本牧読書日記。千葉聡 「ダーウィンの呪い」(講談社現代新書)。
みすず書房「読書アンケート2025」からの第一冊目。しかし相当に厄介な本を選んでしまった。
有名な割に完読した人は少ないと言われる本のひとつ、ダーウィンの「種の起源」(1859年)。
その最大の功績は「人は神が造り給うた」という旧約聖書・創世記の「呪縛」からの解放であった。
でも、そこには「進歩」を連想させる「進化・evolution」なる語は一つもない。
ダーウィンは何らかの方向性や価値観を表明していた訳ではなかったのである。
彼が多用した語「自然選択」とは、あくまでランダムに生起した変異が「自然選択」のふるいにかかることを説明するだけだったのだ。
ところが勝手に「進化論」と名付けられたアイディアはすぐさま、さまざまな解釈を人々の間に巻き起こした。独り歩きし始めたのだ。
我々が「進化論」と聞くと連想する「(人間の)進歩」「適者生存と淘汰」「変化に対応できないものは滅びる」「生存競争・弱肉強食」…といった「(ダーウィンの)呪い」の数々である。
特にスペンサーが提唱した「社会進化論」は大きな人気を得て多数の同調者が続いた。
我が国でも丘浅次郎等によって「生存競争・適者生存の原理」として「呪い」が定着した。
(なお、スペンサー自身は元々は必ずしもそうした論者ではなかったそうだ)。
ダーウィンが現れる以前の遺伝理論は、フランスの博物学者ラマルクによる「獲得形質の遺伝」が主力であった。つまり先祖(家系)が獲得した「形質」が遺伝するという説である。
それは家畜の改良技術から得た知恵だろうし、遺伝子も何も知られない時代だったから、環境・家柄から良家には優秀な子孫が育ち、下層階級には劣等子孫が生まれる、といった階級差別からの発想である。
乱暴かつ端的に言えば、ダーウィンが「生まれ」、ラマルクが「育ち」の観点の違いだ。
ところが、ラマルク学派は進化論が現れるとすぐさまそれを取り入れた(ネオ・ラマルキズム)。
ラマルク学派だけではなかった。P72「要するに科学者らは自説がどんなものであれ、その正当化に「ダーウィンの呪い」を利用したのである」。「ダーウィンの進化論」は風潮化してしまった。
その風潮に抗してダーウィンを理解しスポークスマンとして擁護したのが盟友T・H・ハクスリー。
しかし、「呪い」の拡大に大きな役割を果たしたライターの方がずっと多かった。
代表がベンジャミン・キッド。「社会進化論」(1894年)で社会に多大な影響を与えた。
次のように書かれている。「生命の法則は最初から常に絶え間ない必然的な闘争と競争、絶え間ない選択と淘汰と進歩である。人間社会の進歩を見ると、あらゆる証拠が、人間が、この闘いから逃れる力がないことを示唆している」……。
時あたかも帝国主義の最盛期。「より優秀な人間(国民)を作り上げる」を目指した時代だったのだ。
これは即ち「優生学」への道筋でもあった。
「進化論」では生物学と社会的部分の境界問題が非常に難しい。この問題が早くも始まった。
P88を転記する。「現代でも進化心理学では、価値観の背後に人類の進化とそれに由来する遺伝的な基盤を想定する場合が多く、これを踏まえると生物進化と社会的な問題の境界はかなり曖昧になる。どこまでが自然主義の誤謬なのか、そう簡単には判断できないのである。もともとダーウィン以前から人間社会の発展と生物の進化は一体的に捉えられてきたので、19世紀の時点でそれらを別物として扱うのは難しかったであろう。ダーウィンの無方向で無目的な進化論と、幸福な社会の実現という理想との折り合いをつけようとした人々には大雑把に2通りの対応があった。一つは人間社会を発展させる精神活動は進化と独立に作用すると見なすやり方、もう一つはダーウィン進化論を拡大解釈して、それを理想の実現に合致するものだとしてしまうやり方である」。………
この問題は100年以上前に過ぎ去った問題ではない。今日のみならず、近未来にも、恐らく人類が存在する限り永遠に全員が納得する正答を得ることができない問いではないだろうか?
だから僕は「厄介な本を選んでしまったな」と気付いたのである。
本書の中間部分・第4~第6章では、主として学術的進展についてが記述されている。
メンデルの法則の再評価やラマルク的要素の影響など、多くの学者や論者の議論と角逐、あるいは体細胞と生殖細胞についての実験など、純生物学・遺伝学分野の研究、更には統計学・確率論など数学視点からの進化論(1930年代以降はむしろこうした分野が主流?)等々、僕なんかが立ち入れないというか、人名さえ覚えられないというか、そんな話になっていくので、当然にここで言及することは不可能である。
でも、思い当たることがある。それは一時流行ったリチャード・ドーキンスの著書。有名な「利己的な遺伝子」だったと思うが、これを読まなければ現代人として「名折れ」になると読み始めた。しかし興味が持続しなくて挫折した当時の記憶だ。統計学の数式なんかは出てこないけれど、恐らくそうした前提の上で成り立つ説明だったのが挫折した最大の理由だったと思い当たるのである。
「進化論」ないしは進化論的な「人類学」は、はっきりと「理学」の時代となっている。
統計数学(応用数学?)はAIが最も適合する分野の一つだろう。きっと一般人の想像の及ばない遥かの世界(それだから「危険」も憂慮される)に進んでいくのかも知れない。
ドーキンスにさえ近づけない僕なんか無縁の果ての話だ。これも「厄介な」事だ。
さて、最後の数章は優生学の話になっている。
優生学は20世紀初頭の米国から始まった。フランス等他国でも同じ時期だったが、大統領や財界首脳まで関心を持った点や、従って寄付金等の豊富な資金と組織とで広範に強力に展開した点では米国に匹敵する例はなかった。移民国家・米国の事情が大きく関与していたのだ。
でもそれだけではない。「人類の進歩」への「善意」を否定できない事実も大きかった。
第9章は「やさしい科学」である。貧困や階層格差の是正を目的とする合理的な動機の数々。
サンガー夫人の「産児制限運動」も「貧家の子だくさん」の解消・緩和が主目的であったのだ。
しかしこうした運動も悪魔を呼び込む。
米国の運動は若きヒトラーの眼に止まった。そして悪魔による「優生学」が始まった。
究極的にあのユダヤ人撲滅。近代史上最大の悪業に結びついたのだ。
もう、これ以上は書きたくない。「厄介な本を選んでしまった」最大理由である。
今回の読後感が20世紀初頭の未だ「牧歌的時代」で終わっていることもそこに理由がある。
敢えて付け加えれば、「育ち」から発想した「人間の社会と文化の進化性」は決して「差別」だけが源泉ではないということだ。「進化論」は結局は「道徳」の問題となる。これが僕の今の結論である。
最後に本書最終ページを転記して終わりたい。僕の言いたい事を代弁してくれていると思うから。
P318「人類として普遍的な善意はあるし、自明な善意も悪意もあるだろうと私は信じる。だが善意であるためには、悪でないことを祈りつつ、一つずつ善意のレンガを置いてみるしかない。それがいかに難しくても善でありたいと思うし、悪は法で制さねばならぬ。しかし同時に、善悪、正邪、矛盾入り乱れ、人それぞれに異なる心の混沌も、私には魅力的に映る。大切なのはむしろ、人それぞれに夢を持てること、それからもし置いたレンガの場所が誤りだったなら、その失敗を修正できることはないか。
多様性の尊重は現代の最も重要な価値規範の一つだという。だが多様性を尊ぶなら、原理的に不快や悪や愚かしさも許容しなければならない。従って多様性を善と考えた途端に、また利益を得ようと多様性を目指した途端に、多様性は失われる宿命にある。これは未来にも当てはまるだろう。……
人間が持つ知性と美徳の輝きは、確かに生命の進化がもたらした奇跡の一つかも知れない。だが私には、生命、そして人間の美しさ、素晴らしさは、明暗入り乱れ混沌としたまま、どこまでも果てしなく広がり、かつ進化していく、無限の可能性にあるのではないか、という気がするのである。
そんな矛盾に満ちた人間の一員として、私もあえて最後にこんな「呪い」の言葉を吐こうと思う。
だってほら、あのダーウィンもこう言っているー「生命は……最も美しく、最も素晴らしい無限の姿へと、今もなお、進化しているのである」」。
著者は1960年生まれ。東大大学院理学系研究科博士課程修了。東北大学東北アジア研究センター及び同大学院生命科学研究科教授。一般向け著書多数あり。理学出身でも、もうこの水準となれば「理系も文系もない」のですね、きっと。無理に当てはめれば「理系由来の哲学」でしょうか?
とにかく「厄介で難解で、そして読み甲斐のある」読書体験でした。随分と色々と考えました。
なお、別件ですが、前回の「阿Q正伝」画像で余計な文庫本が並んでいます。当初並行して読み始めたところ、面白くないので早々に中止した本でした。今までも画像失敗は気づくのですが、文章での気づかない誤字や誤まった用法はたくさんあると思います。お許し下さい。
