
本書で描かれているのは「非国民な女たち」(21年9月ブログ)と同じ著者による、戦中海外(外地)へ就職していった女性達の姿である。前著では禁止令にも拘らずパーマネントをかけ続けた女性達、あるいは「不格好」と不人気で、戦争末期激しい空襲で必要となる迄普及しなかった「モンペ」を描いた。
その有様は「当時は戦時一色」との従来の認識を改めさせるものであった。本書も同様の書である。
「外地」就職先としては大きく分けて「大陸=満州・中国」と「南方」があった。
職種はタイピスト(和文タイプ)、電話交換手、事務、販売、ホテル等の接客、専門職(看護婦、教師)等であり勤務先は軍関係よりも満鉄や進出企業が多い。特に大陸では人数も多く多岐にわたっていた。
また南方シンガポール(昭南市)辺りは建物や都市風景に憧れの欧米文化が残っており、特に初期には志望動機の本音に「観光気分」があったという。
一方大陸では「満州の女」という侮蔑的な女性像が暗黙の内にあった。
こうした「実情」は僕には初めて知る事柄であるし「非国民な女たち」に通じる部分でもあるのだ。
本書P8は「電話交換手は高等小学校卒業で就職する場合が多かったが、それ以外は高等女学校卒業程度の学力を必要とする職業である。当時高等女学校へ行くことができた女性は15%程度であり、経済的には殆どが中流層である。戦時期に都市的な職業に就く女性たちが多く渡航し就業したことがなぜ注目に値するのだろうか。それはこのような女性たちが、これまで戦前に海を渡ったと考えられてきた女性像とは大きく異なっているからである」としている。
即ちそれまでの女性の海外進出は農民移住や「からゆきさん」のような困窮者であったのに、戦中になると国内では出征兵士の穴埋め的な女性就業の拡大と共に「外地」への志願者、しかも単純作業以外の就業を求めての女性進出が促進されたということである。
勿論国策としての基調は「産めよ増やせよ。良妻賢母」であり中流家庭でも当然に同様であった。
その枠から飛び出して外地に向かう女性は、多くの場合家族の引き止めを振り切っての新たな「自己実現」を志望する新しい女性群であったのだろう。学徒動員や勤労奉仕のような強制はない。全て未婚女性の志願である。戦地に向かう男性の姿を見て「お国のために私も」の志願も多かっただろう。
しかし現地に着いてみると案外に仕事がなかったり男性職員からの蔑視があったり様々な支障が生じる。昭南市の軍司令部の宣伝班で働くことになったある女性はこう述べている。「何もないと東京が懐かしくなります。けれども南方に限らず誰でも働くなら新天地で力いっぱい働きたいですね。何だか働き甲斐があるような気がします」。表向きの発言かも知れないが本心を吐露しているのだろう。
そうした女性には「観光気分」との評価は心外の限りであっただろう。
積極的に仕事に取り組む傾向は特に南方方面で強い。
1943年2月「読売新聞」。「昭南市にも最近日本婦人の進出が目立ってきたが大部分は軍政機関に働いている事務員の人々と、それに次いで一般民間会社の人たちで、主としてタイピストが多い。繁華街などを歩いても日本婦人のきりっとした姿を見る機会が多い。特に目立つのは昭南放送局に働いている人たちで、対印度放送に男も及ばない熱心さで非常な感銘を与えていることだ。軍属になっている人たちが主なので国防色の半袖のシャツにスカートという清浄簡素な姿である」。
これはまだ開戦2年にも満たない時期だから分かる。しかしこうした女性進出は敗戦濃厚な44年9月まで続いたのだから驚く。サイパンは既に陥落。バシー海峡には米潜水艦がウヨウヨの時期である。
それでも南方のジャワ、スマトラ、昭南の商社や軍関係の偕行社等の女性事務員として赴任した若い数十名の女性達がいたという。ある応召兵が潜水艦からの魚雷攻撃・沈没から救助されてルソン島のサンフェルナンドで船待ちしている時にこの女性集団に遭遇して、彼女達を待ち受けている運命に暗澹たる思いをしたそうである。女性派遣はさすがにこれが最後であり、彼女達も目的地までは到達できなかった。
満州・中国での有職女性は南方とは相当に違っていた。
先ず日本から近くで組織体の規模が大きく、全就業者やその中の女性人数も格段に多い事だ。
それだけ様々な点で南方よりは内地の就業に近い要素を持っていたのだ。良くも悪くも……。
日中戦争開始・拡大に伴い1935年と38年の女性就業者の増加は、新京で1139人→3739人(3.31倍)、天津では119人→341人、40年1111人(9.3倍)と急増している。職務内容・給与格差は日本人男性から現地人女性迄の階級構造が当然に明確であるし、現在でいう「ハラスメント」が横行する。
ある電話交換手の弁「例えば映画などに時々行くのですが、それが時たま会社の方なんかにお会いすると、次の日に「君はよく一人で出かけるんだね」なんてお冷やかしになる。どうして一月に二回や三回映画を見る事がいけないのかと思います。こんな点、男の人と異って女は損をしているのですわ」。
実はこの発言はある会社の社員誌に掲載の座談会での発言なのである。会社側も女性の能力発揮上の問題としてこうした傾向の是正に努めてはいた。しかし、これはあくまで「表向き」の話である。その表向きの懇話座談会でも男女同数出席なのに発言者男女比は半々どころか、圧倒的に男性発言が多いのである。(ついでに言えばこの程度の事は戦後僕等の就業時代でもザラに残存していた)。
大陸での特異な現象としてこのバックには「満州の女」という女性蔑称が存在したのだという。
「満州の女」。僕は本書で初めて知る蔑称である。
これは①親の世代で満州に移り住み、満州で育った女性と②独身で内地から満州に渡り仕事をする女性と、二つのパターンがあり、区別して話される場合も両者を含めた場合もあるが、一言で言えば「享楽的、奢侈的で奔放な女性」という意味合いを持ち、対比イメージは「質素で優しく貞淑な内地の女性」だった。
これは例えば満州在勤の独身男性が結婚相手に「満州の女」を避けて、わざわざ内地に帰って見合い等で「内地の女」を選ぶ傾向に現れていたという。同様に「天津の女」その他に暗黙の内に流用されていたという。どうしてこんな馬鹿げた風潮が蔓延したのだろうか?
ひとつには自分の意志で大陸に就業した若い女性には生家の親・親族から相当な抵抗があったということである。それがなかったとしても人々の偏見は勝手に作用する。いわば「飛んでる女性」であり「こんな遠くまで志望するのは何かあったのか」との憶測かも知れない。
実際には昭和7〜8年頃の不況・不作の日本では満州は希望の新天地であり家族ぐるみの移住は大流行だったというのに、日中戦争以降、新天地を求めて「独立心」を持つ若い女性にはマイナスの偏見が壁のように立ちはだかっていたのである。
「満州の女」はこの日本の旧い(実は現在でもゼロではない)社会メンタリティだったのだ。
本書では更に深い要因にまで言及する。
P282「この「満州の女」という表象は、昭和初期に広まった内地の職業婦人やモダンガールのイメージの延長線上にあった。職業婦人を「性的放縦」や「奢侈的」に見るのは外地に始まったことではなく、内地で都市的な女性労働者が増加し始めた大正末から昭和初期にはこのような表象が生まれていた。都市的な職業婦人イメージは当時のもう一つの「派手」な女性の代表であった「モダンガール」のイメージと混同され広まっていったのだ。ホワイトカラーやブルーカラーの男性労働者の増加で男は外、女は内、という性別役割分業が中流層を中心に可能となり、家庭内での女性の役割が「良妻賢母」という言葉で称揚されるようになっていったのに対し「外」という「男性領域」で活動する職業婦人やモダンガール等の女性達は女性領域から逸脱し男性領域に踏み込む存在として「良妻賢母」とは正反対の存在としてイメージされるようになった」。……
この「結論」は前著「非国民な女たち」と連鎖してジェンダー論・社会学の「実論」として僕の記憶に留まることになった。何故なら別に戦前・戦時・国内外に限られる論点ではないのだ。
立派な「民主主義国・男女平等」となった戦後日本にも長く引き継がれる論点であったからだ。
ここからは「徒然雑記」と致します。
P132に「1940年の北京で都市的仕事をする日本人女性2000人の内「同仁会病院」40人」とある。
同仁会病院は特別立法までして設立した日本の対中国・民生政策の拠点病院であった。僕がそこで生まれたのは父親が医局から派遣された小児科医長だったからだ。家族は対米開戦で帰国したが父は1回往復したものの終戦時は単身赴任中。戦後無事に帰国し47年に保土ヶ谷で小児科医院を開業した。僕が小学校に入学した時期である。そこで4人の同じく帰国した同仁会小児科勤務看護婦を知った。
彼女達はあたかも同志的な「軍団」のように結束し助け合っていたのだ。
無事とはいえ「身ひとつ」での帰国。医長である父を信頼して生活を再開していたのだ。
4人は①石浜さん(20代半ば)。2年間父の医院の看護婦として勤務。しっかり美人。僕が習ったラジオ体操を得意気に披露すると「そんなヘナヘナではだめ」と厳しく指導された。相手が雇主の息子の小1年生でも容赦しない。軍国女性だったのかも知れない。戦後の子供達を育てようとの気概を持っていたような気がする。結婚で郷里・愛知に帰郷した。②桑原さん。30代半ば。グループの親分格。我が家の世話で知人の家に下宿。日本鋼管系の診療所婦長に就職。彼女の部屋はコーヒーセットや洒落た家具で別世界。僕は友達を連れて度々遊びに行った。彼女は歓待してくれるので楽しいひとときであった。その後自宅を得て定年後故郷・深谷に帰る。③高橋さん。桑原さんのちょっと歳下。子分格。桑原さんと似たような勤務をしていた。④長塚さん。桑原さんの少し歳上。大人しい人。郷里・下館で後妻?で結婚。「染谷」姓となる。家計補填で土地の反物を持って小売に来訪。祖母や母が購入援助していた。本書を読んでこうした女性達を思い出す。
引き揚げてきた「外地就業女性」達。それぞれどのような就職動機であったかは知らない。しかしいずれも「自立精神」に溢れていた事は子供心にもわかった。小児科の一部看護婦だけでも4人知っているのだから、開戦前の40人は終戦時にはもっとずっと多かったことだろう。
帰国してからそれぞれの「苦労」。彼女達も「戦争犠牲者」の内に数えられるべきかも知れない。
次回は「11月暦絵」。雑感を綴ります。
