2時間半で行く「沙弥島・瀬居島」 | 新労社 おりおりの記

2時間半で行く「沙弥島・瀬居島」

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「この木何の木気になる木♬~」という歌があるように、見たことがあってなお、どういう花が咲くのか、実を付けるのか、知りたくなるものがあります。本州四国往来は何十回とやっていますが、瀬戸大橋を渡る際見える坂出付近にある緑の「島」に行ってみたくなりました。

 

(瀬戸大橋列車内より沙弥島)

 

厳密には海で囲まれた島でなく、もとは島だったのが、本土との間の海が埋め立てられて陸続きになってしまった「“元”島」なのです。下画像では昭和40年の段階で、四国坂出市の「番の州」の埋め立て地が、触手のように両島をとらえようとし、3年後には完全にとらえ包み込んで今に至ります。

 

(左:1965年、右:2023年)

 

沙弥島は柿本人麻呂(奈良時代の歌人)以来の、東京(奈良時代は海の底?)より歴史のある島で、高度成長期の前は瀬居島ともども、過疎化にあえいでいた離島でした。にわかに陸続きになって周りが工業化し、人口減少も止まり、50年以上経った瀬戸の島はどんな雰囲気なのか?どんなものがあるのか?

 

両島とも坂出市は観光地化していることを強調するようですが、観光客が押し寄せるというほどでもないようです。平たい煙モクモクの工業地帯の真っただ中に浮かぶ緑のかたまりを見物してきました。

 

(坂出商店街の昼下がり)

 

玄関口である坂出駅には14時ころ着きました。バスは1日5往復で1時間待たないといけません。だから駅の窓口でレンタサイクルを借りるのですが、16時半までに戻さないといけません。冬で日の暮れるのも早く、それまでに2島を見ることにします。まずはお昼の弁当を買い、窓口で教えてもらったとおりに、まずは沙弥島から行くことにします。

 

 

坂出市内は、シャッター商店街に、広壮なストアも近くにある典型的な郊外都市です。中心街は飲食店で、埋め立て地も含め工業地の需要で大きな店も多い、古い民家も点々という感じです。フネも多くあり、大船小舟を問わず出入りが多いです。

 

(レンタサイクル:変速・ライトなし)

 

しばらく行くと瀬戸大橋に沿って行くようになり、番の州に入ります。もともと東京湾の「若洲」のようにちょっと遠浅の良き漁場だったでしょう。それを工業用地のために埋め立て、かつ橋を架ける足場にしたのです。海の名前をそのまま付けたのです。地形的にはずーっと平ら。広大な用地を使って大工場が建ち並び、これも4車線に広い歩道を取って大型トラックが行き交っています。さすがに人通りは少ないです。

 

 

船 沙弥島(しゃみじま)

 

瀬戸大橋の平らな橋げたの林立、後工場の平たい建物の平地の果てに、緑のこんもりとした山が見えてきます。この画像を撮った場所は昭和40年ごろまで海の中だったでしょう。

 

 

昔からある沙弥島の鎮守の森、金毘羅神社の末社です。開発してもこういう神の領土だけは掘り崩せなかったのです。その森と埋め立て地のゴルフ場の間を抜けると、沙弥島の集落と海水浴場です。

 

(島の神さま)

 

集落は広くも狭くもない普通の集落ですが、漁師町のように建て込んでなく、北海道のように敷地も広くなく、一軒家ごとにネコが日向ぼっこするような適度な空間のある1戸建ての集落です。昔からの家(を建て替えたもの)が多いのでしょう。

 

 

四国と陸続きになって、水道や電気の便は弓削島などと違って本土と同じになり、余裕のある住宅街という感じになっています。

 

沙弥島の(=^・^=)

 

すぐ近くに港がありますが、重要な入口にある大きな岩を神格化し「触れるとお腹が痛くなる」として撤去などしないところは、昔っぽいです。仏像や神棚が作られる以前、人々の拠り所は亭々たる山や、突兀とした岩など、目立つモノでした。讃岐にはこういう“目立つ”山や岩が多い気がします。

 

(沙弥島の港)

 

集落を過ぎると沙弥島のもう一方の森。ここに歌碑や展望台、遊歩道など(島っぽい)仕掛けがあります。まずは海水浴場です。ここの砂は沙弥島の両方の森をつなげる陸繋島の砂州の役割で砂が溜まったものでしょう。1月なのに風もなくポカポカして、持参した弁当をいただきます。

 

(海水浴場)

 

それからちょっとした「山越え」をして、最北端の岬へアプローチします。今は海の家になっている廃小中学校の前の運動場だったと思しきところは駐車場、その向こうは縄文遺跡の沙弥ナカンダ浜、左手が岬の山、右手は埋め立て地の瀬戸大橋記念公園で頭上に「マリンライナー」などがゴウゴウと渡っていきます。自転車を置いて遊歩道を岬に歩いて行きます。

 

(人麻呂の碑と瀬戸大橋、1,300年の差)

 

展望台は排水悪く水だらけ、しかし瀬戸大橋を客観的に眺める景色は絶景です。列車は小さすぎて、また橋げたで何の列車か判定しかねます。フネも結構通ります。松林を突端の長崎鼻まで行ってきます。それから森林の中の遊歩道を通って民家の横のさっき通った山越えの峠に出てきます。岩と森、海の景色で退屈しない散策路になっています。

 

(東側はどこから見ても瀬戸大橋)

 

この辺、縄文集落や古墳があって、柿本人麻呂のころもヒトがいて、ジモティがトレンディ詩人人麻呂に、風光いいから来てみろと誘ったのかも知れません。それで一首詠んだのが1,300年の時空を超えて残っているのです。

 

(沙弥島西側とナカンダ浜)

 

最初は浜辺(ナカンダ浜)で漁労をしていたのですが、1,000年も前、水害を防いで住むに便利な今の陸繋島の砂州の上の集落にみんなで移ったのでしょう。そんな想像ができる沙弥島でした。1時間弱で一周できました。

 

(むかし学校、今海の家)

 

飛行機 瀬居島(せいじま)

 

さあまた自転車ですっ飛ばしてもと来た道を途中で折れ、今度は瀬居島です。四国電力などの大工場の敷地を延々と行くと、急にまた緑の盛り上がりが出てきて左に曲がって西浦に行きます。

 

(ここがもとの瀬居島)

 

時に15:35、あと制限時間まで55分です。瀬居島(今は瀬居町)の見どころはもっと奥地にあるのですが、時間がなくてしょうがない。港とちょっと入って住宅地をぐる巡りします。雰囲気を味わいましょう。

 

(ヒトが来ても動じない)

 

山が迫って沙弥島ほど余裕はないのですが、ネコがのんびりなところは変わりません。やや路地のようなところはヒトがいませんが、繁華な感じです。西浦地区に続く北浦地区に瀬居小学校がありましたが、2年ほど前に閉校しています。今は30分ほどでバスで通うのでしょうね。中学校は別な場所で健在です。

 

(2022年閉校、瀬居小学校)

 

また信仰の舞台も多く、小さい祠の神社が2つあります。大きな岩を背にした神社は、沙弥島の港と共通していますね。こういう巨岩はご神体として崇められるものでしょう。港には多くの漁船と思しき船が泊まり、漁師さんがけっこう仕事しています。

 

(海の仕事は縁起を担ぐ)

 

瀬居島には他にも主邑の本浦、奥に竹浦があります。この島を含めた塩飽諸島は漁業の他、船大工から始まった「塩飽大工」という職能集団がいて、幕末の咸臨丸を操縦したり、むかし水軍、さらに海軍のフネを造ったりしていたのです。瀬居島ではないですが、採石加工も盛んでした。水軍のゆかりで進取の気勢があるんですね。全国でここ出身の職能集団が大活躍したのです。

 

(街の様子)

 

しかし時間が迫りそこまで追求する余裕なく、西浦から北浦に行って、そこで踵を返します。瀬居島では10分滞在で、大急ぎで駅へ。途中写真など撮ったりして40分で坂出駅に戻ってきました。ちょうど期限の16:30。自転車を返して電車で高松へ。

 

(堂々たる工業地帯。昔は海)

 

四国一かと思われる高松の繁華な縦横の商店街を歩いても、讃岐うどんを食しても、それほど都会的なところに放り込まれた感じはしなかったです。

 

(坂出駅の柱)

 

沙弥島瀬居島はどうも縄文以来の文化の深みを感じて、繁華街より劣った感じがないのですね。それだけ独特の雰囲気なのです。讃岐の国は縄文期に全国的な石器の名産地だったことを思い出しました。

 

今日は高松泊。明日は児島に向かいます。