Coachability Unfolding


double rainbow
Coachabilityはcoach+abilityという言葉ですが、これは「コーチングする能力」という意味ではありません。英語圏では一般的に「(クライアントが)コーチングされ得るか」ということを表すようですが、ここでは「人の中に眠っている何か」、それが目覚める可能性として使いたいと思います。そして、unfoldingとは、それが「開かれて」「ほどけてくる」こと。自分、そして人の中にどんな可能性が開けてくるのか、探っていきたいと思います。


あらゆる悪行や善行を超えた彼方に

緑の野原がある。そこであなたに会おう。

魂がその草の中で横になると

世界はあまりにも豊かで言葉にできなくなる


メブラーナ・ジャラールッディーン・ルーミー


This Is an Homage to Grace Unfolding  by Ron Kurtz

Amebaでブログを始めよう!

聴くことのチカラ

先日、バース・セラピストの志村季世恵さんとダイアログ・イン・ザ・ダークの

チーフアテンドを務める檜山晃さんの対談を聞きにいった。


http://www.ewoman.co.jp/winwin/17sk/index.html

http://www.thinktheearth.net/jp/thinkdaily/report/rpt_18.html


その中で志村さんが檜山さんを称して言われたのが


「ひやまっちに話を聴いてもらってると、本当に癒されるのよね。

 そのままのあなたでいいって言われてるような感じなの」


その人の存在を「認知」するような聴き方、それはどんな聴き方

なんだろう?


本当に聴くことができた時、それは決して単なる受け身な活動なのではなく、

周囲に大きな影響を与えていくものなのだということを改めて感じさせてくれた

話だった。


「この静けさの前に音は生れ この静けさに音は還る
この静けさから聴くことが始まりそれは決して終ることがない」 


「音楽の前の……」 谷川俊太郎


http://www.amazon.co.jp/dp/4484992035


語りえぬものには・・・

「語りえぬものには、沈黙しなければならない」


とは、ヴィトゲンシュタインの有名な言葉。


この言葉の真意とは離れるかもしれないが、

「言葉は何も伝えない」


と(ある意味乱暴な表現だが)ここ数年思っている。

実は「言葉は何も語ることはできない」のではないか、と。

少なくとも、何か「形のある」メッセージを手渡しして、

相手がそれを受け取る、というような形で

コミュニケーションというものは成り立っていないのではないか、

と思う。


では、言葉で何かを伝える、とは?

それは「Analogy」を用いて、相手と自分の中に

「共通項」ならぬ「共鳴項」を引き起こすことに

よって勝手に「伝わる」のではないだろうか。

そんな風に最近感じている。


「だが言葉でないものを読むためにこそ
 人は言葉を読むのではなかったか」 


「恋する男」 谷川俊太郎  



いのちの息吹とカルマの加速

今日、エドガー・ケーシー研究者の光田秀さんのレクチャーを聴いてきた。

非常に学びがあった。


http://www.eccj.ne.jp/profile/index.html


ケーシーが残したリーディング情報の中で「霊的理想」と呼ばれるものがあるという。


その「霊的理想」とは、その人が本当に人生で実現したいもので、

その理想に向けて生きることで、魂の底から力が湧いてくるものだ。


霊的理想を生きると、正にいのちの息吹が流れ込んでくるんですよ」


と光田さんは言われた。


そして、面白いのが、この「霊的理想」を設定する時の条件だ。


1 決してかなわぬものであること (永続的・実現し得ないもの)


2 奉仕的であること


3 人生の全ての面に適応して生きていけるものであること


特に心に響いたのは1番。

決して手に触れることはない。

しかし、追い求め続けるものを選ぶのだ、と。


これって「大きい主題」のことなのではないのか・・・?


そして、もう一つ。


「霊的理想」が決まると、人生の問題が急に浮上してくることが多いそうだ。

しかし、これは魂の底からエネルギーが噴き出してくることで、今まで清算

し損ねていた自分の課題が一挙に出てくるということらしい。これを光田さんは


「カルマの加速」


と言っていた。これは正にコーチングをやっているとしばしば起こることで、

理屈抜きに実感できる。


そして、そこを乗り越えると、自分の潜在意識や超意識の中に存在する

「過去世」などの、顕在意識と別な意識たちが全てこの実現に向けて

方向性を同じくして協力してくれると言う。


コーチングでやろうとしていることがまた一つ自分の中でつながった。


「何かを望むときには、宇宙全体が協力して、それを実現するために助けてくれる」


「アルケミスト」 パウロ・コエーリョ


Appreciate

最近、内面的精神的に「谷」に落ちていた。

何があった訳ではない。

理由は自分でも良くわからない。


そんな時にコーチ仲間の集まり出ると癒される。

時にそういう集まりを「仲間褒め」であったり、

「傷の舐め合い」でないのか、と自嘲的に言うコーチもいるが、

そうではない、と私は思う。


英語の Appreciate の語源は「price」(価値)を認め、見出すこと、

と聞いたことがある。そこから転じて「鑑賞する」「味わう」「感謝する」

の意になったとか。


コーチング・コミュニケーションが「快」なのは、正に相手の中に眠る

本当の「価値」を見て、それを「味わい」、そのことに「感謝」するから。

その「価値」を見出す他者がいて、初めてその「価値」が生きてくる

のだ。


私も周りの人たちを appreciate する人でありたい、と思っている。

No Diagnosis

コーチングはクライアントさんのどこか「悪い」ところを修正して、改善するわけではない。

コーアクティブ・コーチングは「問題解決」は目指していない。


そこら辺は肝に銘じているつもりだが、ともすると


「この人の課題はこれではないか?」


と言った「見立て」を持っていることがある。

しかも、ほとんど瞬間的、半無意識的に。


「doctor」と「client」になった瞬間にそれは違うものになるのだ。


それの何が悪いのかって?

クライアントさんの役に立てばいいじゃないか、というのもあるだろう。


問題は「見立て」をした途端に、コーチの意識や好奇心が

「改善策」や「それを治すための仕組み」をholdすることに向かい、

クライアントそのものに向かなくなることなのだ。


そうして、「課題」の周辺をコーチとクライアントが廻ることになる。


そして、それはコーアクティブコーチングの目指すところでは・・・ない。


本当に動かしたいのは大きな主題。

小さな主題と大きな主題

「小さな主題」とは、コーアクティブ・コーチングでクライアントの方が

セッションに持ってこられる話したいテーマ、課題などを指す。

これはコーチングをする際に普通に取り扱うものだと思う。


が、コーアクティブ・コーチングではそれに加えて


「大きな主題」


というものを想定している。


「クライアントの人生全体を取り扱う」


(「取り扱う」という言葉は個人的には馴染まないのだけど)


これを4つの礎の一つに置きながら、コーチは「小さな主題」に

加え、クライアントの人生の「大きな主題」を見なければいけない、

と言う。


これがなかなか一筋縄ではいかない。


そもそも「大きな主題」とは何なのか?


これはコーチの方で


「ああ、このクライアントの方には目の前の課題を越えて、

 こういう課題があって、これを乗り越えたらより良く人生を

 生きていけるな、うん・・・」


などと一人ごちることを指しているのでは決してないと思う。


そもそも、コーアクティブ・コーチングでは課題(問題)解決を

目指していない。


じゃ、コーチングで何をやってるのか?という話になってくる。


資格コース(上級コース)に参加して以来、ずっと自分のココロに

あった一つの大きな問いだ。


これがほぐれてきたのは


「大きな主題は言葉にした瞬間に『小さな主題』に変わる」


というリーダーの言葉だった。


「なるほど」


ここで自分が感じたのは、目に見える世界を超えた大きな何か、

のことである。その目に見えないものを追い続けながら、一方で

目に見える世界の目の前の問題もないがしろにしない。これが

コーアクティブ・コーチングで目指している世界なんだな、と

それこそ一人ごちた。


つい最近さらに自分に降りてきた言葉があった。


「そもそも、目に見える世界(小さな主題)に軸足を置くのではなく

 目に見えない、でもそこに感じられる何か(大きな主題)にベースを

 置いて生きてみたら?」


そうか、コーアクティブ・コーチングでやっていることは


「生命の流れに身を投じること」か・・・。


だからこそ、自分の目の前の世界を味わいながらも「居着き」を

許さず、その流れにそって生きる人生にエンロールしているのだな、と。


そして、この流れに身を投じようとした時に、現在の意識に留まりたがる

意識との差が発生して「グレムリン(サボタージュ)」も生まれるのか。


自分の中でコーアクティブ・コーチングの目指す世界を垣間見た気が

した。


「あなたは絶えず霊的な死と復活を与え続ける。

 理性は死の恐怖におびえ、恐れおののく。 

 しかし、愛は勇敢なり」


メブラーナ・ジャラールッディーン・ルーミー







居着けば死

タイトルの言葉は武術などで用いられるもので


「居着く」


とは


「文字通りには、足裏が床にはりついて身動きならない状態」(内田樹)


である。武術ではこれがもちろん致命的な状態なのは容易に想像がつくが、


「『止まる』とは、なにごとによらずあることに意識が固着することである。

 あなたの武芸に関連して言うと、打ち込んでくる刀を見て、それに合わせて

 反撃しようとすると、相手の刀に意識が固着して、自分の動きが相手に

 筒抜けになってしまい、切られてしまう。これを『止まる』というのである。」


と、沢庵禅師は言う。


この「意識の固着」とは


「ココロがあることに囚われて、そこから自由に動くことができない状態」


と言い換えられると思う。これが自分の考える「居着き」である。


そして、自分も含めてだけれど、この「囚われ」が全くない、と言う人は

希少だと思う。逆説的だが、もしとてもこだわりのある人ならば、

「居ついている」と感じるのは容易い。実は難しいのは生きていく中で、

瞬間瞬間に全く意識の拘りや枠組みを持たずに生きるということだ。

何が言いたいかと言うと、要はこの囚われがある限り、人生にある種の

「タイムラグ」が発生するということなのだ。例えば、あることを本当に

やろうと「感じた」瞬間、胸のときめき(またはうずき)が発生する。

ところが、ここでうずきを感じた後に


「どうやろうか?」


などと考えた瞬間にタイムラグが生じる。いや、もっと刹那に


「やろう」


とココロの中でつぶやいただけで、実際に行動に移した時と

自分の気持ちとの時間差は生じる。このことである。


このタイムラグが発生する限り、人生の


「今、ココ」


に生きているとは言い難い。今を生きていない、すなわち


「居着けば死」


というのは武術だけの世界ではないのだ。ココロの世界においても

一瞬の居着きは「その瞬間の生」から遠ざける。


コーチングでは、その「居着き」を徹底的に排除していく。

クライアントの方が語りたい現状の問題、自分の夢、気持ち・・・。

そのどれもが語ること自体に意味があるのではなく、最後には


「で、どうしたいの?」


とこの世のその瞬間に生きることに立ち返るからだ。決して

その場に意識を固着させない。その感じたもの、考えたことを

持って、その先の人生にその人がどう向き合って進んでいくかに

関わっていく。


で、、、


自分はどうしたいのだろう?


無限ループが始まる。



グレムリン or サボタージュについて

グレムリン(もしくはサボタージュ)はコーアクティブ・コーチングで用いられる

心理学的モデルの一つだ。


人が何か変化をしようとした時に


「そんなの無理、無理!」

「やってもムダ!」

「そんなことしてもし失敗したらどうする?リスクちゃんと考えてるの?」


とか、ココロの中で変化に抵抗する声がささやいてないか?ということだ。

この声をグレムリン(もしくはサボタージュ)と呼んでいる。


http://www.amazon.co.jp/dp/4845411032/

この概念自体はナラティブやSFAに見られる「外在化」の一手法と

考えることもできる。


が、最近自分の中で降りてきたこと。


「大きな主題が動かない限り、グレムリンは現れない」


どうやらコーアクティブコーチングで言うグレムリンは単なる手法として

登場しているわけではないと感じている。


時たま


「自分にはグレムリンいないから」


という人がいる。


確かにいないのかも知れない、現時点では。

が、一つ言えるのは、コーアクティブ・コーチングで言うところの

グレムリンが本当に意味を持ってくるのは、自分の人生を

動かそうとクライアントの方がコミットした時だ。status quoを

維持するだけの人生ならば、そこにはグレムリンは生じない。

自分自身のクライアント経験を通じてもそう思う。


「じゃ、人生は変化を追い求めるべきものなのか?」


「現状維持の何がいけないの?」


こんな声も聞こえてきそうだ。


そういうことではないのだ。


ここで一つポイントなるのは、「大きな主題」とは何か?ということ。

そこについては機会を改めて述べたいと思う。



答えはクライアントの中にある

「答えはクライアントの中にある」

というのは、コーチングの基本姿勢としてよく言われる。


これに対して


「未熟な部下(子ども)が答えを持っているわけがない。

ちゃんとティーチングしてやらなければ」

と言う声を聞くことがある。


だが、コーチングで言う答えとは唯一無二の「正解」と

言う意味ではない。その人の人生に対する答えはその人しか

出せない、と言うことだと思う。自分の人生を

一番知っているのはその人なのだから。たとえ間違った

としても、自分がその間違いすら超えて「納得できる答え」は

やはりその人の「外」ではなく「中」にある。それを見つける

お手伝いをするのが、コーチング。


だからこそ、コーアクティブコーチングでは


「クライアントはもともと完全な存在で答えを見つける力を持っている」


という形で「4つの礎」(the Four Cornerstones)の1つに入れている

のだ、と思う。



「わからない、というのは、答えを探すのをあきらめたわけじゃない、

 お若いの。それは安易な答えに甘んじないということだ。疑問を

 生きるがよい。それを深いところで感じるんだ。本当の自分はどんな

存在なのか?」


「愛の旅人」 ロジャー・フーズデン





空け渡すこと

コーチングとは何だろう?


コーチングは


*上司と部下のコミュニケーション術

*目標達成のための支援スキル

*特定の答えを教えるのでなく、相手から引き出すように導くこと


のどれでもない。もちろん、このような場面でコーチングスキルが機能する

ことは否定しないけれど。


自分にとってのコーチング、それは


「空け渡し」の Art(技)


「自己」のアイデンティティや意見などを一先ずどけて、自分の中にスペースを

創る。つまり「空け渡す」。ここに出来た一種の真空状態に向けて、クライアント

の方の中に今まで眠っていたものや出口を求めていたけれども形にならなかっ

たものが吸い込まれるように出てきて形を成す。コーチの「空け渡し」の真実さ

の度合いに応じて。

全てのコーチングスキルはこの上に成り立つ。そんな風に今は感じている。