おはようございます。
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今日は、せいじ がお伝えします、、

2週間、サボってました、、熊本は台風も過ぎ去りました。

大きな被害もなく、ホッとしています。

近代哲学における根源問題である、主観/客観問題もフッサールによって解き明かされようとしている。

今日は、フッサール現象学のもう一つの課題であった、共通理解と本質直観について書いてみたい。

人間が自分の意識のありようを表像、表現する仕方は無限にありうるとすれば意識の共通理解などは成立するはずがないのではないか。


例えば、今、私と誰かで目の前に具体的な石ころを見ているとする。


この石ころの形状や色合いなどについて意見が異なったとする。


しかし、この場合、わたしたちの間で石ころの感覚の表現、あるいは、その解釈が違っているだけであり、私ともう一人の間で全く違う石ころが見えているわけではないことを必ず直観している。


そして、これが具体的な経験(知覚経験)という特質である。


私たちの具体的知覚経験におけるこのような特質、つまりは、私と他者とは同じものを感覚しているという直観の不可避こそが、人間世界にある共通理解を生じさせ、またそのことによって言葉一般を可能にしている根本的な土台であるとフッサールはいう。


このことから次のことがわかる。


推論や憶見を含むような認識(伝聞、情報の世界)、(フィクションの世界に関する認識)では、判断の様々な差異は本質的なものである。


直接的具体的経験の判断では、その表現の違いこそあれ、その表現の違いの底には同一事象の経験があるという直観が存在する。


この違いは本質的なものではない。


現象学の問い方は、意識事象の直接的な経験の記述であり、解釈ではない。


だから、ある共通了解を成立させる可能性を持つ。


「あいつの頭は硬いよ」、という誰かの判断は解釈であり、他の解釈も成立する。


しかし、「石はガラスより硬い」という判断は全くの解釈とは言えない。


現象学的な答えの特質は、形而上学的な(超経験的な、意識を超えた)問いを主観の内在における、誰でもが確かめうる具体的経験として問い進める形に変更する点にある。


フッサールがあらゆる「認識正当性の源泉」として、知覚直観と本質直観の2つを置いている理由がある。


原的な直観という概念で問題となるのは、人間の認識を構成する諸要素のうち、人間にとってもはや疑う動機を持てず、端的な不可疑性として現れるような条件となるものが知覚であり、知覚こそ意識の自由にならないものとして、その唯一の源泉だとされる。


しかし、赤いリンゴを見ているという個的知覚経験において、一つの赤いリンゴであるという確信が成立するためには、ある前提条件が必要となる。


その条件で最も重要なのは、概念(知)が既に入り込んでいることだ。


リンゴをまだ知らない幼児と大人では、また、リンゴ作り職人とでは、赤いリンゴを見た時の直観のありようは大きく違う。


この違いは明らかにそこに入り込んでいる「知」=概念の違いである。


そうすると、「原的な知覚」が、現実知覚を構成する

元の要素とは言い難い。


人はリンゴを一瞥しただけで、それがリンゴであること、リンゴが何であるかを直観している。


それは、まず、赤い色、丸さ、重さ、つやなどの諸要素を原的に知覚し、それを意識的に統合して一個の丸いリンゴの知覚像を得ているのではない。


すると人間の個的経験の「明証性」(確かに事物が今ここに在るという直接経験の確実性)の基礎として、単なる知覚直観の他に、どうしても本質直観、つまり物事に含まれる「知」(概念)を直観する働きを考えざる得ない。


フッサール現象学において、知覚は唯一の意識の自由にならない表像とされ、そのことで不可疑性の源泉とされていた。


しかし、本質直観とは、物事から意味を読み取る働きをするものであり、何らかの意味で、意識の恣意的な意味賦与を含んでいるのではないかという疑問が浮かび上がる。


事物の個的直観(知覚直観)には、意識されない形で知が潜在しており、事物の形状や性質を詳しく見ようと考えればいくらでも細かくそれを観察できるのと全く同じように(類似的に)、事物に関する自分のうちの知=概念を意識的に呼び寄せ、いくらでも細かく吟味、観察できる。


重要なことは、事物に関する知=概念は自分の中に既に形成されていた理念的構築物として現れるのであり、決して心の恣意的な生産物として現れるのではない。


では、今ここにある事物(実在物)と2×24のような理念物の根本的な違いはどこにあるのか。


それは実在物がただ、必ず感性的な現実知覚に結びついてのみ、存在を確証されるのに対し、2×24のような理念物は、必ずしも現実知覚と結びついている必要はないという点である。


理念物の場合、頭の中で考えられた理念対象を基体とし、疑えないものとして存在が確証されれば、その条件を満たしているのである。


そういうわけで物の知覚と物の意味はいずれも意識の自由を超えたものとして意識に疑えないものの確信を与える働きをする。


故に、知覚直観と本質直観は独我論的自我という意のままにならないものと言って良い。


現象学的な見方からは、人が実在物とみなすものも、また、ある種の理念物も、ただ、ある構造によって人間にとって不可疑なものとして現れてくるに過ぎない。


確かにあるという妥当(=確信)を与えられているだけである。




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