foo-d 風土 -13ページ目

foo-d 風土

自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

フランシス・コッポラ監督が構想から実に40年という歳月を経て完成させた14年ぶりの新作で、自身の私財1億2000万ドル(約186億円)を投じて実現させたという映画「メガロポリス」を観て

 ちょっと疲れた午後のひととき

 

名古屋マリオットアソシア52階スカイラウンジ ジーニスでティータイム

 

 

 

 

 

コーヒーにしようかと思ったが、まず喉を潤わそうと、シャンパーニュ

 モエ・エ・シャンドン

 

 一口飲み ホッとする

最初にシャンパーニュにして正解

チーズとドライフルーツアラカルト

 

 良いバランス おいしい

眼下 緑に囲まれた名古屋城

 

その向こう彼方の方で

  小さく見える飛行機が着陸態勢で下降していく

   小牧空港ですね

 

さて、スイーツへいきましょう

 

メニューを拝見し

オペラがあったので、

コーヒーとオペラを注文。

 

オペラ

 「不滅の銘菓」「ケーキの王様」と評され、菓子職人にとって究極の目標のひとつとも言われるケーキです。

絢爛豪華な威容で知られるパリのオペラ座をモデルとして作られ、ケーキの表面にはオペラ座の屋根に立つアポロン神像の黄金の琴にちなみ、金箔を施されている。

濃厚で濃いチョコのベースの上に金箔がふわっと載っているだけのシンプルな高級感

 ビターチョコとブランデーやラムなどのアルコールがしっとりしアーモンドなどの香りに、すっきりと何層にも重ねたラインで上品に仕上げ、深い味わいのキングオブケーキ。

 何十年も前、子供の頃からケーキの中で一番好き。

  でも、なかなか美味しいお店に当たりません。

 私の理想が高すぎるのかもしれませんがオペラだけは特別。

 

 さてこちらのオペラはどうでしょう

見た目、なんとなく普通 高級感は感じませんね

  断面の層もきれいじゃないし

メニューの写真はすっきりとしているがそれと比べてもきれいじゃない。

 

 味は悪くはないのに、リキュールやアーモンド等をミックスして作り上げた甘く深みのあるビター感というところまではきてなくてちょっと物足りない。

オペラに対して思い入れが強いからしかたないけど。

 オペラと言わずチョコレートケーキと言えば

  素直に美味しくたべたのに。

 

今日は52階の景色が素晴らしいからまあいいかな。

 どこかで素晴らしいオペラが食べたいな。

新緑の

 萌えいずる春

  せせらぎに

 青紅葉なを

  清しく揺らぎ

 

 

ラ・ターナネル・ボスコ

先月のことですが、新緑の青もみじのそよぎを楽しみながらイタリアンをいただこうと、いつものラ・ターナネル・ボスコへ




 

 

席に案内され

 窓に広がる

  青紅葉

   せせらぎの声

 

アペリティフ

スッパークリングワインの淡さと弾ける泡で

 

涼しそうなガラス器に

⚫︎蛍烏賊と春野菜のサラダ

 下にクスクス

 

⚫︎新玉葱のポタージュ

 クリームチーズのせ

赤ワイン

プリミティーヴォ

モンテプルチアーノと同じ黒葡萄系の濃厚な味

プリミティーヴォは、イタリアの南部プーリア州で多く栽培されている品種ですが、その起源はクロアチア原産のツーリエンナーク・カーステラーンスキー種であるとされています。ジャムの様な甘みのある果実味を特徴としており、やや強めの酸を感じるまろやかな味わいになります。アメリカ・カリフォルニア州で栽培されている「ジンファンデル」と同一品種だと言われています。

 

⚫︎筍としらすのペペロンチーノ

⚫︎オマール海老

 

次のワイン

ピノノワール

 

メイン

⚫︎飛騨牛ステーキ

 ポテト

パプリカソース

山葵ソース

 

デセール

⚫︎ミルクのムースとお抹茶のジェラート

 

 

青紅葉

 本当に綺麗ですね

 ゆっくりと眺めながらゆったりといただきました

   ごちそうさま。

 

 …………………………

 

 La tana nel BOSCO

  • 0572-26-7352
  • 住所  岐阜県多治見市小名田町小滝5-6

 ななとせも

  待てどかへらぬ

   いとしごの

  女神のつばさ

   つけてくだれる

 

今日6月23日は1945年沖縄戦の終了した日。

 

 

 沖縄戦で、日本軍により動員された沖縄県の10代から20代の女子学徒隊のうち、看護要員として「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」の生徒で構成されたひめゆり学徒隊は、戦禍の中、米軍の爆撃、機銃掃射や自決を迫られ240名のうち136名が死亡しました。

 1945年太平洋戦争の敗戦。最大の被災地沖縄は戦争の傷跡が沢山残っていました。

 

 終戦直後の物資難な時代、アメリカ軍統治下であった事情もあり、ひめゆり学徒隊の終焉の地も1946年の「ひめゆりの塔」と刻んだ高さ数十センチメートルの、小さな碑が一つあるだけで他には何もない寂しいものした。

  自らも従軍医師として南洋に行っていた戦後初期の前衛彫刻家の伊藤宝城(伊藤博)は、この悲惨な状況を知り、彼女たちの翼となれ、と1948年にひめゆりの女神像の制作に取り掛かり4年がかりで製作し、1952年に沖縄へ寄贈しました。 

1952年、太平洋戦争終結7年後、この像はひめゆり学徒隊の慰霊碑の前に一体化して設置され、沖縄県主体で知事や市長などと盛大な落成式が行われました。

 

 

  その時に読まれたのがこの短歌で、落成記念に販売された写真ハガキにも一緒に書かれています。

 現在は新しい慰霊碑に変わり、その後は、この女神像は慰霊碑の5mほど後ろに移設されています。

…………………………………………

 

ひめゆりの塔は、沖縄戦末期に糸満市の沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。

外科壕跡を挟んでひめゆりの塔の奥側にはひめゆり学徒隊の慰霊碑(納骨堂)が建てられ、現代ではさらに外科壕跡の左手には、ひめゆり学徒隊に関する資料を保管・展示した『ひめゆり平和祈念資料館』が1989年に建てられています。『ひめゆりの塔』は、沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも参拝する人が絶えません。

 ひめゆり平和祈念資料館では、戦争体験者が年々少なくなっていく今、沖縄戦がどんなものであったのか、元ひめゆり学徒たちの体験を通して、若い世代に戦争の実態を伝えています。後世に戦争の悲惨さと命の尊さを伝える意味でも、子どもと一緒に平和学習のために一度は訪れてほしい場所です。

現代の世界も日本も、戦争を知らない世代ばかりとなりつつあり

その為か、日本政府も少しづつ着実に戦争に近づいている感じもあります。

米軍の攻撃により20万人の犠牲者を出した沖縄の方々の大きな犠牲のおかげで本土の人間は、空襲以外では何十万人以上の犠牲も少なくなったことでしょう。

日本人全てが後々まで知っておかねばならない大切な日です。

 観光等で沖縄へ行かれる方々も数時間で結構です、もう一度こちらへ出向き、戦争の悲惨さを感じていただきたいと思います。

…………………………………………

 親子の写真は女神像を沖縄へ送る直前、父の実家である鳥取県倉吉市広瀬町の伊藤病院の前での記念撮影です。

向かって右から私の母(佐久子) 兄(創之介)  父の兄(伊藤博)の妻信子(ばあちゃん) 前に抱かれているのが私です。

 …………………………

伊藤博  鳥取県倉吉市広瀬町 

   (父 吉田たすくの長兄)

 号を「伊藤宝城」という

戦後日本の抽象彫刻の先駆者 伊藤宝城

ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤宝城

 

慰霊の日 六月二十三日

  いつも思いだす像です。

 

沖縄戦

県外出身者死者・行方不明者 65,908人

沖縄県民死者・行方不明者122,228人

(この内民間人死者 94,000人)

アメリカ軍死者・行方不明者 14,006人

イギリス軍死者82名

アメリカ軍戦傷者 72,012人

…………………………………………

 

 ひめゆりの塔 ひめゆり平和祈念資料館資料より

01.沖縄戦とひめゆり学徒隊 

太平洋戦争末期の1945年3月から3か月余り、日米両軍は沖縄で住民を巻き込んだ地上戦を繰り広げました。米軍は、日本本土攻略の拠点として沖縄を確保するため、圧倒的な物量で攻撃しました。日本軍は、沖縄を本土防衛の防波堤と位置づけ、米軍の本土上陸を1日でも遅らせるために、壕に潜んで長期戦にもちこむ持久作戦をとりました。この作戦が沖縄戦を長引かせ、日米の戦死者は20万人以上にのぼりました。その6割に当たる12万人は沖縄県民でした。

日本軍は兵力不足を補うため、沖縄県民を「根こそぎ動員」し、中等学校や師範学校などの10代の生徒まで戦場に動員しました。那覇市安里にあった「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」からも、生徒・教師240名が看護要員として動員され、そのうち136名が死亡しました。2校の愛称が「ひめゆり」であったことから、戦後、彼女たちは「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになりました。

02.男女学徒隊の戦場動員 

 沖縄戦では、県内にあった21の全ての中等学校・師範学校から生徒が戦場に動員されました。女子は主に看護活動、男子は砲爆撃の中、部隊の物資運びや伝令(命令の伝達)、橋の補修、電話線の修復などを行いました。米軍戦車への自爆攻撃を命じられた生徒もいました。

生徒の戦場動員は、軍の要請によって、軍と県との話し合いで決まり、学校が従いました。女子生徒の戦場動員に法的な根拠はなく、男子生徒の戦場動員に必要な法的手続きはとられませんでした。

学徒隊として学校から動員された生徒のほかに、兵隊として入隊した生徒、自宅近くの部隊に動員された生徒、家族と避難中に命を落とした生徒もいます。あわせて約2000人以上の生徒が沖縄戦で亡くなりました。

03.南風原の沖縄陸軍病院

1945年3月23日夜、ひめゆりの生徒は引率教師とともに学校を出発し、南風原にある沖縄陸軍病院に向かいました。沖縄陸軍病院は兵隊のための病院で、小高い丘に40近い壕が掘られ、その中に粗末な二段ベッドが並んでいました。

生徒たちの多くは、看護婦と一緒に患者の世話を行いました。尿や便の片付け、水や食事の世話、包帯交換の手伝いなどに走り回り、休む間もありませんでした。特に、飯上げや水くみ、死体埋葬は、壕の外に出て行く命がけの仕事でした。動員された生徒は222名、教師は18名にのぼりました。

04.過酷な勤務 

 患者の食事は、初めのうちは、テニスボールぐらいのおにぎりが1個、朝夕2回ありましたが、だんだん小さくなって、ピンポン玉くらいのおにぎりが1日1個になりました。生徒の食事も同じでした。

米軍との戦闘が激しくなると、壕は重傷の患者でいっぱいになりました。生徒が横になる場所はなく、壁にもたれて仮眠を取りましたが、すぐに患者に呼ばれて起こされました。患者は、「水をくれ」「おしっこがしたい」「痛い、痛い、何とかしてくれ」と呼び続けていました。

食べ物も飲み水も少ないせいか、生徒たちには生理も排便もほとんどなくなり、汚れた衣服や頭にはシラミがわきました。青白くやせ細っていき、高熱におそわれ倒れる者も出てきました。

05.南部への撤退

 5月22日、首里の第32軍司令部に米軍が迫り、日本軍は南部への撤退を決定します。5月25日、沖縄陸軍病院に撤退命令が出され、生徒たちは患者に手を貸し、傷ついた学友を担架に乗せ、砲弾の中を南部へと急ぎました。

沖縄陸軍病院の関係者や教師と生徒は、糸満の伊原一帯に到着後、6つの壕に分かれました。医療器具や薬品、負傷兵を収容する場所もない状況で、病院はその機能を失います。

6月中旬には、米軍が南部へと迫り、陸軍病院の壕も次々と攻撃されていきました。

06.解散命令と死の彷徨 

6月18日夜、陸軍病院では学徒隊に「解散命令」が言いわたされました。壕を出た生徒たちは、茂みや岩陰に身を隠し、海岸へと追い詰められていきました。砲弾の飛び交う中、傷ついた体をひきずって逃げる者、負傷した学友を助けて歩いていく者、重傷で動けずその場に倒れる者、砲弾に吹き飛ばされる者、ガス弾 (黄リン弾)攻撃を受ける者、手榴弾を爆発させる者、海岸で大波にのまれる者など、行き場を失い、父母を呼びながら死んでいく生徒が続出しました。

生徒の多くは、6月20日から28日の間に米軍に捕まり、各地の収容所に送られましたが、なかには日本の降伏も知らずに8月22日にまで壕に隠れていた生徒もいました。

07.ひめゆり学徒の動員・死亡状況

沖縄陸軍病院に動員された生徒・教師240人のうち136人が死亡しました。死亡者の86%にあたる117人が6月18日の解散命令後に死亡、または行方不明になりました。「解散命令」は、結果的に米軍の包囲網の中に生徒たちを放り出すことになり、その後の犠牲を飛躍的に増やしたのです。

沖縄陸軍病院に動員された人以外にも、91人の生徒と教師が沖縄戦で亡くなっています。

08.ひめゆり学徒隊の戦跡「伊原第三外科壕」

 現在、ひめゆりの塔が建っているガマ(鍾乳洞)は、沖縄陸軍病院の第三外科が南部撤退後に入っていた壕で、「伊原第三外科壕」と呼ばれています。「伊原」はガマがある場所の地名です。ひめゆり学徒を含む陸軍病院の看護婦や兵隊、住民などおよそ100名が隠れていました。19日早朝、米軍の攻撃を受け、80名あまりが亡くなりました。

 

 さみだれの

  雫をのせて

   咲く花の

 

  想いをのせて

   ほのと灯るや

 

 …………………………………………

 

我が庭にはじめて蛍袋が咲きました

 とてもうれしいです

少しうつむき加減に咲く花は

 派手さはないですが

  そこが魅力

 

目で楽しんだ後は

 花を摘んでさっと湯通しして

  お浸しに

この時期の野の花料理でそっとお出ししています。

7つの美術展を観る京都の旅、

  最終日の最後は悠久の燻銀のような展覧会です。

 

泉屋博古館せんおくはくこかん)2025/06/01

 

 ここは住友財閥収集のすばらしい美術品のある美術館で、数年前から何度か来ようと思っていたのに休みだったりタイミングが合わず、更に昨年一年間の休館を挟んでオープンし、ようやく来ることができました。

 

 

 今回は

 「中国青銅器の時代展」 +リニューアル記念名品展Ⅰ「帰ってきた泉屋博古館 いにしえの至宝たち」の2つの展覧会でしたが

住友コレクションと言えば、何はともあれ、今から3000年以上前の殷時代の世界有数と名高い中国青銅器。そして、数々の国宝や重要文化財の書画などがありますが、まず、「中国青銅器の時代展」をメインに拝見しました。

 

…………………………………………

 永観堂(禅林寺)で青もみじの繊細な美を堪能し、爽やかな気分のあと徒歩5分で到着。

そこは

ゆったりとした、とても素晴らしい美術館でした。

 …………………………

 説明より

いまから約3000年前、 日本ではちょうど縄文時代が終わりにさしかかるころ、中国大陸では殷や周といった古代王朝が栄え、高度に発達した鋳造技術によって、 複雑繊細な造形をもつ青銅器の数々が生み出されていました。

 「国の大事は祀と戎にあり」 (『左伝』 成公十三年)といわれた中国古代では、 軍事活動とならんで、 祭祀儀礼が国家にとってきわめて大きな意味をもっていました。 なかでも祖先の神々をまつることが重要視されており、「宗廟」という場でその霊をむかえ、一族郎党や賓客を招いてまつりをおこなっていたとされます。

 中国古代では、こうしたまつりのために当時の技術の粋を注ぎこみ、祭祀儀礼のための青銅器を生み出しました。 ここでは、住友コレクションのなかから、 特に造形のすぐれた名品を一堂に会し、 中国青銅器の時代へと旅立つうえでのイントロダクションとします。

 ………………………

 

 とても細かな手の込んだ柄やお茶目な柄など、如何にも殷時代を思わせる数々の青銅器。日本の縄文土器や埴輪の最高峰の品に匹敵するぐらい魅力ある繊細で複雑な造形の殷器が様々な顔貌で目の前で拝見出来、とても素晴らしいものが多くて、嬉しく楽しく何度も見返しながら拝見しました。

 青銅器の形それぞれに用途が細かく決まっており名称がありました。

 ここまで細かな用途別分類は現代にはありませんが、3000年も前にここまで細かく分けて使用していたとはとても驚きました。

8月17日迄のロングランで展示内容は前期と後期の2回に分けられるようで、今回は前期を拝見しましたが、とても素晴らしいものが多く、楽しめたので、後期も拝見したいと思います。

ただ、これからの京都は酷暑真っ只中 覚悟していかねばなりませんね。

 …………………………

泉屋博古館 京都

京都市左京区鹿ヶ谷下宮ノ前町24

TEL075-771-6411

 

萌え出ずる

  淡きみどりの

    青紅葉

 

   たずねてむかう

     永観堂

 

 

 

 新緑の繊細で淡い緑を楽しみたいと思い

  中でも美しいのは青紅葉

 

 その美しさをもとめて、昨秋来たばかりの禅林寺(永観堂)へ また伺いました。

 

 

青紅葉に白着物 清々しさが溢れています

 

 

 秋の紅葉も見事ですが、この繊細な美は新緑五月の青紅葉にまさるものはないですね。

 

あじさいの

  魅力のもとは

    五月雨の

 

     涙に濡れて

    洗ふなれこそ

 

 …………………………

 五月雨(さみだれ)は和暦五月に降る雨で、梅雨のことです。毎日のように降り、野山を潤し、田に水を送り大河をつくり海に帰り、また空へ

 輪廻転生 人も然り

 この五月雨の長雨に一番映えるのは紫陽花ですね。

 …………………………

 

 淡く咲き

  やがて濃く咲く

    紫陽花の

 

   思いも同じ

    我が恋の道

 

 戦国時代末期、角倉了以により開削された高瀬川源流庭苑に小堀遠州が茶庭を作庭し、その後明治時代の元勲・山縣有朋が手直しして別邸とした、すばらしい庭園と建物の見学をして、その奥にある鴨川を臨む川床を楽しみました。

 

今はもう梅雨。

梅雨の頃になると必ず食べたくなるものがあります。

 

 それは潤菜と鱧。 なぜか5月終わりから6月ごろになると食べたくなるのです。

 

潤菜は万葉集でも夏の季語で、5月上旬から8月に出回りますが、梅雨が近くと美味しくなり

独特のぬめりとつるりとしたのどごしは、ああ初夏だなっとおもわせるうれしい味覚です。

 

 私の子供の頃は高級食材で、並の日本料理屋さんでは使わず、潤菜が入っていたらこの店は高級店だと言われていました。

 

食通・谷崎潤一郎も愛した食材で、きせつになると、京都の浜作に行って鱧とともによく食べていたそうです。

 鱧(はも)は古くから京都の夏の風物詩であり、「祇園祭に鱧なしはありえない」と言われるほどでした。

谷崎潤一郎、魯山人、池波正太郎など食通も愛した食材であり、白洲正子も大すきだったそうです。

 鱧は骨が多くて骨があたり嫌いだという人がおられますが、それは機械で骨切りをしたものか下手な料理人の鱧です。

年々格好ばかりで、骨切りもまともにできない店が増えていますから、そういう店でたべるからそうなるのですが、

鱧は普通の魚と違い皮下埋没骨が多いため、きちんと骨切りしないと美味しくありません。

 名古屋では、上手な鱧の食べられる店がなくて、季節になると毎年京都に食べに行っていました。しかし年々、京都も腕の確かな料理人が減っていますね。

 数年前は、京都にまで行くのが億劫と、地元で腕が一番という日本料理店に行き、鱧を注文したら、口の中で骨が当たり、長さ1cm程の骨が数本出てきて唖然。素人でもここまで下手にはできないのにと笑ってしまったこともありました。

 鱧の骨切りは「一寸に25本」(1.2mm間隔)という言葉があり、本物の料理人は、皮一枚を残しつつ精緻に骨を断っていきますが、生魚ですからこれがなかなか難しく、一般的には2mm~3mm位で骨切りされています。

しかし、それでは骨が感じたり当たる感じでよくありません。

 私はさらに細かく1mm位の超細かさで骨切りしたものが好きで、その葛たたきや湯引きなどは、花のようで、口に入れるとホロホロととろけるような味わい。 ああ初夏が来たなと至福な思いになります。

 (この細かな切り方は、蕎麦でも、喉越しを大切にする江戸蕎麦には「切りべら23本」というの定法があり、1寸を23本(=1.3mm)に切るのが良いとされていますが、よく似た切り幅ですね。これも、現代の手打蕎麦屋でここまで細いそばを出す蕎麦屋は随分と減り、今や1割もないくらいです。)

 京都で何度か行っている拘りの日本料理屋の大将によれば

 ・鱧切りをして冷蔵庫に保存するから皮が硬くなり身と皮が離れてしまう

・客が来てから生きた鱧を買いに行くぐらいが最上

 ・客の目の前で骨切りをするぐらいが一番美味しい

  ということで何よりも鮮度が大切ということです。

潤菜と鱧はこの時期の京料理には外せない食材で、

  今回は京都ですから、多分料理に出されるでしょうから、楽しみです。

…………………………………………

 今まで数回行った川床は、こぢんまりとした貸切の所で、2~4人位でゆったりと過ごしましたが、今回は初めて、何組かの客がいる広い席での椅子席での経験です。

 やはりこれではカジュアル感が出過ぎて古都京都の納涼をゆったり楽しむという感じはとても弱くなりますね。

 

 本日31日の天候は、1週間前に見た天気予報は降水確率90%雨、これでは床は無理だなっと思いましたが、私は晴れ男、またなんとかなるんじゃないかなっと気楽に構えていました。3日前の予想では降水確率が60%へ減り。 そして、前日にみた予想は30%となり、やはり今日はなんとか雨は降りませんでした。やはりいつも雨が避けてくれます。 ただ、5月末というのに夕方の気温18℃くらい。半袖では少し寒い。これは予想もしていませんでした。

 

夕方、まだ明るく他の客はまだ少ない頃お邪魔して 席に案内され、

 

さて、お料理をいただきましょう

 

まず最初は冷酒を頼み

潤菜と鱧はあるかな?

 

 

⚫︎前菜

早速

 潤菜があった。

  嬉しいな

 甘鯛の粕漬け

 牛肉時雨煮

 菜の花お浸し

 串は蕪ワインビネガー漬け

 海月とくこの実の寒天寄せ

 

冷酒はよいが 寒い

日が暮れてきて気温15℃くらい。京都は暑いからと半袖Tシャツに薄い長袖を着ましたが、風が強くてとても寒くブランケットを借りて肩に掛けましたが、それでも寒く、日本酒の熱燗を注文。

 

⚫︎鱧の湯引き梅肉

この季節の京は

   当然 鱧ですね

 

寒いから、先程の熱燗は直ぐ飲んでしまい、また日本酒の熱燗、これはとても熱くしてと注文した。

寒くて更にブランケットを1枚お願いした。

本当に川床は暑かったり寒かったりちょうど良い気温に当たるのは難しいですね。

 

 

⚫︎お造り

 

⚫︎豆乳鱧鍋

鱧 野菜 榎茸 生湯葉を入れ沸騰したら鱧を入れていただく。

温かくてうれしい

 

⚫︎冬瓜にジャガイモ冷製スープ

ということはビシソワーズだね

海老 冬瓜 ミニ玉葱 人参が入っている

冬瓜の横には季節ものの紫陽花添えて

 鴨川の

  床(ゆか)で食する

     ビシソワーズ

結構美味しかったが、寒いのでちょっとこまる

 

少し暗くなり客が増えてきた。半分以上がインバウンド

 

⚫︎鮎の塩焼き

 

⚫︎寿司

  穴子

  海老

  鯛

 

味噌汁は京の赤味噌

三河の赤味噌と違ってアクがなく上品

 

デザート

ご馳走様でした。

食事の後 再度、建物とお庭を見学させていただきました。

 

​​​​​​​

 川床は晴れても暑すぎず微風があり湿度が低くい日があると最高なのですが、

今回も5月31日だから寒くはないだろうと思ったら、気温が低く風も出て寒すぎでした。7月に入ってくると京は風雨が良くても床は暑くて納涼どころではなくなりエアコンの効いた部屋に入りたくなりますし、梅雨の晴れ間の日が良いですね。

いつものことですが、川床は天気と気温が難しいです。

 …………………………

和食がんこ 高瀬川二条苑  納涼川床(かわゆか)料理 2025/5/31日

 山縣有朋の別邸だった『高瀬川源流庭園』(無鄰菴)が 見学できます

京都市中京区木屋町通二条下ル東生洲町484-6

• 京阪電鉄本線 三条駅 徒歩7分

地下鉄東西線 京都市役所前駅 徒歩4分

昨年末に 山縣有朋の別荘の無鄰菴のお庭と屋敷を拝見して、とてもよかったので、今回京都に来るので食事をする所を探したら、第二無鄰菴というのが見つかり、ここの建物と庭も観てみたいと思ったら日本料理と鴨川の床(ゆか)もやっているということで、これは丁度良いなっと思ったら、お店は

「がんこ」という名。

 ずいぶん昔ですが、以前会社勤めをしていた頃、若手主催でチェーンの安い焼肉屋に行ったのが「がんこ亭」という店だった。牛肉もとても安いので、大丈夫か?と思ったら、案の定、その牛肉は薬臭くて食べられなかった。

これが脳裏にあり

 「がんこ」が経営?  無鄰菴で鴨川の床(ゆか)なのに?

よく調べたら「がんこ亭」と「がんこ」とは全く別物で やれやれ 一安心。

 

 

 …………………………

 がんこの案内より

 ここは戦国時代末期1611年頃に、豪商・角倉了以により開削された高瀬川の源流庭苑に、その後明治の元勲・山縣有朋がその別邸として建築した。そして、第三代日本銀行総裁・川田小一郎など、名だたる資産家に受け継がれてきた。

 街中ながら広大な日本庭園があり、東を流れる鴨川の分流・みそそぎ川の水が庭園の池に流れ高瀬川へと注ぐため、「高瀬川源流庭苑」と呼ばれている。江戸時代に小堀遠州が茶庭を作庭し明治時代に 七代目小川治兵衛が手を加えるなど、家主の嗜好に合わせて少しずつ変化をしてきたものの、角倉了以の時代に造られた原形を留めており、在りし日の姿を偲ぶことができる。

明治時代などの名残を感じられる建物にも注目を。名士の別邸として活躍した誇りが宿る空間で料理長自慢の季節を感じる和食を味わいましょう。

 …………………………

 到着して、まず、小堀遠州が茶庭を作庭し明治時代に 七代目小川治兵衛が手を加えたお庭を拝見。

 

 

高瀬川は角倉了以によって、開削された運河で、先斗町など京都の中心部を通り伏見へと流れますが、その最上流は角倉了以の別邸跡(がんこ高瀬川二条苑)のお庭の真ん中を流れていて、とても見事。

 (余談ですが、邸宅の中に川が流れるというので思い出すのは、フランク・ロイド・ライトの 落水荘。これは建物の中を谷川が流れていて、コンクリート建築では世界一番好きな建物です)

 大きな池がある庭園はよくありますが、ここ山縣有朋の別荘は庭の中央におおきな川が流れ、それを中心に作庭してある。

そしてこの川は、戦国時代末期にこのお庭を作った豪商・角倉了以が作り、この下流から運河の高瀬川へとながれる素晴らしいところです。これだけ豊富な水量が流れる庭 なんて素敵でしょう。

 もうすこし後日には、蛍がくるそうです。

 次回は蛍の頃に来ましょう。

青紅葉がとてもうまく植栽してあるから、紅葉の頃はみごとでしょうから、紅葉の頃もいいでしょうね。

 山縣有朋のお庭を拝見した後は鴨川を臨む鴨川納涼床ですが、それは次回に。

 

 

…………………………………………

和食がんこ 高瀬川二条苑  納涼川床(かわゆか)料理

 山縣有朋の別邸だった『高瀬川源流庭園』(無鄰菴)が 見学できます

京都市中京区木屋町通二条下ル東生洲町484-6

• 京阪電鉄本線 三条駅 徒歩7分

地下鉄東西線 京都市役所前駅 徒歩4分

 京都の川床と川床

  かわどこと かわゆか

 

京都の夏の風物詩のひとつに、川風にあたり清流を見ながら涼をとり飲食する「鴨川納涼床」「貴船の川床」などの「床」があり、

 鴨川沿いを夕方から夜にかけて歩くと川沿いに灯りが点り納涼床は涼しげですね。

 

 

 

 

 

貴船に行くと谷川の上に作られた床は、いかにも涼しそうで、それぞれ違った風情をたたえています。

 

 昔々学生の頃、神戸と東京の遠距離恋愛をしていた頃、京都で待ち合わせのときは、貧乏学生なので、休憩やお昼は、お店に行くのではなく、鴨川の土手に座りおにぎりやお弁当などをよく食べていました。

 社会人となったバブルの頃。ファッションのバイヤーで京都筋の生地屋さんやアパレルとの商談で度々京都に来ていて、商談が終わると夕刻から鴨川床の先斗町エリアのお店の部屋を貸切で行っていましたが、雨降りも風の強い日も暑すぎる日もダメで、天気や気温との兼ね合いがなかなか難しいのも床の特徴です。

7.8月に行くと川風があっても京都は暑すぎて、床に長くは居れません。しばらくするとエアコンの効いた座敷へ戻りますし、 5回のうち2回位は途中で雨が降ったり風が強くて座敷に引き上げるなど、なかなか最高の状態で床を楽しむのも大変です。京都の夏は暑すぎるので、鴨川納涼床に行かれるのでしたら、梅雨に入る前と9月中旬以降が最適ですね。

 

 かつては床に座布団で胡座や正座をして納涼床を楽しんでいましたが、現代は様変わり、座敷はずいぶん減り、カジュアルで椅子式になり、朝から営業のモーニング床やカフェ床、焼き肉床、フレンチ床まであるそうです。

 

 ところで、「川床」の「床」の呼び方は「かわどこ」と 「かわゆか」の2つがあり、鴨川と貴船で違うのですが、私も時々迷うことがあります。

  さて、どっちがどっち?

 

 

 鴨川は「かわゆか」貴船は「かわどこ」です。

 

鴨川の床(ゆか)

鴨川沿いの納涼床は「江戸時代には、すでに床(ゆか)と呼ばれていたようですが、鴨川の川面からは3メートル近く上の「高床(たかゆか)」だったからかもしれないとか、はっきりとした答えはない様です。

 貴船で納涼床が始まったのは大正時代頃と言われており、「貴船は京都からみて地理的に奥まった所にあるため、『床の間』の『床(とこ)』にちなんだとも、鴨川の床(ゆか)に遠慮したともいわれているそうです。

 鴨川の納涼床は、歴史も古く、桃山時代に始まると伝えられています。鴨川西岸、二条から五条の間の、上木屋町、先斗町、西石垣、下木屋町のエリアの料亭・旅館など100軒あまりが5月1日から10月15日迄、毎年河原に櫓で「床」を組み立てて営業して、終われば解体されて、また翌年組み立てるそうです。

 

「鴨川納涼床には

 ・席は鴨川に背を見せない

 ・鴨川の自然と調和を考えて

 ・音楽は流さない

 ・床の足元は板敷

 ・天井は葦簀(よしず)

・隣り合う店ごとの床と天井の高さはそろえる。

などの暗黙の了解事項があり、江戸時代から守られているそうです。

‥‥‥‥‥‥‥‥

 

 今まで京の川床は、貴船では、右源太やその他で3度ほど、鴨川の川床は5、6回行きましたが、今回また久しぶりに鴨川へ。

 今まではこぢんまりとした部屋を貸切で、床に座布団で座り静かにのんびり酒肴でしたけど、今回初めて椅子席で、更に鴨川でも1、2の広いスペースでの経験です。今までとは随分違い、ちょっと風情はシラけますが、 新しい体験。とても楽しみです。