≪今日のコペル先生の独り言≫
この絵は、30年前に患者さんから頂いたものです。
今回初めて皆様にご覧いただきます。
おのれこそ・・・・・コペル
・
・
己こそ己の寄る辺
己をおきて
誰に寄るべぞ。
よくととのえし己にこそ
まこと得難き寄る辺をぞ得ん。
法句経 百六十番
≪今日のコペル先生の独り言≫
この絵は、30年前に患者さんから頂いたものです。
今回初めて皆様にご覧いただきます。
おのれこそ・・・・・コペル
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己こそ己の寄る辺
己をおきて
誰に寄るべぞ。
よくととのえし己にこそ
まこと得難き寄る辺をぞ得ん。
法句経 百六十番
≪今日のコペル先生の独り言≫
最近の佐々木奘堂和尚の投稿を読んで感じることがありご紹介いたします。 長文ですが、お読みください。コペル
「奘堂はまだ56だから」(56歳になっての一番の感慨)
※この後の投稿「56歳の誓い」に続きます。
紅白歌合戦の録画を見ていて、知らず知らず自分自身にずっと隠してきた本当の声が、字幕で出ていて、びっくりした。
56年、生きてきて一番の感慨、それは
「どこか虚しいような そんな気持ち つまらないでもそれでいい そんなもんさ これでいい」
これは「群青」という歌の歌詞であるが、この歌は、
「ブルーピリオド」という漫画を元に作った曲だというので、その漫画を読んでみた。
その漫画でも、
主人公の思いとして、私の一番の感慨が記されていた。
「みんなが俺を褒めるたびに虚しくなる この手ごたえのなさはなんなんだ」
私は別に褒められるわけでもないけど、人に褒められても虚しい(もちろん、けなされても虚しいし、無視されたらなお虚しい)ということは15歳くらいからずっと思っていた。
16歳くらいのかわいい少女なら、影絵のように美しい夢物語だけ見ていてもよいかもしれないけれども、
56歳になるまで、ずっとそれだけだと、虚しすぎる人生だ。
「虚しい」
「この手ごたえのなさはなんなんだ」
これは学生時代も、
職に就いていたときにも、
修行僧として修行している間も、
禅僧(住職)となってからもずっと思っている。
勉強ができる、社会的地位がある、金があるなど虚しい。
もっと虚しいのは、
坐禅や瞑想をして、「この形でいるのが良いことだ」と思い込もうとしたり、呼吸を数えたり、感(観)じたり
「今ここありのままを見つめている」などしている時だ。
実に虚しすぎる。
確かにそれらは流行っているし、
権威ある人が勧めたりしているので、
権威や流行りに身をまかせている時は、
それなりに虚しさをごまかせる時間にはなり得るけど、後でよけいに虚しい。
本当は虚しいのに、
「そんなもんさ これでいい」とごまかしごまかし生きてきた。
それで本当によいのか?
「疑わしいものは根柢からくつがえし、本当に確かな土台・基礎から新たに立ち上がること」、
これに徹する以外には、虚しさ、手ごたえのなさを抜け出る道はない。
今、この確かな大地から新たに立ち上がろう。
自己流(佐々木流)や仏教流、禅流など、
疑わしいものを完全に脇へのけて立ち上がろう。
まだ56である。
今からでも遅くない。
今ここで立ち上がらないで、いつするというのか?
(この真に確かな手ごたえを失わなず立ち上がる道を「坐禅」と呼んでいいのなら、
この真の坐禅に生きていこう。)
56歳の誓い:
30年以上、西田幾多郎の書いた『善の研究』を読み続けてきた。
ようやく、その言葉を実地に生きていける道を見出せたように思えている。
西田の言葉を引用すると:
「人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である」
「人間が人間の本性を現じた時は美の頂上に達する」
「我々はこれ(=活きた真の理)になりきりこれに即して働くことができる」
そう、「活きた真の理」に即して働くことができると西田は名言しているが、これは本当にできる!
なぜなら、自分の本性(天賦)を発揮することだから、
才能の有無には全く関係なく、各自が自分の持前を発揮すればよいからだ。
そして、その時、誰でも、その人なりに「美の頂上に達する」ことができるのだ!
これに疑いを持つ人は、私(佐々木)の姿勢を見てほしい。何も特別なことはしていない。
ただ、自己流、仏教流などをきっぱりとやめ、
天から与えられた本性、自分の持前を発揮すればよいのだ。
そうすれば誰でも
「活きた真の理に即した姿勢」
「美の頂上に達した姿勢」になれる。
天賦(本性)を自ら捨ててしまうから、手ごたえを失い、虚しいのだ。
「誰でも、活きた真の理に即して働き、
本性(天賦)を発揮し、美の頂上に達する道を歩むことができる」
これを私自身、実践し、人にも伝え、共にこの道を歩んでいこう。
この誓いを貫くことを私の生涯としよう。
1月24日は、2022年初の一照さんの月曜坐禅会@葉山でした。
今日の富士山があまりに奇麗で笑顔がこぼれる。
今年は笑顔の似合う男になれるかな???
今年初の月曜坐禅会ということで恒例の
尚美さん手作りのぜんざいを腹いっぱい頂きました。
美味しかった。合掌
・
今年の坐禅前の身体ほぐしは魔女トレの足と手のソマティックワークでスタート
手足の体操は齋藤にとって最高スタートとなりました。合掌
でした。
今日の富士山があまりに奇麗で笑顔がこぼれる。
今年は笑顔の似合う男になれるかな???
今年初の月曜坐禅会ということで恒例の
尚美さん手作りのぜんざいを腹いっぱい頂きました。
美味しかった。合掌
・
今年の坐禅前の身体ほぐしは魔女トレの足と手のソマティックワークでスタート
手足の体操は齋藤にとって最高スタートとなりました。合掌
ひろしまブランドショップ「TAU」@銀座に
神草真菰茶を買いに行ってきました。
流石広島、牡蠣をはじめ美味しそうなものがたくさん迷ってしまいます。
チリメンせんべいは、カルシュウムを補給のために
かきのアヒージョは、パッケージが美味しそう食べるのが楽しみ。
ご飯を食べて行って失敗した
Caféで美味しそうな汁なし担々麺食べたかった。
次回は、お腹を空かせて食べるぞ!齋藤
〈神草マコモ枕〉を15日間使っての感想です。
最高によく眠れます。
眠れ過ぎて、初夢は見逃してしまいました。
昨年までは、睡眠中ひどい時は2時間おきに目がさめたり
8時間とぎれとぎれの睡眠で
朝起きても疲れが残っていてまだ眠りたい状態で昼寝までしていましたが、
2022年1月1日より〈神草マコモ枕〉を使用して
睡眠を満足できるようになりました。
スキット目覚めるので、
頭回転もよくなり良いアイデアが湧き出すします。
リウマチの手足の痛みからくるイライラや不安も軽減して
一日を楽しく過ごせていると実感しています。
・
この〈神草マコモ枕〉は、チャックが付いていて簡単に枕の高さを調整できます。
中を見て思ったのですが使用部位と長さがいいのか、
ちょうどいい硬さで頭を支えてくれます。
私は枕カバーをしてバスタオルをかぶせて使用しています。
ほのかに香るまこも、決してガサガサいわないで本当に最高です。
まこもプロジェクトで活躍してくださっている皆様に感謝申し上げます。合掌齋藤真美
銀座『Tau』タウで
1月の〈今月のお宝コーナー〉が
まこもプロジェクトの『神草真菰茶』です。
お近くの方は是非行ってくださいね。合掌齋藤
≪今日のコペル先生の独り言≫
養生訓とは「時への道」・「口福への道」・「コヒアランス感への道」・「仏になる道」=「身心魂をほどく道」・「終日宴坐」を楽しむ道。
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・無縄自縄
自然の宝珠を不見・不聞・不言している事を無自覚なのが無縄。
・自縄自縄
人間の自我意識で自己と自然を不見・不聞・不言することが自縄。
この赤いエリヤから解放されには・・・コペル
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※S0C(sense of coherence):ストレス対処能力
「ストレスにしなやかに対処して健康や生活を守り、立て直していく力」のことを言います。
本来は、医療社会学者のアントノフキーが最初に提案した学説なのですが、健康管理力の方は、どちらかと言えば元気な時に目標を決めてそれを達成していくといった感じですが、SOC の方は自分を守る力にウエイトが強く、ストレスのもとがまず何かをしっかりと受け止め、我慢したり耐えたりしながら、過ぎ去るのを待つ力のことです。
≪今日のコペル先生の独り言≫
先日佐々木奘堂和尚の投稿に貝原益軒の言葉を紹介しながら
『私たちは、「無縄自縛」で、自分で自分を縛り、自分の首を切りつけるようなことをしているのに、それに気づかないまま幸福でありたいと思っていても、自害しています。
これを脱し、真の「理」に立ち返って生きる〈道〉があります。』とありました。
そこで、コペルとしては
養生訓を「身と心(頭)と口」として読み解きました。
無縄自縄(むじょうじばく)・自縄自縄(じじょうじばく)
人間は「生を養う道」を求め、
「道」を求め歩まなければならない。
なぜか?
それは、自分なりに生きていると、
生を害してしまうからだ。
多欲のよく、生をやぶる事、
刀をもって自害するに同じ理を知れば、
などか欲を忍ばざるべき。
この「道」は、全ての出来事に、「時」があるとなる。コペル
※無縄自縄(むじょうじばく)
仏語。縄もないのに、みずからわが身をしばること。迷者は迷いに、悟者はさとりにとらわれて、自由になることのできない状態をいう。
◎正法眼蔵(1231‐53)行仏威儀「たれかこれを邪見といはん。想憶す、これすなはち無縄自縛なり」 〔臨済録〕
※自縄自縄(じじょうじばく)
自縄自縄とは、自分の言葉や心がけで、身動きができなくなり苦しんでしまうこと、
「自分で自分の首を絞める」
「自分で自分を追い込む」
といったことを表す言葉。
自縄自縄の語源、「自分の縄で自分を縛る」ということ。
「自分の言葉や振る舞いで自分を縛る振る舞いで自分で縛り付けて苦しくなること」