東京都中央区のはじめてのグループホーム「相生の里」は、正式名称を「認知症高齢者グループホーム等複合施設」という。


2005年10月1日にオープンするが、中央区が施設の所有者となり、PFI事業者へ施設を貸与して、PFI事業者が事業運営を行う。


この「PFI事業者」が、「中央区佃高齢者介護福祉サービス株式会社」である。

( 所在地、中央区日本橋3-3-9。代表取締役社長、林 雅樹 )

中央区のグループホームを、株式会社が施設の維持管理と共に運営にあたる。


施設で行うサービスは、

入所施設

1.認知症高齢者グループホーム 18名(9名×2ユニット)

2.ケアハウス 80名(8名×10ユニット)

通所施設

1.高齢者在宅サービスセンター 30名

2.ケアプラザ(筋力向上トレーニング)


「公設民営」の、この高齢者介護福祉サービス事業のこれからを注目したい。


2004年9月1日から2005年8月31日までの1年間を総括する。


2004年6月30日付で、40年間勤続した聖路加国際病院を退職した。

「ラ・ヴェール明石町」603号室を、退職後の活動拠点とするために、7月に、埼玉県川越市から東京都中央区明石町に引っ越してきた。


そして、9月から1年間、社会福祉法人「恵仁会」法人事務局長として、鹿児島県鹿屋市での勤務がはじまった。


高齢者介護福祉事業の現場は初めてのことであり、新しい経験をすることができた。

医療と福祉の違い、東京と地方の違いを実感できた。


このことは、「NPO法人ヘルスケアフォーラム」の活動を展開する上で、貴重な体験となった。

高齢者医療福祉を中心にした「地域ケア」がこれからの課題となる。

都市と地方の地域差はあるが、高齢者医療福祉サービスは共通の課題である。


東京都中央区でも、はじめてのグループホーム、「相生の里」が10月にオープンする。





居酒屋「樹康」で飲んでいたら娘からメールが入りました。

「(夏休みは)もっぱら富士山にいました。大学院の試験も一応終わって、今はまた御茶ノ水の研究所通いです。」


8月13日に、「元気ですか?」とメールを出していたのですが、その返事です。


「9月7日に会いませんか?ご連絡下さい。」

と、息子にも同じ日にメールを出したのですが、まだ返事がありません。


「仕事でへばってます。今は、仕事に集中しようと思います。なかなか会いにいけませんが、休みは水曜日になりました。」ということだったので、9月第1週の水曜日に会えるのではと思いメールを出したのです。


多分、9月には、息子と「再会」できるでしょう。

不思議なほど気持ちが落ち着いています。




5人兄弟である。

この年になると、何があってもおかしくない。


長女は、故郷の、愛媛県大洲市長浜町出海に住んでいて健在である。

教育委員長にまで出世した夫の遺族年金があり、経済的には豊かだが、子供たちが村を出たので、一人嫁ぎ先の家を守っている。

血液はO型、性格は大らかである。


長男は、住友千葉化学で働いていたが、定年を前にして亡くなった。

暑い夏であった。

急逝の知らせを受けて、千葉県市川市の自宅にかけつけたが、嫁さんは丁度大阪に出かけて不在で、長男が一人待っていた。


次男は「みかん農家」を引き継ぎ、金にならない重労働を厭わず、元気で働いている。

「愛媛県果樹試験場」で勉強した根っからの「百姓」である。

子供たちがみんな村を出て、跡を継ぐべき長男も東京で就職し、嫁さんと二人で家業を守っている。


弟は、子供のいない親戚の養子となったが、千葉県松戸市で「学習塾」経営に取り組んでいる。

愛媛県に帰郷することはないだろう。

養子先の墓守は、いきおい兄が面倒をみることになった。

弟は戦後生まれ、いわゆる「団塊の世代」で、人生を闘って生きているといった感じである。


私は、農家の3男坊、家に縛られることもなく、自由に自分の生きたいように生きれる身分である。

中学時代から大学時代にかけて、みかん農家は潤った時代で、四国の田舎から東京の大学に進学させてもらえた。

もっとも、大学在学中の4年間、親父は好きな酒を絶ったということをあとで知った。




生きている間は「NPO法人ヘルスケアフォーラム」という組織を舞台にして活動する。

そのためには、「東京都中央区」という地の利を生かして、研究会・セミナーを定期的に開催し、

また、講演等の要請があれば日本全国どこにでも出張する。


病気になれば、歩いて5分の「聖路加病院」で受診し、退院後は居住しているビルの2・3・4階にある「介護老人保健施設・リハポート明石」に一時入所し、寝たきりになれば、1階の「在宅介護支援センター」に相談して、「訪問看護ステーション」の支援を受ける。


死んだら、聖路加礼拝堂の多摩墓地に埋葬をお願いする。


ここまで用意周到に考えたとしても、人生ままならず、計画どうりにはいかない。

「ケセラセラ」、なるようになる・・・・のである。





「シアトル敬老ホーム」の理事のお一人に、木村光子さんという方がいる。

私の母の従兄弟、木村範明さんと結婚して、現在、娘と孫と一緒にシアトルに住んでいる。


範明さんが亡くなられて20数年になるだろうか・・・・。

光子さんは、夫の遺志を守って「シアトル敬老ホーム」運営のために尽力されてきた。

「シアトル敬老ホーム」は、もともと日系一世のために設立された老人ホームである。


先般、来日されたときに電話で長話をしたが、「死んだら、範明さんのお骨と一緒に、京都の菩提寺に埋葬してもらうことにしている」と語られ、木村家の「家紋」を尋ねられた。


光子さんにとって、一番心が休まるのは、両親はじめ先祖の眠る、日本の「菩提寺」なのであろう。


名古屋の池本社長から電話が入った。


親しくしていた知人の未亡人で、87歳のTさんが三鷹市に一人住んでいて、「終の棲家」を探しているので、会って話を聞いてほしいということである。


息子さんと娘さんとがいるのだが、世話になりたくないといっているとのことです。


現在住んでいる住宅を売却して、「老人ホーム」のような施設に入所したいとのことです。


病気になったとき、寝たきりになったときのこともご心配のようです。


息子や娘の世話になりたくないというのは、贅沢なことですね。

死んだときのことを考えると、最後は、子供たちの世話になるのではないかと思うのですが・・・・。


ベストな答えを出さなければなりませんが、9月になったら、東京新阪急ホテルでお会いすることになりました。




大学生時代、夏休みは連日、雨の日も、「ヤス」をもって伊予灘を潜っていた。


水中眼鏡をつけて海に潜り、ヤスで魚を突いたり、サザエや鮑を採っていたのである。

いわゆる「素潜り」である。


それが4年間続いたのであるが、村の人も呆れたようである。


今あらためて考えると、四国の田舎から東京に出て、都会生活に疲れ果て、そのストレスを海に潜って癒していたのだと思う。



いま住んでいる「ラ・ヴェール明石町」の居住者を対象にした「公開セミナー」を開催した。


「病気になったらどうする、寝たきりになったらどうする」というタイトルで、私が話題を提供したのであるが、18人の方々が参加された。


NPO法人ヘルスケアフォーラムが、市民を対象にした初めての企画であった。


また時期を見て「第2回公開セミナー」を開催したいと考えている。





「日本病院会」の研究会委員時代、三井記念病院、東京警察病院、武蔵野日赤病院、虎ノ門病院といった主要病院の方々との交流があった。


「委員会」と称して毎月集まり、研究会企画や情報交換をやっていたが、委員会が終わると、必ず「飲み会」に出かけた。

委員会も最後は「飲み会」が目的になっていたように思う。


随分、楽しませてもらったが、「飲み会」の席で、私のことを「大器晩成」と評価してくれた方がいた。


いまだにその言葉を忘れずに、「そうかもしれない」と勝手に思い込んで生きている。