本牧徒然雑記。「この世は落語②」。

この本に出てくる主な落語家は、志ん生、文楽、圓生、そして志ん朝の四人。

今回はこの四人について本書から抜粋します。


志ん生の長屋住まいの貧乏と酒にまつわる話は有名。途中でつかえるのではないかと心配させるような独特の語り口で、しかし実に練りに練って、工夫と経験を重ねた噺は彼一流の名人芸でした。

僕も「火焔太鼓」(人が好すぎて損ばかりの古物商。女房に頭が上がらない。しかしたった一分で仕入れた古太鼓をさる殿様が気に入りお屋敷に呼ばれて三百両に。帰宅して「ビックリして座りションベンすんなよ」など夫婦のやり取りが実に面白い)を録画で見ます。誰にでも愛される芸ですよね。

一方、志ん生と並ぶ文楽は、p.131「落語家として若い頃から「華」があり、楽屋は文楽がいると明るく華やいだという」。しかも稽古熱心な勉強家だったようです。

上野・黒門町の師匠といえば文楽。以前浦安時代のシニアクラブで黒門町出身の奥さんで文楽の娘さんと友達だった方がいて、その方の話では普通の市民家庭だったそうです。文楽の引退はたった一度高座で口調が詰まった時に、お辞儀をして「改めて勉強し直して参ります」と下りたまま。それが最後だったとは有名な話です。プロとしてのプライドが許さなかったのでしょう。そういう人柄なのですね。

破天荒の志ん生と玄人好みの文楽。往時の落語家のトップは「志ん生か文楽か」。本書でも何回も出てくるフレーズです。但し両師匠とも日常では決して饒舌ではなかった、むしろ口下手だったとは面白い。落語の名人とはきっとそういうものなのでしょう。

これも名人の圓生は、やや高踏的とか偉ぶって聞こえるとかの印象があって一般人気は前の二人には及ばなかった。でも彼は口述記録を残す事に熱心で、その頃でも既に一般人には分かりにくくなっていた旧い生活習慣を後世人に解説する「気遣い」が旺盛であったとの事です。

高座でもそうした説明癖(それがないとオチがわからない場合もある)が出たのでしょう。

見かけ通りのやや頑固な紳士。でも何よりも「落語愛」に満ちていたのです。


著者の最も好みの落語家は志ん朝だったようで、その早世を悔やむ言葉が度々登場します。

p.165「古今亭志ん朝は落語の中のどんな人物でもそれらしく演じ分けられた。大店(おおだな)の旦那、道楽者の若旦那、お調子者の幇間、ガラッパチの職人、四角四面の武士、吉原のおいらん、長屋のおかみさん、ウブなお嬢さん……変幻自在だった。しかも演じすぎず、サラリと。技術もさることながら、あの風貌(こざっぱりと整った、クセやアクのない姿かたち)も大いに有利に働いたと思う。そういう中で、案外、見落とされがちなのが子どもを演じた時の巧さなんじゃないか。子どもが主役の落語自体、決して多くはないし、独特の難しさがあると思うのだけれど、「真田小僧」と「四段目」は志ん朝ならではの傑作になっていると思う」。(なお「四段目」の話は、芝居狂いの小僧が使いの帰りの芝居見物がバレてお仕置きに店の蔵に入れられた。しかし小僧もさる者、ひとり芝居に夢中になる。遂に空腹に耐えかねたところに救いの女中が現れ、オチのセリフが「待ちかねたァ~」。忠臣蔵「四段目」切腹の場のセリフである)。

僕も志ん朝には年代が近いためか近代性が感じられ、表現や仕草に品と色気があり、ここでの三人の先輩に負けず劣らず、芸の達人のように思います。録画で「四段目」も「火焔太鼓」も保存しています。「火焔太鼓」で驚いた女房が後ろの柱に巻きついて見返る歌舞伎調の仕草には、何度見ても思わず笑ってしまいます。努力と勉強・工夫、そして「天性」の賜物なのでしょう。

話は別ですが、「天性」で思い出すのは先々代の勘三郎が山田洋次監督で撮った松竹映画・落語の「らくだ」(長屋のワルがおとなしいクズ屋をいじめている内に酒の勢いで豹変したクズ屋に逆転される話)。夫婦で見てあれほど笑った映画はありません。まことに勘三郎・無縫の「天性」を感じました。

志ん朝にも他の落語家が達することの出来ないそうした「天性と環境」があるのでしょう。


「真似出来ない」という意味では、落語家の言いまわしには一般人がとても真似のできない独特のものがあります。著者は本書の中でも巧みにそれらを使用して雰囲気を作り上げています。

「人」には「シト」と江戸弁のフリガナをつけていますし、「ニン」があるとかないとか、「ニン」という何とも他の言葉では代替できない単語で表現しています。目次からして「世の中すいすいお茶漬けさくさく」「セコなる鰻屋」……江戸弁と、職人言葉、芝居言葉、ヤクザ言葉・郭(くるわ)言葉が入り混ざったような独特の用語の数々。これが落語の魅力のひとつのように思うのです。

この中で「セコい」という語源不明の単語。「芸人の言葉。主に明治期に用いた」だそうですが、僕がよく見るNHK「カネオ君」で高校生タレントの「そらちゃん」は「ウチのお父さんセコいんです…」とイントロ小話をします。正に落語の「マクラ」手法。女子高生にも落語は生きているのですね。

この番組で「ウンチク」を傾ける伊集院光は「100分で名著」のレギュラー司会者ですし、そのセンスに僕は感心します。出発は落語家らしいのでそこで得た感性ではないでしょうか?

一旦落語家を志す位の若者はセンスと頭の良さを兼ね備えているように思います。修行も芸の工夫もしない若いタレントよりずっと優秀で適性あり。万一途中で脱落してサラリーマンになったとしても、例えば人との接触の多い営業部門などでは立派なビジネスマンに成長する事でしょう。

ここでも「この世は落語」なのですから。


僕は5月の部屋変えに伴う「断捨離」でとんだ「ドジ」を踏みました。

古いテレビの保存用録画と共に未視聴の週一回の「落語」の最近版をテレビごと廃棄してしまったのです。そこでは老練の落語家達が出演しており、名前も顔も知らない人、「名人」の「メ」の字も感じられない人達が一生懸命熱演しているのです。彼等はどのような苦労をしてここまで到達しているのか、そんなことを考えながら見ていました。そうした意味での「味」があるのです。

落語界には何百人とメンバーがいるのですね。独自の落語会を企画して固定ファンを形成する勉強家もいるし、コントだけで生きていこうと目指す人もいるでしょう。

本書ではこんな話も載っていました。若手コメディアン達に「死神」(ローソクが消えて息絶える噺)を話したら彼等は知らなかったし新鮮な驚きを隠さなかったそうです。

有名な落語を知らないコメディアンがいること自体が僕には驚きでした。

本書では「芝浜」などの有名な落語も載っていますが、僕が子供の頃に好きだった(小さんの)「長屋の花見」や「道具屋」などの誰でも知っていた噺は出てきません。

落語の世界はまだまだ可能性を残しています。

新しいかたちを含めて今後の展開を期待したいものです。


画像2枚は前回の「百年目」のページの写しです(表紙の絵も挿絵も著者の作品)。

「ここでお逢うたが百年目」とクビを覚悟した番頭を救った大旦那。大失態を演じた番頭にも大旦那の信頼は揺るがなかった。やや教訓めいたハッピーエンドになっています。

こうした「人間の智恵」の深い世界。ここに落語の魅力があるように思われます。


ヤヤくどいですがもう一回、明日20日掲載予定の③で本書のブログを閉じます。

(7月12日作成、19日掲載)。