眠っている日本人の気質があるとするならば、日本人の気質がどのように二一世紀のイノベーションの構造に貢献できるのか?と考えてみることです。もちろんAIへの投資もしていますし、その方面は得意のはずでしょう。AIもテクノロジーの分野ですからね。しかし、日本の発展の次のステップには、精神的な、そしてそのための哲学的な側面が必要だと思うのです。そしてそこに、基本的に新しい経済を作り出さねばならないのです。
なぜなら他国もまた皆、それぞれ異なる方法で、新しい経済を作り出そうとしているからです。ヨーロッパなら欧州グリーンディールで緑を増やそうとしています。日本でも「regenerative economy」=「再生型経済」に関する議論が盛んになっていると聞いています。今日では、高層ビルに緑が見られるようになりました。あれが、そうした議論が盛んになっている証拠です。ですが、繰り返しになりますが、新しいものは高層ビルとは違う、他の物でなければなりません。
未来が見えない閉塞感は日本で「哲学」(通俗的なものも含め)が語られなくなったところにあるのではないでしょうか。
目先の「数字、数字」を追うばかりで哲学が無ければ未来へのヴィジョンは描けません。
それなのに、今の日本では平気で「人文なんて必要ない。教育は稼げる技術だけ教えればいい」なんて言う人がいます。でも、稼ぐ技術に特化し倫理をかなぐり捨てた連中がアテンション・エコノミーで日々引き起こしているトラブルにはうんざりしませんか? また、数字しか評価基準を持っていないがゆえの数値偽装や員数主義なども日々目にするところですよね。
それだけを追っていると絶望しそうにもなるけれど、日本にもまだまだ「数字、数字」だけではない、新しいものや面白いものはたくさんあるはずなのにな。私はそっちを注目していきたいし、紹介していきたい。


最後に『人類の終着点』収録インタビューから。
――コロナ禍を改めて振り返ると、中国の台頭、ウクライナ戦争、西アフリカなどでも中ロへの接近の動きなどが浮かびます。これらを見ていると、戦後、私たちが信じてきた西欧の自由や民主主義が、必ずしも世界の進路ではないのではないかと考えさせられます。リベラルな民主主義は、相対的な意味で、世界的に力を失いつつあるのでしょうか。

その通りです。これは非常に深刻な問題です。
私が考えるに、リベラルな民主主義は、それ自体の矛盾のために魅力を失いつつあります。そして、それ以上に、私たちは自らの矛盾に向き合っていないのです。
たとえば、資本主義の矛盾です。
~(中略)~
ここに、問題があるのです。
権威主義とリベラルの競争で勝ちたければ、われわれは「真のリベラル」にならなければなりません。私の解釈では、これは資本主義の内部にある矛盾を克服しなければならないということです。
その矛盾はたとえば企業における資本主義的な剰余価値生産にあります。ホワイトカラーを含む労働者の日常的な現実の中にあるのです。これは、社会主義的な意味ではありません。人々が仕事をするうえで、ヒエラルキーが多すぎます。つまり、権威主義的な要素が多すぎるのです。
~(中略)~
権威主義に勝つためには、民主的資本主義の中にある権威主義的要素を取り除く必要があるということです。さもなければ、権威主義が私たちを打ち負かすでしょう。
私が言いたいのは、すべての人の自由を増やすために、ボトムアップ・モデルで経済を再構築する必要があるということです。そうでなければ、完全な権威主義体制を比較することはできませんよね。
~(中略)~
私の主張を言い換えるなら、現在の問題点は「資本主義が十分に足りていない」ということです。独占企業やごくわずかな個人、有名な億万長者たちが疑似宗教的な権力を持っている。ザッカーバーグ(メタCEO)やベゾス(アマゾン創業者)などが典型です。天才企業家や勝者が、すべてを手にするモデルという考え方は資本主義ではありません。
~(中略)~
あまりに多くの経済力があまりに少数の個人の手中にあるのは、資本主義ではありません。資本主義とは、再分配の自動的な構造が存在することを意味します。それは、システムに内在するものです。
~(中略)~
本来の形の資本主義では、移動の自由や、市場の自由などがあれば、いつでも別の仕事が見つけられ、上司に奴隷のように使われる必要はありません。しかし、もしビッグデータ企業が1社しかなければ、あるいは数社しかなければ、ジェフ・ベゾスから始まる指揮命令系統に依存するしかないのです。

リンクしてあるのは、Bring Me The Horizonの『Kool-Aid』。

英国のバンド〈Bring Me The Horizon〉の『Kool-Aid』MVは、日本をテーマにしているわけではないのになんだか漂う「日本の匂い」。調べてみれば撮影チームはわざわざ日本人で固めていますし、ソングライターには〈Paledusk〉のDAIDAIが名前を連ねています。やっぱり分かりますよね。日本人の作り出す独特の空気感とか「色」みたいなものは。
〈Bring Me The Horizon〉の最新MV曲『Top 10 staTues tHat CriEd bloOd』になると、これはもうU.K.RockではなくJ-Rockだ。
少し前に書いた韓国の演歌/トロットについての記事(散歩話 第688回 「韓国といえば演歌」)と関連した話です。





韓国MBNで『韓日/日韓歌王戦』という番組が放送されて人気になっていました(日本での配信はAbema TV)。

日本で開催された『トロット・ガールズ・ジャパン』での上位7名が韓国に渡り、韓国のトロット番組『現役歌王』の人気女性歌手たちと対決する日韓歌合戦番組です。
色々と韓国人の番組に対するコメントやステージで披露された楽曲についてのコメントを探して読んでいましたが、思っていた以上に韓国では日本の演歌や歌謡曲の需要があるのだと新たな発見。番組ではもっと日本側出場者に演歌を歌って欲しかったという意見もあり、本職の演歌歌手が韓国の音楽番組に出ればそれなりに人気を得ることができそうです。

歌詞の翻訳を読んで知った韓国人が「日本人にも感情があるんだ」なんて話をしているのは日本人として一見ギョッとするのだけど、日本人との交流が無い韓国人には「日本人は冷酷で感情が無い」という思い込みがあるからなのだろうな。日本人の側にも今の韓国にはK-POPしかないとか、韓国では日本語の歌は今も禁止されているとか、勝手な思い込みで語る人が少なくないのですから知識の偏りはどこにでもあるものです。
だからこそ、お互いに認識のギャップが歌によって埋まるのは悪い話ではない。
「日本人は冷酷で感情が無い」とイメージしている韓国人には昭和のフォークソング辺りも「発見」して欲しいところ。中国では吉田拓郎の音楽で日本人への解像度を上げる手法が「発見」されていますが、吉田拓郎は韓国の386世代と呼ばれた世代にも刺さるんじゃないかな。韓国でも人気のあるあいみょんをブリッジにして紹介すれば。

で、この番組で日本チームの妹キャラとして登場した住田愛子が「健康的でかわいい!」と韓国のおじさんおばさんの間でバズっています。

『韓日/日韓歌王戦』放送終了後もすぐに次の番組出演が決まるほどの人気でした。
……眺めていると、韓国にもおじさん構文おばさん構文があるんだな。日本の若手演歌歌手のコメント欄と同じ絵文字だらけの文章に日本語と韓国語の境が溶けていく。

『韓日/日韓歌王戦』を見ていたら住田愛子をチアリーダーと紹介していました。日本で書かれた記事には地方アイドルと書いてあるのも見かけましたが、彼女は正確にはアクターズスクール広島(略称:ASH)という広島にある芸能スクールの生徒です。チアリーダーや地方アイドルではなく、ASH生徒のステージ経験を積むための実習チーム〈SPL∞ASH〉メンバーであって、あくまでも芸能スクール受講生の一人でアイドルではありません。ここからどこかのグループに合格してアイドルと呼ばれるようになります。
日本のアイドルを「学芸会レベル」なんて言う人もいますが、これが本当の意味での学芸会レベルです。

その上で、『韓日/日韓歌王戦』に対するコメントでは「日本のアイドルは歌も踊りも下手だと思っていたけど、歌って踊れるタイプもいるんだ」なんて感想をよく見ます。特にHYBE社のお家騒動でK-POPアイドルの加工修正無しでの歌唱力の低さが韓国で問題視されたすぐ後でしたから。
でも現在の日本の女性アイドルの出身校としてASHは最大学閥の一つですよね。ASH出身の国民的アイドルならば〈Perfume〉の三人、国際的アイドルなら〈BABYMETAL〉のSU-METALこと中元すず香がすぐに思いつくはずです。
そして、「下手」の象徴として〈AKB48〉の名前が出されているのも見かけますが、48グループにもASH出身者は少なくありません。特に、広島を中心に瀬戸内エリアをフランチャイズとする〈STU48〉はASH生徒の受け入れ先として機能しており、STUの初代キャプテンこそ東京のAKBから派遣されましたが、二代目の今村美月と三代目の岡田あずみは両者ともASH出身で〈SPL∞ASH〉からのSTU入団なので、住田愛子にとっては直の先輩、三代目の副官ポジションの久留島優果はASH入学同期、岡村梨央は同世代の学内ライバルでした。さらにSTU歌唱担当の池田裕楽清水沙良もASH出身ですからSTUの三代目体制はASHのほぼ延長線上にあるチームです。(こっそり張ったリンクはしばらくしたら外します)
アイドルではない一受講生が韓国で「ウチの国のアイドルとは違って口パクせずに歌って踊れるなんてすごい」と評価されるのならば正規にアイドルしている彼女たちがもっと評価されていてもいいのに。

ついでに紹介しておくと、この世代のASH出身者の序列トップはSU-METALの後継者として〈METALVERSE〉を任されている戸高美湖になるのでしょう。

そして、テレビ地上波の人たちには〈櫻坂46〉の谷口愛季になるのかな。

ASH出身者でエリートとされるのは中学生くらいまでの間に「卒業」して東京の大手芸能事務所に入った層。戸高美湖も谷口愛季も13歳の時にASHを「卒業」し、それぞれアミューズ社とSMA(Sony Music Artist)社に所属しています。
そして、上京せず/できずに地元に残ったうちの上位層がSTUに入団、というのが日本のアイドル界隈におけるASH出身者の一般的なキャリア認識のはず。秋元康が岡田あずみらASHからのSTU同期入団組に書いた『楡の木陰の下で』の歌詞は、夢のために上京する彼女を見送る地元に残る者の視点から描かれます。
なので、韓国でいきなり評価された高校生の彼女は学内の優等生の一人ではあるものの特別にエリートというわけではありません。

『韓日/日韓歌王戦』に日本側主将として参加した福田未来も2018年に解散した〈THE HOOPERS〉のメンバーで彼女も元アイドルですが、韓国のトロット歌謡番組に出場した日本人への反響を観察していると、日本のアイドルが比較対象されるべきなのはK-POPアイドルではなくトロット歌手なのか、と新しい気付きを得ました。K-POPアイドルと日本のアイドルは音楽ジャンルが違うのですね。
例えば、ASHからハロプロに入団した〈Juice=Juice〉の段原瑠々(実姉がASH実習部門チーフスタッフ)と〈OCHA NORMA〉の広本瑠璃(STU48の清水、METALVERSEの戸高と同じ実習チーム出身)の二人で歌って踊る姿は韓国では「アイドル」ではなくトロット枠に見えるでしょう。ハロプロの〈アンジュルム〉から日本人K-POP枠に転向した笠原桃奈がリーダーとなった〈ME:I〉と比べると違いは明白です。
……K-POPアイドルと日本のアイドルを続けて見ると、日本のアイドルの身体的負荷の高さに対してのリターン(金銭的な話でなく大衆的な知名度とか評価という意味で)の低さに悲哀を感じます。〈ME:I〉の事例で言えば笠原桃奈だけでなく副リーダーの石井蘭もLDHグループの〈Girls²〉からの転向組ですが、それまでの活動では大衆的人気を得るためのメディアの門戸は閉ざされ無視されていたのに、所属チームをK-POP枠に替えるだけで、テレビの音楽番組に呼ばれ雑誌の表紙を飾れるようになり、「さすがのキャリアとスキル。ビジュもいい」と急に褒めて評価されるようになるのですから。


『韓日/日韓歌王戦』の韓国での反応を眺めつつ思ったのは、テレビ地上波に代表される日本の大衆向けメディアでK-POPアイドルではないがゆえに門戸が閉ざされている日本のアイドルたち…例えば、ハロプロや〈STU48〉から演歌ではない歌謡曲寄りの対トロット選抜を作って逆に韓国に送り込んだら意外と人気が出るんじゃない? と。
『韓日/日韓歌王戦』の平均視聴率は10%越えで韓国国内の音楽番組としては大ヒット。K-POPアイドル主体の音楽番組の韓国国内視聴率は1%に満たない0.何%程度であることを考えればはるかに大衆的です。
STUメンバーと48グループ内歌唱コンクールで競っていた元NMBの李始燕も韓国でK-POPアイドルではなく日本式のバンド・カルチャーを背景とするアイドルのスタイルを採る〈QWER〉のヴォーカルとしてK-POPアイドルに占拠された韓国国内各種音楽チャートで上位に食い込んでいます。
川の流れのように』に感動した韓国人が作詞が秋元康だと知って「え、あの(悪名高い)秋元康?」となっているのも面白いけど、もちろん目ざとい秋元康はすでに昭和歌謡曲チームも稼働させてもいますし、ハロプロを運営するアップフロント社も元々はフォークソング系で演歌歌手も扱う会社なのだからハロプロOGをプールしているM-lineを昭和歌謡チームとして送り込んでも良さそうに思えてきます。
ただし、その場合は、ハロプロ式歌唱は矯正する必要があるのと、元AKBの竹内美宥市川美織とは違うもっと大衆的なアプローチでと。



韓国から離れて米国や中国での話に移ると、
世界的に話題になった作品『SHOGUN』でヒロイン役を演じたのが澤井杏奈。日本では2018年12月まで〈FAKY〉として活動していました。

澤井杏奈のキャリアは12歳でのミュージカル『アニー』の子役から始まり、ついにハリウッドに到達しましたが、その間にあるのが〈FAKY〉のAnnaとして歌って踊る彼女の姿。
よく「K-POPアイドルのように日本のアイドルも英語が話せるようになるべきだ」なんて言う人もいますが、英語が話せて後にハリウッドに進出するような人材を擁しても、まず日本で大衆に知られるようになるのは容易ではない。また、「日本には幼稚じゃない大人なコンセプトのグループはないの?」なんて言う人もいますが、そういう人たちは存在を知ろうともしないのですよね。

今年24年1月をもって〈FAKY〉は力尽き解散。
澤井杏奈が世界的スターになろうとする『SHOGUN』放映期間の今年春、〈FAKY〉のエース格だったAkinaはタイで開催されていた中国WeTVで配信されるオーディション番組『創造営』シリーズにデビュー前の若手に交じって参加していました。しかも明らかにキャリアの長い彼女ゆえに、番組上「当て馬」として扱われているのは何というか…ここにも悲哀を。

『創造営』といえば、

中国における日本型アイドル出身者として、23年4月に解散した〈INTERSECTION〉メンバーで前回2022年の『創造営』に合格し〈INTO1〉メンバーとなって活動の場を中国に移した橋爪ミカ(中国語表記は米卡)と、まだ48グループだった時期の〈SNH48〉に入団しエースだった鞠婧祎のステージを。


私、「韓国のアイドルと比べて日本のアイドルは歌も踊りも下手だ」とは全く思わないんですよ。K-POPアイドルとはステージパフォーマンスのフォーマットが違うのであって、個々のスキルの優劣ではなく、加工修正含めて「完成された」K-POPアイドル(これは否定的な意図はありません。加工修正も含めた一つの作品として完成させているという意味です)と生の素材に近い形で出す(がゆえに「未完成」視される)日本の「ライヴ」なアイドルの見せ方/見え方が違うだけで。
その違いは、基本リップシンクで視覚効果優先のK-POPだけの話じゃなく、歌を聴かせるトロット番組としての『トロット・ガールズ・ジャパン』と『韓日/日韓歌王戦』でも日本と韓国それぞれにおける映像や音声の処理を同じ歌手の同じ歌で比較すれば分かりやすいはず。韓国では歌の不安定な部分は修正し、映像にもフィルターをかけて加工しています。
人には好みがありますし、別に「生」の「日本」を高評価して加工修正ありきの「韓国」を下げろと言いたいわけでもないんですよ。逆に日本、特にテレビ地上波はもう少し見映えを上手く整えてあげればいいのに、と私は思っていますから。
言いたいのは、そもそも上手だ下手だという以前に日本では多くの活動が知られず、評価の土俵にすら上がらせてもらえない状況がある、ということです。


金成玟の『日韓ポピュラー音楽史 歌謡曲からK-POPの時代まで』第9章より。
二〇一〇年代は、JーPOPの音楽的・社会的メカニズムが大きく変容した時代である。音楽評論家の柴那典が指摘しているように、テレビを中心に国民的ヒット曲を量産していた「ヒットの方程式」が成立しえなくなり、社会に対して音楽が保っていた従来の影響力も低下していった。そのなかで、JーPOPが世界の潮流とかけ離れ、孤立しているという「ガラパゴス論」が広がっていった。とはいえ、「ガラパゴス」そのものに関しては、賛否両論に分かれる。これまで日本の音楽界が生み出してきた独自のポップスに焦点を合わせれば、これも柴がいうように「相変わらず日本はガラパゴスで面白い」のも事実である。しかし、「アメリカとの同時代性」を保ちながら巨大な音楽市場を構築した一九七〇年~八〇年代と、その遺産を受け継いだ「JーPOP」がアジア市場に影響を与えた一九九〇~二〇〇〇年代の文脈のうえで考えると、二〇一〇年代のガラパゴス論は、「世界とつながっていない感覚」をめぐる不安と危機感の表れであるといえよう。
今の日本では「洋楽が聴かれなくなった」とよく言われます。これは音楽における「洋楽」だけでなく、「洋画」や翻訳書(洋書と言うと意味が変わっちゃうので)などでもそうですよね。"世界の潮流とかけ離れ、孤立している"感覚はJ-POPだけでなく文化的にも社会的にもあるはずです。

過去には「世界第二の経済大国」と呼ばれた「日本」の没落が誰の目にも明らかになった2010年代、それまでの日本のビジネスモデルは変化せざるを得ない状況になります。しかし、その危機感の向かう先は、外に開く改革ではなく、内向きに作用したわけです。
二〇一〇年代の「日本ゴールドディスク大賞」の受賞リストからは、「アイドルの時代」にもかかわらず、アイドル間の激しい競争や音楽業界の権力闘争、世界の音楽的トレンドの接点など、アメリカや韓国の音楽界から伝わるダイナミズムを読み取ることはほぼ不可能である。その意味で二〇一〇年代後半アーティスト別売上トップ10のリストは、不安と危機感の表れとしてガラパゴス論を強化させるものであるといえよう。
2010年代という時代を考えるに、日本ゴールドディスク大賞の受賞者は象徴的です。2010年と11年は二年続けて〈嵐〉、12年13年14年は三年続けて〈AKB48〉、15年16年17年は三年続けて〈嵐〉、18年と19年は引退を発表した安室奈美恵、20年と21年は活動休止を発表した〈嵐〉と、ほぼ十年の間〈嵐〉で受賞リストは占拠されているのですね。ついでに書いておくと、22年23年24年は〈Snow Man〉で旧ジャニーズ勢がそのままスライドしています。
オリコンリサーチに基づくアーティスト別売上も、(全部を書くのは長くなるので)トップ3で並べると2015年は〈嵐〉・〈AKB48〉・〈三代目 J Soul Brothers〉、16年は〈嵐〉・〈SMAP〉・〈AKB48〉、17年は〈嵐〉・安室奈美恵・〈乃木坂46〉、18年は安室奈美恵・〈乃木坂46〉・〈AKB48〉、19年は〈嵐〉・〈乃木坂46〉・〈King & Prince〉。
イレギュラーな引退特需の安室奈美恵を除けばジャニーズと秋元康プロデュースのAKBと乃木坂で売上上位はほぼ寡占状態にありました。

新しいものを受け容れて冒険するよりは、内向きにこれまでを前例踏襲し、内部の利害調整が全てに優先するガラパゴス的面白さというよりは「官僚主義」的で「大企業病」罹患の象徴がジャニーズと秋元康プロデュースのアイドルによるチャートの寡占状況だった、と言ってしまっても反発する人はそうはいないと思います。
そして、でありながら、肯定的であろうと否定的であろうと、ジャニーズと秋元康プロデュースのアイドルしか知ろうとしない大衆の側もまた、その構造に加担してきたとも言えます。
嵐やAKB/乃木坂といった「個」の問題ではなく構造の問題です。

この状態が止まるのは2020年代に入ってから。
オリコンのアーティスト別売上は20年も1位は〈嵐〉でしたが2位に〈BTS〉が入り、21年と22年にはついに〈BTS〉が1位となりました。
K-POPという「外圧」によって日本の構造改革を期待する層が現われるのも妥当と言えば妥当です。
TWICEに憧れた日本の若者たちが次つぎとソウルに渡っていく二〇一〇年代後半の動きは、BTSが開いたアメリカ音楽市場への欲望とあいまって、さらに活発化する。
~(中略)~
ビルボードのみならず世界一〇〇以上の国と地域の音楽チャートと連動するKーPOPの影響力は、グルーバルな音楽産業の構造にも変化を与えている。二〇二一年、BTSの所属事務所HYBE(旧BigHit)が、ジャスティン・ビーバーらが所属するメディア企業イサカ・ホールディングスを一〇億五〇〇〇万米ドルで買収したのはその一例である。韓国のエンターテインメント企業による史上初の海外M&Aと言われるこうした出来事においてみられるのは、K-POP企業のアメリカ進出だけではない。HYBEが試みているのは、むしろこうした産業的連携を通じて、自分たちが構築した「プラットフォーム」にアメリカのアーティストたちを吸収し、K-POPを中心としたグローバル化を展開させることのようにみえる。
〈BTS〉の世界的成功を梃子にBigHit社は次々と他社を買収し、単なる一芸能事務所の枠を越えた総合プラットフォーム企業を目指してHYBE社へと進化。
こうしたK-POPのダイナミックな動きを見てしまえば、若者じゃなくても日本での動きはどうしたって鈍く見えます。
2010年代後半、男性ならジャニーズ、女性なら坂道に入らなければ閉じた門戸で排除され、たとえジャニーズと坂道に入れたとしても内向きな活動ばかりで硬直化した日本ではなく、日本人メンバー三人を抱える〈TWICE〉の成功に憧れ韓国に渡るアイドル志望者が拡大したのも当然です。閉じた日本を出て、K-POPというプラットフォームを使って「グローバルな」存在になろう、と。
日韓の文脈のなかで考えるならば、二〇世紀を通して東アジアのプラットフォームの機能を果たしてきたのは、いうまでもなく日本であった。日本が東アジアに及ぼしてきた音楽的・産業的影響力は、東アジアにおける日本の音楽の受容・融合の側面だけでなく、日本における東アジア音楽の受容・融合の側面と照らし合わせることで、その全体像がみえてくる。一九七〇年代以降の、韓国の音楽(家)が次つぎと「日本進出」を図りつづけた過程も、「プラットフォームとしての日本」に向けられた欲望抜きでは把握しきれない。
二〇一〇年代を通して起こったのは、まさにプラットフォームの「移行」である。
~(中略)~
日本のK-POP市場の拡大と同時に進行した、プラットフォームとしてのK-POPの影響力の拡大である。
二〇一〇年代後半に日本のメディアが投げかけた「史上最悪の日韓関係にもかかわらず、なぜK-POPは日本で受容されつづけるのか」という問いに対しても、「プラットフォームが移動したから」と答えることができるであろう。つまり、二〇一〇年代の日本におけるK-POPの受容は、単なる消費ではなく、むしろK-POPというプラットフォームへの参加であったのである。
東アジアにおける文化的プラットフォームは日本から韓国へ移ったのです。
この前提に立った上で現在の日本を認識すれば、聴かれなくなった洋楽の代わりにK-POPが扱われ、洋画の代わりに韓国ドラマ、本屋に行けば韓国の翻訳エッセイや小説が並びます。若い子たちが電車のなかでスマホで読んでいるのも日本の漫画ではなく韓国のWebtoonなのもよく見かけます。テレビ地上波や雑誌も「韓国で流行している〇〇は」みたいな特集をよくやっていますよね。
もう好き嫌いの問題ではありません。
だからといって「日本にあったプラットフォームが韓国に奪われた」と逆恨みするのもスジ違いです。日本人は内向きになることで東アジアのプラットフォームであることを維持するよりも放棄することを自ら選んだのですから。


リンクしてあるのはXGの『WOKE UP』。

『日韓ポピュラー音楽史』の最終章の最後部分で扱われているのはこの〈XG〉。
その欲望を体現しているのは、二〇二二年にデビューした七人組ガールズグループXGである。メンバー全員が日本人で構成されながらも、歌とラップはすべて英語であり、ヒップホップを前面に出したパフォーマンスで目指す「グローバル進出」は、トレーニングとデビュー、活動の拠点を韓国にしていることからも明らかである。
メンバー全員が日本人で日本のavex社傘下で結成された〈XG〉はK-POPのプラットフォームを利用して"グローバル進出"を目指し、実際、それなりの存在感を持つようになっています。
〈FAKY〉にしても〈INTERSECTION〉にしても数々のavexの自社プロジェクトは失敗ばかりですが、〈XG〉はK-POPプラットフォームに乗っかることでついに成功事例に到達しました。
また、同様に、自社プロジェクトを連続で失敗しK-POPプラットフォームに乗ることで成功事例となった吉本興業が韓国CJENMと共同運営する〈JO1〉らの存在もあります。
「KーPOPかJーPOPか」もしくは「KーPOPvsJーPOP」のような二項対立的構図だけで捉えると、あまりに多くのことを見逃してしまう。XGの所属先が日本のエイベックス傘下のXGALX(エックスギャラックス)であることは、日韓の相互作用と融合の歴史を想起させる。
2020年代という時代におけるK-POPは、HYBE社が主導権を握るものと思われていました。ところがHYBE傘下のレーベル間は内戦状態。
K-POPプラットフォーム上にありながら韓国国内の権力闘争とは無関係な〈XG〉の存在感が目立ち始めたのが面白いところ。
K-POPアイドルと日本のアイドルの融合という話に注目しつつ、この〈XG〉の新曲『WOKE UP』MVを見ると、avexとレーベル契約していた第一期〈BiS〉以来のWACKグループのアートワークを桁違いの予算規模でブラッシュアップした印象を持ちます。
また、HYBE社の内戦で〈New Jeans〉と〈ILLIT〉が潰し合いをしている隙を衝いて浮上してきた〈tripleS〉の新曲『Girls Never Die』MVは〈欅坂46〉/〈櫻坂46〉だよな。日本でのレーベルはSony Musicだし。
……と同時に、今現在も収まっていない閔熙珍ミンヒジン の暴露に始まるHYBE社のお家騒動は、本来は機密で表に出すべきではないK-POPビジネスの絡繰りの暴露合戦になっていて興味深い。「外圧」を期待して過剰にK-POPを理想化してきた人たちには面白くないでしょうが。