ものとは、存在ではなく、現象なのだ。
・・・というのが、相対性理論〜量子力学の取る立場です。
いわゆる「在る」という概念を捨てましょう、という。
この世界は波でできてる、とこのブログは口すっぱく書き立ててます。
間違っちゃいけないのが、海面に立つ波や地震波や音波など、宇宙に存在する波は媒質でできてまして、ブログが言うところの波は、そんな媒質そのものまでを構成してます。
さざ波は水を伝わり、地震の揺れは地球を伝わり、声は空気を伝わりますが、最後の波(いわゆる波動)には、媒質がないのです。
波動は根源的なもので、「無の震え」と言い換えてもよく、実体のない不存在なのですが、我々の感覚器に理解できるように計測して数値化すると波みたいに振る舞うので、量子は波、ってことになってます・・・つか、してます。
その世界像は、完全に数学的なのです。
そんな空疎な関数同士が相互作用することで、いわゆる「もの」「粒」という現象になります。
エネルギーが質量化するわけです(E=mc2)。
したがって、「ものとは現象である」「ものとは存在ではなく相互作用の結果である」「相互作用の結果とは我々の感覚器に捉えることが可能な様式の解釈である」となります。
世界の実相は、究極的には無である、と量子力学は結論づけてるのです。
科学は煎じ詰めると哲学になりますが、果ては禅になっていきそうですね。

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ノーベル平和賞を、原爆被爆者さんたちのチームが受賞。
あまりにも政治的になっちゃったこの賞ですが、財団も世界をいい方向に持っていこうと知恵を絞ってるようです。
それにしても、ひとの命が安くなりましたね、わずかここ三年ばかりの間で。
過去のどの時代よりも、核爆弾のトリガーが軽くなってます。
今日か、明日か・・・あっちでか、それともこっちでか・・・あいつがいよいよか、はたまたこいつがついにか・・・?
もはやシリアスに、いつどこでぶっ放されるのか予断を許さなくなってます。
起きそうなことは必ず起きるんで、それが飛ぶのは時間の問題なんでしょう。
世界初(ではないが)ってのは、ひとたび結果を経験すると感覚が麻痺し、ハードルが段違いに低くなるんで、やがてはじゃんじゃんと飛び交う事態になるはずです。
冷戦時代のパラダイムに「一発撃たれたら千発やり返す」ってものがありますが、とにかくこの手のケンカは勝者なしの両成敗、双方が破滅するまでそれは撃ちつづけられます。
とにかく一発目を撃たないようにさせなきゃいけませんね。
ところで自民党のウルトラなレトリックで、「相手が撃ちそうな際にはこちらが先手を打って相手装置を破壊してもいい」という専守防衛のすごい解釈が発明されました。
未来予測に対応するわけですね、さすがAI時代の防衛。
するともうAIが人類を破滅に向かわせるトリガーを握ってるようなものです。
ゆだねます?どうすんの?人類。
今年はノーベル物理学賞までAIの工学系が獲っちゃいましたが、いったいどんな世界を望んだんでしょうね、アルフレッドは。
つくるひと〜 売るひと買うひと 使うひと〜 ありてぞ武器に ころさるるひと〜・・・
「ひと」がAIに置き換わらないように、最新の注意を払って見守っとかないと。

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ぼくは、トランプさんには合衆国大統領になってほしくないな〜、と考えるタイプの人間ですが、日本にも横暴容認派のひとが半分くらいはいるんですかね、びっくりさせられました。
それはさておき、日本国の総理大臣が決まったんでした。
むっつりとした、いい言い方をすれば「無骨」、悪い言い方だと「おもんない」、軍事オタクのひとになりましたね。
それでも、いや〜ギリギリ回避したな〜、ってのがぼくの感想です。
もう一方の超右翼思想のおばちゃんがこの国のトップになってたらどうなることか・・・
今回の自民党総裁選は、バイデンさん対トランプさんみたいな、言えば「どっちもいやだあ」的な究極の選択だったと思います。
それでも軍事オタク氏が勝利したのは、国会議員票が「超右翼カルトのおばちゃんにだけはこの国の行く末を委ねることはできない」と嫌悪を表明するに臆することがなかったためだと評価したいところです。
ひるがえって、おばちゃんを一位に押し上げた地方の自民党員の民度ってのは、いやはや・・・それってちゃんとわかってのことなの?
この人物は、「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」の三本柱を憲法から永遠に葬り去ろうと汗を流したあべ思想の追随者です。
これは悪口じゃなく、本人たちも誇りを持って進めてる大事業で、実際に自民党の改正憲法草案にはこのことが明示してあり、党のスポークスマンも「この基本原則三つはいらないんです!国民は自由を犠牲にして国の大方針に従うべき!」と叫んでるくらいなんでなんの秘密でもないんですが、自民党員って心底からそれを支持してんですね、やっと腑に落ちました、本当にそうしたいわけだ。
すごい、本当にすごいと思います、その意味をちゃんと理解してるのならね。
こいつらがバカだったら(つまり無知無学ゆえのおばちゃん応援なら)まだ日本(自民党か)にも救いがあると思うんですが、きちんと理解しての「国家(天皇?)主権、軍国主義、人権よりも国策優先」をやりたいのなら、なかなかの担力だと思いますよ、なにしろ彼らは真っ先に特攻隊員として飛び立ってくれるらしい(あるいは息子をそこに差し出すらしい)。
ぼくは、それはいやだなあ、と思うので、憲法改正については考える余地があっても、自民党主導のやつには絶対に反対です。
が、自民党員ははっきりと賛成なわけです。
というわけで、考えましょう。
そんな極右思想のおばちゃんが総理大臣にならなくてよかったと「ぼくは」感じてるのですが、みなさんもひとを選ぶときは、人物周辺のことを少しは調べてからにしてね。
あなたの判断は、本当にひどいことになる紙一重のやつかもしれないのですよ。
選挙がはやばやとありそうですが、きちんと澄んだ目を持ちましょ。
うっかりトランプさんに入れてみた、というひとが合衆国にいますが、その結果はそのひとの思い描くものだったんでしょうか?
ましてや、投票券をゴミ箱に捨てちゃうようなひとは、いったいどんなひどい世界を望んでるんでしょうね?

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ここ数週間で短い小説を何本か書いたんだけど、なんかうまくまとまらなくなったやつの出だし。
もったいないんで掲載します。

 ある細胞の独白

 きみはママの中にいた頃のことを覚えている?その前にパパの中にいた頃のことは?あの頃、きみはきみだった?きみはいつからきみになった?・・・へんな質問でごめん。だけど、生命はどの時点で親のものから自分のものになるんだろう?そもそもぼくって、本当にぼくなの?この体は親のものじゃなく、自分のものって言いきれる?
 今ぼくは記憶の底を探り、パパから放出されたときのことを思い出していたんだ。そのときのぼくは、はっきりとパパだった。パパの体でつくられ、「パパの一部」として分離されたんだから当然だ。そこから狭い道を通ってたどり着いた球体に飛び込むと、今度はママの情報が雪崩れ込んできた。ぼくはママになった。いや、パパとママが半々に入り混じった何者かになった。だけどそこに「ぼく」はいなかった。だってパパとママがくっついた細胞なんだから。ひとがひととしてつくられていく順序を知った今では、その細胞が実質のぼくだということは理屈でわかる。だけど納得はできない。それはぼくなんかじゃなかった。ママに器官でつながれ、ママの体と同化して、ママのパーツとしての自覚があり、その中にはパパとママの世界が詰まっていたんだから。だったら、ぼくはいつからぼくになったんだろう?
 深くさぐるうちに思い出してきた。ぼくはそのとき、無の空間を漂っていた。その闇が、ぼくがつくり上げた最初の世界だ。やがて時が満ち、裂け目を割ると、光が開いた。そのときの経験は鮮明なものだ。突如としてひろがったまばゆさの正体は、おびただしい素粒子の海だった。そのひとつひとつがまるでパズルのように合わさり、感覚器の働きで新たな世界が組み立てられていく。ある波長を持った素粒子を、視覚が青として受け止めた。また別の波長のものは赤として、また別のものは白として感じられた。これはぼくには新鮮だけど、パパとママが感じていたと同じものだ。ふたりはこうしてそれぞれの世界を自分の中につくっていたんだ。ぼくもまたここから・・・初期化された無から、自分なりの世界をつくっていくわけだ。
 不思議なことにぼくは「外に出た」とは感じなかった。「自分の内側に入った」という感動ばかりが沸き起こった。ぼく独自の多色多彩な世界が、ぼくの中に立ち上がっていく。目の前のひろがりが、奥行きが、さまざまな物体の運動が、感覚器に殺到してくる。ぼくはその情報を大急ぎで計算しまくり、素粒子たちの目まぐるしいぶつかり合いを風景として経験に落とし込んだ。そうして今いる病院の一室が、ぼくの印象世界として形づくられた。だけど・・・だけど、だ。それをしているのは、またしてもパパとママからの借りものの肉体なんだった。ぼくが相変わらずパパとママそのもの・・・控えめに言っても、ふたりの分身であるという事実は否めない。それでも彼と彼女の導くところによって、ぼくのオリジナル世界は詳細に、入念につくり込まれていった。
 両親からの借りものの肉体を通じて、ぼくは感じているようだった。最初の空気を吸い込むと、さまざまな素粒子の組み合わせが浸透してきて、すみずみにまで巡った。その反動で、内側からの炸裂が起きた。「おぎゃー!」・・・そのエネルギーの振幅は聴覚で音声に変換され、肉体の裏側にあるぼくの世界を揺さぶった。そうするうちに、後にママ本体と知ることになる人物に抱かれた。彼女を構成する素粒子の激しい振動が、触覚に温度として感じられた。素粒子同士は電磁力でお互いに反発し合っているようで、それが感覚器には弾力として伝わり、そこにはまるで物質があるかのような幻想を抱かせた。つまるところパパとママ混在のこの肉体は、波として飛び交う素粒子の相互作用を実体もどきとして捉え、ぼくの内的世界に像を立ち上げてくるようだった。
 抱かれたふくらみの先にあるぽっちをふくまされると、甘みと慈しみとに満たされた。素粒子が複雑に絡み合って化学的な反応を起こし、内部に染み渡っていく。力がみなぎる。そうしてエネルギーを得た肉体は、不意に能動的な動きを開始した。そのときの奇妙な、そして劇的な感動をどう表現したらいいものか。世界を動かせたんだ。自分の左右前方に配されたユニットが、ぼくの意思で操作できたんだ。五指のついたそのツールは・・・それは今思えば「手」だったが、ぼくがこう念ずるとこう動き、ああ意図すればああ動く・・・といった要領で操縦が利くことに気づいたんだ。
 ぼくはこの借りものの肉体の操作マニュアルを理解しはじめた。こいつ、動くぞ・・・と。そのとき、はたと思い至った。ぼくの中で世界を構築しているものの存在に。今まさにぼく自身をつくり上げているものの正体に。なんということだろう。ぼくは「ぼく」を見つけたんだ。パパとママから与えられた借りもののような肉体を観察しているものこそ、ぼくの自我だった。この瞬間、ぼくはぼくになった。

・・・頭が煮え立ってて、小難しくしちゃったな。
またいつか引っ張り出して、最後の秘密のオチまで描ききろうっと。

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「ラーメンを生きた状態にするにはどうすればいいか?」という生物学の問題がある。
すべてが天然(生命)由来のラーメンには、タンパク質も脂質もDNAも含まれてて、人間の組成とたいして変わらないし、環境的に塩分も水分もある。
ラーメンに命を与えるには、まずは小麦や、トリ、ブタに還元するって方法がある。
だけど麺の形に練り込まれた小麦の微粒子を、正確な細胞の配列に再構成するのは骨の折れる仕事だ。
その上、その細胞は生きてると言えるのか?パズルが完璧に組み上がったとしても果たして動いてくれるのか?って問題がある。
人間の死体のピースを組み上げてつくられたフランケンシュタイン氏の怪物は、落雷級の通電で動きはじめたけど、「生きた状態」とはそんな単純なものじゃない。
ところがラーメンは、ただ食べるだけで生きた状態を取り戻す。
ぼくらの中で。(これが解答)
まったく不思議なことだけど、自然とはそうしてできてるみたいだ。
有機物は(ある意味では気体や塩などの無機物も)、普段は死んだ状態に置かれてる。
ところがひとたびある流動体系の中に混じり合うと、生きて仕事をはじめる。
死んでないんだ、ラーメンは。
生命が巡ってるラインの中に「まだ」入っていないだけ。
いや、そもそも元からラインには入ってるのかも。
小麦が刈り取られて(死んで)パウダーになり、練り込まれて麺となり、ラーメン屋で茹でられてスープに投入され、人類の口に入ると機能を開始する。
それどころか、刈り取られずに畑に落ちたものも、微生物の中で生命を得、排出されて肥やしとなり、また小麦の根に取り込まれて振り出しに戻る。
この自然の循環系は、輪廻転生そのものだ。
・・・というラーメン問題でした。

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入れた分が出口を求めるのだよなあ。
十年ぶりくらいに小説を書いてるとこ。
インプットしたら、熟成させて、アウトプット。
たまに訪れる発作だ。
ここ数週間ほど文章を編んでみたら、病的に集中できて、出るわ出るわの大放出状態。
脳が沸騰するくらいに考え詰めて、だけど意外とサラサラと表現に転化できて、休みなく、淀みもなく、言葉を紡いでく作業が結構楽しい。
長いやつじゃなく、超短編ってところもいい。
で、ショートショート(原稿用紙十枚程度)の文学賞にでも応募してみっか、ってとこ。
以前はちょこちょこと書いて(長いの=百枚程度のやつ)応募して、たまに最終選考に残ったりしてたんだけど、いまだ受賞歴なし。
マンガでは新人賞荒らしだったのにね(スピリッツ賞で奨励賞と佳作、ヤンジャン新人賞で佳作二本、ジャンプ系の四コマ漫画賞で軽いの一本)、欲しいな文学賞。
だけど今や誰でもがスマホでライトな小説を書くらしく、応募作は1万点だと。
審査はやっぱAIなのかな?
しかしまあ、趣味は陶芸より「書くこと」って人間なんで、書く機会ができるのはうれしい。
やるだけやってみようっと。
〆切りまであと三日〜。
この追い詰められ感も、なんだか懐かしくて心地よい。

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いろんなとこで首長選挙ですね。
海の向こうでは、トランプさんもがんばってます。
彼を代表としたアメリカさんの直情的で暴力的な態度を「反知性主義」と言います。
知的活動を嫌悪して、反抗的な態度を取ることが立派!という考え方で、そういうひとたちにはトランプさんがかっこよく見えてるのでしょう。
頭が悪くて力持ち!と昔から世界に認められてきたあの国らしいスタンスと言えますが、こうあからさまに知性ナシをオープンに自覚されると引きますね。
カマラがんばれ!と言いたくなりますが、このひとが大統領になっても、世界に(殊に日本に)対する権威的な振る舞いは似たようなものでしょう。
あきらめるしかなさそうです。
アメリカのこうした姿勢は、もちろん「反理性主義」な聖書からきてます。
考えるな!信じよ!というあれです。
進化論をいまだに拒絶し、数千年前の価値観に帰依しようという福音派あたりには、ステキな人物のうそも福音となりまして、息を吐くようにうそをつくトランプさんなどは、本当に預言者のように見えてるのでしょう。
私を信じなさい!信じれば救われる!
逆に言えば、信じねば地獄に落ちる!
・・・日本人には(ぼくには、と書かないと叱られるか)理解できかねる信心です。
ちょっとアメリカの悪口を書きすぎたんで反省して、次回は日本の首長選の悪口を書きます。

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バカと言われると傷つき、アホと言われるとなんだかうれしい、という価値観が存在する。
「バカ」には先天的なものを断罪する凶暴性の雰囲気がある一方で、「アホ」には後天性の意識的行動への指摘という側面があるので、このふたつは別カテゴリーに分類すべきだろう。
「まぬけ」は愚かな振る舞いに対する評価の感が強く、「たわけ」は愚かに振る舞った人物評価なので、これらも少しニュアンスが違う。
言葉は使い分けなければならない。
「カワイイ」は、今やプリティのことを意味せず、より主観的な「気に入った」「私はこれが好き」という宣言の際に発される句で、その成分中に、周囲に同意を求める圧力をも含む強い表現にまで育っている(しかもグローバルスケールで)。
ヨボヨボ死にかけのおじいちゃんを見たギャルが「カワイイ!」と叫んでる場面に遭遇したら、年配者に向けて失礼だと叱りつける前に、「ああ、この子は醜いと考えがちな老いという観念の中に新しい価値を見出したのだ」と、その含意に思い及ばせよう。
「アホ」と言われてうれしいのは、生来の粗忽(ボケ)が露見したからじゃなく、粗忽を演じたテイを理解する者が振る舞いを肉体表現として完結するまでに昇華(ツッコミ)してくれた、という達成感からくるものなんである。
ただ、露見した本物の粗忽をアホと言われた場合は、素直に恥じ入ろう。
日本語表現は難しいのだ。

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十本ナンボとかの使い捨てカミソリの「一本」を使いつづけてる。
どこまでもつのか?と実験を経ること半年。
週二回使ってるとして、約50回(口ひげとあごひげの部分以外を剃る)。
まだまだ切れ味が鈍る気配はない。
もはや思い入れと愛着が湧いちゃってて、捨てることができない。
バスルームの歯磨き立てに置きっぱなしなのに、サビないし、壊れないし、汚れひとつつかない。
抗菌性も問題なし。
金属素材の精錬度もすごいけど、プラ部分の耐久性が半端ない。
最新型の新幹線みたいにかっこいいし。
さすがは日本製品。
十本入りだから、五年は買い換える必要がない。
いや、この分なら一本で一年もちそうだから、十年は買わなくていい。
「使い捨て」ってなんなの?と考えたくなる。
ペットボトルって、何回使用したら壊れるのかな?
結構、果てしなく使えそう。
実験したくなった。
プラ問題は、使用者に「捨てるな」じゃなく、販売サイドに「捨てさせるな」の部分を考えさせるべきだろう。

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大雨だろうが大雪だろうが、毎朝起きてポストをのぞくと、新聞が届いてる。
ありがたいことだなあ、なむなむ・・・
あの方たちの仕事はまことに尊い。
神戸が大震災に遭ったとき、一面のガレキの原にちょこんと投函ポストが残ってて、中をのぞくとその日の新聞が配達されてた、って伝説があるけど、あの方たちならやってくださりそう。
有り難い、の意味をきちんと考えねばならぬ〜。
ところで、「ありがとう」って言わないひと、いるね。
おまえに施されたその行為(多くは善行)はあたりまえのことではないぞ、ひととしてちゃんと反応せい。
ありがとうを言いたくないひとって、そのひと言を使うとなんか損した気分にでもなるのかな?
「ごめんなさい」なんかも、敗北感とか感じるから極力使いたくないようだ。
だけどこれらは、言葉というよりは生理的な衝動として、脳の思考からというよりも、髄から反射的に出ちゃうもので、熱いものに触ったら「あつっ」と叫ぶようなもの。
いいことをしてもらって「!・・・ありがとうっ」、失敗をしでかして「ごめんなさいっ!」ととっさに言語機能が働かないひとは、神経に異常があると思う。
あと、ミラーニューロン問題ね。
コンビニなんかで「ありがとうございました〜」と言われてむすっと無言、ってのが東京ではあたりまえで度肝を抜かれたけど、なんか反応した方がいいわ、人間として。
だいたい、自分のために仕事をしてくれたのはレジの向こうの人物の方じゃん。
「ありがとう」はこっちのセリフだよね、オレはちゃんとお礼を言いたい(返したい)。
あとねあとね、「おいしい」も、普通の感性が備わってたら思わず出ちゃうはずのやつなんで、これが言えないひとは少し養生したほうがいいね、疲れてんのかもよ。
上で挙げたどのひと言も、相手との相関関係を平穏にして、お互いをしあわせにする魔法。
おいしいおいしいと言いつづけるだけで、相手の料理はますます磨かれていくし、ますますおいしくなっていく。
そういう意味で、おいしいと言ってもらえないひとはおいしいものをつくらないんで、おいしいと言わないひとは本当においしいものを食べてないのかもね、かわいそう。

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