北陸トンネルめぐり(上)柳ケ瀬トンネルと敦賀港 | 新労社 おりおりの記

北陸トンネルめぐり(上)柳ケ瀬トンネルと敦賀港

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現在はネットで、行きたいところにあらかじめアプローチして、ネットで見ているうちに行きたくなくなることもあります。しかしこの「北陸線旧線」は先人の優れた記録アップにもかかわらず、自分も行ってみたい!と思わせるところです。

 

それは廃線跡が醸す時代の流れへの郷愁と、交通上重要な地域の現実の緊張感を体感したいからです。この感覚は行ってみないと分かりません。以前近江塩津駅など、寒駅なのにわざわざ降り立ったことがあります。そんな北陸線を今度は輪行自転車でたどってみました。米原から直江津まで354kmあった北陸線も第3セクター化され、来年4月に北陸新幹線の開業で敦賀までの46kmになり、ずいぶん短くなります。

 

 

概念図のように旧線は「柳ケ瀬線」ともう1つ「杉津線」に分かれます。1日目は前者、2日目は敦賀港と後者で行くことにしました。いずれも蒸気機関車を何台もつなげ、急こう配と煤煙で窒息事故まで起こしたような難所です。今ではトンネル技術の進歩であっという間に通過します。そのギャップを感じに行くのです。

 

(概念図。オレンジ線が現在線、黄色線が廃止旧線)

 

北陸線新疋田までの切符を買って、新疋田から小刀根トンネルを見て宿へという計画でしたが、途中中ノ郷や柳ケ瀬といった滋賀県側の史跡も見たくなり、あわよくば柳ケ瀬から敦賀に抜けようと考え、2つ手前の余呉で途中下車しました。この木ノ本―敦賀間は新線開通後の晩年はローカル線でした、明治の早い時期から鉄道が開通した場所です。

 

近江越前国境とそれに付随する山中峠、木ノ芽峠、栃ノ木峠は歴史上、5世紀の継体天皇から源平の木曾義仲、14世紀の新田義貞に戦国の朝倉氏上杉氏、柴田勝家、さらに19世紀まで松平福井藩に至るまで、北国から都を目指した英雄たちの歴史的な交通の要衝なのです。

 

しかし地形が険しすぎるゆえに、歩きはともかく、明治の近代化から人々は苦労してきました。北陸新幹線さえも、敦賀から先は京都を通るのか、南を行くのか北を行くのか決定に難航したという有様です。勾配とルート選定の織りなす交通の緊張感を味わいたかったのです。

 

(名古屋の肉きしめん)

 

朝はいろいろゆっくり。東京駅まで走って折りたたみ、空いている臨時のぞみで名古屋。しかし米原どまりのひかり号を30分待ってきしめんを食し、米原から各駅停車で余呉に降り立ちます。時に午後2時半。サイクリングを始めるには遅い時間です。

 

★余呉⇔中之郷⇔柳ケ瀬⇔雁ケ谷⇔柳ケ瀬トンネル滋賀県口

 

いやー抜けるような青空!蒼い田んぼ!開放感とびっきりです。午後2時半、東京から4時間たって自転車を組み立てます。余呉湖(琵琶湖から分かれた一部)は羽衣伝説や、戦国時代の賤ヶ岳の戦いの舞台となった場所ですが、水音すらしない静けさです。余呉駅は廃止になった中ノ郷駅の代わりに作られたのです。

 

(余呉湖から賤ヶ岳を望む)

 

まずはその中ノ郷駅(現在は地区名で中之郷)のモニュメント。余呉から川を渡って国道沿い。周辺は結構大きな集落で、農協やGS、ATMなどもあり、もともと峠越えのシェルパ(補助機関車)を付けたところでした。この辺りは高月、木ノ本で、坂を登れるよう貨物列車の分割・編成作業を行い、中ノ郷で機関車をもう一台くっ付けるなど、峠越えを役割分担していたのです。坂を上ること以上に時間がかかったのです。

 

440年前は天下を狙う柴田勝家―羽柴秀吉の最前線でした。中之郷からちょっと南下した向かいの山が戦場になった賤ケ岳です。小山がポツポツあり、砦が築かれて攻防戦をやったところです。

 

(ホームはオリジナル)

 

ゆるゆると柳ケ瀬へ向かって勾配を登ります。右に北陸自動車道、左に余呉川と少々の家々、うっそうたる山。やや気持ちいいくらいの高度を上げると「ここより柳ケ瀬」とあって、柳ケ瀬の集落があります。寂れてはいますがもともと地域の中心で、宿場町だった面影があります。ここからは民家もまれで、高速道路の通過音と、10分に1度くらい車が通ります。戦国時代は柴田勝家軍が越前から出てきて陣取った場所です。

 

(明治天皇が休憩した屋敷)

 

柳ケ瀬の集落から先、雁ヶ谷駅は柳ケ瀬トンネルでの窒息事故の後、煤煙対策にトンネル入り口に「遮煙幕」を下ろしたところです。人家はなく、バス停はありますが、対向してきたサイクリストに聞くと、この先の敦賀を経由せず今庄に抜ける栃ノ木峠は落石で通れないとのこと、別な山を越えて敦賀に出るには、自転車はここでドン詰まりです。

 

敦賀―木ノ本を結ぶ柳ケ瀬トンネルはもと鉄道トンネルで1車線。2km近い長さの交互通行で、分離帯はありますが、自転車や歩行者は通れないのです。鉄道廃止後はバス専用トンネルで、1987年改修して一般車、原チャリまでなら通れるようになりました。

 

 

そしてついに来た!柳ケ瀬トンネル南口!見えるのは雪崩除けのスノーシェッドです。対向車がくるのでこれ以上近寄れません。周辺に迂回路を探して、ヒトにも聞きましたが廃れた古道以外裏道はなく、原則ここを通らないと敦賀には出られないのです。待っている車は7台ほど。高速もあるのに不便な裏道にしては結構使われています。栃ノ木峠通行止めのせいでしょうか、

 

90余年前に、敦賀口から入った貨物列車が、この南口まであと少しのところで勾配に耐えかね停止し、煙に包まれて3名の死者を出した窒息事故があったのです。

 

(蒸機と貨車)

 

蒸気列車の力が足りず、犠牲者がなくても窒息事故が頻発したのが、この柳ケ瀬線を放棄して、峰違いの塩津街道経由に変更した直接の理由でした。蒸気列車で煙にむせながら急こう配を登るより、複線電化して長大トンネルを掘って、安全になり輸送力は格段に増えたのです。この区間は一気というわけにいかず、単線電化から“新”トンネルを掘り、急こう配緩和の手練手管を手当てして、長い時間かけて改良しました。

 

今は柳ケ瀬トンネルでなく、鉄道は電化後、深坂、新深坂の2トンネルを上下で使っています。

 

(秀吉軍が攻め、300年後、蒸気列車が咆哮したであろう勾配)

 

それだけ険しくて道をどんどん作るわけにいかない地勢なのです。伊藤博文や黒田清隆など、政府トップがトンネルに揮毫しているのを見ると、日本海側の通運を一刻も早く通そうという人々の意気込みが感じられるのです。信長や秀吉の軍勢が多く通ったことはありましたが、鉄道という運輸の魔法の杖を使って、貨物を大量に運ぼうという明治政府の意思は、戦国の英雄に負けず強かったのです。

 

(以前は駅名標もあった!)

 

トンネルまで極め、さあこの後どうするか?自転車だけで敦賀へ行こうとすると先ほどの余呉まで引き返し、さらに南下して木ノ本まで戻って北上し、塩津街道を峠越えしなければなりません。時に午後4時。これから今日中に小刀根トンネルなども見るべきですが、宿の予約は午後7時、暗くなるのも同じくらいでしょう。

 

大迂回は避け、さっきの余呉駅から二駅輪行し、新疋田で降りて行くことにしました。自転車の行けない柳ケ瀬トンネルを挟んで恐ろしく非効率なΩ形のコースです。緩い勾配を今度は下って、余呉から自転車を積みなおして1つ先の近江塩津着の電車に乗ります。1時間に1本は各駅の普通電車が出ています。

 

(余呉付近:特急しらさぎ)

 

★新疋田駅⇒刀根⇒疋田⇒敦賀

 

(活気のある新疋田駅)

 

長い新余呉トンネルはじめ、4つくぐった次の「終着」近江塩津では湖西線への乗り継ぎは同一ホームですが、敦賀行きの電車は自転車を担いで長い階段、地下道を歩かなくてはなりません。ギリギリで敦賀行きを逃すところ。次の列車撮影で有名な新疋田で降りました。この間、掘削に15年かけた5.2kmの深坂トンネルを何気なくぐってしまいます。断層や出水に悩まされ、それでも勾配緩和のために掘らざるを得なかった重要なトンネルです。

 

(小刀根トンネルから刀根トンネルを望む)

 

新疋田は今は無人駅ですが、地域センター化していて、駅内はきれいです。自転車をまた組み立て、ここから笙の川を日本海側へちょっと下ったところから、刀根へ向かってまた登ります。

 

(これは刀根トンネル:左)

 

勾配はきつくなく、自動車道に変更された刀根トンネルをくぐります。高速道路のトンネルと並行しています。そしてすぐ、刀根の集落のちょっと下に明治の原形をとどめる文化遺産、小刀根トンネルがあります。

 

明治14年開通。日本鉄道開闢から10年も経たないうちにこんなトンネルまでできたのです。当時の交通連絡、日本海側への輸送への意気込みがここにも感じられます。

 

(小刀根トンネルと煤煙の跡)

 

それにしても人口が希少です。刀根の集落も大火があったくらいでしたから、昔はにぎわっていたのでしょう。駅の跡地は高速道路に飲み込まれ、今も数十戸の民家はありますが静まり返っています。刀根から先、次の駅はさっき行った雁ケ谷駅ですが、柳ケ瀬トンネルの1.35kmは自転車で行けないので、刀根集落のちょっと上で午後6時になって引き返します。

 

川に沿って下った疋田の集落も静まり返っています。ただ公民館内に駅名標のモニュメントがあり、周囲に交番や集会所などもある、地域の中心のような感じです。

 

(敦賀市内のバス停は松本零士で統一)

 

トンネルを掘るのでなければ、敦賀から新疋田の谷の方(深坂・塩津街道)でなく、刀根の方角(柳ケ瀬へ抜ける)に行こうというのはうなずける感じです。勾配はあっても1キロちょっとのトンネルで何とかなりそうに思えるからです。土木技術特にトンネル技術の進歩です。

 

明治の昔はトンネルは避けていたものだったのです。単に掘るだけならイイのですが、カタい、柔らかすぎる地質、断層や出水をどう処理するか考えないと犠牲者まで出すことになるからです。

 

また、動脈でなくなった柳ケ瀬線が6年半で廃止になったのもわかります。自転車でも上れる坂に貨物を通さないのなら、地域輸送はディーゼルカー1両で十分。とにかく山の中に鉄道を通したのは北陸と名京阪神の大消費地を結ぼうという意思だけだったのです。

 

(刀根の市街と疋田の愛発駐在所)

 

それとこの辺りは、奈良時代からの愛発関があったところです。古くは奈良時代、恵美押勝の乱を差し止めたとか、実は山中峠だったとか、位置もわかりませんが、この辺りは愛発公民館とか、愛発駐在所とか昔をしのぶ名称になっています。

 

(ホームの石はオリジナル)

 

疋田を出て敦賀市街まで、なお距離があります。北陸本線と、また小浜線など横切って北陸新幹線の高架がそびえる敦賀駅へ。飲食店を探しながら市内をウロウロし、午後7時ギリギリに投宿。名古屋の駅ホームできしめんを食べて以来、水しか飲んでいないところを、飲食店は休日でもありどこも地元のヒトで満杯。閉店ギリギリのスーパーで買い食いすることになりました。

 

★敦賀港

 

翌朝は杉津越えの前に7時半ごろ出て、峠越えの目的地である敦賀港へ。ここから多くの物資を出して貿易を盛んにというのが、日本近代化の目的の1つでした。博多や新潟や小樽舞鶴などと同じ扱いだったでしょう。どの地も早く鉄道が開通しています。柳ケ瀬越えもこの敦賀から来る、ロシア沿海州からの輸入品や海産物などを運ぶためです。

 

 

銀河鉄道999や宇宙戦艦ヤマトなど松本零士調モニュメントは敦賀の鉄道に由来するものです。峠越えをして東京名古屋大阪とつながる目的は、敦賀港からのロシア、ウラジオストクや中国沿海州などの日本海岸への貿易でした。

 

港からは巡視船が出港していきました。敦賀港は漁村ぽい活気や、お祭りの後のような崩れた感じがないのですね。金ヶ崎の山のふもとが敦賀港駅です。

 

(敦賀港駅)

 

今では鉄道を利用しないJR貨物の拠点、オフレールステーションとして、トラックが出入りしています。鉄道は本線と連絡してませんが「貨車移動機」はあるようです。昔使われた赤レンガ倉庫には急行用でディーゼルカーキハ28が鎮座しています。鉄道資料館もあります。昨日行った柳ケ瀬越え、これから行く杉津越えを支える鉄道の街だったのです。

 

 

またユダヤ人を救うフネが着いたところなど、強調しているのは、商港と北陸の物資集積地としての歴史を大事にしているのでしょう。日本海軍が追い詰められたとき、最終的に避難したのは敦賀湾を含む若狭湾でした。日本の貿易上、国防上の奥座敷というべき場所でもあったのです。

 

 

金ヶ崎の城や、気比の松原など、敦賀を代表する観光地にはいかず、気比神宮も遠くから参拝。コンビニで水を補給し、チキンサンドを食しました。時に朝8時半。資料館などの施設は9時からですが、やっぱり杉津越えに心が向くのです。切られた敦賀港線の廃線跡を見てから、北へ向かって走り出します。

 

(旧敦賀港線)

 

敦賀市内は貿易港の街だけあって道は広く、日本海、北国から若狭近江京都につながる交通の要衝、高速道路にバイパスや新幹線工事の跡なども相まって、やや市街がややこしくなっています。国道8号線は30余年前のサイクリングで新潟から走り、若狭方向に抜けました。海岸沿いから今度は逆に北上し、木ノ芽峠方向へ行って途中で折れて山中峠を越える、しかもそれを外した「旧線路沿い」に走ろうというのです。

 

つづく