今年2024年上半期、Disney+で放映中の真田広之がプロデューサーに名を連ねるドラマ『SHOGUN 将軍』が話題になりました。

1980年にもドラマ化されたことのあるJames Clavell原作の『SHOGUN』は日本史を題材に翻案したものであって史実通りではないので、日本人の目には「ん?」と思うところも当然ながらあって引っかかりはするのですが、日本国外で書かれた歴史ファンタジーだと思えば楽しめます。ファンタジー作品「『Game of Thrones』の日本版だ」と語る記事も少なくないですが、そういうものだと思えば。
日本を舞台とした作品に西洋人視点のオリエンタリズムを感じると、私は日本人として視聴を継続するのか悩むほど萎えますが、主演でプロデューサーも兼ねる真田広之とヒロイン役の澤井杏奈の二人がオリエンタリズムを拒否すると語っていたのが安心材料でした。

真田広之は『The Last Samurai』でハリウッドに「発見」されて以来二十年。ようやくハリウッドで日本人としての意見を通すことが出来るようになった語ります。日本人として今回の『SHOGUN』ドラマ化がこれまでのところ成功しているのは良いことです。
現在はゲーム『Ghost of Tsushima』の映画化が準備されていて、聞くところによると真田広之にアドヴァイスを求めた製作者はファンタジー寄りにするか史実寄りにするかをちゃんと決めた方が良いと言われたらしいですが、外からの勝手なイメージではなく日本人の意見が求められるようになったのは、日本人として悪い話ではないと私は感じています。

いわゆる文化盗用(Cultural appropriation)の問題に対して日本では否定的に語る人も少なくないですが、本当に不思議なのが「文化盗用」問題で、ハリウッドが日本人キャラクターを中国系や韓国系に演じさせるのに対しては怒る人が、例えば『ゴールデンカムイ』など、日本国内では「アイヌ人キャラクターはアイヌ系が演じるべき」だという声には踏み潰す側に回るのが理解できないのだよな。私個人としては出来るだけ舞台となるその土地の人たちやルーツを持つ人を使うべきだと見て思っています。
これはフェアネスとかコレクトネスといった話ではなく、日本国外で小遣い稼ぎ程度ではあるけど映画やドラマに出てみた私個人の経験もあるのでしょうが、「東アジア人ならみんな同じだろ」とばかりに中国人と日本人の区別がついていない所作を強いられているのを見るのは本当にうんざりします。やっぱりその土地の人が持つ独特の容姿や振る舞いってあると思うんですよね。

でも、ハリウッドで「マスター」と呼ばれるに至った真田広之が日本式の所作を明確にイメージとして刷り込めばこれも変わっていくのでしょう。
その意味ではNetflixでドラマ化され、Netflix内のテレビドラマ部門で2023年の年間視聴時間数1位となった『One Piece』でゾロ役を演じた新田真剣佑が物語冒頭で披露する殺陣も面白い。


真田広之は千葉真一と過去に師弟関係にありましたが、千葉真一の息子の新田真剣佑も「発見」されたことで、日本式の殺陣が米国でも認識されるようになると代用できない日本人の所作の存在が分かってもらえるようになるのではないでしょうか。例えば1984年の映画『The Krate Kid』の続編ドラマ『Cobra Kai(コブラ会)』で披露される格闘シーンと新田真剣佑の動きを比べれば一目瞭然。
……しかし、カラテ・キッドといえば、「カラテ」と銘打ちながらジャッキー・チェンが師匠役を演じた2010年の映画なんて完全に中国化していたし、2018年にシリーズが開始された『コブラ会』第1話で主人公が披露した空手に対し弟子になる少年が真っ先に尋ねるのは「それテコンドー?」。
2010年代という時代は「日本」が恐ろしいほどひどく地盤沈下した時代だったのだな、と改めて実感します。
最近、驚いたのが「韓国の俳優を使うと日本の同格の俳優の五倍のギャラが必要」という話。2010年代前半頃までは韓国の芸能人は「ギャラが日本に進出すると三倍、中国に進出すると十倍になる」と喜んでいたのに、逆転どころかそれだけの差がついて「安い日本」になっています。この現実を認識した上でどう日本を再興するのか、ってことなんでしょう。いまだに「経済大国日本」の幻想に浸っている人たちは認識を改めるべきです。


真田広之とともにハリウッドに「発見」された二大日本人スターとなるのが渡辺謙であることに異論がある人はいないでしょう。
渡辺謙が出演を選び、こちらも渡辺謙自身がプロデューサーに名を連ねているのはシーズン2が今年配信開始されたmaxの『Tokyo Vice』。

90年代日本を舞台に、ヤクザ組織を追うジャーナリストの白人男性に助言を与える日本人刑事役を渡辺謙が演じています。

真田広之の『SHOGUN』と渡辺謙の『Tokyo Vice』、時代劇と現代劇ながら物語の構造は似ていますよね。よそ者として日本にやって来た白人冒険者と、暴力に満ちた日本社会を冒険する彼に知恵を与えるトライヴを率いる日本人長老の関係を描きます。

この二人に次ぐ日本人長老を演じる役者として日本国外で重用されているのが平幹大。『SHOGUN』では石田三成をモデルとしたキャラクターを演じ、BBC制作のドラマ『Giri/Haji』ではヤクザを追う英国人キャラクターに知恵を与える日本人刑事役でした。
「エンタメとして描かれた」わくわくするほど暴力的な日本を冒険する、そのガイド役となる日本人長老キャラクターとしては、世界のプロレスのファンに「Murder Grandpa」の愛称で知られる鈴木みのるのここ数年のキャラクター役割の存在感でも、世界が日本人に何を求められているのかが分かります。

真田広之は『SHOGUN』の成功に「王道」という言葉を使っていました。日本を題材とした作品に求められる「王道」はやはりありますよね。サムライとヤクザ、カイジューにニンジャですか。
今年上半期、怪獣は映画『GODZILLA MINUS ONE』がオスカーを受賞し、ニンジャは賀来賢人がプロデュース兼主演した『House of Ninjas』がNetflixドラマとして配信されまあまあなヒット。
どちらもストーリーラインは奇をてらったところのない「普通」な作品ですが、そこが今、日本人に求められているところなのかな、と。
新田真剣佑と『ゴジラ-1.0』主演の神木隆之介がハリウッドで「発見」されれば、この二人が出演している映画『るろうに剣心』シリーズの他の出演者たちも「発見」されるかもしれませんね。
Netflixは続いて岡田准一プロデュース兼主演で今村翔吾の『イクサガミ』をドラマ化すると発表していますが、明治の時代に取り残された剣豪たちがチャンバラする『イクサガミ』を映像化するというのは『るろうに剣心』をNetflixでも作りたくなったからなのだろうな。
若手もベテランも、有名も無名も、日本のテレビ芸能界の序列をすっ飛ばすチャンスの時代がやってきました。ある意味、安くて性能の良い「Made in Japan」の復活です。

世界が待っていた「日本人女性キャラ」を演じられる存在となった澤井杏奈は、Apple TV配信の怪獣ドラマ『Monarch Legacy of Monsters』では主演。

『SHOGUN』では敵対する役だった平岳大が、この作品では澤井杏奈の父親役。
面白いな、と思うのは、平岳大は平幹二郎の息子ですが、『Monarch』で主人公の弟役を演じる渡部蓮も渡部篤郎の息子。新田真剣佑もそうですが、二代目の時代なんですね。

口の悪い人は「日本の俳優なんて下手くそばっかで学芸会だ」なんて言いますが、英語でこうした作品の感想を読んでいると「日本の俳優は上手い。もっと世界に出てほしい」なんてコメントをよく見ますし、中国語で読んでいると「日本の俳優は若手も殺陣が上手い。中国語圏の若手は編集で誤魔化さないと動けないのに」と日本での評価とは真逆だったりします。なんだかそれこそ過去となった「Made in Japan」の安心感みたいなものが残っている印象があります。

「日本スゴイ」に与する気はないし、「日本ダメだ」にも与する気はありません。
結局のところ「日本」のボトルネックとなっているのが大衆市場をこれまでコントロールしてきた各業界の大企業(エンタメで言えばテレビ局がその代表)にあるように思えてきます。
今年のゴールデンウィークの時期に話題となったNetflix版『シティーハンター』も映画というよりはテレビドラマの初回2時間スペシャルみたいな作品ですが、これを日本のテレビ地上波が作れるかと言われれば無理ですよね。
であれば、とりあえず、日本のエンタメについて何かを語りたくなった場合には、テレビ地上波の外にあるものについてもちゃんと語る、ということは大前提として明確に皆が認識すべきで、テレビ地上波だけで全てを知ったつもりになるのは止めておきましょう。


で、今の時代にそんな「日本」が提示する「普通」とは何なのかについて、インタビュー集『人類の終着点』(2024年2月発行)収録のマルクス・ガブリエルの語る現在の日本についての話から。
――マルクス・ガブリエルさんは、2023年春、4年ぶりに来日されました。久しぶりの東京訪問についてまずはお聞きしましょう。何か変化や新しいことはありましたか。

私が滞在していた時期は、パンデミックの収束が、正式に宣言された時期でした。法的な意味では「パンデミック収束」のまさにそのときでした。国境が開かれたばかりの時期だったので、私が知っている東京の国際的でグローバルな感じはまだありませんでした。
ロシアのウクライナ侵攻の影響で、東京へのフライトや私の旅行ルートは以前とはまったく違っており、日本は以前より遠く感じられました。
マルクス・ガブリエルは1980年生まれのボン大学教授。現代のスター哲学者の一人として日本でもよく知られています。
……マルクス・ガブリエルの語りって、私にとってとても同世代感があります。ちょっと前に、彼が学生の頃に体験した中南米での思い出話を読んでいたら、私もその場にいたエピソードがあって驚きました。その場にいただけで面識はありません。でも、同じ場所で同じものを見ていたのか! と。
彼の発言に私が全て賛同するかどうかは別の話です。でも同じ時代の同じ世代の他者の視点を取り入れるという意味において興味深い存在です。哲学者としての彼の仕事よりも同じ世代の代弁者としての通俗的な語りのほうが私には興味深く感じられるのですよね。
そして、私が感じたことは、国境が閉鎖され、厳しい政策が取られる中で、日本は1990年代から続いて、とても興味深い国へと変貌を遂げてた、ということです。
ポストモダニズムの絶頂期である1990年代、日本はいろいろな意味で世界をリードしていました。ビジネス界などのソフトパワーとして、日本は多くの面で文明の象徴でした。
そしてある意味では、パンデミックの最中に――ニンテンドースイッチの素晴らしい発明を私はいつも例にするのですが――日本は、その成功の一部を取り戻しました。別の面では、日本は1990年代の考えを替えずに、それを別次元に押し上げたのです。パンデミックの期間に、日本は非常に知的な形で改革に取り組み、いくつかの欠陥を修復したと思うのです。
ある意味で、4年ぶりの日本は、90年代末の「未来」に旅行したような気分でした。日本が過去から抜け出せなかったという意味ではなく、日本は欧米の他の地域と比べると別の「未来」に行ったのです。
これは文字通り「未来に戻る」(back to the future)旅でもありました。そう表現するのは、文化的にも適切だと思います。それも非常に成功した方法でやっており、批判的な意味ではありません。
世界保健機関(WHO)が新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミックを宣言したのが2020年3月11日。次々と国境が封鎖され始めたこの時をもって無条件にグローバリズム経済を謳歌できる時代は終わりました。
この無条件なグローバリズム経済の時代というのは日本にとっては「失われた三十年」でもあります。
パンデミックによりグローバリズムがストップした時、世界は日本に、21世紀に対応できずにいた日本がゆえに残存していたポストモダンな「20世紀世紀末に夢見た未来」を「再発見」したのですね。それをマルクス・ガブリエルは「back to the future」と表現します。
もちろんこの「back to the future」とは1985年にシリーズが始まった映画『Back to the Future』に掛けてあるのでしょう。私たち世代にとっては子ども時代を象徴する映画の一つでもあります。
コロナ後の日本は、まるで若い頃に見ていた夢の世界のようでした。私はソフトパワーであり、ロールモデルでもある日本を見ながら育ったからです。今の子どもたちもそうでしょう。
意図的ではないかもしれませんが、日本はこの戦略とポジショニングによって、若い世代に対するソフトパワーを獲得しているということです。
私の子どもたちや多くの子どもたちは、再び日本の製品に魅了されています。『スーパーマリオ』の映画などはその典型でした。これは最もわかりやすい例ではありますが、漫画やファッションなどより深い層も同様です。
~(中略)~
パンデミックの前に日本に来たときは、(知的、文化的、社会経済的な)日本の発展は、欧米の他の国とシンクロしていました。
しかし、パンデミックの「鎖国」期間中は、日本は外部の視線からある程度独立して自らを定義していました。
一部のジャーナリストや、パンデミック中に、日本にとどまらざるを得なかった人たちを除けば、日本人以外の視点を入れさせることはなかったのです。そういう意味では、ある種の90年代の日本的なエッセンスが新しい形として現われたということですね。
ある意味、2020年代の幕開けと同時に始まったパンデミックは「日本」にとってタイミングが良かったとも言えます。日本の経済的絶頂期である1980年代に子ども時代を過ごし、文化的絶頂期の90年代に若者時代を過ごした世代の子どもたち世代が若者になる2020年代に日本が「再発見」されたのですから。

21世紀に背(back)を向けて20世紀末の世界に立て籠もる「日本」。21世紀の経済発展に取り残された「遅れた国」であるゆえに"鎖国"の時代を経て世界に再び発見されたわけです。国境が解放されると「懐かしい」とノスタルジー体験を楽しみに観光客が押し寄せているのが今現在、私たちが見ている光景です。
……今現在の「円安」もある意味では90年代ノスタルジー。当時の私は通貨危機に陥った「安いメキシコ」や「安いタイ」などで遊んでいたけど、今度は逆の立場で眺めることになるなんて。

とはいえ、これでめでたしめでたしとはなりません。
新型コロナウイルスはパンデミックの時期を過ぎて日常化し、世界は再び動き始めているのですから。

NHKで放送されている『欲望の時代の哲学』シリーズを書籍化した『欲望の時代を哲学するⅢ 日本社会への問い』(2023年12月発行)より。
今までよりも今回、日本に来て感じた印象の一つは、一九九〇年代の興味深い時代に来たようだということでした。あの時代の様子はしばしば建築物に見られました。八〇年代と九〇年代の日本の成功は、今も残る建築物に見て取ることができます。
加えて、もちろん、世界に対して日本が持っているソフトパワーの起源は一九八〇年代と九〇年代にあると、私自身実感します。それらは私の日本観を支える要素でもあり、また実際に視覚的に確認することができるものでもありました。しかし今回は、以前感じたよりも強く、そうした要素を感じました。以前よりも日本は「九〇年代的」になっているのではないでしょうか? これがまさに、大きな問題の一つです。
~(中略)~
なぜなら、日本は、まだ自身を、二一世紀に置いていないからです。日本は今でもある程度、九〇年代の恩恵を享受することができていて、今後も、やはり九〇年代の遺産によって進み続けることができるでしょう。自身を模倣し、繰り返し始めているのです。
~(中略)~
二一世紀には、それだけでは不十分です。なぜなら日本は、新たな提案を掲げて変化の時代に参入するということを、まだやっていないからです。日本は、世界が既に見たものの改良版を掲げて、変化の時代に参入しようとしています。今は、それだけではなく、新しい挑戦をすべき時です。
ノスタルジーだけでは未来が無い。
他国の人から言われるまでもなく、日本に漂う閉塞感は、内向きで後ろ向き、未来を感じられないところにあるのでしょう。そして、未来を感じられないのは、過去の成功体験にあまりに囚われている現状にあるはずです。
私だって80年代に子ども時代、90年代に若者時代をリアルタイムに過ごした世代ですからノスタルジーは分かりますよ。でも、過去の再生産に未来は感じられません。それどころか、かえって最近の日本における数字に媚びた懐古主義にはノスタルジーよりも不安を感じます。
新たな挑戦の兆候が見えないこと、それが日本に見られる最も強い不安の正体です。それが経済にも反映されていると私は考えます。「それで十分なのか?」ということなのです。私は、日本は今こそ、ジャンプするべき時だと思います。何か新しいものへと思い切った賭けに出なければならないのです。日本が既にやっていることと結びつけたものでもいいのです。
そこでの私の提案は、当然、「倫理資本主義」です。あるいは私が昨日フォーラムで提案したように、それを「形而上学的資本主義」と呼んでもいいかもしれません。なぜなら、先ほどもお話ししましたように、「倫理」という言葉は日本ではどうも受け入れられにくいということもあるようですからね。ネーミングだけで抵抗感を持たれてしまうのはもったいないですから、「倫理資本主義」「形而上学的資本主義」、どちらでも結構です。
資本主義の現状を批判的に見、新しい挑戦を、と言えば「お前は共産主義か? 左翼か?」と攻撃されますがマルクス・ガブリエルは資本主義を否定しているわけではありません。現状の資本主義は不完全なもので、より良い未来のための新しい資本主義に必要なのは「倫理だ」と言うのが彼のポジションです。
この「倫理資本主義(Ethical Capitalism)」という概念を23年5月に経団連を相手に説きますが、彼の得た感触では"「倫理」という言葉は日本ではどうも受け入れられにくい"し、"抵抗感を持たれてしまう"ようだ、と。
日本人の「倫理」という言葉に対する忌避感は、日本社会が今も(大衆的に理解された)ポストモダンの段階にあるからなのかもしれませんね。ポストモダンにおいては「倫理」もまた解体すべき対象でしょうから。でも、例えば、皆が「数字、数字」と数字をカネに替えて「職業倫理」を持たないような社会ではかえって人間は生きにくくなるし、閉塞感もあるはずです。
私が推奨するのは、独自の形而上学的、非物質的な源を見つけ出すことです。つまり、まだ眠っている日本人の気質があるとするならば、日本人の気質がどのように二一世紀のイノベーションの構造に貢献できるのか?と考えてみることです。もちろんAIへの投資もしていますし、その方面は得意のはずでしょう。AIもテクノロジーの分野ですからね。しかし、日本の発展の次のステップには、精神的な、そしてそのための哲学的な側面が必要だと思うのです。そしてそこに、基本的に新しい経済を作り出さねばならないのです。
なぜなら他国もまた皆、それぞれ異なる方法で、新しい経済を作り出そうとしているからです。ヨーロッパなら欧州グリーンディールで緑を増やそうとしています。日本でも「regenerative economy」=「再生型経済」に関する議論が盛んになっていると聞いています。今日では、高層ビルに緑が見られるようになりました。あれが、そうした議論が盛んになっている証拠です。ですが、繰り返しになりますが、新しいものは高層ビルとは違う、他の物でなければなりません。
未来が見えない閉塞感は日本で「哲学」(通俗的なものも含め)が語られなくなったところにあるのではないでしょうか。
目先の「数字、数字」を追うばかりで哲学が無ければ未来へのヴィジョンは描けません。
それなのに、今の日本では平気で「人文なんて必要ない。教育は稼げる技術だけ教えればいい」なんて言う人がいます。でも、稼ぐ技術に特化し倫理をかなぐり捨てた連中がアテンション・エコノミーで日々引き起こしているトラブルにはうんざりしませんか? また、数字しか評価基準を持っていないがゆえの数値偽装や員数主義なども日々目にするところですよね。
それだけを追っていると絶望しそうにもなるけれど、日本にもまだまだ「数字、数字」だけではない、新しいものや面白いものはたくさんあるはずなのにな。私はそっちを注目していきたいし、紹介していきたい。


最後に『人類の終着点』収録インタビューから。
――コロナ禍を改めて振り返ると、中国の台頭、ウクライナ戦争、西アフリカなどでも中ロへの接近の動きなどが浮かびます。これらを見ていると、戦後、私たちが信じてきた西欧の自由や民主主義が、必ずしも世界の進路ではないのではないかと考えさせられます。リベラルな民主主義は、相対的な意味で、世界的に力を失いつつあるのでしょうか。

その通りです。これは非常に深刻な問題です。
私が考えるに、リベラルな民主主義は、それ自体の矛盾のために魅力を失いつつあります。そして、それ以上に、私たちは自らの矛盾に向き合っていないのです。
たとえば、資本主義の矛盾です。
~(中略)~
ここに、問題があるのです。
権威主義とリベラルの競争で勝ちたければ、われわれは「真のリベラル」にならなければなりません。私の解釈では、これは資本主義の内部にある矛盾を克服しなければならないということです。
その矛盾はたとえば企業における資本主義的な剰余価値生産にあります。ホワイトカラーを含む労働者の日常的な現実の中にあるのです。これは、社会主義的な意味ではありません。人々が仕事をするうえで、ヒエラルキーが多すぎます。つまり、権威主義的な要素が多すぎるのです。
~(中略)~
権威主義に勝つためには、民主的資本主義の中にある権威主義的要素を取り除く必要があるということです。さもなければ、権威主義が私たちを打ち負かすでしょう。
私が言いたいのは、すべての人の自由を増やすために、ボトムアップ・モデルで経済を再構築する必要があるということです。そうでなければ、完全な権威主義体制を比較することはできませんよね。
~(中略)~
私の主張を言い換えるなら、現在の問題点は「資本主義が十分に足りていない」ということです。独占企業やごくわずかな個人、有名な億万長者たちが疑似宗教的な権力を持っている。ザッカーバーグ(メタCEO)やベゾス(アマゾン創業者)などが典型です。天才企業家や勝者が、すべてを手にするモデルという考え方は資本主義ではありません。
~(中略)~
あまりに多くの経済力があまりに少数の個人の手中にあるのは、資本主義ではありません。資本主義とは、再分配の自動的な構造が存在することを意味します。それは、システムに内在するものです。
~(中略)~
本来の形の資本主義では、移動の自由や、市場の自由などがあれば、いつでも別の仕事が見つけられ、上司に奴隷のように使われる必要はありません。しかし、もしビッグデータ企業が1社しかなければ、あるいは数社しかなければ、ジェフ・ベゾスから始まる指揮命令系統に依存するしかないのです。

リンクしてあるのは、Bring Me The Horizonの『Kool-Aid』。

英国のバンド〈Bring Me The Horizon〉の『Kool-Aid』MVは、日本をテーマにしているわけではないのになんだか漂う「日本の匂い」。調べてみれば撮影チームはわざわざ日本人で固めていますし、ソングライターには〈Paledusk〉のDAIDAIが名前を連ねています。やっぱり分かりますよね。日本人の作り出す独特の空気感とか「色」みたいなものは。
〈Bring Me The Horizon〉の最新MV曲『Top 10 staTues tHat CriEd bloOd』になると、これはもうU.K.RockではなくJ-Rockだ。