このブログを書き始めた当初はパソコンで読んでいる人がほとんどでしたが、今はスマホからのアクセスがほとんど。スマホで読んでいる人とパソコンやタブレットで読んでいる人では見えているブログのデザインが違うのでほとんどの人が知らないのでしょうが、このブログの右側にはずっと私が直近で読み終えたエンタメ小説を紹介しています。
私はスパイ小説とミリタリー小説が大好きでよく読みます。また、SF小説やファンタジー小説も好きです。日本の歴史小説では忍者ものを好んで読むのはスパイ小説とかファンタジー小説と同じ枠で読んでいるからです。
冷戦時代以前を舞台とするクラシックではない現行シリーズで人気のあるものだと、2022年にNetflixで映画化もされたマーク・グリーニー(Mark Greaney)の〈暗殺者グレイマン〉シリーズなんてエンタメとして面白いですよ……映画版と原作シリーズはストーリーが全く違いますがイメージ映像として。
CIAの特殊工作部隊から脱走した主人公が悪党の暗殺だけを請け負う殺し屋となり、CIAはじめとする各国諜報機関や軍情報部、傭兵企業(PMC)やマフィアから次々と送り込まれる追跡の手を避けながら依頼を遂行していく物語が〈暗殺者グレイマン〉シリーズ。2009年にシリーズが開始され今年24年は13巻『The Chaos Agent』が出ています(日本語翻訳は現時点では12巻『Burner(日本語題:暗殺者の屈辱)』まで)。
また、グリーニーは、2013年に亡くなったトム・クランシーの〈ジャック・ライアン〉シリーズも引き継いでいます。……〈ジャック・ライアン〉シリーズは昔から映画化されてきましたが、最近ではAmazon Prime Videoがドラマ化していますね。
グレイマンに代表される現在のスパイ/ミリタリーのアクション小説の物語は日本の時代小説の忍者ものと相似しています。少年時代から戦闘技術や潜伏工作技術を叩きこまれた男が組織に裏切られて抜け忍となり、抜け忍狩りの追っ手を避けながら陰謀を暴くための戦いを繰り広げる。こうした作品では「抜け忍」という日本語はさすがに見たことないけれど、日本語のまま「Ronin」(浪人)という言葉が出てきたりもしますので意識はされているはずです。
なので普段は日本の時代小説を読んでいる方にも現代の忍者もの/浪人ものとしてお薦めできますし、エンタメとして楽しみながら現実のニュースに登場する兵器や組織の名前や機能も覚えられます。
そんな私ですから、日常的にたっぷりと「陰謀」をエンタメとして楽しんでいます。
しかし、エンタメとして楽しめるこうした「陰謀」に対し、今この瞬間にもインターネット上で流布されている「陰謀論(Conspiracy Theories)」の「小説として」成立するレベルのリアリティにも想像力にも欠けた低質さにはうんざりします。スパイ小説やミリタリー小説を「小説として」楽しめるレベルの解像度だとしても陰謀論者の語りの支離滅裂さには本当にうんざりできるはずです。
例えば、陰謀論者の振り回す「CIA」。彼らはまるで世の中の森羅万象を司る組織かのように語りますが、スパイ小説のなかで描かれるCIAはじめとする各種諜報機関は、どこも官僚主義に蝕まれいて後手後手に回り、その後始末に主人公たちが奔走する、というのがスパイ小説の基本的な物語。
英国諜報部の国内部門MI5と国外部門MI6の両方に所属経験を持ち、英国スパイ小説の第一人者となったジョン・ル・カレ(John le Carré)は2016年に発表した回想録『地下道の鳩』にこう記しています。
そうそう、陰謀論者の皆さんが大好きな「ハニートラップ」という言葉を造語したのもル・カレです。言葉の初出はジョージ・スマイリーが登場する『Tinker Tailor Soldier Spy』(1974年発表)。
陰謀や秘密が「存在しない」なんて言うつもりはありませんよ。
問題は、荒唐無稽な「陰謀論」が、現実に存在する危険を本気で追求する際にはノイズとなって邪魔をすること。
2020年にル・カレが亡くなった際、BBCは追悼文にスパイ小説の意義をこう記しています。
楽しむための基本的な知識があるだけでもおかしな陰謀論に耐性はつくように思いますよ。「ナラティヴ(物語り)」という言葉がここ数年の世界を説明する用語として流行していますが、現実を無知ゆえに改変してしまうよりは、まずはフィクションの物語を読むところから始めましょう。
現在では、頭のおかしい人たちの振り回すおかしな異説珍説を「陰謀論」で「陰謀論者」と呼んでいますが、私が若い頃の日本では、こういうのを「電波系」の「トンデモさん」と呼んでいました。妄想上のおかしな電波を受信してしまってとんでもないこと言い出すトンデモさん、と。
もちろん昔からそうしたトンデモさんは存在していました。「電波」という概念が無い時代は「天からの声を聴いた」だのと。
ただ、今と昔が違うのは、インターネットという「電波」を通してトンデモさんたちが横に繋がり、時間差無しに連携して動くようになった結果として現実社会にまで介入し、「陰謀論者」という人間社会全体への危険な存在へと変化したのが今現在の世界。
話を変える前に一曲。
大槻ケンヂが2009年に発表した『林檎もぎれビーム』。
この曲の元ネタとなったのは1960年前後頃の日本であった終末論「リンゴ送れ、C」事件ですね。
1962年に人類は滅亡するも、事前に一斉送信される「リンゴ送れ、C」という一文の記された暗号電報を受け取った者だけがUFOに救い出されて生き延びる、と主張する当時の陰謀論者たちの引き起こしたトラブルです。
……2020年の米国大統領選挙でのトランプ敗北後に日本のQアノン陰謀論者たちが信じていた「世界緊急放送」ってのも、これが元ネタとして流用されたんだろうな。
ゲーム作家で小説家の山本弘が2007年に発表した『宇宙はくりまんじゅうで滅びるか?』が最近になって文庫化されましたので紹介していきます。
山本弘は1956年生まれのオタク第一世代の作家。そんな彼が2007年段階でオタク文化と自身との関わりを振り返りつつ、それまで発表してきた文章を収録した本です。
山本弘は1992年、〈と学会〉という読書サークルを結成し会長に就いています。〈と学会〉の「と」とはトンデモ本の「と」。
〈と学会〉に関わる文章を集めた第二章「トンデモを見れば世界が分かる?」に収録された『トンデモノストラダムス本の世界』(1997年発行)あとがきより。
1972年に五島勉が『ノストラダムスの大予言』で、「迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日」と書いて以来、1995年のオウム真理教による無差別テロ事件を引き起こす遠因となって問題視されるまで、日本では多くの人間が関わり二十年以上も流布されていました。
私も自分の意志で「ノストラダムスの大予言」本を買った記憶は一度も無いけれど、意思とは無関係に大量に「ノストラダムスの大予言」を注ぎ込まれていたので「1999年7の月」の部分は今でも思い出せるものな。私が小学生の頃の夏休みなどよくテレビでも夏の怪談の一種としてか番組がありましたし、95年以前にもの心ついていた多くの日本人は信じる信じないは別として「1999年7の月」、思い出せるのではないでしょうか。
人類滅亡などなかった1999年7月からちょうど四半世紀分の時間が過ぎ、自称ノストラダムス研究の大家たちは忘れられた名前となっていますが、あれは何だったのだろう?
山本弘は1998年7の月に発行された、自称ノストラダムス研究の大家たちの文章を収集した本『トンデモノストラダムス本の世界』の後書きに"ノストラダムスはロールシャッハ・テストである"と記しています。自己の内側にあるものを投影する存在としての「ノストラダムス」だった、と。
そして、ノストラダムスの名前を見る機会も無くなった今現在、新たにインターネットを使って語られている終末論を含んだ陰謀論は、語る人びとがどのような人間かを映し出す鏡になっています。……他人ごとながら心配になります。あんな丸裸でインターネットを使うなんて。本気で「世界を支配するDS(Deep State)」とやらと闘っているつもりならば、まずインターネットを出来るだけ使わない生活に変えるべきです。
「終末論」とは何か? と問われれば、
でも、その「私は真実を語っているのに迫害されている」という自意識過剰な思い込みこそが、本人たちにとっては"自分が才能ある特殊な存在であり、「どこにでもいる誰か」ではないことを確信させてくれ"て、選民意識を刺激する気持ちよくなれるドラッグとして機能しているわけです。これは選民化ではありません。単なるカルト化ですよね。
2004年発行の『トンデモ本の世界S』あとがきより。
当時まだ新興宗教だったキリスト教を取り締まる側だったサウロは突然に視力を失います。そこにイエスの声を聴いてやって来たというアナニアがサウロの顔に手をかざすとポロリとウロコのようなものがサウロの目から落ち視力を取り戻し、以後、サウロは熱烈なキリスト教徒となり布教の旅に出て殉教者となり聖人と呼ばれるようになるのが「サウロ(/パウロ)の回心」という物語。
"無神論者"とまで言わずとも信者ではない視点で見れば、典型的な新興宗教に「目覚めた」人の入信過程にしか思えませんよね。
「ウロコ」は本当に落ちたのか、それとも本当は飛び込んだのか。
そして、極論を煽ることで数字を稼ぐ現状のインターネットのアテンション・エコノミーのシステムはトンデモさんたちの荒唐無稽な妄想を増幅させる。
しかし、その〈と学会〉からも2010年代に入る頃には、自らがトンデモさん化していく人が続出します。
複雑さを避けて単純化に逃げ込もうとする怠惰さへの欲求をコントロールするのはなかなか難しい。
リンクしてあるのはPost MaloneとBlake Sheltonの『Pour Me A Drink』。
ポスト・マローンのカントリー転向は興味深い。
テキサス育ちとはいえカリフォルニアのヴィデオゲーム的な世界観のMV(例えば『rockstar』『Psycho』『Circles』といった)を発表してきた「New Geek」なポップスターだったポスト・マローンが、カントリー歌手のBlake Sheltonと一緒に歌う『Pour Me A Drink』は白人労働者階級の「弱者男性」を描いたもの。気が遠くなりそうな40時間勤務を終えてきたけど、贔屓のチームは延長戦で負けてるし、スピード違反で罰金とられたし、家で待ってる恋人もいない。そんな俺に誰か酒とタバコを奢ってくれないか、という曲。
Morgan Wallenとの『I Had Some Help』、Luke Combsとの『Guy For That』を発表。ポスト・マローンとカントリー歌手とのコラボは次々と発表されています。どれも「弱者男性」をカントリーの文脈に落とし込んだ良い歌詞です。
今現在の米国を「分断されたアメリカ」と表現するのは、ちょっと時代遅れになりつつあるように私には見えます。
カントリー・ミュージックを聴きつつ、私が思う今の米国のトレンドは「再統合」。分断が解消されたと「単純化」して言うつもりはありませんが、少なくとも振り子は統合の方へと揺り戻している印象があります。
2019年にLil Nas XがBilly Ray Cyrusと『Old Town Road』を発表した時には反発が強かったのですが、今年2024年、Beyoncéがアルバム『COWBOY CARTER』で黒人女性ポップスターによるカントリーを発表。スペイン語圏のスーパースターであるEnrique IglesiasはMiranda Lambertと『Space in My Heart』、アイドル的存在だったMachine Gun Kelly改めmgkはJelly Rollと米国民謡として『Lonely Road』を発表。
そして現在は黒人によるカントリーとしてShaboozeyの『A Bar Song』がヒット中。
都会のポップスターがカントリーに歩み寄り、カントリー側もそれを受け容れる「分断」から「再統合」へと振り子が揺れる今現在の米国の状況は、白人労働者階級の悲哀を2016年に広く世に知らせた『Hillbilly Elegy』の著者J.D.ヴァンスが、ドナルド・トランプの副大統領候補に選ばれたと同時に時代遅れの存在になってしまったことからも明らかなように、時代の移り変わりを感じさせます。
「都会から無視された錆びついた田舎の白人労働者階級」みたいなナラティヴはもう時代遅れで、彼らの声に寄り添うアプローチはもう始まっています。
「知識をアップデートしましょう」と言うと、まるでウロコをどうこうさせられるかのように感じて反発する人もいるようですが、そんな大げさな話ではなく、刻々と変化する最新状況を追うようにしましょうよ、という話です。
状況を追うのも、何も「勉強しろ!」とか苦労を強いようってつもりもないですよ。エンタメを楽しみながら追ってみませんか、というのが私の主張。エンタメは現実そのものではないけれど、空気のようなものを把握しようとする時に手がかりになるはずです。
逆に言えば、エンタメを楽しめないほど感性が老い衰え、新しいものを億劫がるようになると終末論的陰謀論に絡め捕られていくのかもしれませんね……私も気を付けよう。
思っていたより曲の後が長くなったので、ポスト・マローンをもう一曲紹介しておきましょうか。
リンクしてあるのは、Post Maloneの『Mourning』。
カントリーに至る直前の去年2023年に発表された『Mourning』と『Chemical』の二曲のMVはヒルビリー的世界観で描かれ、止めたくても止められない依存症の苦しさを歌っています。
日本のメディアではテイラー・スウィフトの名前ばかりがチープに単純化された消費をされているけれど、今、注目すべきはポスト・マローンじゃないのかな、というのが私の視点。
私はスパイ小説とミリタリー小説が大好きでよく読みます。また、SF小説やファンタジー小説も好きです。日本の歴史小説では忍者ものを好んで読むのはスパイ小説とかファンタジー小説と同じ枠で読んでいるからです。
冷戦時代以前を舞台とするクラシックではない現行シリーズで人気のあるものだと、2022年にNetflixで映画化もされたマーク・グリーニー(Mark Greaney)の〈暗殺者グレイマン〉シリーズなんてエンタメとして面白いですよ……映画版と原作シリーズはストーリーが全く違いますがイメージ映像として。
CIAの特殊工作部隊から脱走した主人公が悪党の暗殺だけを請け負う殺し屋となり、CIAはじめとする各国諜報機関や軍情報部、傭兵企業(PMC)やマフィアから次々と送り込まれる追跡の手を避けながら依頼を遂行していく物語が〈暗殺者グレイマン〉シリーズ。2009年にシリーズが開始され今年24年は13巻『The Chaos Agent』が出ています(日本語翻訳は現時点では12巻『Burner(日本語題:暗殺者の屈辱)』まで)。
また、グリーニーは、2013年に亡くなったトム・クランシーの〈ジャック・ライアン〉シリーズも引き継いでいます。……〈ジャック・ライアン〉シリーズは昔から映画化されてきましたが、最近ではAmazon Prime Videoがドラマ化していますね。
グレイマンに代表される現在のスパイ/ミリタリーのアクション小説の物語は日本の時代小説の忍者ものと相似しています。少年時代から戦闘技術や潜伏工作技術を叩きこまれた男が組織に裏切られて抜け忍となり、抜け忍狩りの追っ手を避けながら陰謀を暴くための戦いを繰り広げる。こうした作品では「抜け忍」という日本語はさすがに見たことないけれど、日本語のまま「Ronin」(浪人)という言葉が出てきたりもしますので意識はされているはずです。
なので普段は日本の時代小説を読んでいる方にも現代の忍者もの/浪人ものとしてお薦めできますし、エンタメとして楽しみながら現実のニュースに登場する兵器や組織の名前や機能も覚えられます。
そんな私ですから、日常的にたっぷりと「陰謀」をエンタメとして楽しんでいます。
しかし、エンタメとして楽しめるこうした「陰謀」に対し、今この瞬間にもインターネット上で流布されている「陰謀論(Conspiracy Theories)」の「小説として」成立するレベルのリアリティにも想像力にも欠けた低質さにはうんざりします。スパイ小説やミリタリー小説を「小説として」楽しめるレベルの解像度だとしても陰謀論者の語りの支離滅裂さには本当にうんざりできるはずです。
例えば、陰謀論者の振り回す「CIA」。彼らはまるで世の中の森羅万象を司る組織かのように語りますが、スパイ小説のなかで描かれるCIAはじめとする各種諜報機関は、どこも官僚主義に蝕まれいて後手後手に回り、その後始末に主人公たちが奔走する、というのがスパイ小説の基本的な物語。
英国諜報部の国内部門MI5と国外部門MI6の両方に所属経験を持ち、英国スパイ小説の第一人者となったジョン・ル・カレ(John le Carré)は2016年に発表した回想録『地下道の鳩』にこう記しています。
「とんでもないことをしてくれたな、コーンウェル」かつて同僚だったMI6の中年職員が叫ぶ。多くのワシントン関係者が集まった、イギリス大使館主催の外交レセプションでのことだ。「まったくひどいやつだ」ここで私に会うとは思っていなかったが、会ったからには、絶好の機会とばかりにふだん思っていたことをぶちまける。私がMI6の名誉を汚し――われわれの部署だぞ、こともあろうに!――国家を愛する職員を、反論できないのをいいことに笑い物にしたというのだ。英国諜報部MI6を代表するキャラクターといえばジェームズ・ボンドでしょうが、ル・カレ言うところの"現実よりはるかに有能な組織"のジョージ・スマイリーがよりキャラクターとしてリアルにイメージされるのではないでしょうか。そして、そのル・カレが描く諜報部は、諜報部に残った者たちを"殴り倒さんばかりに怒"らせます。
~(中略)~
「人でなしなんだろう、われわれは? 人でなしで無能! まったくありがたいよ!」
怒っているのはこの元同僚だけではない。ここまで激しくなくても、私はこの五十年間、同じような非難を浴びせられてきた。悪意のある攻撃や集団での嫌がらせに遭ったという意味ではない。必要な仕事をしていると考えている人々から、感情を傷つけられたとくり返し言われるのだ。
「なぜわれわれをいじめる? 現実はどうだかわかっているだろう」
~(中略)~
外交パーティーで私を殴り倒さんばかりに怒っている元同僚に対して、私はどう答えるべきだったのか。イギリスの諜報機関を現実よりはるかに有能な組織として描いた本も書いているなどと言っても無駄だろう。MI6のある高官が『寒い国から帰ってきたスパイ』について「うまくいった二重スパイ作戦はこれだけだ」と言っていたことを伝えてもしかたがない。
そうそう、陰謀論者の皆さんが大好きな「ハニートラップ」という言葉を造語したのもル・カレです。言葉の初出はジョージ・スマイリーが登場する『Tinker Tailor Soldier Spy』(1974年発表)。
陰謀や秘密が「存在しない」なんて言うつもりはありませんよ。
問題は、荒唐無稽な「陰謀論」が、現実に存在する危険を本気で追求する際にはノイズとなって邪魔をすること。
2020年にル・カレが亡くなった際、BBCは追悼文にスパイ小説の意義をこう記しています。
この小説でル・カレ氏は、民主国家でさえ自分たちの秘密を守るためには非合法な手段をとることがあるのだと、深刻な問題を提起した。こんな時代だからこそ、軽挙妄動せず、現実と虚構を切り分ける必要がありますよね。ル・カレ言うところの"民主主義を守るため"とまで大げさなことを私は言うつもりはありませんが、思考訓練として、そして本来のエンタメとして楽しみつつ、スパイ小説を読んでみるのはいかがでしょうか。
政府が何もかも隠し立てするような世界では、民主主義を守るためにスパイ小説は必要な役割を果たしていると、ル・カレ氏は主張した。小説が描くのは現実そのものではなく、映し出す姿は多少ゆがんでいるとしても、小説を通じて現実にある秘密の世界に光を当て、それがどれほどの怪物になり得るか示すのは大事なことだと説明していた。
楽しむための基本的な知識があるだけでもおかしな陰謀論に耐性はつくように思いますよ。「ナラティヴ(物語り)」という言葉がここ数年の世界を説明する用語として流行していますが、現実を無知ゆえに改変してしまうよりは、まずはフィクションの物語を読むところから始めましょう。
現在では、頭のおかしい人たちの振り回すおかしな異説珍説を「陰謀論」で「陰謀論者」と呼んでいますが、私が若い頃の日本では、こういうのを「電波系」の「トンデモさん」と呼んでいました。妄想上のおかしな電波を受信してしまってとんでもないこと言い出すトンデモさん、と。
もちろん昔からそうしたトンデモさんは存在していました。「電波」という概念が無い時代は「天からの声を聴いた」だのと。
ただ、今と昔が違うのは、インターネットという「電波」を通してトンデモさんたちが横に繋がり、時間差無しに連携して動くようになった結果として現実社会にまで介入し、「陰謀論者」という人間社会全体への危険な存在へと変化したのが今現在の世界。
話を変える前に一曲。
大槻ケンヂが2009年に発表した『林檎もぎれビーム』。
この曲の元ネタとなったのは1960年前後頃の日本であった終末論「リンゴ送れ、C」事件ですね。
1962年に人類は滅亡するも、事前に一斉送信される「リンゴ送れ、C」という一文の記された暗号電報を受け取った者だけがUFOに救い出されて生き延びる、と主張する当時の陰謀論者たちの引き起こしたトラブルです。
……2020年の米国大統領選挙でのトランプ敗北後に日本のQアノン陰謀論者たちが信じていた「世界緊急放送」ってのも、これが元ネタとして流用されたんだろうな。
ゲーム作家で小説家の山本弘が2007年に発表した『宇宙はくりまんじゅうで滅びるか?』が最近になって文庫化されましたので紹介していきます。
山本弘は1956年生まれのオタク第一世代の作家。そんな彼が2007年段階でオタク文化と自身との関わりを振り返りつつ、それまで発表してきた文章を収録した本です。
山本弘は1992年、〈と学会〉という読書サークルを結成し会長に就いています。〈と学会〉の「と」とはトンデモ本の「と」。
〈と学会〉に関わる文章を集めた第二章「トンデモを見れば世界が分かる?」に収録された『トンデモノストラダムス本の世界』(1997年発行)あとがきより。
結局、「ノストラダムスの大予言」とはいったい何だったのか?「リンゴ送れ、C」は私が生まれるより前の時代の話ですが、私が子どもの頃の終末論と言えば何といっても「ノストラダムスの大予言」。
それは一種のロールシャッハ・テストだ、と僕は考える。
ただのインクの染みが、人によっては「チョウチョ」に見えたり、「悪魔の顔」や「抱き合っている男女に見えたりする。それと同じで、あいまいな言葉で書かれているノストラダムスの予言詩は、読む人間の主観によって、どのようにでも解釈できてしまう。自分が平凡な人間であることにコンプレックスを抱く英森単氏は、優秀なクローン人間の出現を詩の中に読み取る。聖書を深く信じる内藤正俊氏は、聖書の預言を読み取る。地震に興味を持つ池田邦吉氏は、地震や火山噴火に関する予言ばかりを読み取る。戦争を嫌う一方、自ら「助平」と認めるミカエル・ヒロサキ氏は、平和的でエッチな予言ばかりを読み取る……。
そう、ノストラダムスの四行詩の中には、彼らの望むことは何でも書かれているのだ。池田邦吉氏や浅利幸彦氏や中村恵一氏のように、「ノストラダムスの詩には私のことが予言されている」と信じる人が現われるのも、不思議ではない。
~(中略)~
そう、ノストラダムスの予言が映し出すものは未来のビジョンなどではない。研究家たち自身の心の中――彼らの抱いている恐怖や願望なのだ。
1972年に五島勉が『ノストラダムスの大予言』で、「迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日」と書いて以来、1995年のオウム真理教による無差別テロ事件を引き起こす遠因となって問題視されるまで、日本では多くの人間が関わり二十年以上も流布されていました。
私も自分の意志で「ノストラダムスの大予言」本を買った記憶は一度も無いけれど、意思とは無関係に大量に「ノストラダムスの大予言」を注ぎ込まれていたので「1999年7の月」の部分は今でも思い出せるものな。私が小学生の頃の夏休みなどよくテレビでも夏の怪談の一種としてか番組がありましたし、95年以前にもの心ついていた多くの日本人は信じる信じないは別として「1999年7の月」、思い出せるのではないでしょうか。
人類滅亡などなかった1999年7月からちょうど四半世紀分の時間が過ぎ、自称ノストラダムス研究の大家たちは忘れられた名前となっていますが、あれは何だったのだろう?
山本弘は1998年7の月に発行された、自称ノストラダムス研究の大家たちの文章を収集した本『トンデモノストラダムス本の世界』の後書きに"ノストラダムスはロールシャッハ・テストである"と記しています。自己の内側にあるものを投影する存在としての「ノストラダムス」だった、と。
そして、ノストラダムスの名前を見る機会も無くなった今現在、新たにインターネットを使って語られている終末論を含んだ陰謀論は、語る人びとがどのような人間かを映し出す鏡になっています。……他人ごとながら心配になります。あんな丸裸でインターネットを使うなんて。本気で「世界を支配するDS(Deep State)」とやらと闘っているつもりならば、まずインターネットを出来るだけ使わない生活に変えるべきです。
「終末論」とは何か? と問われれば、
それにしても、なぜノストラダムスの予言はこんなに人を惹きつけるのか? 浅利幸彦氏は『セザール・ノストラダムスの超時空最終預言』のあとがきでこう書いている。終末論を含んだQアノン陰謀論者たちも全く同じ語りをしますよね。「こんなことを言ったら陰謀論者扱いされるかもしれないけれど~」と。
こんなことを街角でわめいたら、変人か狂人扱いされるだけだ。あるいは怪しい新興宗教に洗脳されてしまった哀れな人、と思われるだろう。
だが、予言を研究していくと確かにこのような結論にいきつく。私はなんとしてでも真理を理解したかった。自分と人類の存在理由に納得したかった。
自分の存在理由――そう、ノストラダムスの研究家たちにとって、予言詩の解読とは、自らのレゾンデートルを確立する作業そのものなのだ。「私は世界でただ一人、ノストラダムスの予言を正しく解読できる人間だ」という信念は、自分が才能ある特殊な存在であり、「どこにでもいる誰か」ではないことを確信させてくれる。「変人か狂人扱い」されるのも、たいしたことではない。彼ら研究家にしてみれば、自分の偉大な業績を認めようとしない連中は愚か者であり、世間から嘲笑されることはむしろ誇りなのである。
でも、その「私は真実を語っているのに迫害されている」という自意識過剰な思い込みこそが、本人たちにとっては"自分が才能ある特殊な存在であり、「どこにでもいる誰か」ではないことを確信させてくれ"て、選民意識を刺激する気持ちよくなれるドラッグとして機能しているわけです。これは選民化ではありません。単なるカルト化ですよね。
彼らがあれほど大災害や人類滅亡の予言に魅了されるのも、「私の価値が認められない世の中なんて滅びてしまえ」「私を笑った連中なんてみんな死んでしまえ」という願望がひそんでいるように思われてならない。その証拠に、大災害や核戦争のシナリオをつむぎ出す彼らの筆はうきうきしており、多数の死者に対する哀悼など微塵も感じられないのだ。
池田邦吉氏は『ノストラダムスの預言書解読Ⅲ』のあとがきで、予言詩の解読作業を、「不謹慎かもしれないが、とても楽しかった」と書いている。それは楽しかったに違いない。何億という人間を紙の上で抹殺してみせたばかりか、自分が偉大な人物として世界中から拍手喝采されるという夢を満喫することができたのだから……。
2004年発行の『トンデモ本の世界S』あとがきより。
日本SF界の重鎮、故・星新一氏の名言のひとつに、僕が座右の銘としている言葉がある。日本では聖パウロという名で知られるサウロ。
~(中略)~
星氏のこんな発言。
「目のウロコが落ちたのと、飛びこんだのとはどこで見分けるんだ? 本人は落ちて新しいものが見えだしたと思ってるけど、じつは飛び込んだから見えだしたんだ(笑)」
~(中略)~
そもそも「目からウロコが落ちる」というのは聖書の世界の言葉である。『使徒言行録』九章、キリスト教徒を迫害していたサウロが、天下からの光とともに「なぜ私を迫害するのか」というイエスの声を聞き、とたんに目が見えなくなる。彼の家に、やはりイエスの声に導かれたアナニアがやってきて、サウロの上に手を置く。すると、目からウロコのようなものが落ちてサウロはまた目が見えるようになる。彼は改心して洗礼を受ける。
だから、何かの宗教に入信した人が「目からウロコが落ちた」と言うのは、用法として正しいのである。しかし、僕みたいな無神論者は、ついつい星氏と同じことを言いたくなってしまう。「それって本当はウロコが飛び込んだんじゃないの?」と。
当時まだ新興宗教だったキリスト教を取り締まる側だったサウロは突然に視力を失います。そこにイエスの声を聴いてやって来たというアナニアがサウロの顔に手をかざすとポロリとウロコのようなものがサウロの目から落ち視力を取り戻し、以後、サウロは熱烈なキリスト教徒となり布教の旅に出て殉教者となり聖人と呼ばれるようになるのが「サウロ(/パウロ)の回心」という物語。
"無神論者"とまで言わずとも信者ではない視点で見れば、典型的な新興宗教に「目覚めた」人の入信過程にしか思えませんよね。
「ウロコ」は本当に落ちたのか、それとも本当は飛び込んだのか。
ウロコとは、心の目にかかった偏見のフィルターである。フィルターがなくなれば、世界がよりクリヤーに見えると思われるかもしれない。それは逆だ。このフィルターは自分に都合の悪い情報をシャットアウトする働きがある。だから目にウロコが飛び込んだ者は、不都合なことが目に入らなくなり、世界が単純明快に見える。「目からウロコが落ちた」と勘違いしてしまうのだ。今の時代が昔と違うのは、一部の思い込みの強い「トンデモさん」だけが「ウロコ」フィルターを装備しているのではなく、「フィルターバブル」という言葉があることで分かるよう、現在のインターネットは利用者の好みそうな情報を自動的に選別して表示するようになっています。「マスゴミと違ってインターネットには真実がある」と語ってしまう人の目にはすでに「ウロコ」が飛び込んでいるのですよね。
そして、極論を煽ることで数字を稼ぐ現状のインターネットのアテンション・エコノミーのシステムはトンデモさんたちの荒唐無稽な妄想を増幅させる。
「〇〇が諸悪の根源である」という考えは、たいていはウロコであり、間違っている。世の中の複雑な構造を、そんな短い文章で要約できるわけがない。単純化すれば分かりやすくはなるだろうが、正しくはない。それが正しいように見えるのは、図式に合わない事実をフィルターが切り捨てているからだ。トンデモさんたちを笑っていたはずの1992年に結成された〈と学会〉。
おそらく「フリーメーソンの陰謀」とか「相対性理論は間違っている」というトンデモ説も、同じ心理――「世界は単純なものである」という誤った信念に根差しているのだろう。
「世界がこんなに混乱しているのは、どこかにすべてを操る親玉がいるからだ」とか「相対性理論のような難解なものが宇宙の真理であるはずがない」というわけだ。
いいかげん、こんな幻想は捨てよう。世界は複雑である。ちっぽけな人間の頭ではとうてい把握できないほどにややこしく広大なのである。正解が存在しない問題だってたくさんある。それに単純な正解を出そうとするのは間違った行為なのだ。
「ウロコが落ちた」と思った時が危ないのだ。
しかし、その〈と学会〉からも2010年代に入る頃には、自らがトンデモさん化していく人が続出します。
複雑さを避けて単純化に逃げ込もうとする怠惰さへの欲求をコントロールするのはなかなか難しい。
リンクしてあるのはPost MaloneとBlake Sheltonの『Pour Me A Drink』。
ポスト・マローンのカントリー転向は興味深い。
テキサス育ちとはいえカリフォルニアのヴィデオゲーム的な世界観のMV(例えば『rockstar』『Psycho』『Circles』といった)を発表してきた「New Geek」なポップスターだったポスト・マローンが、カントリー歌手のBlake Sheltonと一緒に歌う『Pour Me A Drink』は白人労働者階級の「弱者男性」を描いたもの。気が遠くなりそうな40時間勤務を終えてきたけど、贔屓のチームは延長戦で負けてるし、スピード違反で罰金とられたし、家で待ってる恋人もいない。そんな俺に誰か酒とタバコを奢ってくれないか、という曲。
Morgan Wallenとの『I Had Some Help』、Luke Combsとの『Guy For That』を発表。ポスト・マローンとカントリー歌手とのコラボは次々と発表されています。どれも「弱者男性」をカントリーの文脈に落とし込んだ良い歌詞です。
今現在の米国を「分断されたアメリカ」と表現するのは、ちょっと時代遅れになりつつあるように私には見えます。
カントリー・ミュージックを聴きつつ、私が思う今の米国のトレンドは「再統合」。分断が解消されたと「単純化」して言うつもりはありませんが、少なくとも振り子は統合の方へと揺り戻している印象があります。
2019年にLil Nas XがBilly Ray Cyrusと『Old Town Road』を発表した時には反発が強かったのですが、今年2024年、Beyoncéがアルバム『COWBOY CARTER』で黒人女性ポップスターによるカントリーを発表。スペイン語圏のスーパースターであるEnrique IglesiasはMiranda Lambertと『Space in My Heart』、アイドル的存在だったMachine Gun Kelly改めmgkはJelly Rollと米国民謡として『Lonely Road』を発表。
そして現在は黒人によるカントリーとしてShaboozeyの『A Bar Song』がヒット中。
都会のポップスターがカントリーに歩み寄り、カントリー側もそれを受け容れる「分断」から「再統合」へと振り子が揺れる今現在の米国の状況は、白人労働者階級の悲哀を2016年に広く世に知らせた『Hillbilly Elegy』の著者J.D.ヴァンスが、ドナルド・トランプの副大統領候補に選ばれたと同時に時代遅れの存在になってしまったことからも明らかなように、時代の移り変わりを感じさせます。
「都会から無視された錆びついた田舎の白人労働者階級」みたいなナラティヴはもう時代遅れで、彼らの声に寄り添うアプローチはもう始まっています。
「知識をアップデートしましょう」と言うと、まるでウロコをどうこうさせられるかのように感じて反発する人もいるようですが、そんな大げさな話ではなく、刻々と変化する最新状況を追うようにしましょうよ、という話です。
状況を追うのも、何も「勉強しろ!」とか苦労を強いようってつもりもないですよ。エンタメを楽しみながら追ってみませんか、というのが私の主張。エンタメは現実そのものではないけれど、空気のようなものを把握しようとする時に手がかりになるはずです。
逆に言えば、エンタメを楽しめないほど感性が老い衰え、新しいものを億劫がるようになると終末論的陰謀論に絡め捕られていくのかもしれませんね……私も気を付けよう。
思っていたより曲の後が長くなったので、ポスト・マローンをもう一曲紹介しておきましょうか。
リンクしてあるのは、Post Maloneの『Mourning』。
カントリーに至る直前の去年2023年に発表された『Mourning』と『Chemical』の二曲のMVはヒルビリー的世界観で描かれ、止めたくても止められない依存症の苦しさを歌っています。
日本のメディアではテイラー・スウィフトの名前ばかりがチープに単純化された消費をされているけれど、今、注目すべきはポスト・マローンじゃないのかな、というのが私の視点。