本牧読書日記。高田宏「言葉の海へ」(洋泉社)。

明治の「国民国家・日本」。その国作りは何もかにもが初めての事業ばかりであった。

「文明開化」の鉄道等のインフラ構築や新しい高等教育のように外国人のお雇い技師・教師の援助を得られる場合もあったが、日本人だけの場合の方がはるかに多かったのである。

近代的な「国語辞典」の作成事業もその一つであった。国民の文化水準を上げていく上で、その基礎となる国語辞典が一つもないという事態は許されることではない。

文法も完成していないところに、どのような言葉を採録しどのような解説を施すべきか、先行モデルが皆無であった。江戸時代の辞典といえば漢字に訓をつけたり和語に漢字を当てたりしていただけ。

普通の言葉をきちんと選択して正しく解釈した辞書を作りあげることは、たとえ「ウェブスター辞典」等を参考にするにしても想像を絶する難事業だったのだ。

文部省最初の試みは権威者数名を集めて始まった。しかし「船頭多くして」ですぐに挫折。

結局は洋学者・大槻文彦の想像を絶する労苦の末に本邦最初の日本語辞典「言海」が明治24年に完成したのである。本書はその人と業績を明らかにした伝記である(78年大佛賞、亀井勝一郎賞受賞)。

大槻文彦の人生は大きく二分される。父・磐渓の指示のもと、兄・修二(又の名は如電・後に日本音楽学者)と共に激動の日本の為にそして郷里・仙台の為に活動した若き日々。本書の前半は「国語辞典」とは何の関りのない文彦の青春時代の姿を描いている。

そして後半はいよいよ「言海」完成に単独で挑む孤独の超人的努力の軌跡である。


大槻家は三代続く仙台藩ブレーンの有名な洋学者家系である。

初代玄沢(蘭学)は「解体新書」の杉田玄白・前野良沢の高弟であった。

二代目・磐渓は幕末の攘夷の嵐の中で、開国と君主(天皇)制・議会制度を主張した。

仙台藩は決してはっきりした反薩長ではなく和平派。内乱状態は外国からの侵略の思うツボとの懸念から、維新後悪者にされた会津をかばって、心ならずも戊辰戦争の「敗者」とされてしまった。

朝敵・仙台藩には新明治政府から責任者として数名が死罪を申し渡され、磐渓もその可能性のある罪人として入牢の身となる。文彦兄弟を始め多くのシンパからの嘆願が実って結局は釈放されて、第一線は退いたものの重鎮として多くの仙台人の尊敬の的となる余生を送ったのである。これは後の話。


文彦は弘化4年(1847)生まれ。漢学に親しみ洋学家系(蘭学から英学に転換)の伝統に従い開成所(大学南校・東大の前身)に学ぶ。時は開国・攘夷騒ぎ。文彦は開成所修学を切り上げて洋書調所に入ったり仙台の藩校「養賢堂」に関わったり、更には新天地・横浜に出て英学修行したりと短期づつ目まぐるしい日々を送った(この間仙台人で後の日銀総裁・冨田鉄之助と終生の親交を結ぶ等多くの知己を得た)。

そして維新総決着の慶応3年。文彦兄弟は中心地の最新情報を遠隔地仙台へ提供すべく、陰の助手として京・大阪に潜入するという危険な役割を磐渓から与えられたのである。

彼等は鳥羽伏見の戦いを目撃したり慶喜の唐突の江戸帰還に驚いたり、自らも仙台藩の船で江戸へ脱出したりと窮地を脱した。仙台に戻っては奥羽戦争後入獄の父親の無罪嘆願活動に専念した。

こうした異常な経験は、文彦をいよいよ「国」を愛しその将来を案ずる人物に仕上げていったが、まだ文学者・文化人としての活動は乏しい。

ただ世の中が少しづつ落ち着いてきて新しい「日本作り」が始まる頃には、文彦も「明六社」に参加して幾多の開明的文化人の知遇を得ることができるようになっていた。

ここからは本書後半の「言海」作成の文彦である。


明治8年(1875年)文部省の命で単独での日本語辞典を作成し始めた時、文彦は既に28歳となっていた。それからは一日中机を離れる事のない前人未到・艱難辛苦の半生の姿である。

膨大な書籍・資料に囲まれて、一般言語の例えば「猫」まで、その語源から始まり精確な解説を要するのである。漢語から最近の外来語、特殊な言葉まで、一つひとつ語を選び正確な記述を模索する。

夢に見、いつなんどき思い付く場合にも常に備える。

助手は原稿整理や清書担当で1、2名いるが、過労で死亡した者がいたし他職に移りまた舞い戻る者もいる。全く助手ゼロの時期もあった。

文彦は手紙に「この手紙を書く時間も惜しい」と告白する程である。

それでも盤渓達と無縁ではない。様々な接触をしなければならないし、奔放な兄に代わって家督継承を父から命じられてもいた。そして「不平等条約」改正に大いなる関心を寄せる論客でもあった。

若い頃からの国を思う情熱は冷めていないのである。

ただ文部省の職員では思うことも充分書けないし、省の予算削減もあって外部委託者のような立場を自ら望んでなった。文部省もおおらかというか、ずさん・無責任というか、一言でいえば「本人任せ、放ったらかし」である。こうして15年間、遂に脱稿した。

しかし、文部省は原稿を預かったまま音沙汰なし。堪りかねて催促すると、自費出版なら原稿を返すという。資金を要するので出版元が前金予約を募集した。初めての活字組みもあってなかなか出来上がらず、予約者からは「サギ呼ばわり」されたという。

明治24年、「言海」は遂に完成、頒布された。

待望の本格的日本語辞典を世の中は大歓迎。芝・紅葉館、伊藤博文以下列席の記念祝賀会は本書のハイライトである。天皇からの表彰の栄にも浴した。今や文彦は日本第一の国語学者である。

でも全生活を辞典作りに没頭したため彼は晩婚であった。しかも「言海」完成の直前、彼は幼子と最愛の妻を相次いでの病死で失っていたのである。その哀しみは癒えることはない。

そうした心境での晴れ舞台だったのである。


文彦の言語学活動は止まることはなかった。

明治初期から始まっていた日本語表記の改良活動。漢語・漢字制限やカナ表記運動(森有礼などの有力者が主唱)、書き言葉と話言葉の乖離問題など幾多の課題が山積している。

文彦は「言海」完成後も休むことなく、そうした問題解決に関与・尽力した。

彼の関心はこうした「日本語改定活動」と、もうひとつは「言海」の更なる改訂である。

「言海」の改訂は、偉大な出版人・冨山房の坂本嘉治馬の後援があって新たに「大言海」が計画された。その原稿に取り組む文彦の精励は続く。彼の日常の様子は坂本への手紙にある。

本書p.242「増訂言海編輯も毎日朝七時より一寸の隙もおかず夜業までつづけ居候、九時ともなれば七十五歳の身は疲労して倒れむと致し候。しかし解釈のよく出来たる時の面白さ、分らぬ語原の分りたる時のうれしさなどにて聊(いささ)か疲れを医(いや)し候」。

昭和2年12月、文彦は逝去した。82歳。「大言海」は「さ行」まで成稿となっていた。

そして後継者によって作業が完成したのが昭和12年11月。

実に「大言海」着手から四半世紀、「言海」完成から半世紀近い日が流れていたのである。

波瀾の青年期からの文彦の大事業。「偉人」とはこういう人物を指すのだろう。

「近代国民国家・日本」の創成期には、大槻文彦のみならずこうした「偉人」達が名前を知られない人を含めて数多く存在していたのである。

僕は本書から稀なほどの強い感銘を受けたのであった。


今週は他用のため忙しく本稿も一部は下書きなしで急いで作成しましたので、小さな内容誤りがあるかも知れません。チェックしておりませんのでお許し下さい。

本書を読み進める内に著者・高田宏著で読んだことがある「島焼け」や、本書の解説者・紀田順一郎著の「横浜少年物語」(彼は僕の中学先輩であることを知った)、あるいは本書に出てくる三上章(独自の日本語文法論者)の評伝と、過去の読書経験を思い出すこともありました。

更には義兄(姉の夫)や娘の義父(夫の父)と縁の深い都市「仙台」(僕の大好きな街のひとつ)にも触れたいと思いましたが、その余裕がありませんでした。

次週は「戦国日本を見た中国人」を予定しております。