本牧読書日記。松永智子「米原昶の革命」・不実な政治か貞淑なメディアか (創元社)。
戦後の日本共産党に米原昶(いたる)(1909~82)という衆議院議員がいた。と書き出してもその名を知る人はごく限られるだろう。僕も宮本委員長配下の共産党幹部で「どこかで聞いた名前」の印象だけだ。でも彼の長女が「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」の著者・米原万里(1950~2006)と知れば関心を抱く人の範囲は一挙に拡がる。本書は図書館予約で一年近くを待った。「サントリー学芸賞」受賞とはいえ「近代日本メディア議員列伝」というすこぶる堅いシリーズ本で著者は東京経済大・准教授。普通、予約が殺到することはないだろう。やはり米原昶は「万里の父親」として捉えられているのだろうか?
勿論それのみの人物ではない。読み終わった今の感想は「「時代」という「運命」の中の人」。
地方の名家に生まれ共産主義活動に生涯を捧げて苛烈な一生を遂げながら、何か「育ちの良さ」を拭いきれなかった善意の人間。「ブルジョア・コミュニスト」とも名付けるべきか、そんな思いにとらわれるのである。先ず略歴から記す。
生家は鳥取県・智頭町。代々の素封家で父親は家業を越えて地方の新聞社、バス会社、百貨店と事業を拡大。県会議員から貴族院議員にまでなった。その後を長兄が継いでいる。親族にも似たような経歴者がいて地元では有名な一族である。成績優秀な本人は名門鳥取一中から一高へと進学した。一高では柔道に熱中する毎日であったが、次第にマルクスの原典や共産主義思想に触れて社会科学研究会に加入した。
時あたかも3・15、4・16事件等、弾圧が強化され被害者が続出する時代となってくる。
会の委員長にまでなっていた本人は犠牲者救済や反戦のビラまきなど共産党の実践活動に邁進した。
遂には20歳で一高から除籍処分されてしまった。そこからは長い「地下生活」が始まる。
共産党活動はプロレタリア出身者がリーダーとなる活動ばかりではない。むしろインテリや学者、上層階級出身者からなる指導層が運動をリードしていったケースの方が多かったのではないだろうか。
1920年代はソ連邦成立による影響が世界中に拡がった。例えば英国では上層階級の青年がソ連のスパイになった例があったと思う。日本でも同様だ。同時に次第に理論や路線闘争・権力闘争が主体になって、当局による弾圧と三つ巴のような様相を呈してくるのが宿命的な歴史だ。
極左運動は平和な戦後日本に於いてさえ70年安保の学生運動・赤軍事件などの悲惨な記憶を残した。
しかし米原の地下生活はそうした闘争とは距離を置いた実に純粋で真摯な15年間であったのだ。
「近現代メディア史」専攻の著者の文章を借用しよう。
P86「(活動は)機関紙を通じて組織を拡大し、組織を通じて機関紙を広げるという形で組織と機関紙を相互に伸ばしていくという方法をとる。党組織の運営には機関紙の発行と配布が欠かせない。機関紙の講読者名簿=党員名簿というわけだ。……謄写版の「赤旗」は印刷備品の移動が容易でアジトを転々とする非合法プリントに適していた。原稿は中央委員が書き、印刷と配布は党の印刷局が行う。リスクも大きいが街頭で手渡す方が開封リスクのある郵送より安全だとされた。まさに人間というメディア(媒体)に依存する流通網であり、米原昶は、この「配る」ことにも深くコミットした「メディア政治家」なのである」。
実にプリミティブなルートだ。よくこんな方法で継続できたものだ。非合法活動ではこの方法しかない。でもこの方式は合法化された戦後でも原則的に継続された。僕は共産党は何故「商業新聞」をあれほど敵視し、何故部数ノルマや集金までを個別党員に担わせたのか不思議に思ったものだが、彼等にとっては自己の「信念」を具現化する最も重要な方式だったのだろう。一種「象徴的」なシステムなのだ。
「地下生活」なるものも実に不思議だ。映画の仏レジスタンスのような短期間ならまだ分かる。
でも15年間戦前日本での地下活動だ。アジトを転々とするには想像以上に多くの支援者がいたのだ。
米原は小樽では機械工になり、福島・平では友人の炭鉱主の息子や街一番のモダンな書店主(文芸運動のサロンを運営)が秘かにかくまった。しかも驚いたことに郷里の父親がどこで調べたのか、ある協力者に接触を試みているのである。どこかで情報が漏れているのだ。日米開戦前とはいえ、どうしてこんな生活が可能だったのだろうか?例えば徴兵拒否で逃亡した場合を想像すれば奇跡に近い。
その理由のひとつは本人が正式入党していなかったこともあるだろう。
加えて「当局は「共産党は既に壊滅した」と考えていたのではないか」が僕の独断推察である。
だから米原のような微温的存在は目に止まらない。いわば「泥棒がいなくなった警察」だ。だから自分等の権限維持のため例えば「横浜事件」という泥棒づくりの冤罪を作りあげたのではないだろうか?
僕が中・高を共にした3人の学友の一人・H君の父親(横浜国大教授)は戦時「横浜事件」の被告の一人だった。H君からは「父親が泥棒にされた」話の一端を聞いた覚えがある。……話を元に戻そう。
39年(昭14)になると共産党との連絡は完全に途絶えてしまった。
米原は一高時代の友人と生活のため数学の通信教育を東中野で始めた。この件もあの緊迫した時期に学習塾の経営が成り立ったこと自体が驚きだ。そこで雇ったアルバイトの女高師(お茶の水大)の学生が戦後すぐに結婚した米原の妻である。彼女は長女・万里、次女・ユリ(井上ひさし夫人)の母となり、活発な共産党員としても活動した。米原夫妻は至極円満な家庭を築いたのである。
戦後すぐに米原は頭角を現わす。獄中履歴もない戦前のキャリアからいったら異例の抜擢だ。
やはり能力が普通ではなく目立つ存在だったのだろう。郷里鳥取の選挙区から立候補して何回か当・落選を経験した。彼が特に注目されたのはそのジャーナリスト能力。
党中央から認められて東京(馬込)に転居。55年から「赤旗」編集局長。「前衛」その他に論文多数。
「国際派」としても日本共産党の代表者として国際会議に度々出席。59年には家族を伴いチェコ・プラハに住むことになった。それが万里の「嘘つきアーニャ」の舞台となったのだ。
この背景には共産圏陣営もスターリン時代の「ソ連独裁主義」からの緩和という動きがあった。
しかし中・東欧の自立性発生とソ連の軍事介入、そして崩壊への道筋は歴史が示す通りである。
日本へ帰国後の米原は美濃部都政の応援陣営に加わったりして衆議院議員として活躍した。
僕はここで少々の違和感を覚える。あの硬直した宮本路線の忠実な実行者であったことだ。
僕のイメージの中ではどうしても結び付かない。でも晩年の彼が「赤旗まつり」等の「柔らかい共産党」づくりに集中しイタリア共産党に強い親近感を抱いていた事を知ると、彼の「円満家庭」と合わせて「生まれ育ち」の流れを見いだす思いがする。彼の父親も会社の権利者に息子・昶の名前を残して戻る日を待っていた。ここで本稿も冒頭の「ブルジョア・コミュニスト」「「時代」という「運命」」に戻る。
多感の20歳前後に共産党大弾圧時代に出会ったこと。それが彼を「共産主義革命」に向かわせたのだが、その後の活動を本書で知ると「革命」なんて現実の事とは信じていなかったように思えてならない。
だから僕がもし本書題名を選ぶなら「米原昶の革命」ではなく「米原昶の「運命」」としたい位だ。
例えば彼がもう10年か20年か後に生まれていたらどうだっただろうか?
戦場に出ても無事帰国。郷土復興の先頭に立っていただろう。兄と共に経営陣に加わっていたかも知れない(敗戦の教訓から当時「左がかった」経営者は普通にいた。後に転向したとしても)。
政界に出ても社会党に止まったかも知れない。僕は米原の少し下の世代でよく似た風貌の飛鳥田横浜市長を連想する。彼の父親も自民党のボスだった。本人は社会党左派。だが「横浜再開発」に業績を挙げ市政に名市長の名を残した。市長公舎には入らず八幡橋市場の裏の「しもたや」に住んでいた。
米原昶もきっとそうした人柄だっただろう。飛鳥田との違いは「世代」だけである。
本書はメディア学術書だとは思うが、出身・生いたちや私生活を含めて「人物評伝」としても読みやすく優れた著作であった。次女ユリの全面的な協力を得て資料類も充実している。妻と2人の可愛い娘と共に笑顔の家族写真が何枚も掲載されている。「一見」で多くを察することができるのである。
僕は2ヶ月ほど前に偶々NHK・96年制作「世界わが心の旅・プラハ、4つの国の同級生」を見た。
生前の万里がかつてのプラハ国際学校の友人達の「今」を訪ねる番組だ。在学当時は共産国と言いながら「特権」を行使する親達に守られて資本主義国の上流階級と変わらない恵まれた別世界。はつらつとした少女達だ。それから30年。もはや「特権」は失せ東欧の複雑な民族関係の中で微妙な立場に置かれている彼女達。カメラの前では多くを語らず万里と2人きりになって本心を語る。故郷を捨てた者もいる。共産圏消滅のみならずユーゴスラビア内戦の傷痕も深刻である。ここにも正しく「「時代」という「運命」」に翻弄された姿があるのだ。「時をかけるテレビ」という思い出番組だから妹のユリも出た。しかし彼女にも「墓まで持っていく話」はあるのだろう。そんな感じがした。
本書で知った米原昶の真摯な人生と「嘘つきアーニャ」を読んだ記憶の表裏のニ書を思い合わせて、貴重な読書体験でした。
同時に昔を思い出して又もや「横道の話」が多いブログとなってしまいました。
