手前味噌~ビジネス・家族・子育て・経営・仲間・お客様・恋愛等から気づく法則~ -8ページ目

手前味噌~ビジネス・家族・子育て・経営・仲間・お客様・恋愛等から気づく法則~

経営や企業として、また、父親、夫として、あるいは上司、仲間として取り組んできた結果や経験から気づく事を週一回程度UPさせて頂きます。

お役に立てれば幸いです。

去年のクリスマスイヴは土曜日でした。


本当は休みなのに会社で徹夜してました。

寒いオフィスで、PCの前にいました。

でも今年は。


仕事してません。


少しずつ、前進してるんでしょうね。


毎日が勉強で、毎日がチャレンジです。


家の水槽の手入れをしていました。

あと、年賀状の準備も。


去年より少し早く、年賀状も手配できました。

去年よりもたくさんの仲間に年賀状を送ることが出来ます。


皆さん、ありがとう。


来年のクリスマスイヴは、何をしてるんでしょうか?

今年より前進していますように☆


皆さんは去年より、今年のクリスマスイヴはよいものになりましたか?


私は皆さんに活かされて、とても感謝しています。


ありがとう。

皆さんの周りの方で、口うるさいなぁと思う方や、厳しく指摘や指導される方がきっといると思います。

私は今まで、恩師的な方とのやり取りをいくつか書いてきましたが、もう一人、強烈な個性を持たれた恩師がいます。


年齢は恐らく70歳前くらいで、いい感じのおじいちゃんなんですが、國本さんという方です。

その方は経営顧問という形で、週に3日程度会社にいらっしゃってました。

法務を中心に、下請法や労基法、会社法の視点から指導をされる方でした。


私は当時、現場を持ちながら約80名程の社員を管理していました。
当然、新しい案件の契約や検収が毎月都度出てきます。

書類を精査し、契約書等を確認した上で社印や割り印をお願いしに行くんですが、顧問の國本さんが最終チェックされます。


それが通らないんです、なかなか(汗)


1回で書類が通るようになったのは、3年くらい國本さんとやり取りをしてからだったですね。


最初の頃は、書類を提出しただけでした。
すると内線がかかってきて、國本さんから呼び出されます。
契約の内容と契約に至るまでの経緯の説明を求められます。
そこから説明させていただくのですが、最低15分、長ければ1時間程度は拘束されてました。

それから何度もチェックが入り、細かなところまで説明を求められました。


私も学習してきて、國本さんからチェックが入りそうな部分を別ドキュメントをつけて提出するようになりました。
すると、厳しく「こんなことに時間を使うな!」と厳しく指導されました。


その後は、メモをつけて提出するようになったんですが、返ってきた書類には赤鉛筆でびっしりとチェックが入り真っ赤になっている状態でした。


繰り返しチェックされ、押印まで時間が凄くかかっていましたが、ある時点からすんなり通るようになってきました。


なぜかなぁと思い、國本さんに聞いてみたんです。

すると、こんな答えが返ってきました。


「今まで私は君を試していたんだよ、よくこらえて頑張って覚えてくれたなぁ。これで、大体のことには応用が利くから、これからは自分の責任において、契約書を作りなさい」


とっても嬉しくて、大きい声で「ありがとうございますっ!」と言ったのを覚えています。


今、思えば國本さんのチェックがあったからこそ、今自分が経営的な立場で仕事をさせていただいてるのだと思えますし、感謝しています。


戦時中のお話や、長年勤められた会社のお話など、いろいろお聞きしましたが、楽しくお話を聞いていたことよりも、厳しく指導していただいたことが今となってはやっぱり重要だったんだと思います。


労基法、商法、会社法なども知識が上がりましたし、なにより、國本さんに突っ込まれないようにと負けん気から独学で勉強をしたことも大きな要素だと思います。


國本さんは凄い方だなぁと、しみじみ思ってしまいます。


なぜかというと、私という人間をどう扱えば伸びるかということをイメージして、ご指導してくださっていたと思うんです。

それは、誰でも出来ることではありませんし、また、親身になって人のことを考えられていて、真剣にお付き合いされているからに他なりません。


お会いしなくなってから3年ほどが経っています。

昔の仲間から大阪で経営顧問をしてらっしゃると聞いております。


及ばずながら今私は、國本さんから教わったことを皆さんへ伝えていこうと頑張っています。


この場で御礼を申し上げます。

國本さん、本当にお世話になりました。
ありがとうございました。


これからも自分に厳しく、取り組んでまいります。


リクナビNEXTのスカウトメールを前支店長から頂いたのが社員の皆さんとの出会いの始まりでした。
その当時、私は前職の会社で経営陣の一人だったんですが、経営陣間でお金のことでもめていました。
使途不明金などがかなりの額であり、不透明な会社でした。


若いときから独立心が大変強かった私は大学の時起業して失敗し、また、個人事業主として仕事をしたりと、とてもこだわっていた様に思います。


でも、お金のことでもめたりするのがとても嫌で、透明な経営をしている会社はないのか?透明な経営は出来ないのか?と自問自答し、失望しかけていた時でした。


当時、スカウトメールは沢山頂いていて、その中で2社内定を貰っていました。
国内大手と海外大手のSI会社で、もう自分が経営陣となり、社員の皆さんに働きやすい環境を提供することや、新しい技術研究開発、新しい事業体の創造などはあきらめかけいて関西を離れ、東京で会社員として、やっていこうと思っていた時でした。


前支店長からのスカウトメール自体は別段取り立てて、特別なことがあったわけではなかったのですが、会社のホームページを見て、興味が沸いてきました。


ソフトウェア開発会社は大抵、本社が東京か名古屋や大阪と、大都市にあるのが通常だと認識してましたが、石川県に本社を置いて、東京、名古屋と支店を出すというところが新鮮に思えたのです。
また、スカウトメールの内容は「大阪支店を立ち上げるので、来ていただけませんか」というものでした。


眉唾だったんですが、時間を調整して訪問することにしました。


当日、面接に行くとホームページに掲載されていた社長自らが面接に出てこられて「ウチに来てもらえませんか」と、5分と経たぬうちに言われました。


それから1ヶ月程考えて、入社することとしたのです。
自分が何が出来るかという保障はないですが、もう一度やってみようと思えたのは、つまるところ社長のお人柄でした。


入社当日、社に出社すると責任者は休んでいて、総務の方だけがいらっしゃいました。
自己紹介してPCのセッティングをしていると社長がこられました。


私はびっくりしました。

わざわざ金沢から私のために説明に出向いていただいたのです。


それで、いろいろな会社の動きを端的に話していただいて、15時くらいに本社へ戻られました。


ここまでの一連の出来事で社長の考え方が少し判ったような気がして「やっぱり社長の側で仕事が出来たら面白いだろうなぁ」と思い、仕事に取り組みました。


しかし、大阪の立ち上げは簡単にはいきませんでした。


前支店長の立てた事業計画は利益計画・売上計画が何の脈絡もなく、あてずっぽうでした。
当然の事ながら達成すること叶わず、あっという間に4千万の累積損益が出来上がりました。
つまり借金を抱えたことになったのです。


経営計画そのものを見直し、戦略を立てました。
その損益を黒字化するために採用スピードを上げることにしたのです。
通常、社員を採用をすると経費がかさみ、悪化すると判断される方も多いと思いますが、ウチの会社は開発を行う会社で、開発をするのは社員です。
開発出来る体制がないと仕事を請けられないし、営業も出来ないからです。


Web募集媒体の原稿を何度もブラッシュアップして、スカウトメールの内容を吟味して、何度も書き直し、ラブレターのようにその人に来て欲しいということを伝えるため1通1通メールを書きました。

何通スカウトメールを出したのか覚えてないくらいです。


面接にこられた今の社員の皆さんにもきちんと説明が出来ませんでした。
大阪の開発実績が無いために事業内容の説明もおぼつかない状況だったからです。
でも会社の透明度や雰囲気、社長の人柄だけでも伝えて、将来こうする、こんな体制にするとビジョンをお話しするしかないと思い、1人につき1時間から長い人には2時間30分くらい話をしたこともありました。


その思いをいろいろな感じ方をしていただき、受け取っていただいた方が入社してこられて、初期メンバーとなり、あっという間に今の65名の仲間が出来ました。
スタートは3名の体制で、1年と11ヶ月で65名の方と一緒に仕事をさせていただけるようになったんです。
こんなに嬉しくて、心強いことはありません。
全ては社長との出会いがあり、皆さんとの出会いがあり、そして、社長の想いを皆さんが感じ取ってくれたからだと思っています。


社長に出会わなければ皆さんと共に夢を追いかけることはしていないでしょうし、また、社員の方の結婚式に出席させて頂き、スピーチを失敗することもなかったでしょう。
飲み会で帰れなくなって、サウナでごろ寝することもなかったでしょうね。


そして、利益も2年目とは思えないくらい、成長率でみると220%ですから皆さんのパワーと想いは凄まじいものを感じます。


社長は社長で、前社長から社長職を任命された時、倒産寸前だったと当時、よくお話をされていました。


家を抵当にお金を工面して運転資金にしたことや、社員に賞与が払えず、一人一人に頭を下げて謝ったという話、断腸の思いで、功労者である年長の先輩をリストラしたことなど、今までの歴史をお聞きしてきました。


関西の事業所はこれからも大阪と神戸とで膨らみ、社長のように関西はこれから苦労をして、皆さんと共に新しい歴史を作っていくのだと思います。


それは、皆さんとお会いして、仲間として一緒に仕事をしていくから私たちだけのドラマが出来ると思うんです。


皆さんはこれから自分が主役のドラマを作っていく立場になっていかれるのですから、いろいろな経験をして、苦労して、歴史を刻んで行くこととなると思います。


皆さんが面接をして、考えを伝えてビジョンを伝えていく側になってくると思います。
こうして出会いの機会がつながっていくのだと思います。
そして、とても大切で深いものだと思っています。


今までに無い、辞める社員がいない、社員の皆さんの家族を守れる、透明でやりがいのある会社作りを、これからも皆さんと一緒にやって行きたいと熱望しています。


私は会社に嫌いな人は1人もいません。
ですから会社に来るのが楽しみで仕方ありません。
仕事をするのも楽しいです。


家族と同様、とても大切な人たちだからです。

皆さんは成人式を迎えられて何年か経って、もうすっかり大人になられていると思います。
その状況の中で、今、自分を本気で叱ってくれる人は周りにいらっしゃいますか?


私は本気で言い合ったり叱ってくれる人が、自分のことを本当に想ってくれる人だと思います。

当然両親や親族なんかもその中に入ってくると思いますが、他人でそうしてくれる人が自分にとって大切な方だと思うのです。


私の中学生の頃こんなことがありました。


私は当時、いろいろな家庭環境や自分自身の甘さから、反抗的で攻撃的でした。
多分自己主張だったんだと思うんですが、子供でした。


でも、周りの先生や同級生はそんな私に関わることなく傍観していたんですね。

例えば、くわえタバコをしながら校舎を歩いても、誰も注意してこなかったんです。
今考えてみると先生にも完全にあきらめられていたんだと思います。
どうしようもなかった時代です。


中学2年生の頃、担任の先生が絵に書いたような真面目な先生で、社会担当の先生でした。

牛乳瓶の底の様なレンズの黒ぶちめがねに、定規で引いたような七三分け、グレーのスラックスにどこのメーカーか判らないランニングシューズ、棒ネクタイにニットのいベストというような、マンガに描いたような代表的な先生でした。


ある日いつものようにくわえタバコで歩いていたら、その先生に髪を掴まれて、凄い剣幕で怒鳴られました。
当然私も反撃をしようとしたんですが、その時に先生はこう言いました。


「お前の目は他の奴と違って腐ってない、まだ活きているから言ってるんだ」


その言葉がとても意外性があり、重く感じて、反撃をすることをやめました。

そして、職員室に連れて行かれていろいろ話をされました。

その中で先生は真剣な顔で睨みつけるように私に言いました。


「約束をしてほしい、どんな事があっても自分がやらなければいけないことから逃げるな」


そして、一発思い切り殴らせろと言われました。
その先生の言うことを受け入れて、殴られることにしました。
目から火が出るくらい、脳が揺れるくらい殴られました。


「このことを絶対に忘れないで欲しい」

と先生は言って、職員室を後にしたのです。


それから色々な経験をして、大学卒業後、東京で働いていました。


お正月に実家へ帰ってきて、大丸に何かを買いに行ったときです。

後ろから声を掛けられました。


「○○君じゃないですか?」

後ろに振り返ると、少し白髪混じで歳をとった、七三分けのその先生がいました。


私の中学の時とその時の身なりを見て「立派になったなぁ」って凄い喜んでくれていました。

立ち話だったんですが、今の仕事は何とか、どこに住んでるとかいろいろ聞かれて、聞かれたことに答えていました。


「あのお前がなぁ、よかったなぁ、頑張ってるんやなぁ」

と何度も何度もうなづいて、少し目が潤んでいたように見えました。


「お前がそんなことできるようになったんか?」
とびっくりもされていました。


百貨店の売り場だったんで、照れくさくなりそそくさと移動したんですが、ついてきて、色々お話をされてきました。


その中で心に残ったことがあります。
それは、こういうお話でした。


「担任してた頃、お前を殴ったやろ。あの時、先生、凄い怖かってなぁ。でも、お前を信じてやったことやし、許してくれな。」


先生は私を怖いと思っていたのに、正面からぶつかってくれたんだと初めて知りました。
また、そのことを悪かったと思っていたことも判りました。
そして、とても嬉しく、暖かい気持ちになれました。


私はそのあと御礼を言って、その場を離れましたが、先生は本当に嬉しそうな顔で、目を細めて私を見ていたのを覚えています。


本当に向き合って叱ってくれる人は実は凄く自分のことを想ってくれていて、何年たっても心配してくれていたことに感動しました。


今、私は会社の皆さんや周りの人によく、こう言っています。


「言ってあげないほうが不親切だ」


これからもその人のことを想い、言いたくないことも言える様に、自分自身に対し叱ってくれた人の真意を汲み取りたいと思います。


また、自分が周りの方に数年後、感動をしていただけるよう、煙たがられても必要なことは伝えようと思います。


大切な方に感謝を忘れないように生きて行きたいと思います。

私はDVDで映画をよく見ます。


SFやパニック系とかシリアス系、恋愛物など幅広く見るんですが、戦争物や事件物の実際にあった事が映画になっているものを見るととても感動してしまいます。


でも感動といっても様々で、どちらかというと切ない気持ちになるものや、ワクワクして手に汗握るもの、またハラハラしてしまうものまで様々です。


映画の中で戦争や事件が好きなのではありません。
その出来事に関わる人たちの思いや背景、人間のドラマが見え隠れするところが好きで、またその人に関わる家族や周りの仲間の想いが伝わってくるんです。


いくつか映画を見た中で、印象に残った映画を書いてみたいと思います。
でも、すごい有名なものは今回控えておきます。


知らない人もいると思いますが、日本映画で「226」というのがあります。
これは1936年(昭和11年)2月26日から29日の4日間に間に起こったクーデター事件で、二・二六事件を時代背景や事実に基づいて作られた映画でした。

内容は陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて内閣の大臣を暗殺しようとするのですが失敗に終わり、将校は全員処刑されます。


青年将校の中には昇進試験を受けて結果待ちの将校もいましたし、奥さんが風邪を患っていて心配をしていた将校もいました。
また、新婚の将校や雛祭の準備をしたあと家を出て、そのまま家に帰れなかった将校もいました。


それぞれ時代背景によって理由はあるのですが、皆、自分の家族のため、国民のために未来の日本を憂いで起こした事件だったんでしょうね。


映画の後半、投降を呼びかけられ、最後には天皇陛下からの勅命が下り、義勇軍だと思っていたのがたちまち反乱軍となってしまいます。
そのあと内部で言い争いが起こり決裂しそうになります。
そして兵を軍に帰すのですが、兵を投降させるときに青年将校達が言ったセリフが強烈に印象に残っています。


栗原安秀中尉「我々がしたことが正しかったと、いつか時代が証明してくれる」


安藤輝三大尉「昭和維新断行の歌を歌いながら、胸を張って部隊へ戻ってくれ」


二人とも死を覚悟していたんですが、自分達の責任で、ついてきてくれた兵には、自分達がしたことは間違ってないから自信を持てと言いたかったんだろうと思います。


結果、時代は証明してくれました。
財閥は解体され、貴族が政治には関与できなくなりました。


しかし、皮肉なことに事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将レベルの多くが関与していたと思われるのですが“血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した”という形で世に公表され、事件は幕を引くこととなります。


この事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなって行きます。
そして、第二次世界大戦へと進んでいってしまったようです。


でも、命をかけて取り組んだ事が、後に証明されたということが
きっと遺族の方達には誇りに思えたことでしょう。


今、時代は平和になり、物理的飽和時代となっています。
それは、過去の方々が作ってきていただいたものに他なりません。


今の日本や世界にとって道を築いて頂いた方達を想って、自分が未来の子孫に何を残せるのかということに重きを置きたいと思います。


自身の志が自分の周りの方々や家族にとって悲しい結末にならぬよう、皆さんのことを想って、これからも十分に考え相談しながら、そして実行したいと思います。


【部分引用】
フリー百科事典『ウィキペディア』