本牧読書日記。毛内拡「「気の持ちよう」の脳科学」。(ちくまプリマー新書)。

著者は84年生まれ。お茶の水女子大・助教・理学博士(神経生理学)。本書は脳の基本的構造やニューロン、シナプスなどの情報伝達組織、精神や感情に関与する諸物質(ノルアドレナリン、セロトニン、ドーパミン、アセチルコリン等)についての解説がページの大半を占めている。いろいろな事例を挙げて少しでも素人読者が理解できるよう熱心に書いてくれているが、正直言って元来が膨大かつ超複雑な内容なので読み終わって何が書いてあったか、ぼんやりとしか思い出すことができない。

要は「脳」だってひとつの器官なのだから、他の器官と同じく「物質」による作用がその基本であること、それは我々が「心」と言い表す感情とか心理についても同様であると述べられている。しかし「唯物論的」と言ったら言いすぎであろうが何か釈然としないものが残る。実は著者自身も自らの葛藤の中で書いているので多くの素人読者が消化不良を起こしているのは充分承知の上だろう。

やはり「脳」とか「感情」「人間の心理」「心」「知能」といった項目は「人間そのもの」の核心であるから謎の部分があって欲しい、解明しつくせないミクロコスモスであって欲しいと万人が心の中で思うのであろう。個別の発見や解明によって幾多のノーベル賞受賞の報道はあるが、決定的総合理論は現れないで貰いたいとの願望を我々は密かに持っているのかも知れない。


しかしわからないまでも「ピン」とくる話もある。「拡散性伝達」がその例である。

p.66、調節系ニューロンが作る「神経修飾物質」について、「特に面白いのは、これらの軸索は直接一対一のシナプスを形成するわけではなく、軸索上にコブ状に存在する膨大部から直接、神経修飾物質を放出するところにある。通常、膨大部と標的細胞の距離は遠いので、この間のスペースを神経修飾物質が拡散して伝わるのだ。このような伝達方式を「拡散性伝達」と呼ぶ。非常に精密で素早いシナプス伝達と比べれば、このような広範囲調節系は比較的ゆっくりで、しかも特定の標的を持たない。シナプス伝達が電話線による1対1コミュニケーションだとすれば、広範囲調節系は新聞やテレビのようなブロードキャスティング、あるいはマスコミュニケーションだということができる。ニューロンの早くて正確なシナプス伝達のおかげで精緻で素早い運動などが可能であるのは紛れもない事実である。しかし、この広範囲調節系は、脳全体のモードチェンジに関与していると考えられている。たとえば、気分や注意、睡眠/覚醒などだ。ひょっとすると精神機能などの高度な機能にも関与しているかもしれない」。

こうしたアバウトな「モード」なんていう部分が出てくると何かホッとする。「心」はやはり唯物とは思いたくない。漠然あるいは曖昧・ゆったりとした部分が然るべく存在するのである。

それだからこそ「人間の心」なのだろう。


さて、「気の持ちよう」については最後の2章。これも要約するのは極めて難しい。

p128「ストレスに対する感受性は人それぞれに違う。それは、人それぞれに持っている脳のフィルターが異なるからだ。入ってくる情報をいちいち精査しないで、自動的にえり分けて、そのほとんどは意識にのぼることなく処理されている。この全自動仕分け機能が厄介で、これが正しくはたらいていればいいのだが、なんらかの理由で歪んでしまっていると、その解釈まで歪んで、本来ストレスに感じなくていいものまでストレスに感じてしまうのだ。……偏った思考、歪んだ認知には「認知バイアス」というものがある。「私はダメな人間だから」と「白黒思考」に囚われたり自分でレッテル貼りをする、あるいは「自分はどうせみんなに嫌われている」と「過度の一般化」をしてしまう」と、以下「ネガティブフィルター」、「拡大解釈」、「勝手な憶測」、「飛躍した考え」、「破局思考」とそれらの例が続いている。

「このような考えはまるで自分を傷つけるために用意されたかのように、鋭く尖って心に突き刺さってくる。相手は自分が思っているほど、こちらのことばかり考えているわけではないし、自分がちょっと自意識過剰気味なのかもしれない。……そもそもどうしてこんなことが起きるのかと考えてみれば「相手も自分と同じような心を持って考えているだろう」という共感能力ゆえの推論をしているからに違いない。相手の立場に立って考えられるというのは、それはそれで高度な認知能力のひとつなのだ」。

確かにここに挙げられた心理は誰にでも覚えのあることだろう。

そこで著者が説く解決策はどんなことだろうか?「人々は「自己肯定感」でガチガチになってしまっている。基準となっている他人よりも自分が上にいれば自己肯定感が増す。あるいは、過去の自分よりも良い自分になることや、より高みを目指さなければならないといったことが強迫観念のように求められている。もちろんネガティブよりはいいけれど、常に向上していかなければならないのはプレッシャーではないだろうか。……疲れてしまう原因は結局「過去への後悔」と「将来への過度の期待」によって成り立っているからだろう。「今ここにある自分」は、置き去りにされている。本来の自己肯定感の定義は「ありのままの自分を受け入れよう、それを認めよう」ということだった。そもそも自己肯定感は高めるとか低めるといった類の感覚ではないと思う。それよりも僕(著者)が大事にしているのは「自己効力感」という感覚だ。これは、自分が何かをしたということがしっかりと周りに影響を及ぼしているという実感のことだ。」として、以下「自分が人や社会に役立っている」と行為と意識に目覚める、あるいは「相手の自己効力感を満たす」「相手に感謝を伝えることが相手の自己効力感を同時に満たせ円滑に人間関係を進められる」さらに「成功体験を共有する仲間と未来の話をする」とか「他に(例えば趣味に)精力を傾ける」「ひとり旅をしてみる」等々、カウンセリング本ではないのにそうしたことまで書き込まれていて(既視感のある対策とはいえ)、ここにも著者自身が悩みを持っていることが執筆の動機になっていることと誠実さがよくわかる本である。


ここからは「徒然雑記」に移ります。

僕はこうした話が苦手です。自分自身滅入ってしまうことはいくらでもありました。ない人なんかいないでしょう。でも日々「食っていく」ことに追われていたというか、責務感に手一杯というか、仕事に遅れをとってはならない、他人を蹴落とすどころではない、振り落とされないようにすることで精一杯の毎日だったように思います。その中で悩みや問題も「多くは時間が解決してくれる」との知恵も身に付いてきたし、「自己肯定感」というよりは「うぬぼれバイアス」が強かったのも幸いしました。周りの人に迷惑を及ぼしても気づかないことも多かったでしょう。無神経な「幸せ男」ともいえます。

これらは引退後も尾を引いていて「大した事ではないよ」が口癖となり、例えば外出時のマスク着用で家内と齟齬をきたすことがあります(抵抗する程の事ではないので車中では着用しています。どうでもいい事には取り合わないのも長年の知恵です)。

こんな僕ですから、毎時のニュースで熱中症ばかりがトップのNHKには呆れています。財政問題などもっと大事なニュースがいくらでもあるでしょう。それに何かというと「心のケア」が溢れる世の中には違和感というか、何かその景色が見えない感じがするのです。

以前、横浜市内の中?学校で福島からの避難生徒が級友からのいじめと脅迫で多額の現金被害に遭ったことがありました。事件が発覚すると市教育委員会は「心のケア」のカウンセラーを3人新たに増強・配置した(どこにかは知りません)との報道でした。僕の常識では子供が150万円だかの金を持ち出すことに気づかないか阻止できない家庭に先ず問題があるのであって、つまり「個別」の問題であって、一般化した「体制」にまで及ぼす事への違和感です。恐らく教育委員会もわかっていて、ただ対社会へのポーズとして予算の許す限りでの「対策」なのでしょう。その時「心のケア」は納得感を得させる「手法」(誰に対してかはよく分かりませんが「社会」といったヌエみたいなものに対して)にしか僕には思えないのです。

2年程前の事件で、今も継続しているのか一過性の霧散措置だったのか僕は知りません。

いずれにせよ本来は深刻で切羽つまったところにあるべき「心のケア」がそこら中に溢れかえって実に安っぽいものになっている。日本はこうした「優しさ・丁寧」に溢れかえった社会になっている。そんな気がしてなりません。まるで心の冷たい偏屈老人に見えるでしょうが僕は正直そんな気がするのです。

「気の持ちよう」なのでしょうか?