「欧米には日本や韓国のようなアイドルはいない」なんてことを言う人がいますが、いったいどこの世界に住んでいるのだろう?

例えば今現在だと、NETFLIXで2025年12月10日から配信されたオーディション番組『The Next Act』からデビューしたボーイバンドの〈December 10〉。

プロデュースするサイモン・コーウェル(Simon Cowell)は、2010年代を代表する英国の国民的アイドルだったボーイバンド〈One Direction〉などの成功で現在の英国を代表するプロデューサーとして知られています。日本では『Britain's/America's Got Talent』などの審査員役として目にする機会があるのかな。
〈One Direction〉の略称は「1D」。その後継チーム「D10」として彼らのアジアでのプロモーションを見ると、日本の男性アイドル含む東アジア各国のボーイバンドが東アジアでのプロモーションをする時と同じ番組に出てるのが興味深い。今は英国でボーイバンドを結成しても東アジアのアイドル文化の影響は避けられないのだな。
2025年にNETFLIXで配信されたオーディション番組発のボーイバンドには『Building the Band』からデビューした〈Midnight Til Morning〉もいますが、彼らも日本に来てわざわざメンズ地下アイドル的なプロモーションをしているし。

ついでに書いておくと、コーウェルを知らない日本人に説明する時には、音楽プロデューサーというよりはテレビ寄りの人物という意味で「イギリスの秋元康」なんて敢えて雑に単純化してみますが、秋元康も新たに男性アイドルをプロデュースし結成したばかりですね。奇しくもコーウェルのボーイバンドと同じ10テンの名前が共通し、Leminoで配信されるオーディション番組から作られた〈Cloud ten〉。


今回紹介するのは、かげはら史帆の『ピアニストは「ファンサ」の原点か』(2025年)から。

フランツ・リスト(Franz Liszt)を中心に、19世紀、当時のピアニストたちが現代の私たちの「クラシック」イメージとは異なり、現代のロックスターやアイドルに相当したとイメージの再構築を図るような本でした。
とはいえ欧米では、リストを言葉が成立する以前のロックスターやアイドルだった、と描いてみせるのは昔から珍しい話ではありません。

ただ、今回扱うのは本筋のピアニストたちの話ではなく、「ファン」という言葉についての話。
第Ⅰ章「スターとファンと公衆――彼らはいつ現れたのか」より。
"ファン(fan)"という言葉は、熱狂を意味する「ファナティック(fanatic)」という英語に由来するという説が一般的です。「fanatic」の語源はラテン語の「神殿に仕える人(fanaticus)」であり、この言葉はさらに元をたどると「神殿、聖域(fanum)」という語までさかのぼります。
興味深いことに、「fanaticus」には、古くから「(宗教の)熱狂的な信奉者」という意味が含まれていました。今日の推し活がしばしば宗教活動にたとえられ、「信者」(熱心なファン)、「布教」(推しの魅力を広めること)、「聖地巡礼」(推しのゆかりの地を巡ること)などの宗教的なメタファーで呼ばれる理由の源泉をここに見出すこともできるでしょう。「fanaticus」の英語化である「fanatic」は、時代が下るにつれてだんだんと宗教的な意味合いを失い、十七世紀の半ば頃には単に「熱狂する人」を指す言葉になりました。
「推し活」という言葉がメディアに何の説明も無しに使われるほどに世に広まっています。
「推し」のファンは「信者」として「布教」し「巡礼」する。お金を遣うのは「お布施」であり、無駄なCDやグッズを買い集めるのは「(徳を)積む」。
「推し活」に宗教用語が使われるのを「大袈裟おおげさな」と思う人も少なくないでしょうが、「ファン」という言葉自体がそもそも「ファナティック(狂信者)」に由来するわけです。

こうした現在の「推し活」を描いた小説で、今現在大ヒットしているのが朝井リョウの『イン・ザ・メガチャーチ』(2025年)。

離婚し独り暮らしのレコード会社の中年サラリーマンがアイドルのプロデュースに関わるところから始まり、父の仕事を知らずにそのアイドルにハマり信者となって布教に勤しむ大学生の娘。匿名のまま互いに相手が何をしているかを知らずに影響しあう父娘を軸に、陰謀論が蔓延する現在の社会で虚構フィクション現実リアルの境界が融けていく物語。
同時代小説として描かれているので、小説に出て来るエピソードのモデルとなった元ネタは何が現実リアルにあったのか分かる人には分かるようになっています。
例えば、父娘が関わるアイドルのモデルになっているのは〈INI〉だな、とか。小説にする以上は全く同じにはできませんが分かるように。


アイドルに興味が無い人でも…と言うよりかえってアイドルビジネスを通して、ここ数年、現実リアルの日本で何があったのか小説フィクションの形で追体験する意味で読んでみてはいかがでしょうか、とお薦めしておきます。
そして、もし、読んでいて元ネタが分からないと言うのならば、あなた自身の社会へのアンテナの感度は錆びつき鈍くなっています。陰謀論に捕り込まれないか警戒しておいた方が良さそうです。
とはいえ、『イン・ザ・メガチャーチ』の中では、暴走する登場人物たちに視野を狭くすることの心地よさを繰り返し語らせていますが、その方が楽なんでしょうね。陰謀論や詐欺にハマる人は現実逃避を望んでいて物語に騙されたいのでしょうから。

「ファン」という言葉の話に戻ります。
さて、この「ファナティック」が、いつ"ファン"という略語に転じたのか。これには諸説があり、ファン研究の専門家の間でも結論は出ていないようですが、一八八五年六月四日の朝刊紙『カンザス・シティ・タイムズ』には、ファンという語の初期の登場事例がみられます。

試合に「野球ファン(base ball fan)」なる連中が多数押し寄せているのは、まことに嘆かわしい事態である。選手たちは軽蔑を込めて彼らをそのように呼んでいる。彼らは選手や審判、そして彼らの罵詈雑言を諫めようとする観客に対してまったく遠慮を知らない。「ファン(fans)」は、自らを審判よりも優れた試合の判定人であると信じ込み、あらゆる選手に対して守備位置での心得を説こうとする。そして、あたかも自らの賛同こそが球団の成功を左右するかのように振るまうのだ。

ここでの着目ポイントは二つあります。一つ目に、カッコでくくられていることからもわかるとおり、当時はまだ"ファン"という言葉が一般の新聞読者には広まっておらず、選手や関係者の間での隠語にとどまっていたこと。二つ目に、この語が、したり顔で野球の自説を述べたり、選手や監督に説教を始めたり、果ては自分たちこそが球団を支えているという根拠のないプライドを持った、熱心だが面倒くさい客を揶揄するネガティブな意味合いで使われていたことです。
当時すでに「厄介オタク」に相当する人びとがいたことにビックリしますが、
~(中略)~
十九世紀半ば以降、野球はアメリカにおいて国民的スポーツとして認知される存在になっていました。一八六〇年代の南北戦争の前後、野球はアメリカのナショナリズムを発揚するスポーツとして急激に浸透し、まずは白人男性によって、次いで軍隊生活を介して黒人男性にも広まっていったのです。
現在の野球につながるBase Ballが英国のRoundersと呼ばれるスポーツを元に形成されたのは1840年代。野球史上、最初の公式戦とされるのは1846年6月17日に行なわれたNew York Knickerbockers対New York Nineの一戦とされています。
その後、ベースボールは、1861年に勃発した南北戦争での北軍の軍隊生活を通して北部全域へと拡散し、1865年の北軍勝利の終戦後には南部と黒人層にも広まり、米国を代表するスポーツへと発展しました。

現在のメジャーリーグ・ベースボール(MLB)を構成するNational Leagueの成立は1876年(前身のNational Association of Base Ball Playersは1871年)。
南北戦争からの戦後復興期と「金ぴか時代(Gilded Age)」と称される経済成長期に米国各地に次々と球団とプロ選手が生まれています。
少し前にプロレスの歴史について書いたことがありますが、この時代に現在につながるプロスポーツの興行とその観客が確立したのです。

「野球ファン(base ball fan)」という言葉の初期の登場事例として、1885年のカンザスシティの地方新聞『The Kansas City Star.』の
It is unfortunate, however, that there are so many ‘base ball fans’ as the players contemptuously term them, at the games, and that they are unrestrained in their abuse of players, umpires, and those of the audience who venture to remonstrate with them. These ‘fans’ consider themselves better judges of play than any umpire, would teach all the players how to play their positions, and feel that upon their approbation alone depends on the success of the club.
という記述が引用されています。
……『ピアニストは「ファンサ」の原点か』には"カンザス・シティ・タイムズ"とありますが、地元であるカンザスシティ公共図書館のレファレンスには『Kansas City Times』ではなくライバル紙の『The Kansas City Star.』となっていますのでそちらに準じます。

この初期の登場事例を由来に、カンザスシティでは「野球ファン発祥の地」として町おこしにも使っているようですが、当時の「ファン」という言葉にはネガティヴな響きがあったのです。
誹謗中傷に罵詈雑言、審判に文句をつけ、選手には自分の方が野球が上手いかのように説教し、諫める他の観客には敵意を向け、それでいてチームの経営を支えているのは自分たちであるかのように振る舞う、現在の日本語で言えば「厄介〇〇」とか「害悪〇〇」などと呼ばれる層が「ファン」と呼ばれていたのです。この"「厄介オタク」"層自体は百年以上経ってもやってることは変わりませんよね。
では、「ファン」という言葉が現われる前の時代の野球で使われていた現在のファンに相当する単語は何かと言えば、「rooter(支持者)」で複数形は「rooters(応援団)」。厄介でファナティックな野球ファンは「cranks(変人たち)」「fiends(悪鬼たち)」「bugs(虫たち)」などと呼ばれていました。
しかし、"ファン"という言葉の起源には、もうひとつ別の説があります。それが"ファンシー"説です。
「ファンシー(fancy)」という言葉は、「ファンタジー(fantasy)」にルーツを持ち、十七世紀頃には「空想」「創造」「装飾的」という意味で使われていました。日本では「ファンシーグッズ」など、少女趣味的な可愛らしいものを意味する語として知られていますが、実は十九世紀初頭のイギリスでも、この語の独自のスラングが発展しました。
ピアス・イーガンというイギリスのスポーツ・ジャーナリストが一八一三年に著したボクシング論『ボクシアーナ』には、"ファンシー"という言葉が何度も登場します。彼は自らこんな註を添えています。

読者の多くは上記の用語が「ピンと来ない」かもしれないので、説明しておく必要があるだろう。これは特定の娯楽、または何らかの事物に密接に関わっている人を指す。幸いにもこのフレーズを、疑いの余地なく説明するリアルな用例がある――ある老婦人が愛猫にキスをしながらこう言った「私のファンシー!」
ピアス・イーガン(Pierce Egan)は1772年にアイルランド移民の子として生まれ印刷工場の植字工として働くところから文章を発表するようになった人物。
彼はその出自から、口語スラング交じりの文章でロンドンの生活を描写しましたが、その一つが当時はまだ非合法だった賞金付きの賭けボクシングを称揚するために1812年から27年にかけて連載出版した『Boxiana』シリーズ。イーガンは「近代スポーツ・ジャーナリズムの父」と呼ばれることもあります。
ここで当時のスラングとして多用されているのが「ファンシー」という言葉。"読者の多くは上記の用語が「ピンと来ない」かもしれない"のは、当時の英国では階級ごとに使う言葉が現在よりはるかに違っていたからで、本を読める上流中流の階級に向けての説明が必要だったからなのでしょう。そして実際、『ボクシアーナ』は当時の英国社交界の男性たち必携の本としてベストセラーとなり、「ファンシー」は階級を超えて使われる言葉となったのです。
ただし、この語が、現代の"ファン"の直系のルーツである可能性は低く、一八八〇年代の野球起源説に分があります。
しかし本書では、あえて"ファンシー"説にも注目します。なぜか? まず、一八三〇-四〇年代のピアニスト・ブームと時代が近いこと。そしてボクシングが、男性の肉体(を鑑賞すること)にフォーカスしたスポーツであり、男性ピアニストの妙技の鑑賞と遠からぬ共通点があるからです。
これがアメリカ英語の「ファン」とイギリス英語の「ファン」の起源の違いであり、現代の「ファン」はアメリカ英語由来というのが定説となります。

「ファン」という言葉の話からは少し離れてしまうのですが、ここで少し「肉体」についての話もしておきたくなりました。

平芳裕子の『何がダサいを決めるのか』第5章「スーツの力はどこから来るのか《歴史と階級》」より。
新しい社会を担う人々は、旧来の貴族とは異なる考え方をもっていました。貴族社会においては、身分は生まれながらにして決定しているのです。貴族の子は貴族、農民の子は農民です。だからこそ、貴族は特権を享受したのであり、その特権的な身分を、外見を通じて人々に誇示する必要がありました。一方で、新しい市民社会においては、生まれは貧しくとも、勉強をして、懸命に働いて、財産を成して、自分自身の能力と努力によって成功をつかみ、社会的な地位を得ることが可能です。人間は平等であり、個人の自由な活躍が期待される社会です。そのためには、体を資本として、健康を気遣い、自身の精神を鍛えていかなければなりません。貴族のように豪華な服飾を身につけて外見を取り繕うのではなく、内面から自然とあふれ出る力を表現することに価値を置きました。
近代の始まりを告げる号砲となるフランス革命が1789年に始まり、王侯貴族に代わって市民が社会を主導する時代に変わると、19世紀が始まる頃には飾り立てた貴族社会の美意識から市民社会の美意識へと変化し、虚飾を剥いだ人間の肉体そのものが評価される時代になったのです。
そんな19世紀の総決算として生まれるのが1896年に始まる近代オリンピック。
……現在、SNSなどを眺めていると、肉体忌避の感情を持つ人が少なくないことが気になります。近代モダンへの反発がポストモダンではなくプレモダンへの退化へとつながりそうで。

また、フランス革命戦争(1792~1802年)と続くナポレオン戦争(1803~15年)は、それまでの戦争の情景を変えていました。フランス革命は王侯貴族の戦争から国民による戦争へと主役を代え、国民軍を率いたナポレオンがヨーロッパを席捲した結果、ナポレオンと戦う各国も「国民」の戦闘能力を高める必要に駆られます。
それまでの英国では、ボクシングの試合は非合法で、見つかれば決闘や暴行傷害といった単なる粗暴犯の扱いではなく、王侯貴族のコントロールしていない暴力の行使として、ボクサーだけでなくファンシーも含め暴動や治安紊乱の罪に問われることもありました。
しかし、ナポレオン率いるフランス「国民」軍との戦いが続く中でボクシングは英国「国民」の尚武の気風を高めるものとして許容されていったのです。
ナポレオンとの最終決戦となるワーテルローの戦いがあったのは1815年6月ですから、イーガンが『ボクシアーナ』を発表し始めた時点ではまだ戦争は続いています。

移民で労働者階級出身のイーガンにとって、ボクシングとは人種や民族や階級といった虚飾を剥いだ裸の肉体で殴り合う崇高な競技であり、それまで規制する側だった王侯貴族に対しては国民統合の象徴として売り込んだ、というわけです。

ただ当然ながら、出自も雑多な裸の男たちが殴り合う光景を、野蛮で下品なキワモノ趣味の見世物だと嫌う人たちも少なくありません。

『ピアニストは「ファンサ」の原点か』に戻ります。
イーガンはこの問題に立ち向かうべく、自著のなかで、ボクシングの歴史を古代の英雄伝のごとく描き直すとともに、ボクシングを「男らしく」「勇敢なイギリス人にふさわしく」「うるさい人々の嘲笑や過激な批評家の偽善よりも長く生き残るスポーツである」と宣言します。"ファンシー"という言葉にも、「スポーツマンシップ」ならぬ「ファンシップ」の精神が内包されていました。ボクシングが気高いスポーツなら、そのファン(シー)も気高い存在なのだ、というわけです。
これも以前、プロレスの話を書いた時に触れましたが、近代レスリングが生まれたのもこの時代なんですね。ナポレオン率いるフランス軍の兵士だった(とされる)サーカス興行主ジャン・エクスブライヤが近代レスリングの基となる共通ルールを作って興行を開始し、古代ギリシア・古代ローマを連想させるグレコローマンがレスリングに冠されるようになったのと同じように、イーガンもボクシングを出自の明らかでない胡散臭い殴り合いの見世物ではなく、古代ギリシア以来の伝統と格式があり、男らしく愛国的な気高いスポーツがボクシングであり、そのファンシーもまた気高い精神を持っていると再定義したのです。
ただ、
スポーツ史研究の池田恵子によれば、イーガンの著作にはしばしば若い"ファンシー"のふりをして書いたとおぼしき箇所が存在します。当時のボクシングは女性や若年の男性にはあまり人気がなかったため、これを憂慮したイーガンが、一般の若いファンシーを装ってボクシングの好感度を上げる啓蒙キャンペーンを行なっていたようです。
……「〇〇ファンはおっさんばかり」という揶揄とそれを気にして「若いファンや女性ファンもいるぞ」と言い返す情景は「ファン」という言葉が成立する以前からあったのだと知ると面白いですよね。

ただ、現在の「ファン」という言葉の直接の発祥は、英国ボクシングのファンシーではなく、米国ベースボールのファナティックにある、というのが定説。
二十世紀に入った頃には、"ファン"という言葉はスポーツ以外の分野にも普及します。一九一五年には「映画ファン」という言葉がすでにありましたし、特定のアーティストを愛する少年を指す「ファンボーイ」や、ファンの集団を指す「ファンダム」という言葉も同時に生まれています。日本では一九二二年五月二十四日の新聞記事に「キネマ界では何しろ世界的名優だけに日本のファンもその風貌を待ち焦がれて居り」という一節が登場しています。第一次世界大戦後には、ファンという言葉と概念は輸入されていたようです。
20世紀に入った1900年代には「ファン」という言葉は野球に限らない、現在のファンと同じ使われ方をするようになりつつありました。
日本では、1910年代までには大学野球のファンに「ファン」という言葉が使われ、大正時代には野球専門誌『Baseball Magazine FAN』が発行されており、その後、「活動(映画)ファン」などジャンルを超えて使われるようになったようで、"第一次世界大戦後"というよりは前後頃に「ファン」のメディアでの使用例が確認されます。
「ファン」の日本における初出として記録に残っているわけではありませんが、1905年に早稲田大学野球部が米国遠征をして最新の米国野球事情を持ち帰っており、翌06年の早稲田と慶応の早慶戦では一勝一敗で迎えた三連戦三戦目で熱狂した観衆の暴動を恐れて試合中止になる事件がありましたからこの辺りに輸入されたのではないでしょうか。

中野慧の『文化系のための野球入門』(2025年)の第4章「エンジョイ・ベースボールから「魂の野球」へ」より。
戦前日本で野球は「サブカルチャー」であったということだ。サブカルチャーというとアニメ、漫画、ポピュラー音楽などをイメージしがちだが、もともとは「下位文化」という意味である。社会には主流文化(メインカルチャー)があり、その下位として位置づけられるものがサブカルチャーだ。
戦前の身体文化においてメインカルチャーは日本古来の武術(相撲、剣術、柔術、弓術など)であり、欧米からもたらされた野球などのスポーツはあくまでもサブカルチャーだった。
~(中略)~
重要なのは、初期の日本野球の主な担い手は大学生だったということだ。昔も今も、モラトリアムを享受できる大学生が若者文化(ユースカルチャー)の発信源
ここで言う"戦前"とは第二次世界大戦での敗戦へとつながっていく昭和の戦時体制以前の戦前です。
現在の日本における野球イメージとは異なり、明治時代に日本に持ち込まれ「野球」と翻訳されたベースボールは都会の大学生(しかも当時の大学生はほとんどが上流階級出身のエリート候補生)が楽しむお洒落な舶来のスポーツでした。その一方に、日本の伝統武術を近代化した柔道や剣道といった武道があり、こちらが現在の言葉で言うところの「体育会系」のスポーツとしてメインカルチャーで、ベースボールは「文化系」大学生のサブカルチャー。
日本に輸入された「ファン」とその概念は大学野球を経て、映画など文化系大学生のサブカル趣味を通して広がっていったのですね。

……で、何故、私がこのように「ファン」という言葉についての歴史的経緯を紹介してみようと思ったのかと言うと、X(twitter)を眺めていて気になっているのが、ファナティックな旧ジャニーズのファンらしき人たちやネトウヨたちが「ファンダムなんて言葉を使うのは韓国人かK-POPファンしかいない」みたいな言葉狩りをし、陰謀論に耽溺しているのをよく見かけるから。
「ファンダム(fandom)」という言葉がメディアに記録された最古の用例は1903年1月2日の米国オハイオ州シンシナティの地方紙『The Cincinnati Enquirer』だと言います。
「今の日本のアイドルはみんなK-POPの真似をしている」なんてのもそうだけど、どうして何もかもが韓国から来たものだと思い込む人がいるのだろう? 舶来のものを何でも「から(転じて唐)〇〇」と呼んだ日本の古代人の狭い世界観でもあるまいし、なんて思うのですが、現在の少なくない日本人にとっても韓国だけが世界への窓口なのかもしれませんね。

『ピアニストは「ファンサ」の原点か』に戻り、第Ⅲ章「リスト・ファンとは誰だったのか」より。
ファンダム研究の第一人者であるヘンリー・ジェンキンズが、一九九〇年代にファンダムに関する考察を始めたきっかけは、いとこや知人の女性らがSFやファンフィクションのファンダムに参加していたことでした。当時のコミュニケーション研究やメディア研究の世界では、ファンやオーディエンスはメディアの影響下にある受動的な存在だという考えが一般的でした。しかし彼は、同人誌を郵便で送り合って楽しむファンたちを見て、彼らのカルチャーはむしろきわめて能動的な「参加型文化」であると気づきます。
ジェンキンズは、ファンダムの歴史的なルーツを、十九世紀中盤のアメリカにおけるおもちゃの活版印刷機を活用した同人誌制作や、十九世紀後半のシャーロック・ホームズのファン組織などに見出しています。こうした過去のファンダムからは、これまで見過ごされてきた女性やマイノリティたちのコミュニティが数多く発見されています。たとえば、女性を排除する風潮が強かった二十世紀後半のSF界隈では、女性たちが『スター・トレック』の独自のファンコミュニティを作る事例もありました。

私が「ファンダム」という言葉を子どもの頃に初めて認識したのもSFファンのファンダムでだな。『STAR WARS』や『STAR TREK』の。小学生の時に家族ぐるみの付き合いのあった友人の父親が『スタートレック』のファン「トレッカー(Trekker)」で、興味を持たない息子の代わりに私が話を聞いていたのだった。
また、最近、日本のメディアでは「ZINEジン」なんて言葉がまるで新しい概念であるかのように報じられたりもしますが、ファンがやり取りする同人誌が「ファンジン」で、私が「ZINE」という言葉を認識したのもやはりSF。1957年から発行されていた日本のSFファンジン『宇宙塵うちゅうじん』は有名でした。

そして、現在の男性オタクにも女性やマイノリティを排除するような風潮があり、オタク史から女性の存在を消したがる傾向もありますが、これも昔からです。
……そういえば、1990年前後頃、オタクを「オタッキー」なんて呼ぶこともあったように記憶しているけれど、これってトレッカーの蔑称気味の別称である「トレッキー(Trekkie)」から来ているのかな? だとすると「オタク」という言葉が成立する以前からオタクだったSFの素養のある人たちによる悪しき厄介なオタクを「オタッキー」として切り離そうとする試みだったのかとも思えてきました。

ファンダムやファンジンは、決して新しい言葉でもK-POPに限った用語でもありませんし、女性によるオタク史も長い伝統を持っています。
イギリスの女性作家ジェイン・オースティンのファンコミュニティは、しばしば、歴史上の女性主体のファンダムの事例として取り上げられます。オースティンは、ナポレオン戦争末期の一八一〇年代に匿名で小説を発表し、特に『高慢と偏見』は中流階級以上の女性を中心に一大ブームになりました。作品は十九世紀の間にわたって読みつがれ、時代ごとに熱心なファンを生み出し、「ジェイナイト」というファンネーム(?)でも呼ばれました。オースティン・ファンダムの研究所の著者であるサラ・グロソンは、ジェイナイトが十九世紀半ばまでにはすでにファンダムを形成していたことを指摘しています。その活動内容は朗読、演劇、お茶会、聖地巡礼、同時代の服飾品や小物の収集など多岐にわたりました(ただしジェイナイトには男性も多く含まれていました)。
英国で、ボクシングの男性ファン「ファンシー」が生まれた時代に、女性たちにはジェイン・オースティン(Jane Austen)がいました。匿名の覆面作家として1813年に発表した小説『高慢と偏見(Pride and Prejudice)』は熱狂的なファンを生み出し、1817年に彼女が早逝した後も作品は現在に至るまで読み継がれています。

「ファン」という言葉が成立する以前の女性主体の近代ファンダムの起源を研究者たちはここに見出すのですね。

ジェイン・オースティンのファンを意味する「ジェイナイト(Janeite)」という言葉もまた当初は低俗な女性小説とその低俗なファンというネガティブな使い方をされていました。しかし、ファンたちが現在の「オタク」と同じようにコスプレして朗読劇をしてみたり、お茶会したり、聖地巡礼したり、グッズを収集したり自作したりと、低俗視する世間を無視して楽しむうちに時間がネガティブな響きを消していき、二百年以上続くファンダムが形成されたのです。
19世紀の英国から生まれた創作されたキャラクターものとしては、長年続く世界的ファンダムとそのファンネーム「シャーロキアン (Sherlockian) 」も有名ですよね。アーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle)が1887年から発表を開始した探偵小説の主人公シャーロック・ホームズ(Sherlock Holmes)のファンたちです。
もちろん現在で言う「三次元」のミュージシャンら芸能人のファンの存在も。この『ピアニストは「ファンサ」の原点か』の主題であるフランツ・リストとそのファンダム「リストマニア(Lisztomania)」も19世紀の話です。

「ファン」でも「オタク」でもいいですが、自分たちだけが特別で特殊な存在だとは思わないほうがいい。
歴史を知ることで俯瞰する視点を確保しつつ、エンタメはエンタメとして、フィクションはフィクションとして楽しめば良い、と私は考えています。


リンクしてあるのは、BTS (防弾少年団) の『2.0』。

日本で「ファンダム」という言葉を新しいものかのように知った人たちにとっての知るきっかけは〈BTS〉の世界的大成功からなんじゃないでしょうか。
この『2.0』は世界的大成功の後に休止状態にあった〈BTS〉が復帰し、彼らの不在の間に「BTSみたいに」後に続いて「飛び越えろ」と世界各地で始まったボーイバンドの結成ブームに「Stop, ride」とアンサーソング。
そういえば〈December 10〉ファンダムと〈BTS〉ファンダムの喧嘩もさっそくありましたね。『イン・ザ・メガチャーチ』の中ではファンダムの喧嘩もプロモーションの一つとして描かれていました。
ただ、〈BTS〉を追い越せと言っても、〈BTS〉の成功に再現性は無いと私は思う。あれは個人の才覚ではどうにもならない時代の巡りあわせのようなものがあったと思うから。でも、「スター」ってのはそういうものですよね。
高中正義が世界的に再発見されている、というニュースを目にするようになりました。2020年代に入ってからTakanakaの中古レコードを探している、という欧米人を見かけるようになり、パンデミック明けから一気に人気になっていったのが私の印象。

高中正義の音楽がどのように日本国外で受容されているのか探して読んでいると、彼の音に世界の若者が、自分たちの生まれる前の時代にあった未来への希望や明るさ、郷愁のようなものを感じているようなのですね。
数年前に日本のシティポップが世界で「発見」されましたが、次は日本の80年代フュージョンがブームになるのかな。〈Casiopea〉や〈T-SQUARE〉なども「発見」されつつある感触がありますから。


「発見」という意味で英国の『The Gurdian』紙のファッション部門に掲載されたJess Cartner-Morleyの「We are living in a period of political anti-intellectualism. But in pop culture, clever is the new cool」(2026年3月22日付)という記事が面白かったな。
「反知性主義政治の時代に生きる私たち。しかしポップカルチャーの世界では知的であることが新しいクール」と題され、
Put down your negroni, hang up your Prada handbag and pick up a paperback. Next time someone whips out their phone to take your picture, grab your reading specs, not your lipstick. Smart is the new hot.
今の時代、プラダの鞄よりもポケットに差した文庫本。誰かに写真を撮られそうになったら口紅よりも読書用の眼鏡。賢さこそが新しいホットなのだ、と始まる文章。
芸能人たちは友人と読書クラブを作り、パパラッチに狙われたら本で顔を隠しつつさりげなく読んでいる本のタイトルで知性派アピール。
ドナルド・トランプに代表される反知性的な指導者が大暴れし、誰もがスマホを覗き込んでいる時代に、敢えて本を読むのがクールだと認識され始めているのですね。
Meet you behind the bike sheds to discuss Walter Benjamin over a cigarette, babe.
ヴァルター・ベンヤミンを煙草を吸いながら語るために駐輪場で君と会うよベイビー、なんて懐かしい大学生の青春です。
……そういえば、2000年代に入って以来、メディアから喫煙シーンは駆逐されていましたが、ここ数年の2020年代に入ってから、煙草カルチャーの復権が目につくようになりました。それは都会のリベラルでインテリ(ぶりたい)層だけでなく保守的な層でも。
例えば、

今現在、カントリーミュージックのアイドル的存在であるElla Langleyは『nicotine』(2024年)で、「煙草なんか吸わないよ」と歌いながら煙草に火を点けます。
全てがデジタルに数字で管理されている現代社会で、アナログな「」を作る何かが必要とされているのだろうな。それが本だったり煙草だったりするわけです。

で、この記事の中で、
Last September, during the week that Trump called climate change “the greatest con job” during a speech to the UN, the New York catwalk shows were taking place. At Proenza Schouler, the show notes came footnoted with a reading list of French feminist writings, including The Third Body by Hélène Cixous and Speculum of the Other Woman by Luce Irigaray, while Joseph Altuzarra left a copy of The Memory Police by Yōko Ogawa on every seat. One day in January, I read a news report about Trump confusing Greenland with Iceland four times in one speech, and then toggled to Vogue to read about the latest Saint Laurent menswear show, which was inspired by designer Anthony Vaccarello’s reading of James Baldwin’s seminal 1956 novel Giovanni’s Room.
とあります。
2025年9月、トランプ大統領の愚にも付かない演説が為されている同じニューヨークでファッションウィークがあり、各ブランドは読むべき本としてファッションショーに読書リストを用意したり、座席に本から引用したコピーを置いたりしていたというのですね。
そのなかで、Altuzarraが選んだのは小川洋子の『密やかな結晶』(1994年)の英訳『The Memory Police』。

『The Memory Police』は2020年の英国ブッカー賞の国際部門で最終選考に残るも惜しくも落選していますが、英国の新聞とそれが読める層において、Yōko Ogawaは特別な注釈なしに名前を出せるだけの知名度があるのが分かります。


ここからは、鴻巣友季子の『なぜ日本文学は英米で人気があるのか』(2025年)から紹介していきます。
……ちょっとネトウヨ向けの本みたいで恥ずかしいタイトルですが、こういうのって著者本人ではなく出版社側が本を読まないYouTubeの切り抜き動画みたいなものしか見ない人にも届くように付けるのでしょうね。

まず「はじめに」より。
2025年7月16日、第173回の芥川賞・直木賞はどちらも「該当作なし」という衝撃の結果が発表された。
それから遡ること約2週間前、おそらくそれを上回る驚きの受賞結果が未明の日本にもたらされていた。イギリスの7月3日の夜に英国推理作家協会主催のCWA賞、通称「ダガー賞」の各賞が発表になったのだ。同賞の翻訳部門賞をみごと射止めたのは、王谷晶『ババヤガの夜』のサム・ベネットによる英訳版The Night of Baba Yagaだった。
~(中略)~
もう一つ特筆すべきは、実在の連続殺人犯をモデルとした柚木麻子の『BUTTER』の英訳(ポリー・バートン訳)も最終候補に入っており、6作品中2作が日本作家の作品であったことだ。しかもプレスリリースによれば、この2作が首位の座を僅差で争ったらしい。
そう、いまイギリスではたいへんな日本文学ブームが起きているのだ。同じ英語圏のアメリカでも日本文学の人気と評価は高い。

奇しくも、英国版はどちらも黄色い表紙で、同じ1981年生まれの日本の女性作家による女性主人公のクライムノベルが、2025年の英国で高い評価を得て、ダガー賞を争ったのです。

王谷晶の『ババヤガの夜』(2020年)は、ヤクザの娘の女ボディーガードが主人公のハードボイルド小説。読むと昭和感の強いクラシカルなストーリー。表紙も80年代ぽさがありますよね。ですが、主人公となるのがマッチョな男ではなく、女ボディーガードとヤクザの娘のクィアなシスターフッドというところに現代性があるのでしょう。起承転結のはっきりしている短い小説なので映画化もできそうな作品です。

柚木麻子の『BUTTER』(2017年)は、実際にあった婚活連続殺人事件の犯人をモデルにした囚人と、彼女にインタビューを試みる主人公の女性ルポライターの関係を軸にして、連続殺人と美食(といってもB級な)を交互に追うストーリー。日本国外では男性社会における女性の反ルッキズム的な読まれかたをしているようですが、こちらも映像化できそう。
どちらの作品を読んでも日本人の私として、そこまで新奇な小説とは感じられなかったのですが、日本国外では日本人女性による新たなクライムノベルとして「発見」された、ということなのかな。

第1章より。
では、日本文学の海外での受容、とくに英語圏のようすを見ていこう。
「はじめに」で述べたように、いま英語圏では日本小説ブームが起きている。これまでも、1980年代には吉本ばなな、1990年代には村上春樹という国際的なベストセラー作家が登場したし、1994年には大江健三郎というノーベル文学賞作家も日本から出た。
~(中略)~
しかし2010年代半ばからの日本小説の国際的評価というのは、従来のそれとは性質が違っている。名声を確立した大作家だけではなく、デビューしたての作家の第1作がいきなり海外で翻訳されるケースもあるのだ。好まれる要素はジャパネスク(ステレオタイプな日本の伝統文化の風味)ではなく、犯罪・ミステリー、フェミニズム、ディストピア、奇想系、そして癒し系(マジカルな猫、喫茶店、書店、図書館が題材として鉄板)の作品がよく読まれている。
~(中略)~
ジェンダーで言えば、いま日本の同時代作家では女性が圧倒的に強い。村田沙耶香、小川洋子、多和田葉子、柳美里、川上未映子、川上弘美、金井美恵子、市川沙央、松田青子、柚木麻子……そして2025年にはここに『あなたに安全な人』の英訳Someone to Watch Over You(手嶋優紀訳)が出た木村紅美や、芥川賞受賞作『東京都同情塔』英訳Sympathy Tower Tokyo(ジェシー・カークウッド訳)が刊行された九段理江なども加わっていくだろう。木村も九段も英語圏には初登場だが、その英訳書はアメリカの都市部の書店では目立つ位置でフィーチャーされている。
日本の現代文学が英語圏で「発見」されたのは1990年代。
この時代を代表する日本人作家が、吉本ばななと村上春樹の二人であり、以降、現代日本文学のイメージそのものを築いた二人でもあります。
ところが、2020年前後頃から現代日本文学の海外における受容が変化します。女性作家の現代作品が次々と翻訳され、一定の成功を収め始めます。
2024年から25年にかけての『バター』と『ババヤガの夜』の成功を見ると、転換点となったのは2003年に英訳され04年に米国エドガー賞にノミネートされた桐野夏生の『OUT』の影響は大きいのかもしれません。

桐野夏生の『OUT』(1997年)は、食品工場でパートタイムで働く主婦たちがふとした弾みで犯した殺人を隠蔽しようとするところから狂っていくストーリーですが、2000年代後半以降、世界各地で『OUT』に影響を受けたであろう作品が次々と作られてきました。最近でもインドのドラマ『Kaalipotka』(2026年)が「これは『OUT』だ」と日本の映画ファンの間で話題になっていますよね。
男性優位の社会で、女性たちが犯罪を介してシスターフッドを築いて抵抗する、そんなストーリーが、現代日本の女性作家のお家芸と認識されていそうな感触があります。そして、それが"犯罪・ミステリー、フェミニズム"作品として読まれ、日本の読者が思っている以上に世界で「フェミニズム」作品として読まれている。
ところが、日本の古典的作家となると、形勢が逆転して男性が圧倒的に強い。2025年には太宰治の『斜陽』の英訳The Setting Sun(ジュリエット・ウィンターズ・カーペンター訳)が刊行されて話題になり、またイギリスでは松本清張の『砂の器』の英訳Inspector Imanishi Investigates(ベス・キャリー訳)や、『点と線』の英訳Tokyo Express(ジェシー・カークウッド訳)が翻訳文学のベストセラー入りしている。
太宰治作品は日本でも「古典」のジャンルに入るでしょうが、松本清張が古典と聞くとまだちょっと違和感がありませんか?

日本国外で太宰治はじめとする日本の近代文学作家たちの名前が知られるようになったのはアニメ化された『文豪ストレイドッグス』からだと言われます。

鴻巣友季子が司会し王谷晶と柚木麻子らが登壇したシンポジウム『国際文芸フォーラム2026』を収録した記事「柚木麻子、王谷晶らの世界進出を後押しした翻訳家の力。日本文学の海外での存在感」(『CINRA』2月19日付)では『ババヤガの夜』を翻訳した Sam Bettはこう語っています。
私が翻訳を始めた当時は、「翻訳文学」というもののジャンルはそこまでメジャーではなかった。やはり、アニメや音楽と比べて、文学はかならず言語の壁があり、訳さないとアクセスできないですよね。
けれども、いま、友人との会話のなかで、好きな本のジャンルに「翻訳文学」と聞くまでになったんですよ。そういう人は、もともとアニメや音楽などで日本のカルチャーに触れていて、文学のほうにだんだんと移っていったということも考えられると思いますね。
日本のアニメを入り口にして、大人になるにつれ日本の文学に移行して日本の翻訳小説を読む層が形成されていったのではないか、と翻訳家の視点から考えているのですね。
翻訳小説を苦手とする人たちには、外国の名前など固有名詞が覚えられなくて物語に没入できない、という意識があるみたいですが日本のアニメで育った世代にはその苦手意識がないのもあるのだろうな。

ただ、松本清張はまだ「文豪」枠じゃない気がするし、「オタク」カルチャーとも近くはない。
それでいて、松本清張の『点と線』を英訳した『Tokyo Express』(2023年)は10万部以上を売り上げるベストセラーとなり、鉄道ミステリーの伝統を持つ英国において松本清張は「日本のアガサ・クリスティ」として知られています。


松本清張について、英国『The Daily Telegraph』紙に寄稿されたTim Stanleyの「Why you should read this Japanese crime writer adored by Lee Child」(2025年8月19日付)という記事がありました。
Penguin has taken a gamble on introducing him to the UK – it seems to be paying off, perhaps as an antidote to so many “cosy” English thrillers about gay vicars and curious pensioners. Tokyo Express, released in 2023, has enjoyed a print run of 100,000 copies. Inspector Imanishi Investigates and Suspicion followed to glowing reviews. Lee Child called Imanishi “an absolute classic… a whole new world to explore”.

Indeed, the books are packed with lean prose and twists – three in A Quiet Place alone – yet they’re also educational. If you want to understand Japan, a country that is outwardly well-ordered and inwardly a cauldron of suppressed desire, Matsumoto is a disquieting place to start.
「何故あなたはリー・チャイルドの敬愛する日本のクライムノベル作家を読まなければならないのか」と題された一文です。
Lee Childは1954年生まれの英国出身の推理小説や冒険小説の作家。グラナダテレビで刑事ドラマなどに関わり作家に転向したタイプの小説家で、2012年にトム・クルーズ主演で映画化され、2021年からはAmazon Prime Videoでドラマ化されたマッチョな元憲兵隊員が大暴れする〈Jack Reacher〉シリーズが最も有名な作品となるのでしょう。
そんなリー・チャイルドは松本清張を敬愛し、『砂の器(英語題:Inspector Imanishi Investigates)』を読み継がれるべき古典であり新しい世界への探検であると評したのですね。


『デイリーテレグラフ』紙は英国における右派系オピニオンの新聞ですが、松本清張作品の英国における受容を、ここに寄稿したティム・スタンリーは、ゲイの神父や年金暮らしの老人が主人公として活躍する英国の"cosy"(居心地の好い)な作品に対し、一見整然として静かな日本社会の底流にある剥き出しの欲望を描いた作品が"antidote"(解毒剤)となると言うのです。
そして、
TV has inured Westerners to the flawed detective (nine times out of 10, an alcoholic) yet the star of Inspector Imanishi Investigates – four and half million copies sold in Japan – is refreshingly quotidian. He writes haiku. He chain smokes. He works so hard his wife never sees him (and doesn’t complain). But when a body is found on the train tracks, it’s Imanishi’s dedication, reluctant even to pause his investigation to have a cup of tea, that leads him to the killer. He cares. And that compassion manifests as a rebellion against the bureaucracy.
Matsutomo’s heroes, notes Kirkwood, always receive a call from a higher-up “to shut down the investigation or push something under the carpet”, and their refusal to fall in line “really resonates today with Japanese readers”. Matsumoto is a bridge from the deferential past to the more liberal present.
西洋では主人公の刑事はアルコール中毒などの弱さを抱えたキャラクター造型されているのに対し、今西警部は詩を詠み、チェーンスモーカーで、家庭を顧みない仕事人間。しかし、それでいて組織の不正には静かに抵抗する。そこが読者の共感を得る、と。
王谷晶や柚木麻子の作品が日本人が思っている以上にフェミニズム的作品として読まれているのに対し、松本清張作品は日本人が思っている以上に「男らしい」作品として読まれているようなのです。
この辺り、欧米の「男らしい」ミリタリー小説やアクション小説の作家たちが「RONIN」(浪人)という日本語が好きなのにも通じるのだろうな。


『なぜ日本文学は英米で人気があるのか』に戻り、
目下、日本小説で翻訳されやすいのは、犯罪・ミステリー、同時代の女性作家、古典的な男性作家、そして猫などの出てくる癒し系小説、ほぼこの4カテゴリーに限られるというのだ。
ここまで英語圏での日本のクライムノベルの人気について書きましたが、次は、日本にいる日本人の読書家の視界には入ってこない作品としての"癒し系小説"について。

2025年に出版された『なぜ日本文学は英米で人気があるのか』という本を読んでいてなんだか既読感があるな、なんて思っていたのですが、この辺りの話は英国の新聞『The Gurdian』に掲載されていた「Surrealism, cafes and lots (and lots) of cats: why Japanese fiction is booming」(2024年11月23日付)という記事を読んでいたからだな。
「シュールリアリズム、カフェ、そしてたくさんのたくさんの猫。なぜ日本の小説がブームなのか」とタイトルが付けられた記事にはこう書かれています。
Anyone who has been in a bookshop in the last few years will have noticed that Japanese fiction is experiencing an extraordinary boom. In 2022, figures from Nielsen BookScan showed that Japanese fiction represented 25% of all translated fiction sales in the UK. The dominance is even more striking this year: figures obtained by the Guardian show that, of the top 40 translated fiction titles for 2024 so far, 43% are Japanese,
ガーディアン紙の文芸部門を担当しているJohn Selfは、ここ数年、英国の書店に行くと誰でも気づくほどに日本の小説がブームであり、2022年段階ではニールセンの調査で翻訳小説の25%が日本語からの翻訳小説で、2024年になると英国における翻訳小説の売上トップ40のうちの43%が日本語からのものだと言います。
これは十分に「ブームだ」と言ってもいいでしょう。
さて、これまで挙げてきた文芸作品、ミステリー・犯罪小説と趣を異にするのがヒーリングフィクションなどと呼ばれる癒し系の小説群だ。先ほど、2025年6月時点のイギリスの翻訳文学トップ50のうち23作品が日本語作品だったと述べたが、売上合計は320万ポンド(≒6億3500万円)、そしてそのうち11冊ほど(つまりざっくり半分)はヒーリングフィクションだったのである。川口俊和『コーヒーが冷めないうちに』(ジェフリー・トルーセロー訳)、青山美智子『お探し物は図書館まで』(アリソン・ワッツ訳)、八木沢里志『森崎書店の日々』(エリック・オザワ訳)、石田祥『猫を処方いたします。』(E・マディソン・シモダ訳)……。

これらの作品と作家たちを知っていましたか?
私、活字中毒でスマホを持たずとも鞄の中に本が入っていないと落ち着かないタイプの人間なんですが「知らないマウント」をとるつもりもなく、日本国外で売れてる、という話を聞くまで全く知らない作品と作家たちだったんです。
で、こうしたヒーリングフィクションなどと呼ばれる日本発の癒し系小説は英米のみならずアメリカ大陸やヨーロッパ大陸、中国語圏でも売れている、と聞きます。
ちなみに、2025年上半期のイギリス翻訳小説市場は、村上春樹、柚木麻子、『変な家』の雨穴と、癒し系の代表格・川口俊和の4名で全体の売上の20%を占める勢いだった。このトップ50には急成長のマンガと、グラフィックノヴェルは入っていない。
雨穴の『変な家』が英国で売れているのにも驚きます。
村上春樹と柚木麻子、雨穴と川口俊和。この4名で英国翻訳小説市場の2割を占めると言うのですが、前者2名を読む層と後者2名を読む層は交わるのだろうか? 少なくとも日本では交わってはいないはずです。
ヒーリングフィクションこそが、いまのイギリス、アメリカにおける日本文学を代表するジャンルなのである。後述するように両国での翻訳小説購買が若い層に支えられているが、若い人たちにどんな日本小説を読むかと訊くと、これらの本は必ずと言っていいほど入ってくる。
ヒーリングフィクションの特徴は、多くが魔法の猫やタイムトラベルなどのマジカルな要素と、喫茶店や図書館・書店などを舞台にしていることで、心温まる結末で泣かせるものが主流である。アメリカでも大人気で、都市部だろうが田舎だろうが、保守州だろうがリベラル州だろうが、書店には常備されており、大型書店では大々的な棚展開になっている。
本が売れない時代だと作家も書店も嘆き、カフェはスターバックスのようなチェーン店が世界中にある今、日本の古びた喫茶店や図書館・書店を舞台とする小説が、都市でも田舎でも、右でも左でも、国を越えて売れていると言うのです。

『コーヒーが冷めないうちに』は2018年に日本で映画化もされているのですね。
……うん、予告編を見るだけでおなか一杯。サンマーク出版の本って電車の中で広告を見かけることは多いけど、私の人生において一度も買ったこと無いな。
雨穴の『変な家』も2024年に映画化されていますが、こちらは本を書店で手に取ってパラパラと立ち読みしてみたところまではありますが……うん。
とはいえ「私の好みではない」というだけで楽しんでいる人を否定するつもりはありません。それを言ったら、私は村上春樹だって翻訳やエッセイは読むけど小説は好みじゃないし。

2025年に東京の神保町が「世界で最もクールな町に選ばれた」なんてニュースがありました。これは英国の雑誌『TimeOut』の「Jimbocho is the world’s coolest neighbourhood in 2025」(2025年9月24日付)という記事から。
なぜ急に神保町が世界で知られるようになり最もクールな町扱いされているのか? と疑問に思う人もいるでしょうが、本をよむのが新しいクールだという世界的な流行と、日本の癒し系小説の世界的な流行の二つの潮流が前提にあり、古びた学生街で古書店と喫茶店の並ぶ神保町が、ヒーリングフィクションの舞台観光の街として脚光を浴びた、という話です。

第5章より
今のイギリスにおける日本小説のブームには、二つの潮流があると言っていいだろう。一つはいわゆる純文学やミステリーを合わせた「文芸作品」、もう一つは「ヒーリングフィクション」として括られる癒し系の読み物だ。前者が「現実と向き合いその壁を乗り越えていく読書」なら、後者は「現実から逃避する読書」と表現できるかもしれない。
後者のヒーリングフィクションは、イギリス、アメリカでは日本、韓国など東アジア独特のジャンルとなっている。川口俊和、八木沢里志、石田祥らの本はアメリカでも大人気で、小さな町の独立系書店にまで置かれているので驚かされる。年齢層はあまり偏りがなく、老いも若きも読んでいるようだ。
~(中略)~
分析記事や読者レビューの感想を見るに、このジャンルの読者はいっときでも過酷な現実から逃避したくて手を伸ばす面があるようだ。戦争や紛争、社会的断絶、自然災害などの辛いニュースが絶えない昨今、個人的な生活においても職場でのハラスメント、学校でのいじめ、家庭内での人間関係などに悩みが尽きない私たちに、こういう物語は癒しを与えてくれる。
~(中略)~
日本にはない分類だが、なぜこのような独特のジャンルがイギリスとアメリカで成立したのだろうか。純文学でもエンターテインメント小説でもジャンル小説でもない。この中間の領域に潜在的ニーズはありそれに応える作品群がヒーリングフィクションだったのではないか。日本のカルチャーを海外へ売りだそうというとき、アニメとマンガ以外にも意外なマーケットがあるという例だろう。
しかし、これは日本側が作りだしたブームではなく、読者の欲求から自然発生的に生まれたジャンルだということが重要である。
英米における日本文学についての二つの潮流が、文芸作品と癒し系小説に二分されているのは事実だとして、"「現実から逃避する読書」"というのは後者のヒーリングフィクションに限らず文芸作品にも当てはまるというのが私の感触。文芸作品でもヨーロッパやアメリカ大陸とは異なる、ここではないどこか違う世界の話、半ばファンタジーとして読まれているように私には思えるのです。現実からのantidoteとして。

また、日本にはない独特のジャンルだと言いますが、じゃあ日本国内に似たジャンルはないのか? と問うならば韓国発の小説やエッセイがこのポジションにあるのではないでしょうか。

本屋に行って翻訳小説の棚を見れば、欧米や中国語圏の文芸作品の翻訳よりも韓国のヒーリングフィクションやエッセイの存在感があるはずです。2024年の本屋大賞の翻訳小説部門1位は黄宝凛ファンボルムの『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』でしたが、2026年の今でも平積みにされているのを見かけます。
『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』のあとがきにファン・ボルムはこの本を書く際に映画『かもめ食堂』と『リトル・フォレスト』を意識したと記していますが、韓国人にとっても「日本」が"現実から逃避する"場所だとしたら、一定数の日本人にとっては韓国が逃避する場所なのだろうな、なんて、K-POPに限らない日本におけるK-〇〇全体のファン層を見ていて思います。『かもめ食堂』の時代は北欧だったのが、今は韓国と。

……日本のSNSを眺めていると「北欧好きの出羽守」みたいな皮肉を見かけることがあるのだけど揶揄している側も含め年齢がバレますよね。フィンランドを舞台にする『かもめ食堂』(2008年)が話題になったときに思ったのは「これって『やっぱり猫が好き』?」。

『やっぱり猫が好き』は1988年に始まった三谷幸喜脚本のシットコム。当時、36歳のもたいまさこ、30歳の室井滋、23歳の小林聡美が演じる三姉妹と猫の暮らし。その二十年後に公開された『かもめ食堂』に出演しているのは室井滋ではなく片桐はいりですが。
小説に限定せず「現代日本のヒーリングフィクション」というジャンルを文学として研究するのならば、1965年生まれの小林聡美の主演作品を1980年代から追っていくのも面白いかもしれません。
2025年に登場して人気なのは、朝倉卓弥『桜待つ、あの本屋で』の前野有香による英訳The Vanishing Cherry Blossom Bookshopだ。「なんてドリーミーな表紙!」「届くのが待ち遠しい」「Spotifyにオーディオブックもあがってる!」といった熱烈な歓迎ムードを見かける。
表紙を見れば納得できる。「マジカルな猫」「不思議な書店」、そして日本らしい桜の木の絵が描かれている。日本の猫本があまりに売れるので、猫が出てこない本の表紙にまで猫が描かれる昨今だが、本作には実際に出てくる。
英訳者の側には「翻訳されるのは猫本ばかり」というため息まじりの声もある。コンテンツとして、いまや猫、喫茶店、図書館・書店が、かつてのフジヤマ、ゲイシャ、サムライに相当しそうな日本文化のステレオタイプ的表象を形成しつつあるように私には見える。

「日本」に何を求めているのかがとても分かりやすい表紙です。
日本人の自認する「日本」と、日本国外の人びとが思う「日本」の間に微妙に齟齬があるように私は感じるのですよね。日本人には今でもハイテク先進国「日本」意識が拭い難く残っているけれど、日本国外から見た「日本」はレトロでノスタルジックな20世紀で時間が止まったマジカルでコージーな場所。
デジタルに毒された人たちには「再開発」すべきものでしかないでしょうが。
日本の小説が高く評価されることは喜ばしい反面、現代の女性作家、古典的な男性作家(太宰治、三島由紀夫、川端康成等々)、犯罪小説・ミステリー、そしてヒーリングフィクションという4つのカテゴリー以外も開拓されてほしい。日本文学には未訳の沃野が広がっているのだから。
……"未完の沃野"という意味では私は意外と、日本の歴史/時代小説がいけるんじゃないかと思うのですよね。サムライ・ゲイシャ・フジヤマなジャパネスクを排したハードボイルドな戦争と剣戟のコンバット・アクションものとして翻訳し売り出せば、欧米のミリタリー小説やスパイ小説作家たちのRONIN好きを眺めていると「男らしい」コンテンツとしての市場があるように感じるのです。

日本の大型書店に行って思うのは、これだけ膨大な数の新刊が並ぶ国はそうは無い。中国や韓国、東南アジアでは「日本は没落した貧しい国」イメージは強いですが、それでも「日本の文化的蓄積はスゴイ」と語られているのはよく目にします。これは「日本」の資源であり資産です。
経済大国でもハイテク大国でもなくなった「日本」が生き残る道としての「文化大国」ってのはある、と私は思っています。


リンクしてあるのは、Laufeyの『Madwoman』
レイヴェイ(漢字名は林冰)は母親が中国人でアイスランド出身。レイヴェイには東京を歌った『Lover Girl』もありますが、このレトロポップな『Madwoman』MVは面白いですね。
MVに出演している2026年の冬季オリンピックで金メダルを獲った中国系米国人のAlysa Liuは日本でも有名ですが、米国K-POP〈KATSEYE〉のMegan Skiendielは母親が中国系で、Lola Tungも母親がシンガポール華人の俳優です。
そして、色男役は「現実を忘れられる」とアメリカ大陸で大ヒットしたカナダ発のBLドラマ『Heated Rivalry』で主人公の日系カナダ人ホッケー選手役を演じてスターになったHudson Williams(本人は日系ではなく母親が韓国人)。
今の時代、東アジアにルーツを持つことがゴージャスでセクシーになったのだな。
そして、そんな東アジアにルーツを持つ何かを「推す」ことが反知性主義の時代という現実からの解毒であり逃避になる。
「マスコミはオールドメディア」って言葉は溢れているけれど、この表現って意味が分からない。
もちろん何を言いたいのかは読み取ってあげられますよ。マスコミ(侮蔑的表現としての「マスゴミ」も含め)に代入されるのはテレビ局や新聞社や出版社といった伝統的メディア(英語では「legacy media」)企業で、それがもう「オールドだ」と言いたいのでしょう。
でも表現としておかしいですよね。「マスコミ」という言葉はmass communicationの略語として使われているのですからmass(大衆)がcommunication(情報交流とか情報伝達)しているのであって、マスコミュニケーション自体には古いも新しいもない。
ひと昔前までの、例えば、新聞社などのメディアが発信した情報を元に大衆マスがコミュニケートしていたのを「オールド」な情景だと言うことはできるだろうけど、現在のX(twitter)なりYouTubeなりの「ニューメディア」とやらで大衆マス間で情報をコミュニケートさせているのも同じく「マスコミ」ですよね。
と言うより今の時代、新聞や雑誌の記事本文を読んでいることを前提とする大衆マス間のコミュニケーションなんてあるのだろうか。それよりも、Xの炎上騒ぎやYouTubeやTikTokの切り抜き動画の方がよっぽど「マスコミ」なんじゃないですかね。これが「ゴミみたいな」情報交流だな、と言う意味でなら私も「マスゴミ」という言葉を使うかもしれません。

また、本気でニューメディアとやらがオールドメディアに代わって「マスコミ」の座に就いたと言うのならば、双方向的なニューメディアにコメントを寄せて参与している個々の人たちも当然ながら社会の公器としての責任を担うべきで、これまで行なってきたマスコミ批判は全てあなた自身にも適用されるべきだ…とは思いませんか? SNSは間違いなくマスコミュニケーションですよ。

今の時代、新聞や雑誌といった活字メディアを読む人はどれだけいるのだろう? もう新聞や雑誌は大衆マスにとってメディアとは言えないんじゃないのかな。
以前、私に対して「こんな重要な事件なのに報道されていない!」と新聞の切り抜き記事を見せてきた人がいました。同じようなことはXでもちょこちょこ見かけますし、YAHOO!ニュースを眺めていても転載された新聞や雑誌の記事のコメント欄に「どうしてこれが報道されていないんだ!」と憤慨している人がいる。
「いや、あなたが見ているそれが報道されたものですよね?」と不思議な気持ちになりますが、たぶん、そうした人たちの認識する報道とは活字メディアではなく「テレビ」のみにあり、例えば、ある事件が追跡報道として一冊の本にまとめられてより詳しく記されていたとしても、そうした人たちが読むことは無く、「報道されていない」ことになるのでしょう。

「テレビなんか今どき見ないよ」と言う人は多いし、私自身もほぼ見ていない。前回、『紅白歌合戦』の話を書きましたが『紅白』も実は「テレビ」で私は見ていません。見たのはNHKが公式にYouTubeに期限付きでアップした各出演者のステージの切り抜き映像だけ。
このブログでもドラマを紹介することは多いですが、テレビドラマに触れることは少なく、ほとんどがNETFLIXはじめとするインターネット配信ドラマ。
それでも、大衆マス向けメディアとしての「テレビ」の影響力の強さは、新聞や雑誌の弱体化によって、かえって唯一の存在となって強固になったように私は感じているのですよね。


早稲田大学演劇博物館の館長だった岡室美奈子が2019年から23年にかけて『毎日新聞』で連載していたコラム「私の体はテレビでできている」を収録した『テレビドラマは時代を映す』(2024年)。書籍化にあたってエッセイとして加えられた「テレビ=オワコン論は本当か」より。
予め言っておくと、配信ドラマを否定するつもりはまったくない。近年、さまざまな名作配信ドラマが生み出されていることは事実で、例を挙げればキリがないほどだ。
~(中略)~
テレビよりも潤沢な予算でのびのびと制作できる環境は脚本家や作り手たちにとっても魅力的だろう。視聴者にとっても、選択肢が増えるのは喜ばしいことに違いない。
しかしその一方で、インターネット配信は格差社会の象徴であると私は思っている。
NHKやWOWOWのように受信料や定額料金を支払うものは別として、テレビ受像機かスマートフォンがあれば、テレビ番組は誰でも見ることができる。その意味で、テレビは万人に対して平等に開かれた民主的なメディアである。
~(中略)~
それに対して配信は、経済力がものを言う。一つ一つは高額でなくとも、サブスクリプションの料金は継続的に支払える者だけがコンテンツを享受できるからだ。サブスクリプションなら「誰でも」見たい時に見られると考えるのは、その意味で早計である。製作者たちは面白いコンテンツを用意して契約者を増やさなければならないが、視聴者たちにとっては同時に複数の料金を支払うのは負担が大きいため、見たいコンテンツを求めて配信プラットフォームの契約と解約を繰り返して渡り歩く人もいるはずだ。配信ドラマは見たくても見られない人がいる。格差社会の象徴であると考えるゆえんである。
日本におけるPPV(Pay-Per-View:有料視聴)の習慣は2020年に始まる新型コロナウイルスのパンデミックの時期に大衆化した、と言われます。NHKの受信料は別としてテレビ地上波は基本的に無料で視聴できるのに対し、動画配信サービスを視聴するには新たに契約し料金を支払う必要があります。
例えば、NETFLIXのスタンダード料金は月額1590円(2026年現在)。これを高いとみるか安いとみるかは人それぞれでしょうが、何にしろテレビ地上波だけの生活と比べれば毎月のランニングコストは増えるわけです。"「誰でも」"が視聴できるわけではない。

ワールド・ベースボール・クラシック(略称:WBC)の日本での放映権をNETFLIXが独占契約したことが話題になりましたが、これに対し「野球が見られなくなる」「野球人気がなくなってしまう」と反発する声も上がっています。
NETFLIXがWBCを囲い込むと、これまでのような「国民的」な盛り上がりがなくなってしまうのは確実でしょう。前例として、以前は「国民的」に盛り上がりがっていたワールドカップ出場を目指すサッカー日本代表のアジア予選大会はDAZNに囲い込まれてから大衆マスには届かなくなっているのは事実。26年1月に行われたアジアカップでの優勝もU23とはいえ、政治的対立がある中での中国との決勝戦で、中国では多くの人が盛り上がっていたのに日本では優勝したことすら知らない人が多いのではないでしょうか。


「見たければカネを払えばいいじゃん」と簡単に言う人はいるでしょう。ただ、カネを払って見る層と大衆マス層はまた違うのですよね。

プロ野球にしてもプロサッカーにしてもテレビ地上波で見れなくなってもスタジアムに来る人は来る。実際、2025年のプロ野球(NPB)は2704万人、プロサッカー( J.LEAGUE)は1199万人と観客動員数はテレビ地上波での放映があった時代と比べて増加し続けています。


でも、これは累計数であって野球とサッカー合わせて4000万人弱と日本の人口の三分の一がスタジアムという現場に足を運んでいるわけじゃありませんよね。たぶん、野球でもサッカーでも2025年にどこが優勝したのかも知らない人の方が日本人の多数派で、現場の盛り上がりは大衆マスには届いていない。
その一方で、オリンピックというパッケージに包んでテレビ地上波でメディアスクラムを組んで放映すれば、ほとんどの人がルールも知らないスポーツですら何となく盛り上がる。

私は横浜の下町育ちなんですが、前世紀の横浜スタジアムってテレビ中継の入る巨人戦以外は常にガラガラだったのですよね。で、招待券という名のタダ券が小学校の同級生の誰かしらから回って来るのでプロ野球を無料で観て、スタジアムの客席はちょっとした非日常の遊び場にしていた記憶。たぶんプロ球団のある街で育った人は同じような体験があるのではないでしょうか。隣の市の川崎球場は市役所に行くとタダ券が置いてあったし。
今は横浜スタジアムの試合のチケットはなかなか取れないと聞きます。現在の方がビジネスとしては当然なのだろうけど、子どもが自由にプロの興行を現場で観ることができた環境は文化的には豊かだったな、とも思う。

この点で、大谷翔平は「テレビを通したスーパースター」です。現在の大谷翔平の毎試合をスタジアムで観ている日本人は多くはありませんよね。テレビで見る対象です。
今回のWBCに限らず、大衆マス層が新たにNETFLIXはじめとする動画配信サービスと契約しカネを払ってまで野球を見るだろうか? 仮にオリンピックがそうなっても見るだろうか? エミー賞をいくつも獲得し日本でも話題になった真田広之主演でDisney+で配信されたドラマ『SHOGUN』(2024年)だって実際に見た人は多くはないはずなのに。
……私個人としては、「大谷ハラスメント」なんて言葉が生まれるほどのテレビはじめとするメディアスクラムで大谷一色になる状況にはうんざりしていますから、NETFLIXが素材を独占して他のメディアに渡さなくても別にかまいません。というか望むところ。
テレビ放送の魅力の一つは、大勢の人が同時に同じ番組を視聴できるということだろう。テレビをTVerや配信で見る人がいかに増えようとも、テレビの同時性は崩れることがない。その証拠に話題のテレビドラマはTwitter(現X)でトレンド一位になったりするが、配信ドラマではいかに人気コンテンツでもそうはいかない。テレビはまだ共通言語なのだ。
「テレビはオワコン(終わったコンテンツ)」とか「今どきテレビなんか見てる人はいない」なんて言うし、私自身もほぼ見ていないですが、Twitter(現:X)のトレンドと流れていく投稿ポストを眺めていると「相変わらずテレビは強い」し、「みんな何だかんだ言ってもテレビ大好きじゃん」なんて思う。最大手であるNETFLIXの公開されたばかりの配信ドラマを見た後に他の人の感想はどんなものかと検索しても大して見つからないのとは大違いです。
一時期、アニメが各動画配信サービスと独占契約して潤沢な制作資金を得るのが流行っていましたが、これも、深夜帯であってもテレビ地上波で流れないと盛り上がりに欠けてしまうのが実情。テレビ放映から配信サービスへの囲い込みによって人気シリーズでありながら「オワコン」になってしまったアニメはいくつもある。
"テレビはまだ共通言語なのだ"。私もそう思います。「テレビはオワコン」と言いながら、テレビに映らなくなったらオワコン扱いされるのも不思議な話ですが。
テレビ創世期の街頭テレビの時代から、テレビは人びとの共通言語であり続けた。それはテレビが生放送の頃から、本質的にライブ性、中継性を大事にするメディアだったからだろう。SNSによって、視聴者は誰でもテレビの中で起こっていることを「実況」できるようになった。近年は番組や作り手、出演者を批判を超えて罵倒したり誹謗中傷したりするような投稿も増え、SNSとドラマの関係は必ずしも豊かなものとは言えなくなってしまった。しかしSNSには今でも、同じ視聴体験を分かち合い、テレビを共通言語として見知らぬ者同士がつながり合い、一つのコミュニティを形成する豊かな場所にもなりうる。イーロン・マスクの買収によりTwitterがXとなり、今後どうなっていくのか予断を許さないが、テレビはこれからも私たちの共通言語となり、一緒に振り返ることのできる共通の記憶を醸成していくのではないだろうか。
テレビにあってインターネット配信サービスにないもの、それがライブ性ですね。
配信サービスで提供される番組を契約者はいつでも見れる。いつでも見れるということは、同じ時間に同じ番組を見る視聴体験の共有はできません。そして、共有できないということは"共通言語として見知らぬ者同士がつながり合い、一つのコミュニティを形成する"マスコミュニケーションがそこには発生し難くなる、というわけです。

ただ、SNSを使った視聴体験の共有はやいばにもなる。テレビを見ていて思わず「うわ、なんだよこいつ」みたいに思うことは私もありますよ。テレビの前で一人言うだけなら何でもない日常に消えていく一瞬の呟きでしょうが、SNSに書き込み投稿ポストした瞬間から文字として固定され、マスコミュニケーションとなって、誰かを攻撃する誹謗中傷となる。
この認識がまだ多くの人には欠けていますよね。あなた個人の独り言の呟きも、SNSに掲載されればそれは「マスコミ」であり、「マスコミ」に責任を問うならSNSを使うあなた自身も責任を自覚すべきです。
また、配信ではなく放送であるテレビは、一方向的であるがゆえに、自ら選択したわけではない番組と偶然に幸運な出会いを果たすことがある。テレビをつけたらたまたまやっていた番組に心をつかまえれた経験のある人も多いだろう。ドキュメンタリーを偶然見て、自分とは関係ないと思っていた社会問題に関心をもつことだってありえる。基本的に自分が見たいものを見る配信では、そうはいかない。むしろ自ら選んでいるつもりで、レコメンド(おすすめ)機能によって、実は選ばされていることもある。配信文化だけに浸かっていると、知らないうちにとても狭い世界に関心が偏る可能性があることは、知っておくべきだろう。
インターネットに無いものが偶然性。ネットは知っていることしか知らせてくれない。知らなければ検索できませんし、レコメンド機能は検索や視聴の履歴から類推されるのですからどうしたってフィルターバブルやエコーチェンバーに囲い込まれる。
対して、「オールドメディア」と俗に呼ばれる一方向のメディアからは、一方向だからこその自分が選んだものではない知識が届く。それをノイズで不快と感じるかどうかは人それぞれでしょうが、少なくとも知らないものに触れる機会は生まれる。これを最近は「情報の誤配」なんて言葉で説明する人もいますよね。本人が頼んだ覚えのない情報が誤配されることで生まれる新たな出会い、と。
ネット空間は良くも悪くも自由である。その自由さが放送では困難な冒険的・実験的な新しいコンテンツを生み出すこともある反面、倫理観の欠如したコンテンツが野放しになってしまうのも事実だ。対して、テレビには倫理が求められる。テレビには視聴者が番組を選んで見るだけでなく、好むと好まざるとにかかわらず番組が一方的に流れてしまうという、ある意味で暴力的な側面を持っているからだ。
「ニューメディア」とやらが「オールドメディア」に代わって「社会の公器」を担うと言うのならば、そこには責任が生じます。繰り返しますが、これまで「マスゴミ」に対して浴びせてきた「批判」は当然ながら「ニューメディア」とそこに組み込まれたSNS投稿者にも同じ基準で適用されるべきですよね。

「オールドメディア」という言葉を使いたがる人たちが「オールド」に対して抱いている「私が見たいものを見せてくれない」というフラストレーション。対して「ニューメディア」はフィルターバブルで包んであなたの見たいものを予測しレコメンドしてくれます。心地よくフィルターバブルに包まれていたい人にとって知りたくない情報は暴力的に感じるのでしょう。


米国で最も視聴率と観衆を集めるNFLのSuper Bowlのハーフタイムショーは毎年話題になりますが、カリフォルニアで開催された2026年2月のスーパーボウルで登場したのはBad Bunny。プエルトリコ出身のバッド・バニーが今のこの時代の米国で、スペイン語で歌い、ラテンアメリカ文化も「アメリカである」と米国人大衆に向けて「見せる」。

今のこの時代の米国、とはBruce Springsteenが『Streets Of Minneapolis』で歌ったような状況です。

こうして米国のミュージシャンを紹介すると、「日本のミュージシャンは海外のミュージシャンのように政治や社会の問題に発言しない」なんて言う人もいるのだけど、私はそう思わない。日本のミュージシャンが政治や社会の問題を歌った音楽は探せばいくらでも見つけられるはずです。「テレビ」が映さないようにしているのと、大衆の側も「テレビ」に映らないものを知ろうとしないだけで、テレビの外の「日本」にはある。

フィルターバブルやエコーチェンバーから大衆を引きずり出して「見せる」のが大衆マスメディアの本来の仕事のはずだと私は思うのです。
現在、放送番組制作者たちがもっとも神経を尖らせているのが、X(Twitter)をはじめとするSNSでの批判→拡散→炎上だろう。近年、SNS上で無関係な人びとが一方的に正義を振りかざして特定の対象をバッシングするという行為が目立っている。番組や出演者に対する誹謗中傷や攻撃ともとれる過度な批判は増加する一方で、もはや歯止めが効かないようにも見える。
メディア関係の人たちは市井で思われている以上にSNSの炎上を恐れています。それはエンタメだけでなく新聞社の記者からも経営層から「炎上するような記事を書くな」とプレッシャーをかけられるという愚痴を聞くこともあります。
フィクションであることは前提にも免罪符にもならず、あらゆる間違いを許容しない不寛容な空気が蔓延しているといっても過言ではない。
この図式への恐怖は、当然のことながら制作現場を萎縮させる。ドラマの主人公たちが常に「正しい」ことや「よい人」であることを求められるとしたら、それはなんと窮屈なことだろう。私たちはみな失敗もするし間違えもする。そして世の中は理不尽なことで溢れている。私たちはドラマの登場人物たちの失敗や間違いを反面教師にしたり、彼らがいかに理不尽な仕打ちを乗り越えたかを見て生き方を学んだりしてきたはずだ。表面的な「正しさ」への追従とは異なるフィクションの「倫理」とは何かを、テレビは今、根底から問い直す必要があるのではないだろうか。
ただ、それはそれとして、テレビ番組発の炎上騒ぎって、実は、大衆に媚びたあげくのさじ加減を間違えての炎上という印象が私にはあります。
例えば、大衆にはこっちの方が「分かりやすい」だろうと原作を無視して改変したとか、こっちの方が「分かりやすい」だろうと取材対象者や出演者に勝手にキャラクターやストーリーを付与したりとか、大衆に「分かりやすい」と媚びたつもりの演出がかえって炎上につながっている印象。ニュースを見ていても「分かりやすい」を優先した結果として間違った翻訳や解釈をされていることも少なくない。

リスク回避と目先の数字のために大衆に媚びた先に、良い未来があるとは私は思えないのですよね。悪貨が良貨を駆逐する結果にしかならないはず。
大衆マス向けメディアは大衆に媚びるのではなく、大衆啓蒙の責任があることを忘れるべきではない。そして、良き視聴者が良きメディアを育てる、低きに流れるのではない高め合う相互関係を目指して再構築すべきなのじゃないのかな。
その結果として、優れた作品が生まれて世界に売れて数字を稼ぐような循環が出来れば、「正しい」し「よい」なと私は思うのです。
テレビがテレビである意味について考えてきたが、テレビはもはやネット配信と無縁ではいられない。テレビならではの同時性を担保しつつ、見逃してもOK、好きなドラマは何度でも見返せるという配信の利点も視聴者は享受すればよいのだと思う。
しかし誰にでも開かれたメディアとして、テレビはこれからも存続してほしいと願ってている。そのためには、たとえ予算が潤沢でなくとも、制作者たちはさまざまな工夫や新しいアイデアを凝らして、良質な番組をどんどん制作し続けてほしい。
今の時代、テレビの持つ公共性はかえってより高まっている、と私は思うのですよね。


リンクしてるのはAlex Warrenの『Ordinary』。

アレックス・ウォーレンは2000年生まれのカリフォルニア出身。父は早くに亡くなり母はアルコール中毒。一〇代の頃からホームレスの車上生活に陥るもYouTubeやTikTokで稼げるようになり、21歳でミュージシャンとしてデビュー。
今現在『Ordinary』が大ヒット中ですが、彼をアメリカンドリームと言うべきか、それとも、YouTuberドリームとかTikTokerドリームと呼ぶべきか。26年2月発表のグラミーの新人賞はアレックス・ウォーレンもノミネートしていましたが獲得したのは英国出身のOlivia Dean

……「韓国」が凄いな、と思うのはアレックス・ウォーレンが『Before You Leave Me』(2024年)で成功ルートに入るとすぐに〈BLACKPINK〉のROSÉを送り込んでいるところ。バッド・バニーの大ヒット曲に日本語歌詞も入った『Yonaguni』という曲もありますが、MVに映るのは沖縄空手ではなくテコンドー。

「日本」はもっとアンテナを磨くべきなんじゃないのかな。だって今現在のBillbordチャートでどんな曲がヒットしているのかすら知らない人がほとんどでしょ。
別に米国の流行に染まれって言いたいわけじゃありませんよ。ここでの『Ordinary』だって「日常に現われた偶然の出会い」という歌詞から選んでみただけで個人的にはまったく面白味の無い曲だと思っています。でも、何が流行っているかぐらいは知っておくべきじゃないの? って話です。知らなきゃ評価もできないし、働きかけもできない。