本牧読書日記。吉見俊哉「敗者としての東京」・巨大都市の隠れた地層を読む(筑摩選書)。

富と人口が集中する世界最大級の都市「東京」……。

パンデミック打撃からいち早く立ち直り、国内ダントツの勝者「東京」である。

現在の姿から「敗者」としての東京はとらえにくい。しかし著者によれば東京は少なくとも三度「占領」され、そこでの「敗者」の記憶は歴史的な地層をなしてきているという。

三度とは1590年の勝者・家康幕府による敗者「旧江戸」、1868年・薩長連合軍による「徳川江戸」そして1945年・米軍による「戦前・戦中東京」である。東京は三度とも立ち直り、以前にも増した復興を成し遂げた。しかしそこにはいずれも「敗者」がいたのである。

著者は「大きな物語」とファミリー・ヒストリー的「小さな物語」を組み合わせて巧みに語ってくれている。ここでは第二の時期、徳川→薩長、江戸→明治期の「敗者」について見てみたい。


維新による「敗者」の典型は旧幕臣である。象徴的には上野の「彰義隊」。

上野、即ち広大な敷地の「寛永寺」こそ江戸の最大「聖地」であった。

江戸幕府はもともと寺社を行政のネットワークとして活用しており、江戸市中には多くの寺社が存在していた。各藩では参勤交代や幕府から命じられる普請事業で、大勢の家臣・使用人が江戸に長期滞在しており、その際には藩の宗派ごとに設置された寺を駐在本拠地として利用していた。

また、一般庶民についてはその生から死までを管理するのも寺社の役割であったのだ。

僅か半日の戦いで壊滅した彰義隊だが、その地がピラミッド頂点の「寛永寺」だったからこそ、人びとの記憶に長くとどまっているのである。

小栗上野介らの徹底抗戦論は慶喜に容れられず、勝海舟らの講和路線が採用された。

そして旧幕臣は全員「失業」した。まさしく「敗者」そのものである。

慶喜に従って駿河に行を共にした幕臣もいたがその多くは生活に窮して東京に舞い戻った。

留まるも去るも同じ困窮の身となったのである。新政府の官吏や巡査などになった者も多い。

結局は「背に腹は代えられず」旧幕臣の誇りだけでは生きていけない。


新政府による秩序が落ち着いた1890年代から旧幕臣たちが取り組んだのが、江戸の記念祝賀行事の復活や出版活動。西郷、小栗、龍馬、といった人々の名誉回復と「江戸遺産」の継承であり、出版では、幕臣ではないが旧体制出身の陸羯南、徳富蘇峰、福沢諭吉といった知識人・ジャーナリストによる出版活動であった。それは旧体制の欠点は明確に認めるものの、勝者・薩長政府の官製とは明らかに異なる「敗者の眼」をも具有する出版活動であったのだ。

維新直後の江戸の人口は幕末の120万人が武士階級の消滅で67万まで激減。市街地の7割を占めた武士地の大半は空家化して治安が悪化した。商人・職人の経済基盤も深刻なダメージを受けた。

際立ってきたのが下層民・貧民化。彼等も「敗者」である。

陸の新聞「日本」では桜田文吾の「貧天地饑寒窟(きかんくつ)探検記」が、蘇峰の「国民新聞」では松原岩五郎の「最暗黒の東京」がそれぞれ連載されてヒットし、遂に横山源之助の歴史的著作「日本之下層社会」が刊行されたのである。

「最暗黒の東京」にうごめく人々、それを告発・出版していく知識人。これが著者の指摘するところの「敗者の記憶は歴史的な地層をなしてきている」ということだろう。


こうした「地層」は近代化によって更に拡大・変質していく。「日本之下層社会」(1899年)に次ぐ「職工事情」(1901)、細井和喜蔵「女工哀史」(1925)で描かれた社会である。

東京でも鐘淵紡績に代表される隅田川沿岸の工場地帯が拡がり、皮革やメリヤス、マッチなどの軽産業工場が次々と建設・発展していく。一方、労働条件・待遇のひどさから従業員の逃走が頻発し、1910年頃から発生した女工たちの労働争議は20年代から更に活発化した。

会社側も当然対策を講じ、有名なのは武藤山治率いる鐘淵紡績の労使協調路線である。

女性の多い紡績工場では娯楽(浅草の一座を招くなど)や各種の馴致活動を取り入れていった。

その一環として30年代から盛んになったのがバレーボールであった。

戦後も継続したその頂点が64年東京オリンピックの「東洋の魔女」だったのである。

でも僕はここで軽い違和感を感じた。「東洋の魔女」達は果たして「敗者・女工」の末裔なのだろうか?彼女達はどう見たって全国から称賛された「勝者」であった。

つまり第一・第二の「勝・敗者」は共に同じ日本人だったのと違って第三の場合は勝者は米軍であり、「日本人全員」が敗者だったのだ。戦後の「勝・敗」は社会経済構造の変革に伴って、日本人すなわち「全員敗者」の中で新たに形成された区分だったのだと気づいたのである。

では、戦後の「敗者」は誰だったのか?

著者は戦後東京の影の部分として「ヤクザ」を代表的に取り上げる。

そして本書後半は俄然著者本人の「ファミリー・ヒストリー」に変換する。

何故なら著者の親族に戦後の渋谷を牛耳った有名な「安藤昇」がいたからである。


東大教授・著者吉見俊哉は田園調布生れで健全な家庭に育ち母親も温和な人物である。

しかし母方の曾祖父、祖母は非常に個性が強い人達であった。曾祖父は実業的な学校を経営していた。著書も2冊発刊している。分野は「手芸」。「造花風・水中花」という独特の製品を発明し輸出もしていた。こうした分野を学校形式で教えかつ販売していく。女性の手に職をつけ独立させていく目的もあった。当時は「裁縫学校」的な少女教育組織が随所にあったのだ。

母は祖父が曾祖父の製品の販売でニューヨークに駐在中に現地で生まれた。一家は間もなく朝鮮に移り同時に祖父夫婦は離婚した。母は祖父の後妻に育てられたが終戦時に実兄に誘われて共に家出、東京・木挽町で小さな旅館を営む祖母に養われる身となった(後に東大生となっ実兄は自殺)。

祖母は離婚後に都心の旅館を手に入れるような抜け目なく世渡りする気の強い女性である。

安藤昇は祖母の妹の息子である。優秀な中学生だったが手がつけられない程グレ出した。ここには祖父(著者の曾祖父)や伯母(著者の祖母)から受け継いだような気性もあったかも知れない。

著者は親族である安藤と会ったことはない。しかし「敗者東京」を書くに当たって当然関心を強めている。他の章では幕末・明治初期の「清水次郎長」等の博徒についても触れている。この世界に生きる人達に強い「敗者」の部分を見るのだろう。いずれにしても異例なほどの頁数を当てている。


ところで僕には又もや違和感を覚えるページがあった。

東大生の著者が選んだ「住みか」である。渋谷丸山町の三業地(色街)の小部屋を借りて独居した。演劇に熱中していて駒場の裏門にすぐ近いとの理由だが、普通大学生が一人住まいするような場所柄ではない。誤解されるような場所だ。安藤の事務所も含めて詳細な渋谷駅付近の略図も添付している。

僕はそこに、後の章に出てくる山口昌男と鶴見俊輔の「敗者論」と結びつけて、著者自身にも内在する「敗者性」を想像した。

でも「敗者性」は一部の人々の個性ではない。

結論的にいえば全ての人間は「敗者性」を持っているのだ。「100%勝者」なんていう人間はいないと僕は思う。。その割合は様々だとしても「勝者」と「敗者」をあわせ持つのが人間なのだ。

プーチンだってトランプだって夜ひとり静かに自らの心中を覗いてみれば「敗者の影」を見るだろう。それを微塵も見せずに「100%勝者」ぶっているだけなのだ。小池も蓮舫も同じ。

人間のるつぼ・大都市「東京」も同様である。本書はそれを見事に解剖してくれている。

最終ページは次の一行で締められている。

「2023年1月1日、65歳、東大退職を間近にひかえて  吉見俊哉  」。

僕はここに及んでファミリーヒストリーに託した著者の心中に思いを及ぼしたのである。


本書は「敗者の眼差しとサバルタンの語り」(「サバルタン」とは従属的な立場の人間を指す学術用語らしい。オーラルヒストリー等のヒアリングで彼等は本心を語り得るか、みたいな問題なのだろう)とか、「都市のドラマトゥルギー」(「ドラマトゥルギー」とは、その場にふさわしい「役割」を認知し演じることによってコミュニケーションや社会を成立させるという意味の社会学(そして恐らく演劇))の用語らしい)とか、僕にはここで触れる能力や余地がない項目が随分とあります。

これらは割愛して次回は(続)として、第一回目の敗者「家康に至るまでの旧江戸」について「徒然雑記」風に記したいと思います。