2024年9月に発表されるエミー賞に『SHOGUN』が25部門にノミネートされたと7月に発表されました。
主なところでは、作品賞をはじめとして、主演男性俳優賞に真田広之、主演女性俳優賞に澤井杏奈、助演男性俳優賞に浅野忠信と平岳大。
エミー賞は米国のテレビ業界の授賞式ですが、そこに、劇中では英語を話さずに日本語で通した日本人俳優三人がノミネートされたのは大きな出来事です。

そして、劇中唯一の日本側英語話者として主演女性俳優賞ノミネートとなった澤井杏奈。
彼女に対する米国エンタメ業界の期待の大きさは、ハリウッドの業界誌『The Hollywood Reporter』の円卓座談会『OFF SCRIPT』で

ジョディ・フォスターやニコール・キッドマンといったハリウッドの錚々たる女性俳優のトップ級と円卓を囲んでいることからも分かります。一気に米国におけるアジア系俳優のトップとなったアメリカン・ドリームですね。

『SHOGUN』では美術部門も多くのノミネートがされていますが、その美術部門を支えるためにプロデューサーに名前を連ねた真田広之は京都から多くのスタッフを連れて来て「時代劇」の手法をハリウッド式と組み合わせたと語っています。

京都の時代劇業界の様子というと、今から十年前の2014年に発表された春日太一の『なぜ時代劇は滅びるのか』に描かれた情景を思い出します。
「衰退に向かう時代劇」というテーマについて語る際、必ず話題に上るのは、これまで幾多の時代劇を生み出してきた京都の撮影所の寂しい状況である。
たいていは、京都という「職人と伝統の町」というイメージと、「時代劇にこだわる古くからの職人たち」という撮影所のイメージが重なり、「滅びゆく伝統文化の世界」という文脈で語られることが多い。
~(中略)~
たしかに現在の東映・松竹の両京都撮影所は、たまに撮影班が重なって局地的に賑わうことはあっても、ほとんどの時期は閑散としている。
筆者が取材活動を始めた頃はまだ活気があった京都のどの撮影所も、足を運ぶ度に閑散の度合いが増していった。貸しスタジオ業務で生き残ろうとする東映京都では、東京から来た一見の若いスタッフが現場を走り回るのを、土着のベテランのスタッフたちが撮影所の喫茶店から眺めている光景をよく目にした。映像京都に行くと、みんなスタッフルームの前のベンチで日向ぼっこをしながら居眠りしていたり、ひたすら掃き掃除ばかりしていたり……。
京都の時代劇撮影所というと「太秦」の地名で知られますよね。
米国の映画産業がハリウッドという地名で知られるように、日本の時代劇といえば太秦です。
東映と松竹どちらも京都市右京区の太秦に撮影所を置いてきましたし、かつての日活と大映の京都撮影所も太秦にあり、オープンセットを疑似体験できる観光客向けの東映太秦映画村があることでも有名です。
ただ、現在の日本において時代劇というジャンルを専業にしてやっていくのはかなり難しいであろうことは容易に想像がつくし、春日太一が描く太秦の日常はとてもうら寂しい。

数々の時代劇作品に若い頃から出演し続けてきた真田広之は、『SHOGUN』のプロデューサーに名前を連ねるにあたって、こうした状況にあった京都の時代劇スタッフに大きな仕事を分配し、世界的大舞台という「出世払い」を果たしたわけです。


このまま『なぜ時代劇は滅びるのか』から続けていきます。
第一章「時代劇の凋落」より。
一九九〇年代の長引く不景気もあり、(数少なくなった)大口スポンサーに敬遠されその上に予算を食う時代劇が「お荷物」になっていくのは致し方ないことだったのかもしれない。
~(中略)~
「終わった……」
二〇〇三年五月のこと。新作テレビシリーズとして企画された『夜桜お染』撮影中のある日、撮影所近くの食堂で筆者と昼食をとっていたフジテレビの能村庸一・時代劇専任プロデューサーは、そうため息をつきながら、携帯電話を切った。山田良明という、時代劇になんの想いもない男がフジの編成局長に就任したというのである。
能村プロデューサーの落胆の表情が予言したように、あの日に何かが終わった。山田は就任早々、時代劇の連続枠を撤廃し、年に数回の二時間スペシャルのみを放送するという方針を打ち立てたのだ。危うく『夜桜~』もお蔵入りになるところだった
~(中略)~
「時代劇は連続ものだと、(出演する俳優は)ずっと京都にいないとダメでしょう。そうすると売れっ子は出てくれません。でも、スペシャルだと拘束時間が少ないから、誰でも使える。キムタク主演の時代劇だってやれるんです」
筆者が大学院に在籍していた頃、日大芸術学部の特別講義に招かれた山田は、檀上で得意げにそう謳っていた。彼の言葉どおり、フジは木村拓哉をはじめ、ジャニーズなどの「人気者」を主演にしたスペシャル時代劇をいくつも製作するようになった。
大映京都撮影所の系譜を引く映像京都で制作され若村麻由美主演の『夜桜お染』が放映されたのは2003年10月から04年1月にかけて。この作品をもってフジテレビの「時代劇枠」は終了します。日本テレビは既に1997年、テレビ朝日では2007年にレギュラーの時代劇枠を終了させ、テレビ地上波における時代劇の伝統は2000年代に"終わった"のです。
そして、TBSというよりは旧松下グループ提供枠として唯一残った『水戸黄門』も2011年にレギュラー放送を終えますので、民放の地上波に時代劇専門の枠は完全に無くなり、以後、単発のスペシャルドラマや現代劇枠のなかの1クールで時代劇を扱うことになります。

時代劇は現代劇に比べれば、衣装やセットなど美術まわりにカネがかかるわりに、「失われた〇十年」の始まりでもある1990年代にテレビ視聴率に個人視聴率の概念が持ち込まれると老人向け(とイメージされる)番組ではスポンサー企業が集まりにくくなります。
すると、2000年代前半に社会的ブームだった「改革」の流れに乗ってテレビ局でも既存の枠組みを改革する試みが始まり、「守旧派の老人たち」のものとして時代劇は改革「カイゼン」のターゲットとなったのです。

テレビ局側のカイゼン策として、「時代劇に若者を」として、既存ファンが下支えする数字を持つジャニーズ所属の男性アイドルが主演としてキャスティングされるようになると、次は忙しい"売れっ子"に合わせて拘束時間を短くするために連続ドラマや京都での撮影は出来るだけ避けるようになります。
コスパとタイパ(コスト・パフォーマンスとタイム・パフォーマンス)を追求するようになるのですね。

その結果は、
現場からすれば、山田の戦略は机上の理想に過ぎないものだった。
レギュラー枠の中での連続時代劇であれば、トータルで償却すればいいため、例えば「ある回で予算オーバー、日程超過になっても、次の回でそれを挽回すればいい」といった具合に、予算やスケジュールの融通が利く。が、スペシャルでは一回ごとに償却しなければならないため、予算管理はかえって厳しくなる。
そして、現場スタッフたちからすれば、年に数回のスペシャルしかないということは、年に数回の仕事しかないということを意味する。連続ものなら、毎日のように現場は稼働するが、スペシャルでは、それを撮る数週間以外はスタジオもスタッフも待機状態。生殺し状態でスタッフは、他に短期のバイトで生活費を稼ぐしかない。また、その数回を撮るために、普段は現場が稼働しないのにスタッフやセットを維持し続けなければならず、各プロダクションは多大な負担をともなうことにもなった。
加えて、スペシャルの一発勝負となると、より手堅い成功を狙って、メインどころのスタッフはベテランが占めることになりがちだ。レギュラーシリーズなら、その中の一本で若手を抜擢し、ローテーションすることも可能だった。京都では能村プロデューサーが中心になって、連続枠の中で若手の育成を進めてきたが、ようやく芽吹いたその種も完全に摘み取られることになった。
金がまわらない。
仕事がまわらない。
人がまわらない――。
テレビ局の経営層側主導の改革カイゼンは「現場」を混乱させます。
でも、これって、時代劇という限定されたジャンルだけの話ではありませんよね。「失われた〇十年」の日本において、数多の日本企業で陥った悪循環。
「カイゼンで」予算と納期に追われた現場が帳尻合わせに「数字」を偽装していた事件は日本を代表するような大企業でも次々と発覚していますし、「カイゼンで」大企業が下請けに負担を転嫁させて自社だけが数字を好転させる手法もよくある話です。
そして、未知数の若手を育てる余裕の無い現場では計算できるベテランに頼りきりとなり、その世代が引退すれば技能は継承されずに断絶する。結果、金も、仕事も、人もまわらなくなって目先の数字だけをイジって糊塗する現在。
コストとタイムではなく、本来重要なのは「パフォーマンス」のはずですが。

第五章「そして誰もいなくなった」より。
役者の育成に関しても、意識は高くないのが現状だ。プロデューサーにその意識があれば、長期的スパンからの役者育成は不可能ではないはずなのだが、近年はそれが許される余裕はなくなってきている。
これは役者に限った話ではない。監督もスタッフも同様のことがいえる。人材を育成するためには実地の経験を多く積ませ、時には失敗し、その試行錯誤の経験を通して《本物》に成長させるしかない。だが、近年の時代劇には、その失敗を許容する余裕がなかった。
かつて、映画には毎週のように看板が変わるプログラムピクチャー、テレビには連続レギュラー枠があり、量産体制の枠組みが保証されてきた。それならばプロデューサーも一度や二度の失敗は取り返しが利くので、若手の役者や自らが発掘した無名の役者を抜擢することができる。
~(中略)~
が、近年はそうではない。映画もテレビも量産の枠組みは無くなり、大作化が進んだ。一つ外れると損失が大きくなり、次に繋がらない。一回一回が一発勝負の賭けになる。そうなると、どうしても手堅い成功を狙って、メインどころのスタッフもキャストも既に定評のあるベテランや人気者が中心になってしまう。無名に近い若手を試して経験を積ませるのは、なかなかに難しい。また、たとえ抜擢したとしても、次の作品があまりないため、その経験を元に次なる試行錯誤をするのも困難な状況にある。
2000年代から10年代にかけての流行り言葉には「選択と集中」というものもありました。限られた予算と時間のなかでは、一見、このほうが効率が良いように思えます。
しかし、現実には何が成功するのかは分からない。選択し集中した作品が失敗しては目も当てられません。よって、プロデューサーは数字を足し算で積み上げて成功確率を上げようとします。実績のある計算できる原作、出演者、スタッフなどなどを足し算し、そして、実績がなく計算できない若手や無名の出演者、新奇だったり野心的なストーリー展開などなどを引き算していく。
その結果が現在の「テレビはつまらない」。
手堅く数字を稼ぐ作品も必要ですよ。だけど、それだけでは未来がない。現在の日本の閉塞感ってこういうところにありますよね。
人材育成の面で弊害が大きいにもかかわらず、テレビ時代劇が単発スペシャル中心になっていったのは、テレビ局上層部が「作品内容よりも人気者を配役できればそれでいい」という意識に変わったからだということは先に述べた。
~(中略)~
人気者を主演に据えた番組制作のため、プロデューサーには創造性より、人気者が多く所属する芸能事務所とのパイプが重視されるようになった。その結果、企画内容に合わせて適材適所の配役をすることが軽視され、
~(中略)~
役の向き不向きを度外視して主演俳優の人気のみを重視した時代劇が作られるようになる。
テレビ局のプロデューサーや旧ジャニーズはじめとする大手芸能事務所所属の個人個人を悪者にしても仕方がありません。日本社会全体がこうした方向に誘導されてきた以上は、構造上の問題であって個人個人が抗するのは難しい。

ハリウッド業界誌『DEADLINE』(2024年8月13日付)のインタビューで真田広之は『SHOGUN』の続編制作について問われ、こう語っています。
And now, we’ve got this big success, and a great opportunity to create more seasons. Why would I stop? Only in my opinion as an actor? No, no, no, no. ‘Producer me’ taught ‘actor me’, “You should continue do it for the next generation, of course.” And then that’s why I decided to keep this opportunity for Season 2 and 3. And it’s a great opportunity for the young actors and crew.
Netflixはじめとする外国資本による日本ドラマが面白い作品ばかりなのかと問われれば、当然ながら玉石混淆で平凡な「石」のほうが多い。ただ、外資の(相対的に)潤沢な予算を掛けた作品で経験を積めるのは日本の俳優やスタッフにとって悪い話ではないと思うのですね。
正直なところ私、全編を通して見て『SHOGUN』が面白かったかと問われれば、そんなに……。
ただ、このインタビューで真田広之は『SHOGUN』の続編制作を決めた理由として「次世代のため、若い俳優やクルーに素晴らしい機会を与えるため」だと言っています。この点において『SHOGUN』が成功すると良いな、と思っています。

日本国内の話に戻ると、2014年に発表された春日太一の文章ですが、この後こう続きます。
象徴的なのは近年のフジテレビ『鬼平犯科帳』だろう。局の看板時代劇として、本格時代劇の《最後の砦》として、周囲から絶えず一定以上のクオリティを期待されるため、スペシャルでしか制作できない今は「出来る役者」に頼るしかない。
~(中略)~
蟹江敬三、梶芽衣子、綿引勝彦、勝野洋らのレギュラー役者は『鬼平』では下働きの密偵・同心を演じてきたが、今の彼らは他の作品では重鎮の位置づけだ。最も若手の尾美としのりでさえ、現代劇ではもう大ベテランの役回り。彼らは揃って芸達者のため芝居の力でそう感じさせないようにはしているものの、その貫禄はもはや密偵や同心を演じるには苦しい部分も見受けられる。
だが、それでも動かすことはできない。「次の役者」を試せない状況下では、今のメンバーから世代交代することに不安感しかないからだ。それならば、多少の無理はあっても今のままで行った方が上手くいくと判断するのは当然のことだ。
この本が発表されて十年経った今年2024年に『鬼平犯科帳』は新たなドラマシリーズと映画が発表されました。テレビ地上波からは撤退し、時代劇の動画配信サービス時代劇専門チャンネルから。

新作『鬼平犯科帳』で長谷川平蔵を演じるのは二代目中村吉右衛門の甥にあたる十代目松本幸四郎。若き日の鬼平は松本幸四郎の息子で八代目市川染五郎が演じます。
「鬼平」といえば中村吉右衛門。彼に合わせて配役も世代交代できずにいましたが、後継に実の甥を当てることで新作が発表できるようになったのですね。
かつてNET(現テレビ朝日)で放映された『鬼平犯科帳』で鬼平を演じたのも八代目松本幸四郎で、中村吉右衛門にとっては父で現在の松本幸四郎にとっては祖父。「火付盗賊改長谷川平蔵」を一族世襲によって役を引き継いでいく、ある意味、本当に江戸時代っぽい。
大ベテランに頼りたくとも2020年代の今現在、世代交代はせざるをえない。中村吉右衛門が亡くなったのは2021年ですが、『鬼平犯科帳』では甥の松本幸四郎が世襲し、勝野洋に代わって筆頭同心役を演じる山田純大は杉良太郎の息子です。『SHOGUN』はじめとする国際派時代劇俳優となった平岳大が平幹二郎の息子なのなどと併せつつ、日本はこういう世代交代の仕方をするのだな、と。

また、テレビ地上波以外の視聴環境の大衆化により、時代劇、さらには「テレビ」そのものの制作主体も変わっていくことになるのでしょう。
澤井杏奈が出演しているApple TV+のドラマ『PACHINKO』シーズン2が公開開始されたばかりですが、これはNHKの朝ドラには出来ない朝ドラって感じだし。



リンクしてあるのは、Megan Thee Stallionの『Mamushi』 ft. Yuki Chiba。

2024年の米国大統領選挙で現副大統領カマラ・ハリスが民主党側候補として、老いを理由に支持が伸び悩んでいたジョー・バイデンに代わり出馬しましたが、そのアトランタでの決起集会にミーガンが応援に登場。ここで披露したのが千葉雄喜との日本語曲『Mamushi』。MVに出演している笠松将はHBOドラマ『TOKYO VICE』で若手ヤクザ役を演じて知名度を上げました。
「本場アメリカ」の大統領選で日本語のラップが鳴り響くのって、凄い時代になったものです。

KOHH改め千葉雄喜の今年は上半期は東アジア全域で『チーム友達』が大流行。東アジア各都市でRemixが作られていて、それを追うのが面白かった。
なにが面白いって、東アジア各地の不良少年カルチャーが「Team TOMODACHI」として連結してく感覚。韓国台湾香港シンガポールマレーシアインドネシアフィリピンモンゴルなどなど、ギャル版として東京のギャルマレー半島のギャル中国のギャルなどと、ここ半年ほど次々と各国版が発表され続けてきました。
で、こうしたアジアの不良少年のムーヴメントが「本場アメリカ」に逆上陸したのがカマラ・ハリスの決起集会で歌われた『Mamushi』であり、そして、反エリートを掲げるドナルド・トランプへの対抗宣伝としてカマラ・ハリス陣営が選択したキーワードが「KAMALA is Brat(カマラは悪ガキ)」。カマラ側が「悪ガキ」を標榜することによってトランプの戦術は無効化されました。

でも、日本のテレビを中心とするマス向けメディアはあれだけ普段「日本の〇〇に外国人が~」みたいなネタに飢えているのに、東アジアだけでなく米国大統領選を通じて世界的な話題になった千葉雄喜の存在には触れない。カマラ・ハリスの集会直後に検索してみたけど日本語メディアでは一本もニュースになっていませんでした。これは意図的に無視しているのか? それとも純粋にアンテナの感度が鈍すぎて知らないのか?