心療内科のカウンセリングを受けようと思っています。前記事に関連してなんですが・・・夫の精神状態がかなりやばいので。( ̄_ ̄ i)


 とりあえず私が一人で行って、どんなものか様子を見て、それから夫も連れて行こうかと思ってるんですが・・・必要とあらば夫婦でカウンセリングも受けるつもりです。


 夫は以前会社のメンタルヘルス室に相談に行って、そのカウンセラーの対応の悪さに失望して以来、カウンセラーとか心療内科に不信感を持っています。もっとも、私もあまりそういう所を信用していないのですが・・・。


 すぐに薬を処方するところは、あまり良くないと聞いたことがあります。まず患者の話をじっくり聞いて、一緒に問題を探り出し、的確で具体的な助言をしてくれる所が望ましいのですが・・・他にも重視すべき要素はあるでしょうか?


 夫は口下手であまり自分の気持ちを上手に話せない質なので、気長に聞いてくれるドクターが合っていると思います。そういうドクターの傾向というか資質は、どうやったら見分けられるんでしょうか?


 あと、費用の面ですが・・・心療内科って保険は効くんでしょうか?


 心療内科、カウンセリングについて何かご存知の方、どんなことでも良いので教えて下さい。


 宜しくお願いします。

バケツをひっくり返したと言うよりも、滝の中に入り込んだようなと言う表現がふさわしい。一昨日の豪雨は凄まじかった。東海地方、それも愛知県の一部の地域にあれほどの豪雨が降るとは…局地的にも程がある。( ̄○ ̄;)

台風でもなく、雨だけであれだけの被害が出たのは、本当に珍しいことだと思う。

一番雨のひどかった市では、死者が出てしまった。もはや単なる大雨でなく、自然災害である。

最近こんな『ゲリラ豪雨』が増えている。ちょっと前までは台風でも来ない限り、こんなことは起こり得なかったのだが…これも地球温暖化の影響だろうか。地球の『体質』が、徐々に、確実に変化しているようで、何だか怖い。


集中豪雨により被災されました愛知県岡崎市の皆様、謹んでお見舞い申し上げます。

 とうとう四十になった。


 昨日までは確かに30代だったのに、今日から40代だ。なんだか理不尽な気がする。


 抵抗しても仕方がない。自然に年は取るのだから・・・


 しかし、こんな40代でいいのだろうか?(良くないと言われてもどうしようもないが)


 まぁ、これから10年間は40代なのだし、気長に40代らしくなって行こう。


 きっと楽しいことがたくさんある♪(^ε^)♪

 ふと考える。これまでけっこう長く生きて来て、誰かと「心の底から」通じ合えたこと、果たしてあったのか、なかったのか。


 恋をして、その恋がうまく行っているうちは、確かに通じ合えていたような気がしていた。でも、関係が終われば、それっきり。通じ合えていたのは結局錯覚だったと気づくことになる。いけないのは私の場合、恋が長続きしないという事だ。思い焦がれた時間の何倍もの長さを、混乱と嘆きの内に過ごすこととなる。相手から突然別れを告げられて。


 「あなただけが頼り」「あなたが一番信用できる」「あなたにだけこんな話をする」何人の人に言われたことか。しかし、ある時を境にその人たちの気持ちは突然変わってしまうのだ。私がうまく期待に応えられなかったせいかも知れないが・・・。しかし、私は私。どんな時でもそれは変わらない。私と言う人間を「読み間違えた」彼女たちに責任があるような気がする。しかし、彼女たちは全ての責任を私に押し付けて、私から離れて行く。呆然とした後、誰かのために一生懸命になることが、馬鹿らしくなって来る。他人に感情移入するほど、甲斐のないことはないのではないか?と思ったりする。しかしあまりニヒルに構えてしまうと、誰かを心から愛することも、何かに思い切り感動することも、できなくなってしまうような気がして怖い。


 永遠の愛を誓い合って一緒になったはずなのに、気がつくとものすごく疲れる存在になっている。なぜそんなに私の気持ちが分からないのか?私がとことん譲歩して当たり前になるのか?のらりくらりとして、いつも自分の自分の要求を通してしまうのか?「感謝してる」と口に出しながら、行動が伴わないのは何故か?愛している状態を持続するのは本当に難しい。どんな形でも継続させるのが結婚という人もいるが・・・私はそうは思わない。かと言って「大嫌い」にならなければ別れることなどできはしない。不本意な状況でも、惰性で継続すればそれは安楽となる。惰性が心地良い内は、ま芯から不幸ではないのだろう。


 誕生日が近いせいか、うだるような暑さのせいか、色々ネガティブに考えてしまう。私の今までの人生の総和が、案外お粗末なものだったんではないかと、漠然と気づきそうになる。決してそんなことはない(はずだ)。


 誰かの胸で思い切り泣きたいなぁ・・・。

 最近、チュニックとか言う、中途半端な丈のすその広がった、だぼっとしたシルエットの上着が流行っている。私はあれを見ると幼稚園児のスモックを思い出す。実際、小さい女の子が着ていれば、あどけなくて可愛いだろう。

しかしいい年をした女が着るものではない。


 街へ出ると、老いも若きもチュニックを着ている。たいていは化繊の大柄なプリントで、下にスパッツ(レギンス?)かパンツを合わせている。この頃は安い素材でできた大ぶりの長いネックレスを付けている人もいる。胸からウエスト、腰にかけてフワッ、ダボッとしたシルエットに包まれるから、ペタンコの胸もタイコ腹も、垂れたお尻も隠すことができて、体型カバーにはもってこいだ。しかし、悲しいことに、ある程度の年の女がそれを着ると、「体型カバーのために着ている」としか思われないだろう。すなわち自分から「私はプロポーションがものすごく悪いです」とカミングアウトしているようなものだ。みんな、何故それに気づかないのか。


 大人の女はチュニックを着るべきではない。いくら流行だからと言って、何でもかんでも飛びつきゃいいってもんではないのだ。体型に自信が無かったとしても、自分から勝負や努力を投げてどうする。流行と言う隠れ蓑で、密かに安心してどうする。現にチュニックを着た中年女性は、一様に姿勢が悪い。何だかもう、女でいることを諦めてしまった感じなのだ。


 「みんな着ているから」でいいのだろうか。なるほどある程度の年になれば体型は崩れる。しかし、体型が崩れたことを受け入れ、それをカバーしようと努力する姿勢と、全てを無かったことにして覆い隠そうとする姿勢は似ているようで違う。前者はまだ向上心が感じられるが、後者には怠惰な開き直りしかない。


 チュニックの流行を「これは便利なものができたわ~」と飛びつき、若向きのデザインのものを流行の先端を走っている振りして嬉々として着ている40過ぎの女はイタい。仮に体型が崩れていなかったとしても、チュニックを着ているだけで若干ふっくらして見えるのだから、二の腕、背中や肩に肉の付き始めた40代が着ると、かなりボテッとして見えると思う。あれは、華奢な骨格の若い女が着てこそかわいらしいのだ。


 体型をカバーするなら他にまだやりようがあると思う。安易な方法に飛びつく姿は美しくない。だいたい、全ての年代に似合う服などある訳が無い。あったとしたらそれは全ての年代に「似合わない」服だ。


 私自身、チュニックは絶対に着ない。似合わないことが分かっているからだ。私の体型であれを着ると、妊婦か肥満体に見えてしまう。


 以上、あくまで私見ですので・・・チュニックファンの方、もしいたらごめんなさい。

 この間日テレでやっていた「阿久悠物語」を観た。そういえば亡くなってからちょうど1年か。


 阿久悠が活躍したころの「歌謡曲」の歌詞には、感情があった。男と女の物語があった。アップテンポな曲に載せられていても、どこか哀愁が漂っていたりして、たかが歌の文句と侮れない「深み」があったような気がする。短い言葉の中に、あれだけのエッセンスを凝縮して入れることができるのは、才能もあるけど阿久悠という人自身が、ロマンチストで詩人で、哲学者で作家・・・実に多彩な人だったのだろう。


 阿久悠はその繊細な歌詞世界からは想像もつかないようなビジュアルをしていて、作詞家というよりは甲子園常連校野球部の監督と言った方が似合う人だったが、主演の田辺誠一はけっこう上手に演じていた。全然キャラが違うのに、大したものだ。外見はいかつくても内面は繊細な人だったろうから、その辺りを上手く表現していたのかも知れない。


  阿久悠の作ったヒットソングと一緒に、当時の秘蔵映像がたくさん出てきて懐かしかった。昭和の日本人は熱かったのだなぁ。輪郭が太くて、喜怒哀楽をはっきり出して、元気もあった。平成の日本人とはかなり違う。生き生きしていたと思う。芸能人も一般人も、今と違ってひたむきだった。


 当時の歌手は、なんというか存在感が違う。厚くて濃い。色んなものを背負っている感じなのだ。実際、一人のアイドルがデビューするには、背後に何人ものスタッフの尽力がある。昔の芸能人はそういうものを全部背負って、その人たちの期待に応えるべく頑張っていたのだろう。そういう「想い」がオーラとなって出るのかもしれない。


 みんな、真面目に生きていた。一生懸命な時代だった。ピンクレディーのデビュー曲、「ペッパー警部」の振り付けで、ミニスカートから覗いた太腿も露に、股をパカパカと開く振り付けがあるのだが、今見るとかなり卑猥だ。実際、あの振り付けは物議をかもしたらしい。「若い女の子にあんなポーズをさせるなんて」と、抗議の電話が殺到したと言う。しかし当時のミーちゃんケイちゃんは、笑顔で踊っている。多分恥ずかしくてたまらなかっただろうに、自分を売り出そうとしてくれる周りのスタッフの期待に応えるために、その努力をムダにしないために、プロ根性でやったのだろう。阿久悠は、ピンクレディーはとことん人工的に、計算されつくしたコンセプトで売り出そうと決めていたらしい。だから清楚な10代の女の子が、大胆な衣裳で刺激的なダンスを踊るというのは、確信犯的な戦略だったのだろう。それが、見事に当たった。その後のピンクレディーの飛ぶ鳥落とす勢いは、周知の通りである。私も「UFO」とかよく真似して踊ったものだ。


 阿久悠の活躍した70年代と今とでは、歌謡界も芸能界も、社会の状況も何もかも違う。薄っぺらくなり、夢が無くなり、憂鬱になった。「歌謡曲」が「Jポップ」と呼ばれるようになってから、阿久悠は一切作詞をしなくなった。ビートやリズム重視の楽曲に、自分の叙情的な歌詞は載らないと思ったからだそうだ。まったくその通りで、阿久悠の詞が使われなくなった頃から日本のヒット曲は深い感情も、切ない物語も歌わなくなってしまった。ただひたすらに面白くも無い日常的なつぶやきを、中途半端な英語交じりの歌詞に載せて演奏するだけだ。愛、夢、希望と歌っていても、どこか空虚で上辺だけな感じがする。


 昔よりも今の方がはるかに豊かで、何もかも進歩したはずなのに、歌の世界だけ明らかに退化してしまったのは何故だろう。私は日本人の感性が、どうしようもないレベルまで鈍磨してしまったような気がしてならない。


 阿久悠の物語を観ながら、そんなことを考えた。


 

 ブログを始めて2年半、色んな記事を書いて来た。このブログは「雑想三昧。」であるからして、心に浮かんだありとあらゆることを無節操に好き勝手に書くのが身上だ。が、いささか無節操が過ぎたかも知れない。過去記事を読み返してみると、同じ人物が書いたとは思えないほど、雰囲気の違う記事が時々ある。


 多重人格気味なのかと思うほど、理屈っぽかったり、そうかと思うと感傷的だったり。感情がモロに出ている記事もあれば、変に冷静なのもある。感情の起伏の激しさが、てきめんに記事に表れている。そのため恐ろしく「イタイ」j記事があり、今読み返すと穴があったら入りたい気持ちになる。


 元々ブログはストレス解消のために始めたもので、リアルではしがらみのせいで言えないことを、赤裸々にぶっちゃけてスッキリするのが目的の一つだったのだが、親しいブロガーさんが何人かできてネット上にも「世間」が出現し、誰にどう思われてもいいから、という状況ではなくなって来た。


 あるブロガーさんに、「愚痴と不幸のオンパレードになってる」とご指摘をいただいた。なるほどある時期の私の記事は、訳の分からない嘆き節ばかりで、多分に自己憐憫が入った内容だった。そういえば以前、別の方からも「最近コメントしづらい」と言われたのだった。


 愚痴や文句は書いたって構わないと思うが問題はその書き方だろう。あまりにも客観性を欠いた文章は共感できないばかりか、読んでて怖くなる。やはり、どんな感傷的な記事を書いても、一分の理性は必要だ。全世界に公開するのだから、小さじ1杯の「含羞」はあった方が良い。でないととてつもなくイタイ人間になりそうだ。


 文章を書くことへの変な「慣れ」が、理性を失わせたのかも知れない。気をつけようっと。(-。-;)

 最近、「四つの嘘」というドラマにはまっている。


 41歳の女の人生模様を描く、大人の辛口ドラマだそうだ。キャッチコピーは「清算できなかった嘘、ありますか?」。40 年も生きてこれば、人に知られたくない秘密の一つや二つあるのかも知れない。そして、それを糊塗するための嘘や欺瞞も。なかなかに奥の深いドラマのようだ。


 主人公は原詩文、灰谷ネリ、西尾真喜子、戸倉美波という4人の女性。それぞれ永作博美、高島礼子、寺島しのぶ、羽田美智子が演じる。4人は高校の同級生という設定だ。


 物語は戸倉美波が、バンクーバーで事故死する所から始まる。事故当時、美波は夫以外の男性と一緒だった。その男性は河野圭史(仲村トオル)と言って、美波の高校時代のボーイフレンドであり、原詩文のかつての夫という、見るからにどろどろの展開が予想される滑り出し。案の定、第1話から濃かった、濃かった。登場人物の一人がいきなり事故死して始まり、終わりには残された3人がとっくみあいの大喧嘩!もう次を観るしかないだろう、と言うような怒涛の展開だった。


41歳の女たちはそれぞれに、それぞれの人生を生きている。詩文は子連れのバツイチで実家の古本屋に出戻り。認知症気味の父親と店番をして地味に暮らし、ボクサーの若い恋人との激しいセックスの最中にだけ生きる喜びを感じる刹那的な人生。戸倉美波の彼である河野圭史を、寝取ったという前科を持つ「魔性の女」。


 ネリは優秀な外科医で大病病院の外科部長を勤めるバリバリのキャリアウーマン。だが仕事のために全てを犠牲にしてきたため、41になってもほとんど処女で、仕事だけが生きがいと言う人生。自分の殺伐とした毎日に、疑問と焦りを感じている。時々衝動的に部下の男を自宅に引っ張り込むが、うまく行った例しなし。


 真喜子は大きな仏壇屋の一人娘で、婿をもらって稼業を継ぎ、今は気楽な専業主婦。二人の子供にも恵まれ家庭は円満で、一見女の幸せの王道のような人生。そのせいで世間知らずになり、痛い行動をとってネリや詩文に疎ましがられている。家庭での自分の立ち位置を常に確認しないと気がすまない。平和で暇でお金もあって、だからこそ空虚な毎日を、どうやって輝かせようかいつももがいている。好きな男と一緒に死ねた美波が、うらやましくて仕方がない。


 美波については詳しく描かれていないが、おそらくエリートと結婚して子供にも恵まれたものの、あまり幸せな結婚生活ではなかったのだろう。夫の赴任先のバンクーバーでかつての恋人圭史と偶然の再会を果たし、不倫の恋にのめり込む。結局逢瀬の最中に事故に遭い、圭史と一緒に死亡。41年の人生が終わる。


 美波の死をきっかけに残りの3人が23年ぶりの再会を果たし、それぞれの人生の歯車が微妙に狂って行く、という筋立てらしい。とくに大事件が起こるわけでもないのだが、主人公の女たちの描写がリアルで面白い。永作博美の魔性の女ぶりは板に付いている。地味で化粧けもないのに、何となく男心をそそる雰囲気を持っている。

年齢不詳の童顔とドスの利いた低い声とのギャップが、独特の色気をかもし出しているのかも知れない。ちなみに詩文の娘も魔性の女と呼ばれているが、こちらは魔性と呼ぶには健康的過ぎる。


 真喜子役の寺島しのぶ、実年齢は4人のうちでは一番若いはずなのに、一番老けて見えるのは何故か。いつもキャンキャン高い声で吠えている、ヒステリックでうっとおしいタイプの主婦役を好演している。実際はお嬢さんなのに、なんでこんな所帯臭い役が似合うのか。寺島しのぶって、素顔なのに「キャッツ」のメイクをしているように見えるのは私だけか。


 寺島とは反対に高島礼子、4人の中では最年長で確か45くらいのはずなのに、若い!全く遜色がない。一番美人だと思う。この人セリフ回しが一本調子なのだが、今回はそれが女医という役柄に何となくはまって、いい感じを出している。


 現在第4話まで放映済みで、前回は、真喜子が息子の家庭教師に誘惑されて落ちそうになり、詩文の男である若いボクサーとネリが、どうやらできてしまいそうな雰囲気の場面で終わった。次週が楽しみで仕方がない。一体どんな修羅場が展開するのか。(^^ゞ


 このドラマにはまってる人、いますか?

 今、アメンバー申請してる人が二人ほどいらっしゃるが・・・



 すみません、承諾は永久にありません。



 だって私アメンバー記事書いてないから(爆)



 このアメンバーというシステム、率直に言って意図が分からない。元々匿名で記事書いてるのに、なんでこれ以上秘匿する必要があるのか。ブロガーさんによって事情はそれぞれだから、このシステムを使いたい人は使えばいい。実際私も、何人かのブロガーさんのアメンバーにしていただいている。でも、私はアメンバーを募集しない。


 読者を「アメンバー」とそうでない人に分けることに抵抗がある。それにコメントを残してくださる人の中には、ブロガーでない人もいる。そういう人はアメンバーになれない。


 夏ばこというHNでいる限り、私であって私ではない。そもそも夏ばこなんて人物、存在しないわけだし。(笑)


 だからどんな恥ずかしい記事も、全員に公開します。羞恥プレイ好きだから・・・(*v.v)。