本牧読書日記。森部豊「唐―東アジアの大帝国」(中公新書)。
中国の長い歴史の中で「唐」(618~907の290年間)は日本人が最も関心を持ち人気のある時代だと思われる。当時の最先進国として律令政治を倣い「遣唐使」を送り仏教・文学(詩)等の文化を導入、全てにおけるモデル国であった。唐の統治・軍事・外交も漢民族中心の(後世の表現かも知れないが)「中華思想」と「東夷・西戎・南蛮・北狄」の対外蔑視が基本方針だったと僕は固定観念を持っていた。
確かにローマ帝国なき後の世界史では他に比類なき東アジアの大帝国である。しかし、いかにも国境線が長すぎる。東北部(マンチュリア)からモンゴリアには高句麗・靺鞨・契丹・奚・東突厥、また東トルキスタンの草原には西突厥などテュルク系の、それぞれ騎馬遊牧民が興亡の歴史を繰り広げ、南部のタリム盆地周縁にはイラン系・漢人系のオアシス王国があり、いずれも独自の勢力圏を築いていた。そして唐の建国後に生まれたチベット帝国(吐蕃)と雲南の南詔は唐が遂に直接支配する領域にはならなかったのである。諸民族との軋轢は必ずしも完全な上・下の関係ではない。利用し利用される一瞬の隙も許されない極めて強い緊張状態に終始していた。万里の長城の「一線」だけで単純に画される世界ではなかったのである。
本書はそうした視点を中心に書かれた「唐・通史」である。
唐の建国者・高祖(李淵)は漢人だったのか鮮卑人だったのかの問いは学界で古くから存在しているが、現在では鮮卑系とのほぼ結論となっている。建国初期から唐は急速に「漢化」していった。しかしそれは古典中国の復活ではなくかなり変容したものであり、その変容をもたらしたのは騎馬遊牧民の存在であった。遊牧文化と中国古典文化との融合した帰着点が「唐」だったのである。落ち着いた漢人国家と見なされがちな唐の歴史には大規模な人的移動と混乱が常に存在していた。その歴史が本書の骨格であるが、余りにも多くのケースが登場するので、ここでは馴染みのある「安氏の乱・安禄山」だけに絞って記してみよう。
玄宗皇帝(政治に改革を試み決して「愚帝」ではなかった)と楊貴妃とのラブ・ロマンス、それを悲劇に終わらせた張本人・安禄山(「安」はイラン系・ソグド人の漢名の一つ)。この事件を歌った白楽天の「長恨歌」は我が国でも有名で僕も高校・漢文でその一部を習った。安禄山は「営州柳城の雑種胡人」(「旧唐書」)となっているが、実際はカプカン・カガン(「カガン」は首長の意味)の突厥第二帝国、モンゴリア南部で生まれた。母親は突厥の名族の出身でシャーマン。突厥人は帝国設立まで三度の独立運動を起こしている。この間多くの流民が中国に流れ込んでいった。安禄山は突厥の間では「俗」的権力とシャーマニズムの「聖」なる権威とを備えた存在だったのである。彼の実父はソグド人。安禄山は営州で軍人として頭角をあらわし契丹や契を討伐して功績をあげ、朝廷の動きも視野に入れて立ち回った。そして玄宗の恩寵に浴し出世を遂げたのだが、遂に「安史の乱」の首謀者になったのである。本書ではこの事件の本質を安禄山とその周りに集まった様々な集団が唐からの独立を目指したものと見ている。安禄山が拠点とした幽州を含む河北地帯は多くの非漢族が移り住み、次第に「非中国化=胡化」していった。安禄山の軍内には多くの遊牧・狩猟系のエスニック集団が含まれていた。ただしそれを「胡」とひとくくりにすることはできない。もっと多様性を帯びていた。中央アジアからやって来たソグド系やテュルク系の傭兵たち、ウイグルに滅ぼされた突厥の王族や将軍とその部族民、ソグド系突厥の武人、奚や契丹の首領たちとその部族民の他ソグド商人達もいた。これら安禄山軍の多民族性は8C半ばの国際情勢と深く関わっていた。イスラム勢力の中央アジアへの進出はソグド人を東方に動かし、モンゴリアでは突厥第二帝国が滅びると多くの突厥遺民が唐の北辺へ移住した。また突厥の支配下にあったモンゴリア東部の奚や契丹の動きも流動的となり幽州の安禄山のもとにやって来る者もいた。「安氏の乱」は唐の宮廷での大スキャンダルだけではない。唐を取り巻く世界情勢が背後にあったのだ。
「シン・中国人」の関連で読んでみた本書は複雑な唐の歴史が342頁に詰め込まれていて、とても覚えきれない固有名詞が続出する本でした。突厥(トックツ)は「トッケツ」だと思い込んでいました。歴史や地理はある程度は「記憶」しなければ話の筋が理解できません。中国・韓国は身近な国でありながら固有名詞を日本語読みしてしまう為か全然覚えられない。でもカタカナだったらもっとお手上げでしょう。逆に両国の人々は世界一多いと言われる日本人の姓名をどうやって覚えるのでしょうか。
欧米文化と比較したらはるかに近親と思える文化圏でもこうした遠隔感は生じるのですね。
その中で日本と関係が深い「遣唐使」の話が出てくるとやはり関心が集中します。例えば最近話題になった阿倍仲麻呂や無名の(「井」の名だったか?)「墓誌」の事や、最後の遣唐使・円仁の「入唐求法巡礼記」が円仁自身が見聞したことをこと細かく記録しており、ライシャワー博士をして「後世のマルコ・ポーロ「東方見聞録」なんかとは比較にならない」と言わしめているそうで、こうした話は大変嬉しい。
円仁は時の武帝の凄まじい仏教弾圧に遭って不運の内に帰国したようです。「入唐求法巡礼記」の易しい解説本があれば機会をみて読んでみたいと思います。
本書で一番感じたことは民族と宗教の対立が少ない日本の歴史の有り難さです。
以前読んだ慶大・小熊英二教授の著書の1冊に「単一民族神話の起源」がありました。近代日本に編入されていったアイヌ、琉球、台湾、朝鮮の各民族は編入が古い順に順応していったのであって、当然ながら新しい順に抵抗の歴史があった、つまり「日本単一民族説」は幻影であるとの言説だったと記憶しています。しかしそこで感じたのはそれは短期間の特殊な時代の事で、長期間の歴史でみたら日本は他国に比して極めて単一民族色が濃いのだからそれを「幻影」と断じたことへの違和感でした。
この考えは本書(多民族の中国)を読んで改めて再認識しました。
宗教についても「神仏集合」なんてある意味での「いい加減さ」は厳格な一神教ではとても考えられないことでしょう。日本と言う国・民族・文化にはどうも多様性や厳格性の希薄さがあって、結果的には日本歴史の平穏性(これも他国に比較して、ですが)に幸いしているように僕には思えるのです。
しかしこれからの日本は急速に多民族を受け入れざるを得ません。余りにも単一であったことに伴う反動、これをいかにうまく吸収していくかは、まことに重要な課題だと思います。
かつて古墳時代末期からの「渡来系移住民」(22/6/20ブログ記載)は大陸先進国からの多数の移住民の受け入れでした。彼等は日本人に技術・文化を教える立場でありその後日本に同化しました。現在は全く事情が異なります。なんとか穏やかにうまく調和を図っていって貰いたいものと願っています。
なるべく短い文章で終らせようと意識したので、若干不自然な内容のブログになりました。
でも画像を入れると結構字数が許されるので、それを利用して書いてみました。
著者は67年生まれ、関西大学教授。小学・中学生時代中国の切手や武術にはまり愛知大学(上海・東亜同文書院からの帰国者が戦後創立した)から筑波大・院に進むというやや変わった経歴の持ち主。
中国歴史学界では未だに大量の「墓誌」が出てきて新しい事実が続々と判明しているそうです。著者も現地での「墓誌」の解明から研究生活を始めたとのことです。