「ラーメンを生きた状態にするにはどうすればいいか?」という生物学の問題がある。
すべてが天然(生命)由来のラーメンには、タンパク質も脂質もDNAも含まれてて、人間の組成とたいして変わらないし、環境的に塩分も水分もある。
ラーメンに命を与えるには、まずは小麦や、トリ、ブタに還元するって方法がある。
だけど麺の形に練り込まれた小麦の微粒子を、正確な細胞の配列に再構成するのは骨の折れる仕事だ。
その上、その細胞は生きてると言えるのか?パズルが完璧に組み上がったとしても果たして動いてくれるのか?って問題がある。
人間の死体のピースを組み上げてつくられたフランケンシュタイン氏の怪物は、落雷級の通電で動きはじめたけど、「生きた状態」とはそんな単純なものじゃない。
ところがラーメンは、ただ食べるだけで生きた状態を取り戻す。
ぼくらの中で。(これが解答)
まったく不思議なことだけど、自然とはそうしてできてるみたいだ。
有機物は(ある意味では気体や塩などの無機物も)、普段は死んだ状態に置かれてる。
ところがひとたびある流動体系の中に混じり合うと、生きて仕事をはじめる。
死んでないんだ、ラーメンは。
生命が巡ってるラインの中に「まだ」入っていないだけ。
いや、そもそも元からラインには入ってるのかも。
小麦が刈り取られて(死んで)パウダーになり、練り込まれて麺となり、ラーメン屋で茹でられてスープに投入され、人類の口に入ると機能を開始する。
それどころか、刈り取られずに畑に落ちたものも、微生物の中で生命を得、排出されて肥やしとなり、また小麦の根に取り込まれて振り出しに戻る。
この自然の循環系は、輪廻転生そのものだ。
・・・というラーメン問題でした。
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入れた分が出口を求めるのだよなあ。
十年ぶりくらいに小説を書いてるとこ。
インプットしたら、熟成させて、アウトプット。
たまに訪れる発作だ。
ここ数週間ほど文章を編んでみたら、病的に集中できて、出るわ出るわの大放出状態。
脳が沸騰するくらいに考え詰めて、だけど意外とサラサラと表現に転化できて、休みなく、淀みもなく、言葉を紡いでく作業が結構楽しい。
長いやつじゃなく、超短編ってところもいい。
で、ショートショート(原稿用紙十枚程度)の文学賞にでも応募してみっか、ってとこ。
以前はちょこちょこと書いて(長いの=百枚程度のやつ)応募して 、たまに最終選考に残ったりしてたんだけど、いまだ受賞歴なし。
マンガでは新人賞荒らしだったのにね(スピリッツ賞で奨励賞と佳作、ヤンジャン新人賞で佳作二本、ジャンプ系の四コマ漫画賞で軽いの一本)、欲しいな文学賞。
だけど今や誰でもがスマホでライトな小説を書くらしく、応募作は1万点だと。
審査はやっぱAIなのかな?
しかしまあ、趣味は陶芸より「書くこと」って人間なんで、書く機会ができるのはうれしい。
やるだけやってみようっと。
〆切りまであと三日〜。
この追い詰められ感も、なんだか懐かしくて心地よい。
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いろんなとこで首長選挙ですね。
海の向こうでは、トランプさんもがんばってます。
彼を代表としたアメリカさんの直情的で暴力的な態度を「反知性主義」と言います。
知的活動を嫌悪して、反抗的な態度を取ることが立派!という考え方で、そういうひとたちにはトランプさんがかっこよく見えてるのでしょう。
頭が悪くて力持ち!と昔から世界に認められてきたあの国らしいスタンスと言えますが、こうあからさまに知性ナシをオープンに自覚されると引きますね。
カマラがんばれ!と言いたくなりますが、このひとが大統領になっても、世界に(殊に日本に)対する権威的な振る舞いは似たようなものでしょう。
あきらめるしかなさそうです。
アメリカのこうした姿勢は、もちろん「反理性主義」な聖書からきてます。
考えるな!信じよ!というあれです。
進化論をいまだに拒絶し、数千年前の価値観に帰依しようという福音派あたりには、ステキな人物のうそも福音となりまして、息を吐くようにうそをつくトランプさんなどは、本当に預言者のように見えてるのでしょう。
私を信じなさい!信じれば救われる!
逆に言えば、信じねば地獄に落ちる!
・・・日本人には(ぼくには、と書かないと叱られるか)理解できかねる信心です。
ちょっとアメリカの悪口を書きすぎたんで反省して、次回は日本の首長選の悪口を書きます。
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バカと言われると傷つき、アホと言われるとなんだかうれしい、という価値観が存在する。
「バカ」には先天的なものを断罪する凶暴性の雰囲気がある一方で、「アホ」には後天性の意識的行動への指摘という側面があるので、このふたつは別カテゴリーに分類すべきだろう。
「まぬけ」は愚かな振る舞いに対する評価の感が強く、「たわけ」は愚かに振る舞った人物評価なので、これらも少しニュアンスが違う。
言葉は使い分けなければならない。
「カワイイ」は、今やプリティのことを意味せず、より主観的な「気に入った」「私はこれが好き」という宣言の際に発される句で、その成分中に、周囲に同意を求める圧力をも含む強い表現にまで育っている(しかもグローバルスケールで)。
ヨボヨボ死にかけのおじいちゃんを見たギャルが「カワイイ!」と叫んでる場面に遭遇したら、年配者に向けて失礼だと叱りつける前に、「ああ、この子は醜いと考えがちな老いという観念の中に新しい価値を見出したのだ」と、その含意に思い及ばせよう。
「アホ」と言われてうれしいのは、生来の粗忽(ボケ)が露見したからじゃなく、粗忽を演じたテイを理解する者が振る舞いを肉体表現として完結するまでに昇華(ツッコミ)してくれた、という達成感からくるものなんである。
ただ、露見した本物の粗忽をアホと言われた場合は、素直に恥じ入ろう。
日本語表現は難しいのだ。
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十本ナンボとかの使い捨てカミソリの「一本」を使いつづけてる。
どこまでもつのか?と実験を経ること半年。
週二回使ってるとして、約50回(口ひげとあごひげの部分以外を剃る)。
まだまだ切れ味が鈍る気配はない。
もはや思い入れと愛着が湧いちゃってて、捨てることができない。
バスルームの歯磨き立てに置きっぱなしなのに、サビないし、壊れないし、汚れひとつつかない。
抗菌性も問題なし。
金属素材の精錬度もすごいけど、プラ部分の耐久性が半端ない。
最新型の新幹線みたいにかっこいいし。
さすがは日本製品。
十本入りだから、五年は買い換える必要がない。
いや、この分なら一本で一年もちそうだから、十年は買わなくていい。
「使い捨て」ってなんなの?と考えたくなる。
ペットボトルって、何回使用した ら壊れるのかな?
結構、果てしなく使えそう。
実験したくなった。
プラ問題は、使用者に「捨てるな」じゃなく、販売サイドに「捨てさせるな」の部分を考えさせるべきだろう。
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大雨だろうが大雪だろうが、毎朝起きてポストをのぞくと、新聞が届いてる。
ありがたいことだなあ、なむなむ・・・
あの方たちの仕事はまことに尊い。
神戸が大震災に遭ったとき、一面のガレキの原にちょこんと投函ポストが残ってて、中をのぞくとその日の新聞が配達されてた、って伝説があるけど、あの方たちならやってくださりそう。
有り難い、の意味をきちんと考えねばならぬ〜。
ところで、「ありがとう」って言わないひと、いるね。
おまえに施されたその行為(多くは善行)はあたりまえのことではないぞ、ひととしてちゃんと反応せい。
ありがとうを言いたくないひとって、そのひと言を使うとなんか損した気分にでもなるのかな?
「ごめんなさい」なんかも、敗北感とか感じるから極力使いたくないようだ。
だけどこれらは、言葉というよりは生理的な衝動として、脳の思考からというよりも、髄から反射的に出ちゃうもので、熱いものに触ったら「あつっ」と叫ぶようなもの。
いいことをしてもらって「!・・・ありがとうっ」、失敗をしでかして「ごめんなさいっ!」ととっさに言語機能が働かないひとは、神経に異常があると思う。
あと、ミラーニューロン問題ね。
コンビニなんかで「ありがとうございました〜」と言われてむすっと無言、ってのが東京ではあたりまえで度肝を抜かれたけど、なんか反応した方がいいわ、人間として。
だいたい、自分のために仕事をしてくれたのはレジの向こうの人物の方じゃん。
「ありがとう」はこっちのセリフだよね、オレはちゃんとお礼を言いたい(返したい)。
あとねあとね、「おいしい」も、普通の感性が備わってたら思わず出ちゃうはずのやつなんで、これが言えないひとは少し養生したほうがいいね、疲れてんのかもよ。
上で挙げたどのひと言も、相手との相関関係を平穏にして、お互いをしあわせにする魔法。
おいしいおいしいと言いつづけるだけで、相手の料理はますます磨かれていくし、ますますおいしくなっていく。
そういう意味で、おいしいと言ってもらえないひとはおいしいものをつくらないんで、おいしいと言わないひとは本当においしいものを食べてないのかもね、かわいそう。
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自動車メーカーって、電気モーターや大容量バッテリー、水素エンジン、ドローン技術を応用した空を飛ぶメカニズムなんかの開発には熱心だけど、結局、水につかって全部ダメになるんだよなあ。
大雨のたびに思うんだけど、この国の自動車で最も必要かつ喫緊な技術開発は、水の中でも死なない構造だよ。
時代が直面するこの状況に対応が皆無なのは、まったく不思議なことだ。
燃料エンジン車なんて、マフラーからの逆流をなんとかすれば生き残れるんじゃないの?
電動モーターだって、気密と絶縁をしっかりすれば、アンダーパスの水中に突っ込んだって平気そうなもの。
なのに、タイヤが隠れる程度の水でもうダメになっちゃうなんて、ほんとにこれ、令和のテクノロジー?旧式すぎん?
福イチ(爆発した原発)と同じで、地上階に生命線を置いたら、水がきたときにひとたまりもない(し、水は必ずくる時代である)ことは明白。
なんとかしよう、って考えはないのかな?メーカーサイド。
あるいは、奥田民生が歌った「いつまで乗っても減らんタイヤは理論的に無理かね?」のように、できるけどしないのかな?
減らないタイヤができちゃったら、タイヤメーカーは潰れるしかない理屈。
車が、水ごときでダメになってくれたらしめたものだ。
その点、電球メーカーはLEDで思いきった判断をした、えらい。
新製品に取り替えた顧客には、買い替えを事実上永遠に期待できなくなるんだから、この経営判断は「どうかしてる」くらいの英断だ。
大量生産と大量廃棄の使い捨てサイクルこそ、資本主義の原動力。
台風がくるたびに、自動車メーカーが儲かるのもわかる。
だけど、ちょっとここらで本気出さないと、日本中の車が水没する時代がすぐそこまできてるよ。
そのとき生き残るのは、水に強い自動車一択(燃料も電気も関係なし!)だと思うんだけど、どうかな?
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投票権を得た政治的にうぶなワカモノたちが(なんとなく)支持するのは、自民党なのだという。
「安定してるから」ということのようだ。
だけどイメージと雰囲気だけで投票先を決めるのも問題があるので(イメージも雰囲気もよろしくは思えないが)、ここはひとつオトナとして、この党についてのレクチャーをしたいと思う。
まず、「安定」とやらの中身だが、この党は年寄りと大企業に支えてもらってる。
ジジイ・ババアと大金持ちは、必ず選挙にいく。
いって、必ず自民党に投票する。
彼らのこの行動が揺るがないのは、それと引き換えに、年寄りへの手厚い保護と、大企業への優遇政策が得られるからだ(ついでに、自民党議員の大半がジジイ・ババアと大金持ち、という事情もある)。
彼らはそんなアドバンテージを獲得するため、決して自民党を裏切らない。
ひるがえって、ワカモノと貧乏人は、自民党に投票するどころか、選挙にすらいかない。
なので、社会的・政治的に虐げられる。
このカテゴリーの人種に対してなにかをしてあげるのは、政治家にはまったくの無益なのだ。
ビンボーだ?働けばよかろうが。
教育費が高い?知るかそんなこと。
子供を産みたい?自分の金でせよ。
税が高い?金持ちほど安くなるからがんばるがよい。
デジタル化してほしい?そんなもん使えんわしらには関係なかろうが。
科学技術推進?道路をつくる方が儲かるじゃろ。
世界に遅れを取ってる?わしらには未来がないけ、どうでもえーが。
・・・と、こんな具合い。
大金持ちに資金をふんだんに投下して「上」が潤えば、下にもおこぼれが滴り落ちるという理論を「トリクルダウン」と言うが、この党はとにかくその考え方に固執する(が、それは起きないと証明してるのが今の状況だ)。
そして「上」とは道路工事のことであり、デジタルや最先端科学技術はプライオリティが最底辺なので、要するにいつまでたってもこの国は進歩できない。
ワカモノに金を割り振らないので、ますます未来への駆動力が失われる。
そんな社会なんで子供も産めないし、ますます相対的に年寄りが増え、そちらに政策があてられる。
こういう党に、ワカモノが投票するのはいいことだ。
あなたが大企業の大金持ちになれば、必ずこの党は報いてくれる。
がんばって応援しつづければ、いつか自分たちにも分け前を与えてくださるかもしれない、わんわん。
あるいは気長に、優待が約束される年寄りになるまで応援しつづける、という手もある。
ま、それまで日本が持つかどうかはわからないが。
そして、日本の未来が明るいか暗いかを決めるのは、ワカモノよ、あんたたちの投票活動にかかってると思うぞ。
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戦争について考えてみます。
「戦争はいかん」「もうあんなことしちゃだめ」というひとがいます。
賛成です。
だけど、「そのために武器を捨てよう」というひとがいます。
それはどうなんでしょうか?
「平和」と「武器の放棄」とは無関係で、それどころか「戦争をしないために軍備をしない」という考え方は一大矛盾を抱えてます。
終戦直後(第二次世界大戦後)には、まだ国連という幻想が生きてたんで、吉田茂あたりも「日本が攻められればそれを克服すべき国際的必然が生ずるであろう」なんてのん気な答弁をしてました。
だけど国連がハリボテとなった今日においては、戦争が開始されるのは常に防御が脆弱な場所、すなわち武器を持ってない国家・地域(クウェートとかガザとか)となります。
軍備とは、戦争をしない(侵略を受けない)ためのものなのです。
防衛装備(政府がひねり出した絶妙なごまかし語句)なしの平和など考えられないわけです。
その極端な例が「トルーマン・ドクトリン」で、核を一発撃ち込まれたら千発を撃ち返す!という考え方です。
これが東西イデオロギーに採用され、核軍事バランスがうまい具合いに機能して冷戦が勃発し、裏を返せば、長い平和な時代が共有されました。
ところがそのパラダイムもひっくり返された現在、核保有国が一方的に侵略を開始するとどうなるか?という実験が、ウクライナを舞台に行われてます。
「持たざる者」は、やり返せば一方的に破滅させられるので、どれだけ理不尽にやり込められてもディフェンスに徹するしかないわけです。
かつての北朝鮮は、アメリカ(脅迫番長)と対等な交渉をするには核を持つしかないことに気づき、それを実現させましたが、今度は北朝鮮が巨大発言カードを握って隣国と交渉を開始させようというステージにきてます。
中国も同じく、カウンターアタックの警戒が必要のない国には、どんどん攻め入ろうという姿勢です。
さて、その隣国である日本は、徒手空拳でいられるでしょうか?
いや、オレは別に、武器を持て、軍備を強化せよ、ましてや核を持て!なんてすすめてるわけじゃなく、あまりにも牧歌的で平和ボケ的思考停止状態のこの国のひとたちに「少しは考えてものを言え」と諭したいだけです。
武器を持つか、捨てるかは、戦争と平和の構造と原理、そして現実的な状況から結論を導くべきだと思いますので。
オレだって、戦うのはきらい。
だけど、ナイフなしにジャングルで昼寝をしようとは思わない。
問題提起でした。
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親父の命日だったんで、そんな話を書く。
もう三十年近くも前かな?交通事故で亡くなった。
即死で、最期は挨拶もできなかった。
オレが18で家を出て以来、不仲なわけでもなかったが、照れ臭さからほとんど没交渉だった。
それが最晩年(と言っても、今のオレと同年代だが)、上京してた息子に突然に電話をよこし、「明日、会社の役員会でクーデターを起こして社長になる」などと言い出した。
そして翌日、それを実現させた。
こんな親父、おる?
社員が数十人という中小の倉庫会社だったが、温厚で民主的で、たぶんひとに好かれる社長だったにちがいない。
「夢だった」という三億円の新倉庫を建てて、それを誇りにしてた。
亡くなる直前、仕事のついでなのかわざわざ足を運んだものか東京にきたときに会ったが、酒を飲んだり、ビリヤードをしたり、はじめて二人でそんな過ごし方をした。
池袋の丸の内線の改札まで見送りにいき、別れ際、なぜかオレは「そうだ、死ぬ前に形見が欲しいんだけど」と切り出した。
「万年筆がいい」と。
わかった、用意しとく、と親父は改札の向こうに消えたが、それが最後に見た姿だった(万年筆はもらえなかった)。
その後すぐに事故で亡くなったので、社長室に遺品整理にいくと、壁には家族の写真ではなく、三億円の倉庫の写真が飾ってあった。
葬式は、小さな会社の社長には不釣り合いなほど賑わった。
ひとづき合いが好きだったんだろう。
実家で営んだ通夜には、五百人が列をなした。
翌日の葬儀には、さらに千五百人が駆けつけてくれたので、焼香台を六つに増やし、ひたすら「こなした」。
まるで有名芸能人の法要の規模だが、まったく奇妙なことだ。
その夜のことだ。
いやーすげーな、とか言いながら香典袋から出した札束を積み上げ、われわれ家族は指にツバしながら目を丸くしてたんだった。
そのとき、なぜだろう?オレはふと勝手口を開けた。
広大な稲の水田がひらけている。
その目の前の北の夜空を、火球が長々と袈裟懸けに切り裂いて・・・要するに、とてつもない流れ星が横切っていった。
「お・・・おいおいおいっ・・・」と、背後の家族を呼ぶ「おい」を何度つづけても星の尾が途切れないほどの長大なやつだ。
巨星、落つ?
あれは最期の挨拶だったのかなあ・・・?
まったく、奇妙なことだった。
おわり。
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