吾唯知足(われただたるをしる)
釈迦如来の最後の教えとされる経典「遺教経」に書かれています。
また老子の根本思想でもあります。
京都竜安寺のつくばいにも刻まれています。
中央の水を張った「口」の字を重ねて、上下左右に足りない字の半分を刻み「吾唯知足」(われただたるをしる)と読みます。
その意味は、「足るを知る人は貧しいといえども即ち富めり」
つまり、足りている事をを知ってる人は貧しいとしても心は富み、足りている事を判らない人は富を得ても心は貧しい、ということだそうです。
この言葉に出会ったのは大学生の頃で、梵鐘(釣り鐘)を作る会社で借金を返すためアルバイトをしていた時でした。
社長さんから随分気に入られて、よくご自宅にお邪魔させていただいたのですが、そのご自宅の庭に吾唯知足のつくばいがあり、社長さんからお話を頂いたのがきっかけでした。
社長さんの運転手もさせていただいたりしていましたので、何度も何度もお聞きしていました。
当時はいろんなことが大変だったので、成功している方の考え方に興味があってすすんで聞いていました。
でも、本音は大きい家に住み、お手伝いさんがいて、高級外車に乗った成功者の考え方を盗んで、自分もお金持ちになってやろうといった考えからでした。
社長さんは私の本音を知ってか知らぬか判りませんが、よくこんな話を私にされました。
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幸せとは物や金などの物質的なものではなく、精神的なものだ。
幸せとは今の現状を満足と出来るかどうか。
やってきたことが自分自身の精一杯であれば、今現在を満足と出来るはずである。
自分を取り囲む状況や事象に左右されることなく、感じるもののひとつが幸せである。
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実際は上に書いたようなニュアンスで話されたわけではなく、ほとんどお説教に近かったんですが、要は欲しいと思うのではなく、精神修行をしなさいとご指導を受けていたんです。
当時は全然ピンときませんでしたが、今はなんとなくそうなんだろうなぁと思います。
私なりに今の解釈を書いてみますとこんな感じになります。
幸せになる為に何か具体的な物や結果が必要と考えていると、それが手に入った時は幸せと感じるかもしれませんが、それがずっと持続して行くとは考えにくいことだと思います。
手に入れた後、生きていく中、日々生活の中でその幸せ感は薄れていき、また新たな何かを探し始めることになるということです。
ということは、何かに依存する幸せであれば、その何かが失われると幸せではなくなるということになります。
つまり自分自身が出してきた結果や現状を、そのまま受け止めて相応だと認識することだと思います。
今ここに生きている事の意味を良く考えて、どう捉えるかが大事だとゆうことです。
社長さんにはこんな口癖がありました。
「有り難いなぁ」という言葉で、いつも何かに感謝されていました。
きっといつも「吾唯知足」の境地でいらっしゃったんだと思います。
お話いただき、お聞きしたことを全て理解できているとは思いませんが、その意味を、これからも日々の生活の中で理解するべく考えていこうと思います。
そして周りの方が「幸せだ」と感じていただけるよう精進したいと思います。