≪今日のコペル先生の独り言≫
先日佐々木奘堂和尚の投稿に貝原益軒の言葉を紹介しながら
『私たちは、「無縄自縛」で、自分で自分を縛り、自分の首を切りつけるようなことをしているのに、それに気づかないまま幸福でありたいと思っていても、自害しています。
これを脱し、真の「理」に立ち返って生きる〈道〉があります。』とありました。
そこで、コペルとしては
養生訓を「身と心(頭)と口」として読み解きました。
無縄自縄(むじょうじばく)・自縄自縄(じじょうじばく)
人間は「生を養う道」を求め、
「道」を求め歩まなければならない。
なぜか?
それは、自分なりに生きていると、
生を害してしまうからだ。
多欲のよく、生をやぶる事、
刀をもって自害するに同じ理を知れば、
などか欲を忍ばざるべき。
この「道」は、全ての出来事に、「時」があるとなる。コペル
※無縄自縄(むじょうじばく)
仏語。縄もないのに、みずからわが身をしばること。迷者は迷いに、悟者はさとりにとらわれて、自由になることのできない状態をいう。
◎正法眼蔵(1231‐53)行仏威儀「たれかこれを邪見といはん。想憶す、これすなはち無縄自縛なり」 〔臨済録〕
※自縄自縄(じじょうじばく)
自縄自縄とは、自分の言葉や心がけで、身動きができなくなり苦しんでしまうこと、
「自分で自分の首を絞める」
「自分で自分を追い込む」
といったことを表す言葉。
自縄自縄の語源、「自分の縄で自分を縛る」ということ。
「自分の言葉や振る舞いで自分を縛る振る舞いで自分で縛り付けて苦しくなること」