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このシリーズの記事
- 【陰謀】『アラブの春』の真実① ミカエルの説明
- 【陰謀】『アラブの春』の真実② イスラエルの陰謀
- 【陰謀】『アラブの春』の真実③ ネオコンの陰謀
- 【陰謀】『アラブの春』の真実④ CIAとNGO
- 【陰謀】『アラブの春』の真実⑤ CIA工作による『アラブの春』
チェニジアの【ジャスミン革命】
アラブ諸国に一連の政変劇を起こした『アラブの春』。その始まりはチュニジアでした。
画像:アラブの「夏」、シリアなどに連鎖も カダフィ独裁崩壊 |
◆チュニジアの概要
まずチュニジアについてまず馴染みがないので調べてみました。
北アフリカの地中海沿岸の国家チェニジア、現在の人口は約一千万人。
アフリカにおいてもっとも経済発展しているとされます。一方で、高い若者の失業率に苦しんでいました。
イスラム諸国の中では一番女性の社会進出がめざましい国である。
古来はローマと地中海の覇権を争ったカルタゴの首都でもありました。
◆独裁政権への不満
1987年に無血クーデターでベンアリが大統領に就任します。以来ジャスミン革命までの23年間、チュニジアはベンアリの独裁政権でした。
経済成長はしていたものの、ベンアリ一族による利権の独占、腐敗により、民衆の不満は高まっていました。
以下はウィキリークスの情報です。
【ワシントン=望月洋嗣】チュニジア国外に脱出したベンアリ大統領一族のぜいたくぶりや腐敗を米外交官が把握していたことがわかった。米紙ニューヨーク・タイムズが16日、民間告発サイト「ウィキリークス」が公開した外交公電の内容として報じた。
「お前の物は私の物」と題された2008年6月の公電は、ベンアリ氏のおいがフランス人実業家からヨットを取りあげた事例を挙げ「ベンアリ一族は欲しい物はすべて手に入れる」と報告している。
09年7月の公電は、駐チュニジア米大使がベンアリ氏の娘婿宅であった晩餐(ばんさん)会で目撃した様子を詳述。娘婿は虎を飼っており、大使は、ライオンを飼っていたフセイン元イラク大統領の息子を思い出した。「一族がチュニジア人に嫌われる理由がはっきりした」としている。
米政府はこうした状況に懸念を深める一方で、ベンアリ政権のテロ対策の成功を評価し、正面から取りあげようとしなかったという。
引用:一族の横暴、米公電で露見 国外脱出のチュニジア大統領 | 朝日新聞DIGITAL
以下は、当時のチュニジアの日本大使のインタビューです。
元チュニジア大使の多賀敏行さん
革命に至る日々を振り返ると、まず思い出されるのが、言論、表現の自由が制限された独裁政権下の社会の息苦しさです。新聞の1面には常に大統領や大統領夫人の写真。政府の役人は大統領に忖度して真実を語らないので意味のある意見交換や議論ができません。メディアにも真実が載らないために、各国大使の間で情報交換したり、外国で発行された国内発禁本を読むなどして情報収集をせざるをえませんでした。
引用:目の前で起きたジャスミン革命 「アラブの春」渦中にいた元日本大使が語る「あの時」 | 朝日新聞GLOBAL
経済こそ良かったものの、長年の独裁政権の腐敗で、国民の不満は高まっていました。
◆【ジャスミン革命】
2010年12月17日朝、チュニジア中部シディ・ブジドにて”大学卒で失業中の青年”、モハメド・ブアジジ(26歳)が果実と野菜を街頭で販売していた。チュニジアの若者の失業率は3割と大変高く、多くの青年は野菜などを売って生活をしていた。
女性警官はモハメドが販売許可をもっていないとして商品と秤を没収します。
”さらに女性警官は、彼の父親を侮辱し、彼自身のみすぼらしさをあざわらい、平手打ちを食らわせた。”
モハメドは秤の返却を求め3回役所に行くも、ワイロを払えず追い返さます。
正午ごろ、モハメドはガソリンに火をつけ焼身自殺をしました。
駆けつけた従兄弟のアリは、モハメドを止められませんでした。
アリは、モハメドが焼身自殺した直後の様子を携帯電話で撮影し、フェイスブックへ投稿しました。
さらに画像は衛星放送アルジャジーラでも取り上げられ、チェニジア全国に広がっていきました。
モハメドの焼身自殺の画像。
イスラム教では、自殺は禁止されており、火葬の習慣もないため、焼身自殺の影響は大きかったそうです。
失業率の高い若者達の共感によりモハメドを「中東革命の英雄的殉教者」と見なし、後追い自殺をする者、デモをする者が現れます。
こうして一気にチュニジア全土へ大規模な反政府デモが広がっていきます。
デモの様子の動画。
モハメドの焼身自殺から一ヶ月も経たない、2011年1月14日。ベンアリ大統領は、サウジアラビアへ亡命します。23年間の政権のあっけない終わりでした。
フランスの雑誌「Le Nouvel Observateur」によると、前大統領は国民の反発を避けるためカルタージュ国際空港からサウジアラビアに逃亡する予定だったが、空港で彼とその家族の搭乗を待っていた特別機に乗ることを拒んだ。すると大統領夫人がこう叫んだという。「黙って飛行機に乗りなさいよ!この愚か者!私はアンタの愚かさとアンタが犯したとんでもない間違いのために人生すべてを無駄にしたのよ!!」
(中略)
この兵士によると、ベン・アリは小さなボストンバックを振りながら滑走路に立ち止まり、妻にこう言ったというのだ。「チュニジアを去りたくない。ここに残ってここで死にたい」.
レイラ夫人は大変気が強く、ベンアリ大統領の後継者には息子か、自分自身がなりたかったそうです。
◆【ジャスミン革命】CIAの関与
【ジャスミン革命】がCIAによるものだという証拠や、ウィキリークスなどの情報はありません。
しかし、チェニジアでの革命を『ジャスミン革命』と名付けていることを考えれば、この革命が東欧諸国で行われた『色の革命』の延長線上にあると主張しているのと同じです。
また、以下の様なニュースを見る限り、革命後のチェニジアはスパイに取っては中々動きやすい国になっているようですね。
2013年7月、チュニジア、世俗派野党「民主愛国党」党首が自宅近くで殺害された。この件について事前にチェニジア当局はCIAから警告を受けていた。
チュニジア野党指導者暗殺事件、CIAが事前警告を伝えていた? | Intelligence News and Reports
なぜ、CIAが警告を。。。それだけチェニジアの国内事情を調べているということでしょうか。
2016年、チュニジアに住むあるエンジニアがイスラエルの諜報組織モサドに殺害された。彼はパレスチナの武装組織ハマスのドローン開発に携わっていた。
スパイ大国イスラエル「モサド」の暗殺手口が神業過ぎる | COURIER JAPON
モサドは容赦ないですね。
◆チュニジアの現在
「アラブの春」でもっとも成功したと言われるチュニジア。
独裁者を追放し、憲法を制定。民主的な選挙を開催しています。
しかし、現状は、テロによる治安の悪化。政府予算もテロ対策に回されました。
物価は革命前の1.5倍になり、国民の経済は、革命前よりも悪くなっています。
若者の高失業率も改善されず、一部はISなどのテロ組織に参加しています。
民主的な政権は維持されているものの、国民の生活は苦しくなり、失望が広がっているようです。
参考:「アラブの春」はどこへ~混迷のチュニジア | NHK
もっともアメリカ・イスラエルは、チュニジアに豊かになってもらいたいなどとは、さらさら思っていないのだから当然の結果かもしれません。
『色の革命』から共通しているのは、革命後には不安定になり、その国内安定化にはアメリカ・イスラエルは援助しないようです。
◆情報の不確かさ
革命のきっかけとなったモハメド・ブアジジは【ジャスミン革命】の英雄に祭り上げられます。しかしその実像は少々脚色されていました。
チュニジアの首都、中心街のビルにかかげられるモハメド・ブアジジ。
(誤)「モハメドは、大学卒で失業中」
(正)「モハメドは、高校中退で、元から青果商だった」
(誤)「女性警官は、彼の父親を侮辱し、彼自身のみすぼらしさをあざわらい、平手打ちを食らわせた」
(正)「モハメドの方から、女性警官に性的嫌がらせの悪態をついたために平手打ちされた」
確かにセクハラして、反撃として平手打ちされた上での焼身自殺と報道されたら、ここまで影響は広がらなかったかも知れません。
これはSNSによる伝言ゲームの影響でしょうか?
恐らくそうではないでしょう。訓練を受けた活動家達が、拡散しやすいよう情報を加工したのではないでしょうか。
◆『アラブの春』の広がり
ジャスミン革命の情報はSNS、ツイッターやフェイスブック。そして衛星放送アルジャジーラなどであっという間にアラブ世界に広がります。そして各国で反政府デモが繰り広げられていきます。
1月25日、エジプト。反政府運動にて、30年以上にわたるホスニー・ムバーラク政権が崩壊。
2月1日、ヨルダン。反政府運動にて、サミール・リファーイー内閣が総辞職。
2月4日、バーレーン。反政府運動発生。死者、負傷者を出すものの後に政府に制圧される。
2月17日、リビア。反政府運動発生。反政府派との戦闘が発生。8月24日、首都トリポリが陥落、42年間に及ぶカダフィ政権が崩壊。カダフィ大統領は死亡した。2019年現在も内戦中。
4月15日、シリア。
反政府運動発生。アル=アサド大統領が鎮圧し、以後反政府勢力との内戦中。
このようにすごい勢いでアラブ各国に飛び火します。
【エジプト革命】
◆エジプトの『アラブの春』
2011年1月25日、若者を中心とした反体制デモが発生。デモの発端は、ある若者がフェイスブックで「25日では近すぎるかな?」と、デモ参加の呼びかけたことにあるといわれています。
デモは瞬く間にエジプト全土に広がります。当初はデモの中心は青年活動家たちでした。
しかし、それはすぐにムスリム同胞団に取って変わられます。
エジプトで重要な立場にある、軍は、デモを鎮圧せず中立の立場を保ちます。
2月11日、最初のデモから18日後、あっけなく、30年に及ぶムバラク政権を崩壊しました。
エジプト第2代大統領ムハンマド・ホスニー・ムバラク。 資産総額は世界一の約700億ドル(約5兆8400億円)とも言われた。今回の革命中のデモ隊の殺害に関与で終身刑を言い渡された。
◆ムスリム同胞団のわずか1年の統治
ムバラク大統領は退陣し、選挙によりムスリム同胞団のムルスィーが第3代大統領になりました。
ムスリム同胞団は、モスクの建設や病院経営や貧困家庭の支援など草の根的な社会慈善活動をしている団体で、国民からの人気がありました。
しかし、物騒なマークからわかるように、イスラム法による統治を要求、時には暗殺などのテロ活動もおこない、時の政権からは、弾圧され、テロ組織認定をされていました。
今回の革命で中心的な役割を果たし、選挙の結果、与党になり大統領を出すことになりました。
第3代エジプト大統領ムハンマド・ムルスィー。
しかし、治安の回復は上手くいかず、観光中心のエジプトの経済は降下していきました。
主要産業である観光業も打撃をうけたままでした。ムスリム同胞団が政権をとることに危機感を抱いていた湾岸諸国やアメリカが、援助を減額したり、停止した結果、ガソリンや小麦などの物価が上昇し、失業率も以前より高くなってしまいました。
ムルスィー政権はIMFから資金の調達を試みるものの、IMFの融資条件はいつものごとく、増税と補助金の削減という国民に我慢を強いるもので、公約違反になりかねない条件しか提示されませんでした。その間にも、さらに経済は悪化するという悪循環に陥っていました。
参考:教えて! 尚子先生エジプトはなぜ混乱しているのですか?<後編> | DIAMOND online
西側は、民主主義だと言っておいて、選挙でイスラム主義政党が選ばれると、足を引っ張ったようです
結局、ムルスィー政権になって1年後。悪化する国内状況の不満から、再びデモが発生します。
2013年のエジプトの首都カイロでのデモ。
デモに乗じて軍がクーデターを起こし、ムルスィー大統領は逮捕されます。
軍のクーデターの中心人物であるシシ国防相が第4代エジプト大統領になります。彼は憲法を改正し、大統領の権限を増大させ、最長2030年まで任期を努めれるようにしました。
デモ鎮圧などで終身刑を求刑されていた、ムバラク元大統領は無罪となり釈放されました。
一方、民主的に選ばれた初の大統領ムルスィーはスパイ容疑で逮捕。最初に死刑、その後に無期懲役を求刑されます。
その公判に出廷中、ムルスィーは意識を失い、死亡しました。以前より病気による体調不良を訴え、劣悪な獄中の環境改善を求めていたそうです。
参考:№47 エジプト:ムルシー元大統領の死去 | 中東調査会
こうしてエジプトは再び長期独裁政権へと戻ろうとしています。
◆CIAの関与
前回ご紹介した、CANVASのスルジャ・ポポヴィッチは、エジプトの活動家を2009年からセルビアの首都ベオグラードで訓練したと言っています。
一連の【エジプト革命】のさきがけとなる2010年4月6日に、青年達のデモが行われ、それはポポヴィッチの指導で行われたそうです。
それ以外にもCIAの手先の多くのNGOが、活動家を支援していたのはたしかで、それにエジプト政府が抗議していたのも確かです。
デモレーターの女性。
男性が掲げているのがOtpor!、抵抗のシンボルマークの拳。
CIAの介入については、次回のリビア内戦でよりはっきりとした証拠がでてきます。
【陰謀】『アラブの春』の真実⑦ リビア内戦(前編)
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