3時間で行く「下津井電鉄」 | 新労社 おりおりの記

3時間で行く「下津井電鉄」

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下津井電鉄株式会社

 

岡山のバス会社です。今はバスだけですが、昔は鉄道路線も持っていたのです。四国連絡と密接な関係があり、1972年以降は「国鉄との連絡のない孤独な下津井電鉄」と言われ、軽便鉄道ながら、路線短縮や合理化を経て1990年まで80年間健闘しました。今は地元有志の方々のおかげで廃線跡は「風の道」として整備され、自転車で徒歩でトレースすることができます。

 

(もと下電児島駅)

 

JR瀬戸大橋線、児島駅に10時ころ降り立ち、レンタサイクルを借りて走り出します。「車輪の小さなのしかないのですが」ということでしたが、太古から島だった、地形が複雑で意外に険しい児島半島は車輪が小さく太い方が、ラフ・ロードやゆるい勾配のあるこの廃線跡には都合がいいのです。

 

 

33年前に降り立ったころは大賑わいだったもとの下電児島駅は、同じ季節で私1人。当時のまま残されていますが、静かなイベントスペースという感じ。

 

(33年前は大賑わい)

 

ここから下津井電鉄廃線跡「風の道」が始まります。1月の陽だまり、かつては電車に乗った細かい砂利道を今度は自転車で南下します。

 

(交換設備のあった備前赤崎駅)

 

陸前赤崎、阿津と住宅地を抜けていきます。各駅は後からつけられた駅名標などの他に、ホームが再現されてベンチ化され、休憩場になっています。

 

 

海岸からやや離れた山すそを行く線路は、架線柱が残してあり、緩いカーブと相まって、鉄道らしさを味わうことができます。

 

(阿津駅と🐈)

 

塀の上にネコがいたり、通行人は全線で50人くらい。ネコは人が近づくと隠れます。市街地ですからね。カメラを構えた同好の士もいました。架線柱と廃線で独特の面的なモニュメントになっているので、イイ被写体になるのです。

 

 

琴海の手前からは、並行していた瀬戸大橋線の下をくぐり、やや勾配になって交換可能駅の面影を残す琴海へ。1988年下津井電鉄は、瀬戸大橋の開通を見込んで、観光客を取り込もうと新型観光電車(メリーベル号)を導入し、この琴海駅に列車交換設備を復活させました。

 

(メリーベル号)

 

1972年に開業60年で、新幹線が岡山開業しましたが、新幹線連絡は伸び悩み、その年に国鉄宇野線に連絡した茶屋町―児島間を廃止し、残った児島―下津井間も鉄道要員を10人まで減らした合理化を行ったのです。その16年後いざ瀬戸大橋開通で活気づくのに、久々の増強をしようということにしたのです。

 

(交換駅の面影残る琴海駅)

 

しかし観光客はこの下津井電鉄を素通りして四国に行ってしまい、最後の設備投資も功を奏さず、2年後に全線廃止になりました。本四連絡橋の資材搬入道路で、この琴海から下津井に抜ける丘陵地帯の交通がよくなり、この鉄道線にとどめを刺すことになったという皮肉です。1990年12月27日、廃止4日前私は乗りに来ました。ずいぶんにぎわってました。

 

琴海からは山の中腹や切通しを行くことになります。こういうところを通らざるを得なかったほど険しく、他の道路ができず下津井電鉄の延命の理由にもなりました。現在自転車で上ってみれば大した坂でもないのですが、先人がこうするまでに山を掘って苦心した土木工事の痕跡が見て取れるのです。

 

 

そして頂上が鷲羽山駅です。切通しを抜けた先で、名勝鷲羽山はすぐそこなので、33年前はここで電車を降りて歩いて鷲羽山に行ったものでした。瀬戸大橋を見る展望台もあり、今回は引き続き廃線トレースを続けます。

 

(33年前の鷲羽山駅は廃車体)

 

児島の市街地と鷲羽山への小さな峠越えから、ここからは下津井の市街を左に見ながら降りて行きます。この辺りがこの軽便電車の一番景色のいいハイライトでした。

 

(もと鷲羽山駅)

 

緩やかな勾配を少しずつ下津井の港前まで降りて行くのです。モーターの小さい軽便鉄道ならではの苦心でしょう。下津井市街を順繰りに眺めながらです。その近辺に東下津井駅があります。自転車でも通り過ぎそうな目立たなさ。民家が隣接しているのです。

 

(90年くらい前の東下津井駅と現在)

 

路面はこの辺り、土むき出しになります。架線柱があるのでそれとわかりますが、路面の変化もこれで良し。砂地に舗装に土の道と、変化があるから面白いのです。時々トレッキングの方や、お年寄り夫婦の散歩などに出会います。あいさつを交わします。東下津井―下津井間は2.1km。勾配を緩和するため、直線距離はすぐでも、意外に道のりが長いのです。

 

(下津井吹上花公園と下津井城)

(むかしここで買ったテレカ)

 

下画像のような踏み分け道になりますが、鉄道らしい緩いカーブで亭々たる一般道と交差するところもあり、ところどころ城址への案内や、架線柱も相変わらず残されているところがあり、道に迷うことはありません。

 

 

「地平」のこ線橋をくぐると視界が開けて終点下津井駅。ホームが2本とぶった切られた線路が2線、それに駅名標とベンチがあります。ここでの見どころは付近の「検車庫」に電車が展示されていることでしょう。

 

雨ざらしのようですが、保存会の手でいたずらされないようフェンスが張られ、きれいに手入れされ、メリーベル号や旧井笠鉄道の気動車もあります。犬が1匹いましたが、付近にはヒト1人いない旧駅前でした。

 

(終着下津井駅)

 

私も降りたことがある駅舎はとっくになくなりましたが、小さい資料館が残っています。入場無料の2階建てで、ドアには木製の「ストッパー」とガチャがあって、200円で「入場券」を買うことができます。

 

(33年前、下津井駅舎)

 

運転設備やレール機械類の展示もさることながら、写真が時代の変転を感じさせて面白かったです。茶屋町接続があった戦時中の「木炭ディーゼルカー」や混合列車など、鉄道が必須の時代をほうふつとさせるものです。

 

(小さなてつどう館。上の切符は33年前に買ったもの)

 

今やホームだけの東下津井駅も、駅員2名の堂々たる駅舎を備えていたこと、戦時中の燃料不足で「木炭気動車」が走っていたことなど、大正~昭和戦前戦後~平成と、時代に翻弄され、手練手管を尽くし努力して生き残ってきた鉄道会社の心意気が感じられます。

 

(モハ1001)

 

駅前には明治のヒト、電鉄の創業者白川氏の像もあります。下津井電鉄は今はバス会社ですが、歴史は大事にしているのです。駅から30mくらいですぐ海辺で、平安時代からあった下津井―丸亀航路(四国との距離が一番近い)の連絡を考えたわけが分かります。下津井電鉄は、国鉄宇野線の開業に、四国連絡、金毘羅参りの輸送への危機感を持って作られた会社でした。

 

(昭和39年時刻表より)

 

今は漁業に生きる港です。「下津井直送」と言えば海産物の新鮮さのブランドです。大きな旅館も残っています。ここから海岸沿いに自転車を飛ばすと、隣の広島県、鞆の街のように港町が続きます。人々が軒を連ねて交流し合うに便な街並みです。飼い犬の吠え声や人々の生活の息遣いが感じられ、町並み保存地区に指定されています。

 

 

小漁港を連ねる下津井の瀬戸内海漁業の拠点群を経て、鷲羽山の突端まで登ります。風光明媚なところです。途中の下津井電鉄の大きなホテルでは「こんな所にいたのか!」と下津井電鉄クハ24が貨車を従えて鎮座していました。今はバス会社ですがもとは鉄道から興った会社、鉄道への経営努力そのものに愛着があるのでしょう。

 

(ホカフ9とクハ24)

 

岬の突端の峠を下って、下津井側から児島側に出て、ボートレース場や現代的ラショナルな広い専門店舗の多い児島の街並みを経て、児島市街に海沿いに戻りました。徒歩人はほとんどいません。みんな車で往来するのですね。弁当を買ったのですが食べる場所がなく、もとの下電児島駅に戻って、駅舎で弁当を広げ、10時に出て13時に戻ってきました。

 

 

このサイクリング行で考えされられたのは、瀬戸内海四国連絡の変遷です。古代から平安時代以来1000数百年間、海が難所だったころはなるべく短い下津井航路、鉄道が走ると蒸気機関車が走りやすく、貨物など横付けしやすい宇野―高松航路は70余年間、そして瀬戸大橋ができると、ヒトが立ち寄りやすい児島と、玄関口が変遷してきました。児島はジーンズの街で売り出しています。

 

(もと井笠鉄道のディーゼルカーホジ3。ついに走らなかった)

 

宇野に行ったときに、四国連絡の役割を終えた宇野駅と、地域輸送の玉電のことを書きました。これも廃線跡。勾配が多いので、この下津井ともども電車が多く、資金難でディーゼルカーを導入したところも似ています。下津井電鉄は、車両は買いましたが最後までディーゼル化しませんでした。

 

知らない街を走ってみたい(岡山県玉野市)

 

(下津井と児島近辺)

 

その中でも下津井電鉄は、下津井の1,000年にも及ぶ海運の地を守ろうと、孤軍奮闘してきた歴史が、そのまま四国連絡、金毘羅連絡の歴史になっているのです。利便性は高くなることに越したことはありませんが、こういう先人の涙ぐましい努力の跡を見ると、当時のヒトの人間性の奥が深く感動的で、むかしの特に“産業”遺跡めぐりはやめられないのです。