昨夜の綾子との激しい情事を反芻し、耕治は一日中上の空だった。
アパートの玄関からほとんど一足飛びでベッドに倒れこんだ。狂おしく唇を求め合い、互いの体をまさぐり、後は二人とも獣になった。
思い出す。耕治の下で跳ねる小柄な白い身体。回した腕の、思いがけない力強さ。おんなの味が強く香る唇・・・。すべてが素晴らしく、忘れがたく、その時のことを思うと頭の芯に痺れるような快感が走った。
妻との味気ない夫婦の営みとは大違いである。今まで自分が男としてどれだけ損をしてきたか、今更ながらに思い知った。
綾子の部屋から慌しく飛び出し、終電に間に合うように走って駅へ向かった。かろうじて間に合い、JRの駅からはタクシーを使って自宅の最寄り駅まで走る。そこから自分の車に乗り換えて帰宅。(あまり飲んでなかったのが幸いして、酒は完全に抜けていた)なんとかそれほど常識外れでない時間に、家に帰り着くことができた。しかし、それほどの努力をして帰宅したというのに、峰子はパジャマ姿で、眠そうな目をこちらに向けながら、めんどくさそうに顎をしゃくっただけだった。「遅かったのね」でも無ければ、「お帰り」でもない。耕治は、様々な言い訳を考えていた自分が虚しかった。他の女を抱いて帰宅したと言うのに、妻は関心すら示さない・・・。その無頓着な態度が逆に腹立たしかった。これまでずっと、峰子を妻として立ててきたつもりだった。だからこそ今日だって気を遣って早く帰って来たのだ。しかし向こうは耕治のそんな気遣いすら、どうでも良いらしかった。耕治は初めて峰子を、憎いと思った。
取るものも取りあえずと言った風情ではあったが、携帯番号とメルアドはしっかり交換しておいた。既に先ほどの昼休み、綾子からメールが届いていた。『昨夜はお世話になりました。すっかり酔っ払ってしまって・・・ごめんなさい。とても楽しかったです。また機会がありましたら宜しくお願いします。』 意味深なことは何一つ書かれておらず、一見するとただのお礼のメールである。耕治が既婚者なので、気を遣っているのだろう。こういうところに綾子の本気度が現れているような気がした。秘密裏に関係を続けたいという願望が見え隠れしている。バカな女ならこんな時赤裸々なメールを送って、何もかもぶち壊しにするところだが、さすがに綾子は頭がいい。
何と返信しようか・・・耕治は思案した。考えたあげく、事務的な文面で行くことにした。『こちらこそありがとうございました。久し振りにお会いできて嬉しかったです。是非また機会を持ちましょう。私は○日と○日が空いているのですが、そちらのご都合はいかがでしょうか?』 5分後、返信が来た。『お誘いありがとうございます。私は○日が空いております。先日お別れした場所で、7時にいかがでしょうか?』 先日お別れした場所とは、言うまでも無く綾子のアパートである。『○日の7時ですね。了解しました。では、宜しくお願いします。』
胸が躍る。事務的なメールを交換しているだけだと言うのに、心の中では置き火のような情熱が湧き上がっている。きっと綾子も同じはずだ。秘め事と言ってもいい関係は、こんな風によそよそしく、しかし確信犯的なしたたかさで深まって行くのかも知れない。耕治は、期待感で耳が熱くなるのを感じた。
一週間後、耕治は再び綾子のアパートにいた。綾子は夕食の用意をして待っていてくれた。何となくお互い気まずく、何を話したら良いか分からない。「仕事は・・・?」「大丈夫よ。コージ先輩は?」「俺はいつだって暇だからさ」「そう。ワイン飲む?」「あ、もらおうかな」「出してくるね。待ってて」そういうと綾子は台所に消えた。こういう、してもしなくてもどちらでもいいような会話さえ心地よい。言葉の全てが、何か別の深い意味を持っているかのように響く。恋の甘さとは、こういうものだったのだ。長い間、忘れていた感覚だった。
「俺、ひょっとしたらまだイケルかも・・・」何がどうイケルのか分からないが、耕治は根拠も無く自信たっぷりだった。この後の、綾子とのセックスへの期待が、現実の諸々をすっかり遠ざけ、幸福感と全能感を与えていた。綾子がワインボトルとグラスを持って戻って来て、耕治のグラスに赤ワインを注いでくれた。「乾杯」二人で声を合わせると、グラスになみなみと注がれた赤ワインを耕治は一気に飲み干した。
携帯が鳴ったのは、その直後である。メールの受信らしかった。マナーモードだったので、綾子には気づかれていない。懐からちらりと出してみると、やはりメールだった。今すぐ確認しなければならない類のメールではないだろう・・・。耕治はたかをくくり、その時は無視した。
30分ほどして、綾子が手洗いに立った時に、何となく気になって確認してみた。差出人の名前を見て、背筋が凍りついた。
(続く)