本牧徒然雑記。(続)「緑陰読書」。

③岩下俊作「無法松の一生」(勉誠出版「人間愛叢書」)。


著者は八幡製鐵の運輸部門管理職のサラリーマンだったらしい。

最初の書名は「富島松五郎伝」だったが映画のヒットで映画名「無法松の一生」に改題したそうだ。

僕には縁のない作品と思っていたが、先月のNHK・TV「新日本風土記」での小倉の風土がいかにも「人情の街」で印象深かったので読んでみた。

100頁程の短編でよく知られたストーリーだ。実に「人間愛叢書」にふさわしい。


賭博好きで逮捕歴もある「無法松」こと「富島松五郎」は不幸な星の下に生まれた。

父親の死後、後妻の義母にいじめ抜かれ8歳で義母は男と逃げて育児放棄。松五郎は学校にも行けず字が読めない。どつかれ蹴飛ばされてとにかく車夫になった。妻・家庭を持ったことがない。これには成長期に接した女性の誰もが義母と同類で冷酷・非情だった事がトラウマになっている。しかし彼は皆が聞き惚れる唄の名手だ。楽しみは賭博での思い切った勝負。ごく単純な「丁半」のサイコロ賭博しかしない。その気っぷを買う親分もいる。だが「無法松」の「通り名」の如く眉をひそめ敬遠する人は多い。


この松五郎が小倉連隊の吉岡大尉に可愛がられ、大尉が若くして亡くなった後、美貌の夫人と気の弱い小学生・敏雄の世話をみるようになった。P58「女一人子供一人の吉岡の家は、何かにつけて男手の欲しいことが多かった。土間の掃除とか、颱風に壊された垣の修繕とか、夏の井戸替えとかいうような時は何時も敏雄が松五郎を呼びに来た……節分の夜の豆撒きは敏雄が年少ではにかみ屋だったから松五郎がした。松五郎は彼独特の美声を張り上げ三宝の豆を摑んで投げた。甲高い敏雄のはしゃぐ声と嬌(なま)めかしい夫人の笑い声が珍しく賑やかに聞えた。そして温和な夫人が急に娘のように初々しく敏雄と共に座敷中の豆を奪い合う様子は松五郎に二人の姉弟の男親らしい感懐を起こさせたのだった」。

でも一人いる時の松五郎の本当の気持ちはP46「ふと雷霆(らいてい)のように彼の胸を撲ったのは吉岡未亡人のことだった。急に胸が苦しくなって動悸が高く搏って切迫した感情がせきあげた。そして彼の単純な性格は割り切れぬ複雑な感情に困憊(こんぱい)した。愛慕の情が密かに燃え上がって行った。その困憊が切羽つまった時彼は強く耳朶を千切れるほど強く引っ張って「馬鹿なッ!」と独語した」。


松五郎が吉岡家を援ける頻度が次第に増し、松五郎の「無頼性」は薄れていく。

敏雄が小学生から中学生になるにつれて松五郎は敏雄の教育係のように叱咤激励し鍛えていく。

自らも運動会の成人徒競走では優勝して「見本」を示し、中学生になってからの師範学校生との遺恨ケンカでは助っ人を買って出て見事相手を打ち負かす。

松五郎自身は相変わらず独居の車夫だ。40歳も過ぎると孤独感が募っていく。


著者の文章は文字通り「流れるような語り口」である。スムーズに読者の胸に収まる。

最後は小倉のあの「祇園太鼓」である。

熊本の五高に進学した敏雄はたくましい青年になった。

一方松五郎は吉岡の家に余り出入りしなくなった。もう45歳の彼は偏固になり、居眠りをしたり深い溜息を漏らしたり、永らく止めていた酒を呷るようになった。

そんな中、敏雄が連れてきたのが趣味で各地の祭りの研究をしている教師。彼が是非とも「祇園太鼓」を見たいと知った松五郎は一世一代の見せ場を作り上げるのであった。次第に打ち手がいなくなって「蛙打ち」しかなく、「本当な太鼓はあんなものじゃない」と思っていた松五郎が披露したのが、「流れ打ち」から「勇み駒」そして「暴れ打ち」……。映画に歌に永遠に残る本作の「華」だ。

それを演じ切った松五郎は「何時も酒臭い息を吐きながら何かぶつぶつ呟くことが多くなった」。

そして「大正8年5月7日、孤独の富島松五郎は48歳で死んだ」。

「死顔を見た夫人の心の底から沸き上がる悲哀の情……夫人は松五郎の死骸に覆い被さるように取りすがって何時までもサメザメと泣き崩れていた。かくて富島松五郎は死んで始めて吉岡夫人の手に抱かれ、そして始めて美しい情愛の泪のはなむけさえ受けたのである。」で本作品は終わる。


「無法松の一生」の映画化はなんと戦中の昭和18年だ。よく許可されたものだが脚本の段階から強い制約を受け、特に「情愛」の部分は大尉の未亡人が車夫に示すのだから微塵も画面に登場させる訳にはいかなかっただろう(その為か戦後に再映画化されたようだ)。

それでもヒットしたのだから、本書・扉のコメントの通り「無名の市井人の生涯を描き、その無名の市井人の心に宿る感情の振幅がもっとも人間的であることを明らかに立証した」のである。

戦中映画化のスタッフや主演女優は広島で公演中に原爆に遭い亡くなった。そしてその3日後長崎に投下された原爆は当初小倉の予定であったが当日の天候の具合で急遽長崎に変更されたという。

都市の歴史にもそれぞれの「運命」があるのである。

豊中市に在住時、北九州への家族旅行で瀬戸内海航路を神戸まで乗った出航地が確か小倉だった。

森鴎外と松本清張の街と思っていた小倉は、本作を読んで「無法松の街」でもあることを追加しよう。


今回三篇を「緑陰読書」としたのは実はピンチ・ヒッターだったのです。

当初予定は岩波新書「張作霖」(渋谷由里著)でした。一応は読み終わったものの辛亥革命当時の複雑な中国の政治情勢を始めとしてブログへの文章化に行き詰まってしまい、慌てて図書館に代わりの本探しに行き短い作品を選んだものです。でも読んでみると内容がしっかりしているのでどうしても文章が長くなりました。読んで下さった皆様には余計に「暑苦しい」ブログとなりました事をお詫び申し上げます。