手前味噌~ビジネス・家族・子育て・経営・仲間・お客様・恋愛等から気づく法則~ -9ページ目

手前味噌~ビジネス・家族・子育て・経営・仲間・お客様・恋愛等から気づく法則~

経営や企業として、また、父親、夫として、あるいは上司、仲間として取り組んできた結果や経験から気づく事を週一回程度UPさせて頂きます。

お役に立てれば幸いです。

私は小学校の頃にイジメられていました。
でも、今思うと、自分にも問題があったと思いますし、その逆境と向き合うことで変われたと、実は感謝しています。


その話は、記憶がうる覚えの幼い頃まで遡ります。


私は家庭の事情で、親から離れ祖母に預けられていました。
生まれてから小学校3年の最後の春休みまで、山と海の田舎で育ちました。
明るかったんですが、とても気が弱い性分で内向的でした。
草や川、海など、自然を相手に遊んでいましたからそうなったのかもしれません。
今でもそういう内向的な部分は残っていると思います。


祖母には色々なことを教わりましたが、なにぶん田舎なので
特定の人とお付き合いをしていて、変わったニュースなどなく
お百姓さんや漁師の生活や考え方を学んだ気がします。


前にも書きましたが、その狭い世界しか知らなかったので、周りや世間がどうなっているのか興味を持つこともなく、自分の世界が「当たり前」となって育ったんだと思います。


小学校の4年の1学期から京都市の家族と一緒に暮らせるようになりました。
自分としては嬉しかった反面、戸惑いがありました。
突然姉が2人出来た感じがしましたし、家の中でどう立ち回ればよいのか、またコミュニケーションをどんな風にとれば良いのか判らなかったからです。


2番目の姉にはとてもよく面倒を見てもらって、今も仲良くやっています。
でも1番上の姉はとても怖く、年齢が離れていたせいもあってか、ほとんど話しませんでしたし、姉は家にもほとんどいませんでした。
凄くグレていた時代でしたが、今は家族思いの良いお母さんになって、幸せに暮らしています。


話がそれましたが、京都市の小学校に転校した際、沢山生徒がいてびっくりしました。
私が3年生まで通っていた小学校は全校生徒数で40人と少しでしたので
こんなに沢山の同級生や下級生を見たのが初めてでした。
1クラスが全校生徒以上いたのです。


でも、みんなに話したりすることに自信がないことと、方言で訛っていたという理由であまり話せずにいると、見る見るうちに孤立し始めました。
そして、訛っていることをからかわれるようになり、クラス全員が口をきいてくれなくなりました。


最後には教科書を川に投げられたり、背中を蹴られたり、給食を入れてくれなかったり、製作途中の図工のねんど細工を壊されたり、様々なところにまで及びました。


私はいつも、泣きながら家に帰っていました。
当時、私は鍵っ子で、帰っても誰もいませんでした。
暗い部屋でいつもいつも泣いていました。
自分が皆に何をしたんだと、悔しくて悲しくて、孤独で泣いていました。


小学校5年生のある日、いつもの様に泣きながら帰ってくると、1番上の姉が家にいました。
なぜ泣いてるのか聞かれたので、一所懸命出来事を伝えました。
私は姉が助けてくれるのではと思っていました。
でも、私の話を聞いて、姉は私の頬を叩いてこう怒鳴りました。


「男だったら泣きながら帰ってくるな、やられた奴に仕返しするまで家に入れない」

鍵を取られ、家を叩き出されて鍵を閉められました。
その時、同級生のイジメや一連の出来事より姉のほうが怖かったんです。
家に帰れないということもありますが、姉にまた怒鳴られたり叩かれたりするほうが
恐怖だったんです。

唯一の友達(その友人もイジメにあっていました)の家に居候させてもらいながら学校に通い、一人ずつ向き合い、話し合い、時には殴りあいになってクラスの皆と戦い続けました。


学校ではすごい問題になっていきました。

家出した私がにクラスの仲間に暴力を振るっているという事に対してでした。


するとクラスの皆からはイジメられなくなりました。


姉がそこまで言ってくれなかったら、何かされても我慢したり泣いたりすることしか出来ない状況は打破出来なかったわけで、今の自分に根強くある「あきらめない」ということを気づかせてくれたんだと思います。

また、後になってクラスの皆と話したりするようになって、自分自身が足りない部分があったことも理解できました。


何かを始めるときや問題に取り組むとき、判らないことや自分が乗り越えられるのだろうかという不安から、畏怖の念や恐怖心というものが出てくると思います。
でも、心の中で「本当にイヤだ」と思う前に手を打つこともそのときに教わった気がします。


逆境や悪い出来事が自分を変えてくれる材料で、周りからのアラームなんだと思います。
人間は誰しも、それに対して逃げずに、向き合っていけば、成長していくものだと思います。


これからも、姉と同級生に感謝します。

そして何事にも逃げずに向き合っていこうと思います。


小学校の同級生と、1月に新年会をやるんです。
久しぶりに会うのですが、今から大変楽しみにしています。

吾唯知足(われただたるをしる)
釈迦如来の最後の教えとされる経典「遺教経」に書かれています。

また老子の根本思想でもあります。


京都竜安寺のつくばいにも刻まれています。
中央の水を張った「口」の字を重ねて、上下左右に足りない字の半分を刻み「吾唯知足」(われただたるをしる)と読みます。


その意味は、「足るを知る人は貧しいといえども即ち富めり」
つまり、足りている事をを知ってる人は貧しいとしても心は富み、足りている事を判らない人は富を得ても心は貧しい、ということだそうです。


この言葉に出会ったのは大学生の頃で、梵鐘(釣り鐘)を作る会社で借金を返すためアルバイトをしていた時でした。


社長さんから随分気に入られて、よくご自宅にお邪魔させていただいたのですが、そのご自宅の庭に吾唯知足のつくばいがあり、社長さんからお話を頂いたのがきっかけでした。
社長さんの運転手もさせていただいたりしていましたので、何度も何度もお聞きしていました。


当時はいろんなことが大変だったので、成功している方の考え方に興味があってすすんで聞いていました。
でも、本音は大きい家に住み、お手伝いさんがいて、高級外車に乗った成功者の考え方を盗んで、自分もお金持ちになってやろうといった考えからでした。


社長さんは私の本音を知ってか知らぬか判りませんが、よくこんな話を私にされました。


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幸せとは物や金などの物質的なものではなく、精神的なものだ。
幸せとは今の現状を満足と出来るかどうか。
やってきたことが自分自身の精一杯であれば、今現在を満足と出来るはずである。
自分を取り囲む状況や事象に左右されることなく、感じるもののひとつが幸せである。
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実際は上に書いたようなニュアンスで話されたわけではなく、ほとんどお説教に近かったんですが、要は欲しいと思うのではなく、精神修行をしなさいとご指導を受けていたんです。


当時は全然ピンときませんでしたが、今はなんとなくそうなんだろうなぁと思います。


私なりに今の解釈を書いてみますとこんな感じになります。


幸せになる為に何か具体的な物や結果が必要と考えていると、それが手に入った時は幸せと感じるかもしれませんが、それがずっと持続して行くとは考えにくいことだと思います。

手に入れた後、生きていく中、日々生活の中でその幸せ感は薄れていき、また新たな何かを探し始めることになるということです。
ということは、何かに依存する幸せであれば、その何かが失われると幸せではなくなるということになります。


つまり自分自身が出してきた結果や現状を、そのまま受け止めて相応だと認識することだと思います。
今ここに生きている事の意味を良く考えて、どう捉えるかが大事だとゆうことです。


社長さんにはこんな口癖がありました。
「有り難いなぁ」という言葉で、いつも何かに感謝されていました。
きっといつも「吾唯知足」の境地でいらっしゃったんだと思います。


お話いただき、お聞きしたことを全て理解できているとは思いませんが、その意味を、これからも日々の生活の中で理解するべく考えていこうと思います。


そして周りの方が「幸せだ」と感じていただけるよう精進したいと思います。

故事成語でこんな言葉があります。


孔子十六
「人の己を知らざるを患えず、己が人を知らざるを患う」について述べよ


「故事」
子曰く、「人が自分を知らないことを気にかけず、自分が人を知らないことを気にかけることだ」と。


「成語」
自分が何を知っていて、何をしらないか、これを知らずして、他人を知ることは有り得ない。
ゆえに、他人が自分を知らないと嘆くのは、二重に無意味である。


最近、この言葉に大変感銘を受けています。


私は社会に出て、もうすぐ15年が経過しようとしていますが、
仲間と仕事に取り組んだり友人と会ったり家族と生活をしている中で、ふと思うことがあります。


それは、自分が如何に知識が浅く、浅はかだということです。
自分的には理解していると思っているんですが、本当は理解できていないことがほとんどだと思います。


社員の皆さんと半期に一度、人事考課の面接をさせていただいてますが、先日、お会いしお話をしたときも、私の認識を覆される内容ばかりでした。
皆さんが入社される前のことや面接時にお話した事、今までの付き合ってきたことを思い出しながらお話をお聞きしたんですが、時間の経過で皆さんの状況も変化していて、生活環境や体調なども含めて、仕事のに対しての考え方や取り組み方など、私が認識していた事と違うことが沢山ありました。


皆さんとお話したことで、プロジェクトや会社に対しての想いがとてもよく伝わったんです。


これは私の思い込みの結果です。
そして、思い込みの結果を出した背景には、今までの経験したことから決め付けているつもりではないのですが、今知っている情報だけで判断しているということで、結果的に「思い込み」や「決め付けている」ということになるのだと考えています。


生活をしている中でも、同じようなことがあります。
自分自身はこうだと自信を持っていても実際にやってみると違うことが他にも沢山あります。
今まで経験の無いことであれば知らないですし、やったことのあることも時間がたてば忘れていたり違うケースだったりして知らない部分があったりします。


そこで自分自身が自分のことを知らないと気づかされます。
私が、知識や皆さんのことや周りのことを知らないということに気づいてないということです。
私は自分のことを「こうなんだ」って思っているだけで、実際には知らないのだと思います。


如何に私が思い込みや以前の情報だけで決め付けているかということが判ります。。
また、時間の経過で考え方や取り組みが変化しているということを汲み取っていないということなんです。
それはコミュニケーションの不足からも起こることだと思います。


自分を知るためには常に意識し、情報を集め続け、理解するしか方法が無い様に思います。
知らないことを知らないと素直に言えれば楽なのかもしれませんが、それでは責任を持って取り組めなくなります。

また、責任が取れなくなってしまいます。


対人関係において、知らないままで一緒に何かを行うことは、恐らく失敗することのほうが多いように思います。


きっと会社の上司や部下の関係でも、言わずとも判るだろう上司が思ってると
部下は指示があることさえすれば良いと思っているかもしれません。
結果は良くないことになると思います。


恋人同士でも知らないことを知っていると思い込んでいれば、お互いがぶつかって、互いのわがままに思えるでしょう。
上手く行かずに別れてしまうかもしれません。


家族の場合もそれぞれが「私が一番大変だ」と思い込んだりしていると、やさしさが薄れてくるかもしれません。


互いに理解しあうということは、その方の事を知ることからだと思います。
相手に自分を知ってもらうのではなく、自分自身が相手を知って初めて、やさしさや思いやりの想いが素直に出せるんだと私は考えています。


そしてお互いが解り合えて、お互いを活かし合う関係になるのだと考えています。


生きていく中で、周りの人に活かされ活かしという構図が昔から続いていたように、人間は集団で生活してきました。


技術革新によって便利になりましたが、どの機械やシステムも使うのはアナログな人間で、そして今でも人間は集団で生きています。
活かし活かされという構図は現在も変わってないと断言できると思います。


私は周りの人と活かし活かされるよう、物事や人間について知ることが出来るように
まず、自分自身がどれほど無知なのかを知ることに努めようと思います。


そして周りの人に活かされていることを意識して、周りの方を知る努力をしようと思います。

良い結果を招く自我と、良くない結果を招く自我があると思いますが
今回は障害となる、良くない結果を招く自我のことを書いて見たいと思います。


私は幼い頃、自分の中の小さな小さな世界の中で生きていたように思います。
多分大勢の方が、自分の家族の中で生きてきたわけですから、ほとんどの方が当てはまると思います。
その中で、私は親や兄弟や親戚と対立をしてしまいました。
簡単にいうと、グレてしまったんです。


それからというもの、皆さんが良かれと思って意見や忠告してくださっていることを、自分にとって障害だと勘違いしていたんです。
自分でやらないと判らなかったんでしょうね。


ですから、自分のしたいこと意外は受け付けないし、皆さんが教えてくれることに関しては聞く耳どころか、全てに反発していました。

こういうことが自我だということにも気づきませんでした。
そして、今思うととても子供だったんだなぁって思っています。


結果、上手く行かない事ばかりで、かえって遠回りしていました。


今思えば、皆さん私に期待するところがあるから意見するわけで、期待していなかったら意見や忠告どころか、口も聞いてくれてないかもしれません。
期待されているということは、やってほしいことがあったということだと思います。
また、出来るからこそ期待されていたのだと思います。


現在でも自分がやってみたいと思うことと、やりたいと思わないことの差があるくらいで、自分が如何に了見が狭い人間だなぁと思うこともしばしばです。


物事には責任があると考えています。
社会の中でもそれぞれ一定の責任を負って生活しています。


自分の責任で何とかなるものとならないものがあります。
子供だった自分は、そのことも知らずに、沢山の大切な方に迷惑を掛けてきました。


今までの経験から、意識しなければと考えていることは、周りの方や社会の役に立てること、また、周囲の方からの忠告に対して、誠実に受け止める努力をすることです。


両親には感謝しても、感謝しても、いくらしても、しきれない程、大変お世話になりました。
でも、親にはとても心配掛けました。


高校2年の時に父親が他界し
一昨年の年末に母親が他界しました。


気づくのがいつも遅いのです。

親孝行はもう出来ません。


今、こうして周りの方と一緒に仕事させていただいて、両親に出来ないことを皆さんに対してすることで、生んでくれた母親や、厳格だった父親に対して存在価値を世の中に出せるのだと信じて取り組んでいます。


素直で誠実な人間であり続けられるように、今後も努力したいと思います。

自分に対して起こる全ての事柄について、全部必要なことだと思っています。


それは失恋や大事な物をなくしたりすることや、昇進したり収入が上がったりすることなど、よい印象を持てるものも、悪い印象を持つものも全てに当てはまると考えています。


私の趣味のひとつに「水草水槽」があります。


熱帯魚飼育されている方であれば判ると思いますが、水草水槽はとてもメンテナンスや手間がかかり、大変な労力を要します。


例えば水草が枯れたり、溶けたりして見栄えが悪くなったり、魚が次々と死んでしまったら、大変ショックを受けてがっかりするでしょう。

でも、それは自分にとって必要なことなんだと思うんです。
なぜならその水槽をメンテナンスしていたのは自分だからです。
つまり、良かれと思ってメンテナンスしていることが、水質悪化や光量不足、温度設定が悪かったり、栄養素不足といった現状を生み、その結果、魚が死んだり葉が溶けたりするということなんです。


逆に、水草は環境を整えてあげれば見る見る内に下の植物に光が当らなくなるくらいに覆い茂ってきますし、新しく新芽や株を展開させます。


とうことは、今、自分がせっせとやっている方法が正しければ良い印象の結果が帰ってきて、正しくない方法だと良くない印象の結果になるということです。

しかも、悪い印象の結果の場合はその結果も大きくなっているような気がします。


部下を育てるのも、子供を育てるのも、恋人と仲良くしたりケンカしたりするのも、
また、仕事の結果も達成したい夢も、細かなことから大きなことまで当てはまる事だと思います。


物事の全てに原因と結果があり、自分自身に降りかかってくる事柄は自分がしたことの結果として返って来るのだと思います。
そのこと自体が悪いことや良い事という事は、感情的な印象で良いか悪いか判断するのではなく、原因はなんだったか?というプロセスが結果を生むということだと思います。


言い換えれば悪い印象の出来事や結果も自分自身にとって必要であり、大事な結果だということだと思います。
なぜなら、その結果から学んだり気づいたりすることで、良い方向へ転換できるからで、良い印象の出来事にこれから持っていくことが出来るからです。


失敗は成功の母とか、因果応報とか言いますが、こういうことなんだと私は理解しています。


水や二酸化炭素、酸素、温度、光量や栄養素など、周りの環境で生物個体は影響します。
それは動物や植物、地球環境にとっても同じことが言えると思います。


私たち人間にとっても同じ事だと考えています。


私は自分がしたことの結果が自分の周りの状況や環境を作っているということを肝に銘じ、
これからもプロセスと結果を意識して、物事に取り組んでいこうと思います。