≪今日のコペル先生の独り言≫

最近の佐々木奘堂和尚の投稿を読んで感じることがありご紹介いたします。 長文ですが、お読みください。コペル

「奘堂はまだ56だから」(56歳になっての一番の感慨)

※この後の投稿「56歳の誓い」に続きます。

紅白歌合戦の録画を見ていて、知らず知らず自分自身にずっと隠してきた本当の声が、字幕で出ていて、びっくりした。

56年、生きてきて一番の感慨、それは

「どこか虚しいような そんな気持ち つまらないでもそれでいい そんなもんさ これでいい」

これは「群青」という歌の歌詞であるが、この歌は、

「ブルーピリオド」という漫画を元に作った曲だというので、その漫画を読んでみた。

その漫画でも、

主人公の思いとして、私の一番の感慨が記されていた。

「みんなが俺を褒めるたびに虚しくなる この手ごたえのなさはなんなんだ」

私は別に褒められるわけでもないけど、人に褒められても虚しい(もちろん、けなされても虚しいし、無視されたらなお虚しい)ということは15歳くらいからずっと思っていた。

16歳くらいのかわいい少女なら、影絵のように美しい夢物語だけ見ていてもよいかもしれないけれども、

56歳になるまで、ずっとそれだけだと、虚しすぎる人生だ。

「虚しい」

「この手ごたえのなさはなんなんだ」

これは学生時代も、

職に就いていたときにも、

修行僧として修行している間も、

禅僧(住職)となってからもずっと思っている。

勉強ができる、社会的地位がある、金があるなど虚しい。

もっと虚しいのは、

坐禅や瞑想をして、「この形でいるのが良いことだ」と思い込もうとしたり、呼吸を数えたり、感(観)じたり

「今ここありのままを見つめている」などしている時だ。

実に虚しすぎる。

確かにそれらは流行っているし、

権威ある人が勧めたりしているので、

権威や流行りに身をまかせている時は、

それなりに虚しさをごまかせる時間にはなり得るけど、後でよけいに虚しい。

本当は虚しいのに、

「そんなもんさ これでいい」とごまかしごまかし生きてきた。

それで本当によいのか?

「疑わしいものは根柢からくつがえし、本当に確かな土台・基礎から新たに立ち上がること」、

これに徹する以外には、虚しさ、手ごたえのなさを抜け出る道はない。

今、この確かな大地から新たに立ち上がろう。

自己流(佐々木流)や仏教流、禅流など、

疑わしいものを完全に脇へのけて立ち上がろう。

まだ56である。

今からでも遅くない。

今ここで立ち上がらないで、いつするというのか?

(この真に確かな手ごたえを失わなず立ち上がる道を「坐禅」と呼んでいいのなら、

この真の坐禅に生きていこう。)

 

56歳の誓い:

30年以上、西田幾多郎の書いた『善の研究』を読み続けてきた。

ようやく、その言葉を実地に生きていける道を見出せたように思えている。

西田の言葉を引用すると:

「人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である」

「人間が人間の本性を現じた時は美の頂上に達する」

「我々はこれ(=活きた真の理)になりきりこれに即して働くことができる」

 そう、「活きた真の理」に即して働くことができると西田は名言しているが、これは本当にできる!

 なぜなら、自分の本性(天賦)を発揮することだから、

才能の有無には全く関係なく、各自が自分の持前を発揮すればよいからだ。

そして、その時、誰でも、その人なりに「美の頂上に達する」ことができるのだ!

 これに疑いを持つ人は、私(佐々木)の姿勢を見てほしい。何も特別なことはしていない。

 ただ、自己流、仏教流などをきっぱりとやめ、

天から与えられた本性、自分の持前を発揮すればよいのだ。

そうすれば誰でも

「活きた真の理に即した姿勢」

「美の頂上に達した姿勢」になれる。

天賦(本性)を自ら捨ててしまうから、手ごたえを失い、虚しいのだ。

「誰でも、活きた真の理に即して働き、

本性(天賦)を発揮し、美の頂上に達する道を歩むことができる」

 これを私自身、実践し、人にも伝え、共にこの道を歩んでいこう。

この誓いを貫くことを私の生涯としよう。