交通事故は起こそうとして事故が起きるのではなく、起きるべくして事故は起きるのである。


見晴らしのよい畑の真ん中で、先程、自動車同士の衝突事故があった。


鹿屋警察署の検分があり、修理工場から事故車搬送のトラックがきて、ようやく一件落着したが、高台の見晴らしのよい畑の真ん中での事故である。


出会いがしらの事故のようで、一台は車体のドアがへこみ、もう一台は、バンパーが逆Ⅴ字型に曲がって走行不能といった状況であった。


この暑さと疲れで、確認しないで、あるいは確認したつもりで、ふらっと優先道路に侵入したのだろう。

「見れども見えず、聞けども聞こえず」ということ、ありますよね。

そのような経験ありませんか。



昨夜は、鹿屋市内の料理屋「千成」で送別会があった。


理事長が設営してくれたのだが、何時ものように勤務終了後、「大谷洞」でゆっくり風呂に入り、何時もの居酒屋「樹康」で食事をしようと、7時過ぎに自動車に乗ったら「送別会ですよ」のメールが携帯に入っていた。


今月はじめにそのことは聞いていたのだが、その後、何の動きもないので、「中止」かなと勝手に決め込んで、風呂に入っていた。


12~3人の顔ぶれであったが、待たせてしまい「失礼」をした。


今夜は、医療法人池田病院の事務長から声をかけられているので、私の台所である「樹康」で会うことにした。

彼は、高知から鹿屋に単身赴任して、もう3年になるという。実務派で、手堅く事務長を務めている。


目が覚めて、NHK/TVの深夜放送をよく見る。

深夜放送は「再放送」番組が多くて、内容のあるものが多いように思う。


昨夜放送の「こころの時代」も再放送であったが、お名前は記憶していないが、「歎異抄」について語られた方の言葉にハッとした。


「ブッシュが悪い」ということを言えるのは「私の中にもブッシュがいるからだ」といった趣旨のことを発言されたのです。


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米国は、9・11事件をきっかけに「イラク戦争」に踏み切った。


9・11事件直後、米国聖公会の主教は、「このテロ事件によって報復があってはいけない、報復からは平和は生まれない」という趣旨のメッセージを発信したが、世論の中にかき消されてしまった。


米国における国内の矛盾と葛藤はいまも続いている。


それは日本の国内においても同時進行で「イラク戦争」と係っている。


「コソボ紛争」にしても「ヒロシマ」にしても、あるいは中国、朝鮮で犯した日本の行為についても、加害者と被害者の立場で、心情は全く異なる。


日本人が、広島と長崎の原爆投下を心から許しているとは思えない。

また、東京はじめ全国の都市が無差別に絨毯爆撃されたことも決して忘れることはないであろう。


しかし、「平和」であるとは、人間一人ひとりが持つ「矛盾」を抱えながら、許しあって生きていくしかないのではないか。


戦後60年、「戦争のない時代」を幸運にも生きてきた世代の一人として、そのように考えるのである。



立教大学在学中、池袋のボロアパートに住み、朝早く立教大学構内をよく散歩していた。


外人教授の住む洋風建築が並ぶキャンパス西端から、ほぼ中央に位置するチャペルに向かって、プラタナスの道があった。


この並木道で、朝の礼拝に出かける、立教学院のチャプレンで、「鉄神父」というニックネームの、竹田鉄三司祭とすれちがうことがあった。


「鉄神父」は俳句をよくし、後年「鉄神父俳句集」が出版された。

また、軽妙な随筆を書き、礼拝での「説教」は短い方が良いというのが、彼の信条であった。


ある朝、呼び止められて、

「この間、奈良を旅行してきたのだが、君のような顔をしていた人が田んぼ道を歩いていた・・・。その時にできた句だけどね・・・」

『春風や埴輪のような人の顔』

と言って立ち去った。


四国の田舎から出てきたばかりの私は、口を開けてボンヤリ歩いていたのだろう。



灰田勝彦のヒット曲で、「鈴懸の径」という歌がある。


友と語らん 鈴懸の径

通いなれたる 学校の街

やさしの小鈴 葉かげに鳴れば

夢はかえるよ 鈴懸の径


灰田勝彦は学生時代、立教大学のグリークラブに所属していた。

昭和57年11月3日に立教大学キャンパスで行われた「鈴懸の径」碑、除幕式を待たず、10月26日に半蔵門病院で死去した。

灰田勝彦は、ホノルル生まれの日系二世であったが、親友だった別所毅彦氏は「彼は、ハワイ生まれの江戸っ子だった」という名コメントを残した。


この曲は、海外では「スシ」という曲名で売り出された。

後年、坂本九の「上を向いて歩こう」が「スキヤキ」になったことを思うと興味のあることだ。


「鈴懸」は、プラタナスのことで、鈴のような実をつけることから「鈴懸の木」と呼ばれている。

立教大学キャンパスには、私も4年間歩いていた「プラタナスの並木道」がある。

「通いなれたる学校の街」は、池袋のことであろう。


この曲が流れると、私もまた、学生時代を思い出すのである。



連れ合いの母親の病名である。


さらに、「肺繊維症」であるという。


なんだか難しい病名で、高齢になればいくらでも病気や不具合は見つかると思うよ・・・。

あまり神経質に弄繰り回さんようにしたほうが良いのでは・・・と思うのですが。


まあ、本人が気が済む程度に、診察・治療を受けるということでしょうね。



現代の若者にとって、未来は「希望」というよりも、「不確か」なものとして捉えられているのではないでしょうか。


京懐石の名門料亭に就職しても、一流調理師になることが約束されているわけではありません。


大学の研究室に通って、大学院に進学しても、その先に何が約束されているのでしょうか・・・・。

不確かです。


しかし、何時の時代でも、どの世代でも、「夢」をもち、「目標」を持つことにより、生きていけるのだと思います。


子供たちが、元気で、将来への夢を持ち続けるように願っています。



一言でいえば、「気配りのできたサービス」と「無駄のない効率的な経営」が実践されている施設が、生き残っていくであろう。


これからの介護福祉施設では、「サービス精神」だけでなく、「経営のセンス」が必要である。


事業継続のためには、働く人の介護福祉サービスに対する「意識変革」が求められている。







「後方病院プロジェクト」の課題解決は、高齢者医療福祉施設の建設だと考えている。


本質的な課題は、3か月過ぎても退院できない患者を、「後方」の病院に転院させるという、医療事務処理的な発想ではないはずである。

また、閉鎖を考えている不振病院の買収によって「後方病院」を用意し、患者の移動を図るといったことでもないはずである。


病院に入院患者が溢れ、救急患者を受け入れることができない状況がどこに起因するのか、背景を考えるならば、少子高齢化の社会をぬきに論じることはできない。


また、病院の「将来像」を描くことなく、この課題を論じることはできない。


医師中心の考え方で急性期病院を目指し、高齢者医療福祉を軽んじる風潮の病院では、ピントの狂った対応となり、何時までも問題解決のできない状況が続くのである。







桐生に本社をおく、株式会社メディスコーポレーションが、首都圏に、13の「介護付有料老人ホーム」、2つの「ケア対応型高齢者住宅」、一つの「住宅型有料老人ホーム」を展開している。


これらを総称して「スマイリングホーム」と称している。


今後、首都圏に急増する高齢者を対象にした、都市型高齢者介護福祉のビジネスモデルである。


メディスコーポレーションの社長は、医療法人宏愛会「篠原病院」の院長婦人で、病院経営も担当している。


この医療福祉事業の経営方式は注目すべきだ。

民間が指標とすべき、これからの都市型医療福祉経営のモデルだと考えている。