そのメールにはタイトルも本文も無く、ただ写真だけが添付されていた。
恐る恐る開いてみる。7人の娘たちが全員、笑顔で写っていた。これが、結婚以来初めて峰子が送って来たメールであった。今まで一度も、電話もメールも峰子から来たことはない。初めてのメールが子供たちの写真とは・・・しかもこのタイミングに。耕治は、峰子の真意を測りかねた。
夫の浮気が心配なら、まず携帯に電話をかけるだろう。もしくはメールで、「今どこにいるの?」とか「早く帰って来て」とか言って来るはずだ。いきなり子供の写真とは、一体どういう意味なのか。意図がまったく分からず、ただただ不気味だった。
「どうしたの?」手洗いから戻ってきた綾子が、心配そうな顔で尋ねた。難しい顔をしている耕治を、訝しく思ったのだろう。「いや、なんでもない。・・・シャワーを浴びて来るよ」耕治は携帯をすばやく背広の内ポケットにしまい、バスルームへ向かった。
シャワーを浴びながら、峰子への怒りがふつふつと湧いてきた。どこまで心の読めない女なのか。こんな女に今まで気を遣ってきた自分が情けない。こんな妻より、心の通い合う女と一緒にいたいと思うのは、自然な感情ではないのか。自分をこんな気持ちにさせるのは、全て峰子に原因がある。そうだ、あの女さえもう少し魅力的なら、こんな事態にならなかったはずだ・・・自分の怒りがやや身勝手であることは重々承知しながらも、沸き上がって来る感情を抑えることはできなかった。
バスルームから、腰にタオルを巻いただけの姿で出て来た耕治は、無言で綾子に挑みかかった。「待って、シャワーを浴びて来るから」「かまわない、このままで」耕治は有無を言わせず綾子の唇をふさいだ。綾子はわずかに抵抗してみせたが、すぐに大人しくなり、耕治の舌に自分の舌をからめて来た。
最初の時よりも狂おしく、綾子の体を貪った。緊張がほぐれたのか、綾子も前回より積極的だった。2回、交わった。結局その夜は綾子のアパートで一夜を過ごした。
翌朝早く、耕治は綾子のアパートを後にし、そのまま職場へ向かった。定時で仕事を終え、帰宅した。玄関に娘たちが迎えに来る。「パパ、おかえりなさ~い!」無邪気な声に癒される。峰子はと言えば、台所から投げやりに「お帰り」と声をかけただけだった。
昨日の外泊を追及されるかと思ったがそんなことはなく、いつもどおり耕治以外の家族は夕食を済ませ、耕治の分はラップしてあった。レンジでそれを温めつつ、ソファに座ってテレビを見ている峰子のどっしりした後姿を見た。相変わらず、何の感情も伝わって来ない。夫が外泊したと言うのに、動揺も無ければ猜疑心も浮かばない、こんな妻は夫への愛情は皆無と言っていいのではないか。耕治は、昨夜の自分の行動が間違っていなかったと確信した。そして、綾子とこれからも付き合い続けて行こうと思った。綾子と会っている時の方が遥かに自分らしく、幸せでいられる・・・耕治は覚悟を決めた。これからは、どんどん外泊してやる・・・。
3日後、綾子から「話がある」と電話があった。耕治が綾子のアパートに今夜行くからと告げると、「外で会いたい」と言う。それもいいかと思い、仕事が終わってから綾子の職場の近くの店で待ち合わせることにした。約束の午後7時にちょっと遅れて、綾子はやって来た。
「お待たせ。ごめんね突然」「いいよ、君からの誘いだったらいつでも大歓迎だ」心なしか、綾子の表情がちょっと暗い。「どうしたの?顔色が悪いみたいだけど」「大丈夫よ。最近忙しかっただけ」「そうか。ところで話って?」
「私たち、別れましょう」
・・・晴天の霹靂だった。一瞬、どう言葉を接いでいいか分からず、「冗談でしょ?」と言うのが精一杯だった。綾子は尚も続ける。「ううん、冗談じゃないのよ。あれから私考えたの。私たちみたいな関係、やっぱり良くない」「そんな・・・今更それはないだろ。2回も部屋に上げといて」「ごめん。でもね、あれは『過ち』だったってことにして」「俺のこと嫌いになったのか?・・・いや、最初から好きでもなんでもなかったんだな!」「ううん、コージ先輩のことは大好きだよ。でもね、あんな可愛い娘さんが7人もいる人と、こんなことしてちゃいけないって」
綾子の暗い顔の理由が分かった。「・・・見たのか」「ごめんね。コージ先輩がシャワー浴びてる間に・・・どうしても気になって。やっちゃいけないことだってのは分かってたんだけど」返す言葉が無かった。綾子は子供のいる耕治のことを考えて、自ら身を引こうとしているのだ。そんな綾子がますますいじらしく、愛おしかった。「俺には女房もいるし、子供もいる。でも綾子のことは真剣に好きだよ。この気持ちは誰にも負けないつもりだ」「分かってる。先輩の気持ちはすごく嬉しいよ。でも・・・やっぱり責任てものが、あるでしょう」
責任か。それを言われてしまうと、耕治にはもうどうしようもなかった。「ありがとう。短い間だけど楽しかった。忘れないわ。さよなら」綾子はそう言うとうつむいたまま席を立ち、店の外に出た。最後の「さよなら」という言葉が、いつまでもこだましていた。耕治はショックのあまり立ち上がれず、しばらく席で呆然としていた。すぐに綾子を追いかけるべきだったのかも知れない。だが耕治には、それができなかった。逃げる女を追うような、未練がましい真似はしたくなかったのか。いや、それよりも妻と7人の娘という足枷が、耕治にしっかりとしがみついていたからか。
それからどうやって帰宅したのか覚えていない。峰子はいつもどおり無愛想で、娘たちは騒々しかった。いつもなら少々煩く思うこの喧騒が、今の耕治には心地良かった。綾子と別れた精神的ショックを、わずかながら和らげてくれたからだ。騒ぎまわる娘たちを見ながら、耕治は考えた。俺がこの子たちを愛しているのは確実だ。綾子に向ける愛とは違うが、それでもかけがえの無い存在だ。峰子だって、外で遊び回るでも、派手な格好をするでも、家計を浪費するでもなく、色々なことをそつなくやっている。主婦としてはまぁ及第点と言えるだろう。女としての魅力は無くても、7児の母なのだから、自分の身に構っていられないのは当然だろう。母として、しっかりやってくれればそれでいいではないか。峰子が家庭をしっかり守ってくれているから、自分は仕事をバリバリやれるのだ。考えれば、申し分のない妻ではないか。自分は幸せ者だ。自分は、幸せな結婚をした男だ・・・耕治は無理やりそう思おうとした。
綾子は、自分の決断が間違っていなかったことを確信していた。やはり耕治とは、別れて正解だったのだ。女心をちっとも理解していない。別れを切り出した時、綾子は、もしかしたら耕治が引き止めてくれるのではないか、『妻と別れるから』と言ってくれるのではと、薄く期待した。しかし耕治からその類の言葉は一切聞かれなかった。いい人だが、強い男ではないのだ、コージ先輩は。
あの奥さんは、侮れない。綾子は、あのメールを耕治の妻からの無言の脅迫と受け取っていた。『子供が7人』という高いハードルを敢えて見せることによって、綾子を牽制したのだ。男の携帯をついチェックしてしまう女の心理を理解していなければ、できない芸当だと思う。本当に恐ろしい女性だ。そしてコージ先輩は、その奥さんに首根っこを掴まれてしまっている・・・どんなにあがいたところでしっかりホールドされていて、絶対に抜け出すことはできない。しかも当の先輩はそのことに全く気づいていない。あの図太い妻と7人の子供を振り切って自分の所へ来るなど、到底考えられないことだ・・・綾子は3日間でそう結論づけて、耕治との別れを決意したのだった。
「一人や二人なら奪える自信あったけど・・・7人じゃねぇ。エネルギーの無駄遣いに終わる可能性が高いわ」散々引っ張って「やっぱり妻子を取る」と言いそうな男にこだわるよりは、もっと度量の広い、いい男を探そうと、綾子は思った。男の魅力は結局度量の広さと胆力にある・・・耕治にはそのどちらも、欠けていた。
(了)